壬申の乱

2024年7月27日 (土)

壬申の乱の経緯(22・終)乱のあと

 7月23日に大友皇子が「山前」で自害し、壬申の乱は終結します。
 そして、昨日書きましたように、26日に大海人皇子方の将軍たちは野上行宮に参上し、大友皇子の首級を献上します。
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 イメージ画像です。(^_^)
 右手前のオレンジ色が大海人皇子、その脇のピンクは高市皇子のようです。
 二人の前に控える青と緑の人々は不破に詰めていた幕僚達、そして左側にいる面々が戦場から帰ってきた将軍たちと幹部たち。
 勝手なイメージです。

 これから1ヶ月経った8月25日、捕らえられた淡海方の群臣を処罰します。
 右大臣中臣金は斬罪、左大臣蘇我赤兄は流罪になります。

 8月27日には、大海人皇子方で功績のあったものが寵賞されます。

 9月に入って、大海人皇子は飛鳥に向かって引き上げます。
 9月8日、桑名着。9日鈴鹿、10日阿閉、11日名張を経て、9月12日に倭京に着き、島宮に入ります。
 9月15日、島宮から岡本宮に遷ります。
 この年、宮殿を岡本宮の南に造り、冬にそこに遷ります。その宮を飛鳥浄御原宮と称します。
 12月4日、功績のあったものを選んで、位階を上げます。

 6月下旬からお付き合い戴いた「壬申の乱の経緯」はこれで終了です。

2024年7月26日 (金)

壬申の乱の経緯(21)大友皇子の首級が野上行宮に届けられる

 7月26日、大海人皇子方の将軍たちは野上行宮に参上し、大友皇子の首級を献上します。
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 大友皇子が「山前」で最期を遂げたのが7月23日のことでした。首級は3日掛かって大海人皇子に届けられたことになります。
 遺体全身だと移動も大変なので首だけを運んだのでしょうかね。
 そうだとすれば、首なし遺体は「山前」附近に埋葬されたことと思います。

 首級とか首実検というと、鎌倉時代や戦国時代のイメージでしたが、このような時代から、首実検は行われていたのですね。
 確かに、首は本人であることを証する最適のものでしょう。

2024年7月23日 (火)

壬申の乱の経緯(20)大友皇子の最期

 7月23日、村国男依は、淡海の将犬養五十君と谷塩手とを粟津市で斬刑に処します。
 このうち犬養五十君は、かつて倭の中ツ道の戦いの司令官として登場していました。
 倭で敗退しても逃走せずに最後まで淡海方として戦ったのですね。淡海方にも人ありです。

 大友皇子は、瀬田から引き返して山前(やまさき)に隠れ、自ら首を縊って自決します。
 その時、左右大臣をはじめとする群臣たちは逃亡してしまい、皇子に最後まで従ったのは物部麻呂と一両人の舎人のみでした。

 さてここで、大友皇子が自縊したという山前の所在がはっきりしません。
 新編全集の日本書紀の注には5説上がっています。
  ①三井寺背後の長等の山前
  ②河内国茨田郡三矢村山崎
  ③河内国交野郡郡門の山崎
  ④山城国乙訓郡大山崎村の山崎
  ⑤山崎は固有の地名でなく、普通名詞で大津京付近の地
 そして、「①説が有力だが、⑤説を採りたい。」としています。
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 新編全集の説では、大友皇子はあまり遠くには逃れず、大津京近辺で最期を迎えたことになります。
 日本書紀には、「乃ち還りて山前に隠れ、自ら縊れぬ(乃還隠山前、以自縊焉。)」とあります。
 大友皇子は大津京から瀬田川の戦いに出馬して敗退します。「還」る先は大津京以外にはないでしょう。
 そう考えれば、皇子は大津京目指して落ちて行く途中に①の山前で自尽したか、あるいは大津京に帰り着いて⑤の地で自尽したか、ということになるのでしょう。

 ②~④の山前は離れすぎていて「還」るという記述に合いませんので、これらの場合は、大津京を目指して敗走する途中、方向転換して向かったということになるのでしょう。

 日本書紀に「山前」はもう1ヶ所登場します。
 昨日書いた、大海人皇子方の軍勢が倭の三道を北上してきて布陣した山前です。
 こちらの山前は、書紀本文には「山前に至りて、河の南に屯(いは)む。(至于山前、屯河南。)」とあります。
 地図にもう1ヶ所「枚方市楠葉」と記したのは、新編全集で倭からの北上軍が布陣した方の山前の候補地として追加してある地点です。

 2つの山前は同じ場所であるのか、それとも異なる場所であるのか。
 同じ壬申紀に「山前」と出てくる以上は同じ山前とする方が考えやすいです。
 そうだとすると、①⑤の山前では、大海人皇子方の北上軍はもうすでに大津京近辺まで攻め込んでいることになり、合わないように思います。

 大友皇子は「山前」まで落ち延びたものの、そこには既に大海人皇子方の北上軍が布陣していたので、もう逃れられないと悟り、その地で自尽したと考えたいです。
 
 日本書紀には、大友皇子自尽の地も、倭から北上してきた大海人皇子軍が布陣した地も、どちらも単に「山前」とあるばかりです。
 壬申の乱当時、複数の「山前」が存在したのならば、それらのいずれであるのかを明示するために「○○郡の山前」などと書きそうなものです。単に「山前」とある以上、もうそれだけで当時の人にはどこの地か明瞭だったのでしょう。
 そういう方面からの考察もできそうです。

2024年7月22日 (月)

壬申の乱の経緯(19)瀬田橋の決戦

 今日7月22日、瀬田橋を挟んで大友皇子の軍勢と村国男依の軍勢とが対陣します。
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 淡海方は大友皇子自身が出陣しています。
 日本書紀に依れば、大友皇子の軍勢は大軍で、末尾が見えないほどだったといいます。
 この表現には誇張があることでしょう。実態はどれほどだったのでしょうか。
 本当に大軍勢を擁していたのだとすると、その兵力を決戦に備えて温存していたというべきか、あるいは戦線に投入すべき時機を逸したというべきか。
 合戦は、淡海方の先鋒を務めた智尊が精鋭を率いて善戦しますが、大海人皇子方の大分稚臣の奮闘によって先鋒が崩されると、その勢いに抗えず、敢えなく全軍が崩壊します。
 淡海方の兵は実際にはあまり多くなかったのかもしれません。
 勝利をおさめた村国男依は、粟津の岡のもとに陣営を定めます。

 同日、湖西では、羽田矢国・出雲狛の部隊が三尾城を陥落させます。
 また、倭の三道を北上してきた置始兎らの部隊は「山前」に到り、「河の南」に布陣します。
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 この「山前」がどこを指すのか明らかではありません。
 この附近で「やまざき」と言えば、京都府と大阪府との境にある大山崎町が思い浮かびます。
 それでよいかどうか。これについては明日少し触れます。

2024年7月19日 (金)

壬申の乱の経緯(18)決戦を前に

 日本書紀には7月19日の記事はありません。
 ただ、決戦間近です。
 淡海方面では、大海人皇子方は、連戦連勝して栗太まで南下してきた村国男依軍と、湖西を進軍してきた羽田矢国軍とが大津京を目指しています。
 淡海方も瀬田川を最後の防衛線として、戦備を整えていることでしょう。
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 一方、倭では、大海人皇子方が倭を勢力下に置き、大伴吹負は大坂を越えて難波の小郡に駐屯します。
 そして、難波以西諸国の国司に命じて、正倉の鍵と駅鈴・伝印を提出させ、西国の財政・軍事権を預かります。
 また、吹負以外の諸将は、兵を率いて三道を通って北上します。
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2024年7月17日 (水)

壬申の乱の経緯(17)大海人皇子軍、栗太の敵を撃ち払う

 7月17日、大海人皇子方の村国男依の軍勢は、栗太で淡海方の軍勢を撃ち払います。
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 連戦連勝を重ねる村国男依は、淡海方の最後の防衛線というべき瀬田川まで、あとわずかの地点まで迫りました。

2024年7月15日 (月)

壬申の乱の経緯(16)倭方面最後の戦闘

 日本書紀には、今日7月15日の記事はありません。
 淡海方面では13日に大海人軍が安河で大勝しています。
 倭方面では日付不明ながら大海人軍が河内方面からの淡海軍を撃退し、飛鳥京の本営に戻ってきています。

 その後、飛鳥古京には東国からの軍勢が多数到着したので、大伴吹負は兵を3つに分けて、上ツ道、中ツ道、下ツ道に配します。
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 上ツ道では、三輪高市麻呂と置始兎が箸陵の戦いで淡海軍に大勝します。
 中ツ道では、村屋に陣を置いた淡海軍の犬養五十君が廬井鯨に精兵二百を与えて大伴吹負の陣営を衝かせます。
 吹負麾下の兵は少なく苦戦しますが、そこに、箸墓から救援に駆け付けた三輪高市麻呂らの部隊が廬井鯨の背後を衝き、勝利をおさめることができました。
 下ツ道については記述がありません。

 大伴吹負は飛鳥京の本営に戻って軍を編成し直しますが、この先、淡海軍はもう攻めてきませんでした。
 淡海方面で敗戦が続いているので、そちらに兵を集中させようとしたのかもしれません。
 逃亡した兵もいたことでしょう。

2024年7月13日 (土)

壬申の乱の経緯(15)村国男依、安河のほとりで淡海軍に大勝

 7月13日、大海人皇子方の村国男依が、安河(野洲川)のほとりで淡海軍に大勝します。
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 村国男依は、横河・鳥籠山に続いて安河のほとりでも淡海軍に大勝し、大津京に大きく迫りました。
 このあと、両軍とも態勢を整えるのにしばらく掛かったようで、決戦は数日後になります。

 一方、倭では、河内から侵入した壱伎韓国を破った大海人皇子軍はいったん飛鳥京に戻り、北に向かいます。

2024年7月11日 (木)

壬申の乱の経緯(14)大伴吹負・置始兎、当麻の衢で淡海軍に勝利

 日本書紀では、7月10日~12日の記事はありません。
 この間、淡海では琵琶湖の湖東を村国男依の部隊が、湖西を羽田矢国の部隊が、それぞれ大津京を目指して進軍中です。
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 一方、倭では、日付は不明ながら大坂を越えてきた淡海方の壱伎韓国の部隊を、大伴吹負・置始兎の部隊がこのころ当麻の衢で撃退します。
 以後、淡海方は河内方面から攻めてくることはありませんでした。
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 7月4日に乃楽山で敗北した大伴吹負は、置始兎の援軍を得て、ついにリベンジを果たすことができました。
 壱伎韓国の部隊はかなりの損害を受けたことでしょう。
 一方、乃楽山の戦いで大伴吹負を撃ち破った大野果安の動きが不明です。
 琵琶湖東岸で淡海方は連敗していますので、ひょっとすると倭・河内方面の兵は琵琶湖方面に転用されているのかもしれません。

2024年7月 9日 (火)

壬申の乱の経緯(13)村国男依、鳥籠山で淡海軍に勝利

 7月7日に息長の横河で淡海軍に勝利した村国男依らは、7月9日には鳥籠山で淡海軍に勝利をおさめ、将の秦友足を斬ります。
 また、7月2日頃に犬上川のほとりに軍営を置いていた淡海軍に内乱が起こり、羽田矢国が一族もろとも大海人方に投降しています。
 大海人方は早速これを受け入れ、羽田矢国を将軍として、琵琶湖の北岸経由で、西岸沿いに南下させます。
 琵琶湖の東岸と西岸、両方から大津京を攻めようということなのでしょうが、うがって考えれば、羽田矢国を必ずしも信用していなかったために、近くに置きたくなかったのかもしれません。
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 一方、倭方面は相変わらず日付が不明ですが、紀阿閇麻呂に派遣された置始兎は墨坂で大伴吹負と合流します。
 そして、大坂にいる淡海方の壱伎韓国を撃つべく、西に向かっている最中と思われます。
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 乃楽山の戦いで大伴吹負を破った大野果安の軍勢は飛鳥京附近まで攻め寄せながら、飛鳥京の守りが堅いとみて引き返したとありましたが、どこまで引き返したのか不明です。
 河内の壱伎韓国の部隊も、大野果安の勝利につけ込んで飛鳥方面に攻め込んでも良さそうなものですが、動きが見られません。

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