壬申の乱

2023年7月25日 (火)

壬申の乱の経緯を追って23 補遺

 6月24日に大海人皇子が吉野を脱出して以来、壬申の乱の日付に合わせて、その経緯を追ってきました。
 乱は約1ヶ月後の7月23日に大友皇子が自尽したことで終結します。以後は残党狩りといった感じです。

 ブログを書いて行く過程で、2つほど漏らしたことがありましたので、それを補います。

 7月1日、大伴吹負が乃楽山に向かって進軍中、稗田に至った時に、河内から大軍が迫っているという情報に接したので、兵を割いて、龍田、大坂、石手道に配備します。
 そのうち、龍田に遣わされた坂本財らは、淡海軍が高安城にいると聞いて高安城に向かいますが、淡海軍はいち早くそれを察知し、倉を焼いて逃亡します。
 坂本財は高安城を占拠しますが、河内方面から壱伎韓国の大軍が迫っているのを知り、城を出て、衛我河で韓国軍と戦います。
 しかし、兵力差は如何ともしがたく、坂本財は敗れ、味方が守っていた懼坂道に退きます。

 この頃、河内守来目塩籠は大海人皇子に従おうと兵を集めていましたが、そのことが壱伎韓国に知られ、塩籠は自尽します。

 7月4日、多数の淡海軍が諸道から迫ってきたので、大海人軍は戦うことも叶わず、撤退します。この日は、乃楽山の戦いで大伴吹負が敗退した日です。やがて吹負は、墨坂で置始兎が率いる援軍を得、大海人方の兵を結集して壱伎韓国の軍を押し戻します。それが7月の何日のことなのかは不明ですが、もしも7月4日に韓国軍がそのまま倭に攻め寄せていたら、飛鳥古京を奪還することができたと思います。
 それが、淡海軍唯一の勝機だったかもしれません。
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 一方、不破方面でも同じ頃に戦闘がありました。村国男依が出撃する前のことと思われます。
 大海人方が不破道を堅く守っていたので、淡海方は北の脇道を通って攻め込もうと考えたようで、精兵に玉倉部邑を急襲させますが、出雲狛に撃退されます。
 その後、村国男依が湖東を連戦連勝して瀬田橋の決戦を迎えることになります。
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 以上、2点追加です。

 6月24日以来、壬申の乱の経緯にお付き合いいただきましてありがとうございました。
 掲載した地図は全部で29枚になります。日を追って地図を作成したことで、壬申の乱の推移がとてもよく理解できました。
 年表でも系図でも地図でも、やはり自分で作ると身になりますね。
 そのことを改めて実感しました。
 とても楽しかったです。

2023年7月23日 (日)

壬申の乱の経緯を追って22 大友皇子の最期

 7月23日、村国男依らは、近江の将犬養五十君と谷塩手とを粟津市で斬刑に処します。
 このうち犬養五十君は、かつて倭の中ツ道の戦いの司令官として登場していました。
 その後、倭から駆逐されても逃走せずに最後まで淡海方として戦ったのでしょう。

 大友皇子は逃走する地もなく、瀬田から引き返して山前(やまさき)に隠れ、自ら首を縊って自決します。
 その時、左右大臣をはじめとする群臣たちは逃亡してしまい、皇子に最後まで従ったのは物部麻呂と一両人の舎人のみでした。

 さてここで、大友皇子が自縊したという山前の所在がはっきりしません。
 新編全集の日本書紀の注には5説上がっています。
  ①三井寺背後の長等の山前
  ②河内国茨田郡三矢村山崎
  ③河内国交野郡郡門の山崎
  ④山城国乙訓郡大山崎村の山崎
  ⑤山崎は固有の地名でなく、普通名詞で大津京付近の地
 そして、「①説が有力だが、⑤説を採りたい。」としています。
Jinshinchizu27
 いかがでしょうか。
 日本書紀には、「乃ち還りて山前に隠れ、自ら縊れぬ(乃還隠山前、以自縊焉。)」とあります。
 大友皇子は大津京から瀬田川の戦いに出馬して敗退します。「還」る先は大津京以外にはないでしょう。
 そう考えれば、皇子は大津京目指して落ちて行く途中、①の山前で自尽したか、あるいは大津京に帰り着いたものの、もはやこれまでと思って⑤の地で自尽したかということになるのではないでしょうか。
 そのいずれであるかについては①が良いと考えます。
 ⑤説には山前を普通名詞とする点に無理があるという理由からです。
 ②~④の山前は離れすぎていて「還」るという記述に合わないと考えます。
 また、瀬田・大津付近でないとしたら、日本書紀編者は単に「山前」とは書かずに、「茨田郡の山前」とか「乙訓郡の山前」と書いたのではないでしょうか。そうでないと、どこの山前やら限定できません。

 日本書紀に「山前」はもう1ヶ所登場します。
 昨日書いた、倭の三道を北上してきた部隊が到達した山前です。
 2つの山前は同じ場所であるのか、それとも異なる場所であるのか。
 同じ壬申紀に「山前」と出てくる以上は同じ山前とする方が考えやすくはあります。
 しかし、こちらの山前は書紀本文には「山前に至りて、河の南に屯(いは)む。(至于山前、屯河南。)」とあります。
 この河はどこの河なのか。
 もしも、こちらの山前も①または⑤の山前であるとすると、「河」は瀬田川でしょうか。
 しかし、瀬田川の南というと、そこはもう山前ではありません。倭から北上した部隊が山前まで到達しながら、一旦兵を引いて、瀬田川の南に布陣したというのもおかしなことです。
 ①または⑤の山前まで到達しているのならば、淡海軍を挟み撃ちにできます。
 ④の大山崎(後世、秀吉と光秀との間で山崎の合戦が行われた地)も、河の南というと淀川の南ということになります。
 淀川を越えて山前まで達しながら、また河を渡って淀川の南に布陣したということになります。
 ②③の山前ならば、淀川の南ですから、これならば淀川の南の山前に到達し、そこに布陣したということでよく分かります。
 地図にもう1ヶ所「枚方市楠葉」と記したのは、新編全集で倭からの北上軍が布陣した方の山前の候補地として追加してある地点です。
 こちらも淀川の南です。

 ということで、大友皇子が自ら命を絶ったのは長等の山前、倭から三道を北上してきた部隊が布陣したのは淀川の南の枚方、茨田、交野のいずれかの山前と考えます。
 ただ、あまりすっきりはしません。日本書紀の本文では、後者の山前がいずれの地であるのか文脈からは全く限定できないからです。
 それに、同じ壬申紀の乱の終焉付近に登場する2つの山前が別の場所だなどということが、果してあろうかという大きな疑問が消えません。
 更に考えてみます。

2023年7月22日 (土)

壬申の乱の経緯を追って21 瀬田橋の決戦

 今日7月22日、瀬田橋を挟んで大友皇子の軍勢と村国男依の軍勢とが対陣します。
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 日本書紀に依れば、大友皇子の軍勢は大軍で、末尾が見えないほどだったといいます。
 文飾がありますが、実態はどれほどだったでしょうか。
 本当に大軍勢を擁していたのだとすると、その兵力を決戦に備えて温存していたというべきか、あるいは戦線に投入すべき時機を逸したというべきか。
 合戦は、淡海方の先鋒を務めた智尊が精鋭を率いて善戦しますが、大海人方の大分稚臣の奮闘によって先鋒が崩されると、その勢いに抗えず、敢えなく全軍が崩壊します。
 淡海方の兵は実際にはあまり多くなかったのかもしれません。
 勝利をおさめた村国男依は、粟津の岡のもとに陣営を定めます。

 同日、湖西では、羽田矢国・出雲狛の部隊が三尾城を陥落させます。
 また、倭の三道を北上してきた置始兎らの部隊は「山前」に到り、「河の南」に布陣します。
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 この「山前」「河」がどこを指すのか明らかではありません。
 これについては明日少し触れます。

2023年7月20日 (木)

壬申の乱の経緯を追って20 決戦を前に

 日本書紀には7月20日も21日も記事はありません。
 ただ、決戦間近です。
 淡海方面では、連戦連勝して栗太まで南下してきた村国男依軍と、湖西を進軍してきた羽田矢国軍とが大津京を目指しています。
 淡海方も瀬田川を最後の防衛線として、戦備を整えていることでしょう。
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 一方、倭では、大伴吹負が倭を平定し、吹負自身は大坂を越えて難波の小郡に駐屯します。
 そして、以西諸国の国司に命じて、正倉の鍵と駅鈴・伝印を提出させ、西の諸国の財政・軍事権を預かります。
 また、吹負以外の諸将は、兵を率いて三道を通って北上します。
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2023年7月17日 (月)

壬申の乱の経緯を追って19 栗太の軍勢を追い払う

 7月17日、村国男依の軍勢は栗太の兵を追い払う。
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 安河で大勝した村国男依の部隊はさらに南下し、栗太の軍勢を追い払います。
 淡海方の最後の防衛線というべき瀬田川まであとわずかの地点まで迫りました。

2023年7月15日 (土)

壬申の乱の経緯を追って18 倭方面最後の戦闘

 日本書紀には、今日7月15日の記事はありません。
 淡海方面では13日に大海人軍が安河で大勝しています。
 倭方面では日付不明ながら大海人軍が河内方面からの淡海軍を撃退し、飛鳥古京の本営に戻ってきています。

 その後、飛鳥古京には東国からの軍勢が多数到着したので、大伴吹負は兵を3つに分けて、上ツ道、中ツ道、下ツ道に配し、淡海軍の来襲に備えます。
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 上ツ道では、三輪高市麻呂と置始兎が箸陵で淡海軍に大勝します。
 中ツ道では、村屋に陣を置いた淡海軍の犬養五十君が廬井鯨に精兵二百を与えて大伴吹負の陣営を衝かせます。吹負麾下の兵は少なく苦戦しますが、そこに、箸陵の戦いで勝利をおさめた三輪高市麻呂らの部隊が廬井鯨の背後を衝き、勝利をおさめることができました。
 下ツ道については記述がありません。

 大伴吹負は飛鳥古京の本営に戻って軍を立て直しますが、この先、淡海軍はもう攻めてきませんでした。
 淡海方面で敗戦が続いているので、そちらに兵を集中させようとしたのかもしれません。
 逃亡した兵もいたことでしょう。

2023年7月13日 (木)

壬申の乱の経緯を追って17 村国男依、安河のほとりで淡海軍に大勝

 7月13日、村国男依、安河(野洲川)のほとりで淡海軍に大勝。
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 息長の横河、鳥籠山で淡海軍に勝利をおさめた村国男依はさらに南下を続け、安河のほとりで淡海軍に大勝します。
 距離的にも大津京にだいぶ接近し、これで大勢はほぼ決した感があります。

2023年7月12日 (水)

壬申の乱の経緯を追って16 大伴吹負・置始兎、飛鳥の本営に戻る

 日本書紀に7月12日の記事はありませんので、この日の具体的な動きは不明です。

 倭方面では、当麻の衢で壱伎韓国軍を撃退した大伴吹負・置始兎軍は、一旦、飛鳥の本営に戻ります。

 淡海方面では、引き続き湖東、湖西両方向から大海人軍が大津京を目指して南下しています。
Jinshinchizu19

2023年7月11日 (火)

壬申の乱の経緯を追って15 大伴吹負・置始兎、当麻の衢で淡海軍に勝利

 日本書紀では、7月10日~12日の記事はありません。
 この間、淡海では琵琶湖の湖東を村国男依の部隊が、湖西を羽田矢国の部隊が、それぞれ大津京を目指して進軍中です。
Jinshinchizu18

 一方、倭では、大坂を越えてきた淡海方の壱伎韓国の部隊を、大伴吹負・置始兎の部隊が当麻の衢で撃退します。
 以後、淡海方は河内方面から攻めてくることはありませんでした。
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2023年7月 9日 (日)

壬申の乱の経緯を追って14 村国男依、鳥籠山で淡海軍に勝利

 7月7日に息長の横河で淡海軍に勝利した村国男依らは、7月9日には鳥籠山で淡海軍に勝利をおさめ、将の秦友足を斬る。
Jinshinchizu15
 それから、私、書き落としてしまいましたが、7月2日頃、犬上川のほとりに軍営を置いていた淡海軍に内乱が起こります。
 その時、淡海方の羽田矢国が一族もろとも大海人方に投降してきました。
 大海人方は早速これを受け入れ、羽田矢国を将軍として、琵琶湖の北岸経由で、西岸沿いに南下させます。
 琵琶湖の東岸と西岸、両方から大津京を攻めようということなのでしょうが、うがって考えれば、羽田矢国を必ずしも信用していなかったために、近くに置きたくなかったのかもしれません。

 一方、倭方面は相変わらず日付が不明ですが、大伴吹負・置始兎の部隊は墨坂を出て、大坂にいる淡海方の壱伎韓国を撃つべく、西に向かっている最中と思われます。
Jinshinchizu16

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