壬申の乱

2024年7月17日 (水)

壬申の乱の経緯(17)大海人皇子軍、栗太の敵を撃ち払う

 7月17日、大海人皇子方の村国男依の軍勢は、栗太で淡海方の軍勢を撃ち払います。
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 連戦連勝を重ねる村国男依は、淡海方の最後の防衛線というべき瀬田川まで、あとわずかの地点まで迫りました。

2024年7月15日 (月)

壬申の乱の経緯(16)倭方面最後の戦闘

 日本書紀には、今日7月15日の記事はありません。
 淡海方面では13日に大海人軍が安河で大勝しています。
 倭方面では日付不明ながら大海人軍が河内方面からの淡海軍を撃退し、飛鳥京の本営に戻ってきています。

 その後、飛鳥古京には東国からの軍勢が多数到着したので、大伴吹負は兵を3つに分けて、上ツ道、中ツ道、下ツ道に配します。
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 上ツ道では、三輪高市麻呂と置始兎が箸陵の戦いで淡海軍に大勝します。
 中ツ道では、村屋に陣を置いた淡海軍の犬養五十君が廬井鯨に精兵二百を与えて大伴吹負の陣営を衝かせます。
 吹負麾下の兵は少なく苦戦しますが、そこに、箸墓から救援に駆け付けた三輪高市麻呂らの部隊が廬井鯨の背後を衝き、勝利をおさめることができました。
 下ツ道については記述がありません。

 大伴吹負は飛鳥京の本営に戻って軍を編成し直しますが、この先、淡海軍はもう攻めてきませんでした。
 淡海方面で敗戦が続いているので、そちらに兵を集中させようとしたのかもしれません。
 逃亡した兵もいたことでしょう。

2024年7月13日 (土)

壬申の乱の経緯(15)村国男依、安河のほとりで淡海軍に大勝

 7月13日、大海人皇子方の村国男依が、安河(野洲川)のほとりで淡海軍に大勝します。
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 村国男依は、横河・鳥籠山に続いて安河のほとりでも淡海軍に大勝し、大津京に大きく迫りました。
 このあと、両軍とも態勢を整えるのにしばらく掛かったようで、決戦は数日後になります。

 一方、倭では、河内から侵入した壱伎韓国を破った大海人皇子軍はいったん飛鳥京に戻り、北に向かいます。

2024年7月11日 (木)

壬申の乱の経緯(14)大伴吹負・置始兎、当麻の衢で淡海軍に勝利

 日本書紀では、7月10日~12日の記事はありません。
 この間、淡海では琵琶湖の湖東を村国男依の部隊が、湖西を羽田矢国の部隊が、それぞれ大津京を目指して進軍中です。
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 一方、倭では、日付は不明ながら大坂を越えてきた淡海方の壱伎韓国の部隊を、大伴吹負・置始兎の部隊がこのころ当麻の衢で撃退します。
 以後、淡海方は河内方面から攻めてくることはありませんでした。
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 7月4日に乃楽山で敗北した大伴吹負は、置始兎の援軍を得て、ついにリベンジを果たすことができました。
 壱伎韓国の部隊はかなりの損害を受けたことでしょう。
 一方、乃楽山の戦いで大伴吹負を撃ち破った大野果安の動きが不明です。
 琵琶湖東岸で淡海方は連敗していますので、ひょっとすると倭・河内方面の兵は琵琶湖方面に転用されているのかもしれません。

2024年7月 9日 (火)

壬申の乱の経緯(13)村国男依、鳥籠山で淡海軍に勝利

 7月7日に息長の横河で淡海軍に勝利した村国男依らは、7月9日には鳥籠山で淡海軍に勝利をおさめ、将の秦友足を斬ります。
 また、7月2日頃に犬上川のほとりに軍営を置いていた淡海軍に内乱が起こり、羽田矢国が一族もろとも大海人方に投降しています。
 大海人方は早速これを受け入れ、羽田矢国を将軍として、琵琶湖の北岸経由で、西岸沿いに南下させます。
 琵琶湖の東岸と西岸、両方から大津京を攻めようということなのでしょうが、うがって考えれば、羽田矢国を必ずしも信用していなかったために、近くに置きたくなかったのかもしれません。
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 一方、倭方面は相変わらず日付が不明ですが、紀阿閇麻呂に派遣された置始兎は墨坂で大伴吹負と合流します。
 そして、大坂にいる淡海方の壱伎韓国を撃つべく、西に向かっている最中と思われます。
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 乃楽山の戦いで大伴吹負を破った大野果安の軍勢は飛鳥京附近まで攻め寄せながら、飛鳥京の守りが堅いとみて引き返したとありましたが、どこまで引き返したのか不明です。
 河内の壱伎韓国の部隊も、大野果安の勝利につけ込んで飛鳥方面に攻め込んでも良さそうなものですが、動きが見られません。

2024年7月 7日 (日)

壬申の乱の経緯(12)村国男依ら、息長の横河で淡海軍に勝利

 7月7日、大海人皇子方の村国男依らが息長の横河で淡海軍を破り、その将境部薬を斬ります。
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 村国男依は、大海人皇子が吉野を脱出する2日前に東国に派遣された大海人皇子の舎人です。
 東国の兵と共に不破に至り、引き続き大津京に向けて進軍しています。
 緒戦でみごと勝利を収め、この先破竹の進軍を続けます。有能な人物なのでしょう。

 一方、敗北して斬殺された境部薬といえば、有間皇子の事件の折に有間皇子とともに捕われ、尾張国に流罪になった人物です。
 のちに許されて淡海軍の将になり、破れて殺されるという、なかなか波瀾万丈の人生です。

 地図を見ると、淡海方が不破の手前まで攻め込んでいます。
 大海人皇子方は押し込まれているようにも見えますが、兵力が充実するのを待っていたのかもしれません。

2024年7月 6日 (土)

壬申の乱の経緯(11)田辺小隅の部隊を多品治が撃退

 淡海方の田辺小隅の部隊は、田中足麻呂の守る倉歴道を7月5日夜半に奇襲攻撃で突破し、翌6日にはたら野の陣営を襲撃しますが、ここを守る多品治に撃退されます。

 この頃、大伴吹負敗走の報に接した紀阿閉麻呂は、置始兎に千余騎の兵を与えて、倭京に向けて派遣します。

 *日本書紀では、置始兎を倭京に向けて派遣したのは7月9日のこととして記述しますが、その条にはその後の展開もまとめてそこに懸けて記述してあると読めますので、置始兎の派遣はおおよそ7月6日頃と推測しました。
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 たら野の位置については諸説ありますが、三重県伊賀市上野付近とする説が有力のようです。
 吉野を脱出した大海人皇子が東国に向かう際も、この地で朝食を摂っています。
 大津京から鹿深山を越えて倭に向かう際の重要な通過点であったのでしょう。

 淡海側がたら野を越えて倭に侵入できれば、大海人皇子側にとっては大きな脅威になったことでしょうが、それは叶いませんでした。
 淡海側も、不破への攻撃と倭への攻撃とで、十分な余力はなかったことでしょう。倭への攻撃は北と西との2方面から行っているわけですし。

2024年7月 5日 (金)

壬申の乱の経緯(10)淡海方の田辺小隅が倉歴道を奇襲

 7月5日の夜半、淡海方の田辺小隅が率いる部隊が鹿深山を越え、倉歴道を守備する田中足麻呂の部隊を奇襲します。
 田中足麻呂隊は不意を突かれ、敗北します。
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 田辺小隅が通ってきたルートは、乱の前に大津京を脱出した高市皇子の通ってきたルートと同じものでしょう。
 淡海方は、倉歴道からたら野を押さえることで、不破と倭との分断を図ったものと思われます。
 大海人皇子側もこの地の重要性は十分に承知の上で、倉歴道には田中足麻呂の部隊、たら野には多品治の部隊を配しています。
 双方の戦法は、それぞれに見事です。

2024年7月 4日 (木)

壬申の乱の経緯(09)大伴吹負が大野果安に敗北

 7月4日、乃楽山に陣を敷いた大伴吹負は、攻め寄せた大野果安らの淡海軍に敗れ、敗退します。
 吹負自身も数騎で敗走します。
 果安は、八口(やくち)まで追い、飛鳥京を望観したところ、京には厳しく楯を立てていたので、伏兵の存在を疑って、引き返します。
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 大伴吹負は諸方の防備に兵を割いたために、本隊の兵が不足していたのでしょう。大野果安軍に敗退します。
 吹負軍の方が高所に陣取っていて地の利は吹負軍の方にあったはずなのに敗退したということは、果安軍は兵がかなり多かったか、士気が高かったのでしょう。
 果安軍は勝ちに乗じて飛鳥京付近に至りますが、守りが堅いとみて引き返します。
 このあたり、随分慎重です。これも乱の勝敗に繋がる分かれ目の1つになったと考えられます。

2024年7月 3日 (水)

壬申の乱の経緯(08)大伴吹負が乃楽山に布陣

 7月3日、大伴吹負はさらに北上し、乃楽山に布陣します。
 そして、荒田尾赤麻呂の進言によって、飛鳥京を守るために赤麻呂と忌部子人らを飛鳥京に向かわせます。

 一方、淡海方は大野果安を乃楽山に向かわせます。
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 大津京を攻撃すべく進軍を続ける大伴吹負部隊ですが、河内からの壱伎韓国部隊への抑えと、飛鳥京の
守備のために兵を割くことを強いられ、本体の兵力はだいぶ削がれています。

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