壬申の乱

2025年7月29日 (火)

壬申の乱の経緯をたどる(22・終)乱のあと

 7月23日に大友皇子が山前で自害し、壬申の乱は終結します。
 その3日後の26日には、大海人皇子方の将軍たちは野上行宮に参上し、大友皇子の首級を献上します。

 それから1ヶ月経った8月25日、捕らえられた淡海方の群臣を処罰します。
 右大臣中臣金は斬罪、左大臣蘇我赤兄は流罪になります。
 蘇我赤兄は、有間皇子の謀反事件の折に皇子をそそのかした人物ですね。

 8月27日には、大海人皇子方で功績のあったものが寵賞されます。
 9月に入って、大海人皇子は飛鳥に向かって引き上げます。
 9月8日、桑名着。9日鈴鹿、10日阿閉、11日名張を経て、9月12日に倭京に帰着し、島宮に入ります。
 9月15日、島宮から岡本宮に遷ります。
 この年、宮殿を岡本宮の南に造り、冬にそこに遷り、その宮を飛鳥浄御原宮と称します。
 12月4日、功績のあったものを選んで、位階を上げます。

Gunmac_kodaik_20250729234701


 6月下旬からお付き合い戴いた「壬申の乱の経緯」はこれで終了です。
 長々とお付き合い戴き、ありがとうございました。
 来年また改訂版を載せます。(^_^)

2025年7月26日 (土)

壬申の乱の経緯をたどる(21)大友皇子の首級が野上行宮に届けられる

 7月26日、大海人皇子方の将軍たちは野上行宮に参上し、大友皇子の首級を献上します。
Jinshinchizu43

 大友皇子が「山前」で最期を遂げたのが7月23日のことでした。首級は3日掛かって大海人皇子に届けられたことになります。
 遺体全身だと移動も大変なので首だけを運んだのでしょうかね。
 そうだとすれば、首なし遺体は「山前」附近に埋葬されたことと思います。

 首級とか首実検というと、鎌倉時代や戦国時代のイメージでしたが、このような時代から、首実検は行われていたのですね。
 確かに、首は本人であることを証する最適のものでしょう。

 首級献上はこんなイメージでしょうか。
Jinshinimage01

 角度を変えて名前を入れます。
Jinshinimage02
 草壁皇子がいませんが、これは、母親のうの皇女が息子を心配して野上行宮には行かせなかったという勝手な想像です。

【追記】
 Twitter(現X)での相互フォロワーさんであるヒカルさんから、大海人皇子から見て左側の方が上席ではないだろうかとのご指摘をいただきました。
 確かにそのように思いましたので、画像を撮り直しました。
 ヒカルさん、ありがとうございました。
Jinshinimage05

 逆側から。
Jinshinimage03
 大津皇子の背後に控えているのは、介添です。
 皇子はまだ10歳ですので。

 鳥瞰図風に。
Jinshinimage04
 左下に控えているのは部将達です。
 村国男依をはじめとして、長い間の戦いで戦塵に塗れ、日焼けもして、このような色になってしまいました。

2025年7月25日 (金)

倉本一宏氏『壬申の乱』(角川ソフィア文庫)

 倉本一宏氏の『壬申の乱-古代日本の風景を歩く』(角川ソフィア文庫)を購入しました。
R07jinshin01
 この本のことは、Twitter(現X)の相互フォロワーさんである「わこにょ」さんのポストで知りました。

 本年の7月25日刊です。今日ですね。
 本書は、吉川弘文館から平成19年(2007)7月に刊行された『歴史の旅 壬申の乱を歩く』を改題し、文庫化したものだそうです。
 ただし、文庫化にあたり、大幅に加筆・修正し、写真も新たに撮り直したものがたくさん含まれるとのことです。

 地図や写真が豊富です。特に地図(国土地理院の五万分の一の地図など)が山のように掲載されています。
 文庫本なので、この本を携えて旅ができそうですが、ご本人は拡大コピーを勧めています。

 目次を切り貼りします。
R07jinshin02
 第Ⅰ章は、壬申の乱の前年、天智天皇の崩後、大海人皇子が大津京から吉野に隠棲するまで。
 第Ⅱ章は、天武天皇が吉野を脱出して不破に至るまで。

R07jinshin03
 第Ⅲ章は、倭・河内の戦線。

 第Ⅳ章は、琵琶湖の湖東戦線。

 第Ⅴ章は、その他の局地戦。

 このように、合戦は、時間軸での記述ではなく、地域別に記述されていて、分かりやすいです。

R07jinshin04
 第Ⅵ章以下はエピローグです。

 一昨年から、自分自身で壬申紀を読んで地図を描いてきましたので、大変に分かりやすく、理解が進みました。
 予習・復習は効果的。

 私の地図における移動進路は、特に道路に沿ったものではなく、大雑把なものでした。

 来年はこの本を参考にして、もう少しきちんとしたルートを描きたく思います。←来年もやるらしい。(^_^)

 倉本氏は、壬申の乱の首謀者は持統天皇とお考えのようです。
 また、大友皇子の終焉の地は、後の大山崎とされています。

2025年7月23日 (水)

壬申の乱の経緯をたどる(20)大友皇子の最期

 7月23日、村国男依は、淡海の将犬養五十君と谷塩手とを粟津市で斬刑に処します。
 このうち犬養五十君は、かつて倭の戦闘の折に、中ツ道の指揮官として登場していました。
 倭では敗退しますが、その後、大津に戻って最後まで淡海方として戦ったのですね。

 大友皇子は、瀬田から引き返して山前(やまさき)に隠れ、自ら首を縊って自決します。
 その時、左右大臣をはじめとする群臣たちは逃亡してしまい、皇子に最後まで従ったのは物部麻呂と一両人の舎人のみでした。

 さてここで、大友皇子が自縊したという山前の所在がはっきりしません。
 新編全集の日本書紀の注には5説上がっています。
  ①三井寺背後の長等の山前
  ②河内国茨田郡三矢村山崎
  ③河内国交野郡郡門の山崎
  ④山城国乙訓郡大山崎村の山崎
  ⑤山崎は固有の地名でなく、普通名詞で大津京付近の地
 そして、「①説が有力だが、⑤説を採りたい。」としています。
Jinshinchizu42

 新編全集の説では、大友皇子はあまり遠くには逃れず、大津京近辺で最期を迎えたことになります。
 日本書紀には、「乃ち還りて山前に隠れ、自ら縊れぬ(乃還隠山前、以自縊焉。)」とあります。
 大友皇子は大津京から瀬田川の戦いに出馬して敗退します。「還」る先は大津京以外にはないでしょう。
 そう考えれば、皇子は大津京を目指して落ちて行く途中に①の山前で自尽したか、あるいは大津京に帰り着いて⑤の地で自尽したか、ということになるのでしょう。
 ただ、「還」という文字の日本書紀における用例を検討してみたく思います。←来年ですかね。

 日本書紀には「山前」がもう1ヶ所登場します。
 大海人皇子方の置始兎が布陣した山前です。
 この山前は、書紀本文には「山前に至りて、河の南に屯(いは)む。(至于山前、屯河南。)」とあります。

 2つの山前は同じ場所であるのか、それとも異なる場所であるのか。
 同じ壬申紀に「山前」と出てくる以上は同じ山前とする方が考えやすいです。
 そうだとすると、④の山前もありそうです。
 大友皇子は④の「山前」まで落ち延びたものの、そこには既に大海人皇子方の軍勢が布陣していたので、もう逃れられないと悟り、その地で自尽したということになりましょう。
 
 日本書紀には、大友皇子自尽の地も、置始兎が布陣した地も、どちらも単に「山前」とあるばかりです。
 壬申の乱当時、複数の「山前」が存在したのならば、それらのいずれであるのかを明示するために「○○郡の山前」などと書きそうなものです。単に「山前」とある以上、もうそれだけで当時の人にはどこの地か明瞭だったのでしょう。
 そういう意味で④の山前も捨てがたいです。

2025年7月22日 (火)

壬申の乱の経緯をたどる(19)瀬田橋の決戦

 今日7月22日、瀬田橋を挟んで大友皇子の軍勢と村国男依の軍勢とが対陣します。
Jinshinchizu25
 淡海方は大友皇子自身が出陣しています。
 日本書紀に依れば、大友皇子の軍勢は大軍で、末尾が見えないほどだったといいます。
 この表現には誇張があることでしょう。実態はどれほどだったのでしょうか。
 本当に大軍勢を擁していたのだとすると、その兵力を決戦に備えて温存していたというべきか、あるいは戦線に投入すべき時機を逸したというべきか。

 合戦は、淡海方の先鋒を務めた智尊が精鋭を率いて善戦しますが、大海人皇子方の大分稚臣の奮闘によって先鋒が崩されると、その勢いに抗えず、敢えなく全軍が崩壊します。
 淡海方の兵は実際にはあまり多くなかったのかもしれません。
 勝利をおさめた村国男依は、粟津の岡のもとに陣営を定めます。

 同日、湖西では、羽田矢国・出雲狛の部隊が三尾城を陥落させます。
 また、倭の三道を北上してきた置始兎らの部隊は山前に到り、河の南に布陣します。
Jinshinchizu41
 湖西の羽田矢国の部隊と、山前の置始兎の部隊は、決戦に間に合わなかったようにも思えますが、どうでしょうか。
 2部隊の位置を見ると、この2部隊の役割は、淡海方の軍勢の退路を断つことだったように見えます。

2025年7月20日 (日)

壬申の乱の経緯をたどる(18)決戦を前に

 日本書紀には7月20日の記事はありません。
 倭では相変わらず日付不明ですが、河内から進撃してきた淡海方、山背から進撃してきた淡海方の部隊をともに撃退した大海人皇子方が倭を勢力下に置きます。
 置始兎が率いる部隊は北上し、山前に布陣します。
 また、大伴吹負は大坂を越えて難波の小郡に駐屯します。
 そして、難波以西諸国の国司に命じて、正倉の鍵と駅鈴・伝印を提出させ、西国の財政・軍事権を預かります。
Jinshinchizu40

 一方、淡海方面では、大海人皇子方は、湖東を栗太まで南下してきた村国男依部隊と、湖西を進軍してきた羽田矢国部隊とが大津京を目指しています。
 淡海方も瀬田川を最後の防衛線として、戦備を整えていることでしょう。
Jinshinchizu23

 決戦間近です。

2025年7月17日 (木)

壬申の乱の経緯をたどる(17)村国男依、栗太の敵を撃破

 7月17日、大海人皇子方の村国男依の軍勢は、栗太で淡海方の軍勢を撃ち払います。

 連戦連勝を重ねつつ琵琶湖の東岸を南下して来た村国男依は、淡海方の最後の防衛線というべき瀬田川まで、あとわずかの地点に迫りました。

Jinshinchizu22

2025年7月14日 (月)

壬申の乱の経緯をたどる(16)倭方面最後の戦闘

 淡海方面では7月13日に大海人軍が安河で大勝しています。
 倭方面では日付不明ながら大海人軍が河内方面からの淡海軍を撃退し、飛鳥京の本営に戻ってきています。

 その後、飛鳥古京には東国からの軍勢が多数到着したので、大伴吹負は兵を3つに分けて、上ツ道、中ツ道、下ツ道に配します。
Jinshinchizu21

 上ツ道では、三輪高市麻呂・置始兎が箸陵の戦いで淡海軍に大勝します。
 中ツ道では、村屋に陣を敷いた淡海軍の犬養五十君が廬井鯨に精兵二百を与えて大伴吹負の陣営を衝かせます。
 吹負麾下の兵は少なく苦戦しますが、そこに、箸墓から救援に駆け付けた三輪高市麻呂らの部隊が廬井鯨の背後を衝き、勝利をおさめることができました。

 下ツ道については不明です。


 大伴吹負は飛鳥京の本営に戻って軍を編成し直しますが、この先、淡海軍はもう攻めてきませんでした。
 淡海方面で敗戦が続いているので、そちらに兵を集中させようとしたのかもしれません。
 逃亡した兵もいたことでしょう。

2025年7月13日 (日)

壬申の乱の経緯をたどる(15)村国男依、安河のほとりで淡海軍に大勝

 7月13日、大海人皇子方の村国男依が、安河(野洲川)のほとりで淡海軍に大勝します。
 本当に破竹の勢いです。
Jinshinchizu20
 村国男依は、横河・鳥籠山に続いて安河のほとりでも淡海軍に大勝し、大津京に大きく迫りました。

 このあと、両軍とも態勢を整えるのにしばらく掛かったようで、決戦は数日後になります。

 一方、倭では、河内から侵入した壱伎韓国を破った大海人皇子軍はいったん飛鳥京に戻って態勢を整え、大津京を目指して北上します。

2025年7月11日 (金)

壬申の乱の経緯をたどる(14)大伴吹負・置始兎、当麻の衢で淡海軍に勝利

 日本書紀では、7月10日~12日の記事はありません。
 この間、淡海では琵琶湖の湖東を村国男依の部隊が、湖西を羽田矢国の部隊が、それぞれ大津京を目指して進軍中です。
Jinshinchizu18

 一方、倭では、日付は不明ながら大坂を越えてきた淡海方の壱伎韓国の部隊を、大伴吹負・置始兎の部隊がこのころ当麻の衢で撃退します。
Jinshinchizu17

 7月4日に乃楽山で敗北した大伴吹負は、置始兎の援軍を得て、ついにリベンジを果たすことができました。
 壱伎韓国の部隊はかなりの損害を受けたようで、以後、淡海方は河内方面から攻めてくることはありませんでした。

 一方、乃楽山の戦いで大伴吹負を撃ち破った大野果安の動きは相変わらず不明です。
 琵琶湖東岸で淡海方は連敗していますので、ひょっとすると倭方面の兵は琵琶湖方面に転用されていたのかもしれません。
 あるいは、脱走兵もいたのでしょうかね。

より以前の記事一覧

2026年2月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
無料ブログはココログ

ウェブページ