地図・航空写真

2022年6月11日 (土)

昭和3年の「奈良電気沿線名所図絵」

 このようなものを入手しました。
S03naradentetsu01
 真ん中で二つ折りにして、左側が表紙、右側が裏表紙になります。
 裏表紙には、「いにしへのならのみやこの八重ざくらけふここのへににほひぬるかな」という伊勢大輔の歌があり、右下には吉田初三郎の署名と印があります。

 中身です。
S03naradentetsu02
 パノラマの鳥瞰図です。
 左端に「奈良電車沿線を中心とせる鳥瞰図絵」とあります。
 右端に吉野山、左端には京都が描かれています。左側奥には琵琶湖も描かれています。
 そういう範囲を対象にしたかなり広域の鳥瞰図です。

 これでは細かすぎて分かりませんので、部分的にアップにして載せます。縮尺は全て統一しました。
 吉野から飛鳥・三輪付近。
S03naradentetsu03

 天理から信貴山付近。
S03naradentetsu04

 春日大社から興福寺付近。
S03naradentetsu05
 中央付近、「神鹿」として鹿が描かれています。
 嬉しいです。
 大きさは合いませんが、詩的真実ということで。♪

 東大寺付近。
S03naradentetsu06

 宇治川と平等院付近。
S03naradentetsu07

 宇治川と石清水八幡宮付近。
S03naradentetsu08
 右側に巨椋池がまだあります。
 伏見には寺田屋も書かれています。
 左下隅には四條畷。

 京都付近。
S03naradentetsu09

 琵琶湖付近。
S03naradentetsu10
 左下は山科で、大石良雄旧蹟も書かれています。
 そして、琵琶湖の向こうには、青森、北海道、樺太。
 見えるわけがありません。(^_^;
 吉田初三郎のいつもの遊び心です。
 時に、ハワイやサンフランシスコも書かれることがありますが、今回は方角違いで書かれていません。

 裏側は名所案内になっています。
 その末尾。
S03naradentetsu12
 昭和三年に奈良電気鉄道株式会社が発行したことが分かります。

 名所案内には写真も載っています。
S03naradentetsu11
 奈良の鹿もいます。♪

 鳥瞰図、極めて克明に描き込まれていると思います。
 見ていて飽きません。

2022年1月 7日 (金)

竹内街道・横大路すごろく

 お正月だからというわけでもないのですが、また双六です。
 今回は新しい双六で、ツイッターで知った「竹内街道・横大路(大道)すごろく」です。
Takenosugoroku01
 製作は、竹内街道・横大路~難波から飛鳥へ日本最古の官道「大道」~活性化実行委員会です。名前が長い。(^_^)
 http://www.saikonokandou.com/%E8%A1%97%E9%81%93%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A/からダウンロードできます。

 この双六の下部右側を拡大します。
Takenosugoroku02
 「八木札の辻」というのがあります。分岐点なので、要衝ですね。
 このあたりを自転車で通った時に、この立て札は見たものの、よく分からないままにそのまま通過してしまいました。
 この双六で、すぐ上にある芭蕉句碑は写真撮影もしたのですが、「札の辻」については何も知らず、惜しいことをしました。
 同じものを見ても、やはりものを知っているか否かで大きく異なりますね。これ、大事です。

 裏側。
Takenosugoroku03
 こちらは説明地図になっています。

 サイコロとコマ。
Takenosugoroku04

 サイコロの拡大。
Takenosugoroku05
 1は前方後円墳の形になっていて、なかなかオサレです。

2021年12月 7日 (火)

天理駅の位置、今昔

 先日、「駅名簿」について書きました。
 あれをご覧くださった蜂矢先生からメールを頂きました。
 「駅名簿」掲載の丹波市駅にまつわるお話で、丹波市駅はその後天理市駅と改称し、さらに、近鉄線の天理駅との合同駅舎を作って、天理駅と改称したとのことでした。
 近鉄線の天理駅と、国鉄の天理市駅とはやや離れていたので、合同駅舎を作るに当たっては、天理市駅の線路を西に移動させたとのことです。
 また、かつての桜井線は、現在の天理駅の東の広場の東端を通っていたとのことでした。

 始めて知りました。興味深いお話です。
 合同駅舎ができたのは1965年(昭和40年)とのことですので、そう昔のことではありません。
 天理市民の皆さんの中で、中年以上の方々はよくご存知のことかと思います。

 地図を載せます。
Tenrieki01
 確かに、天理駅のやや北から南に掛けて、線路が西にカーブしていることが伺えます。

 少し拡大して、赤い点線を引いてみました。
Tenrieki02
 赤い点線は、まさに天理駅の東側の広場の東端を通っています。
 かつての路線が実際にこの通りであったとは限りませんが、これに近いルートだったことでしょう。
 国土地理院のHPには、昭和40年以前の天理市の地図も載っているはずですので、それを見れば、実際のルートが分かると思いますが、そこまではしないところが、私の半端なところで。(^_^)
 いや、現代の地図で十分です。
 おもしろいです。地図大好き。

2021年10月 5日 (火)

戦前の「奈良名勝道しるべ」

 ネットオークションで、このようなものを入手しました。
 右端に「奈良名勝道しるべ」とあります。
Narameishomichi01
 左側には「きくや旅館」「別館大阪屋旅館」とあります。
 この旅館が作成したものですね。

 地図の左端。
Narameishomichi02
 旅館は2館とも奈良駅の近くです。

 以前、たまたま入手した道中記といいますか、定宿帳といいますか、そういうものに興味を持って、収集しています。
 江戸時代から明治時代にかけてのそういった文献では、奈良の旅館は猿沢池の付近に集まっていました。
 やがて鉄道の駅ができたことで、省線の奈良駅の近くにも旅館が増えてきたのかもしれません。

 この地図には算用数字が書かれています。それは、この旅館から、春日大社へ、そこから北に進んで、若草山から、東大寺、奈良博、興福寺を経て、旅館または奈良駅までの順路です。

 やや東側の拡大図。
Narameishomichi03
 中央附近やや下に「商工館」とあります。
 この施設が商工館という名称になったのは昭和9年ですので、この案内図は昭和9年以降のものということになります。

 しかし、このようなペラッとした1枚紙がよくぞ保存されていたものです。
 そして、それを売る人と買う人(私です)がいる。
 失くしたり、破いたりしないように気を付けます。

2021年7月 8日 (木)

奈良奉行所の位置は今の奈良女子大学(2)

 先日、「奈良奉行所の位置は今の奈良女子大学」という記事を載せました。
 私の教え子で、今は奈良女子大学の大学院生であるかるべさんに見てもらったら、さすがに奈良女の学生さんたちの多くは、そのことを知っているそうです。
 奈良女の正門の北寄りに建っている解説板の写真を送ってくれました。
Narabugyo07

 左側の解説文のアップ。
Narabugyo08

 右側の地図のアップ。
Narabugyo09

 こういう解説板があるのならば、それは確かに皆さんご存知でしょう。(^_^)

 解説文の中に、明和4年の『御役所絵図』とあります。この絵図は、奈良国立博物館の『おん祭と春日信仰の美術 特集奈良奉行所のかかわり』という2016年の展示図録に掲載されているということで、その画像も送ってくれました。
Narabugyo10
 この絵図は下が東なので、左回りに90度回転させると北が上に来ます。
 奈良奉行所の正門は東にあったとのことですので、今の奈良女の正門の方向と同じですね。

 解説板の中に、多門町に与力・同心の武家屋敷が現存しているとあるので、かるべさんは多門町にも行ってきたそうです。
 こういう知的好奇心と行動力は研究者向きだと、つくづく思います。

 多門町の入口。
Narabugyo11

 古そうな屋敷。
Narabugyo12

 その屋敷の土塀。
Narabugyo13

 この屋敷が与力・同心の屋敷かどうかは定かではないそうです。

 早いもので、かるべさんはもう博士課程の3回生です。
 博論執筆中の忙しいときに、時間を取らせてしまいました。
 申し訳なく思っています。
 せめて気分転換になったとすれば幸いです。

2021年6月28日 (月)

奈良奉行所の位置は今の奈良女子大学

 昨日、『ならら』最新号の川路・渋沢特集について取り上げました。
 当該ページの最初は次の通りです。
Narabugyo06
 上部中央に、奈良女子大学の写真が載っていますが、ここには何もキャプションがないので、「はて? なぜ奈良女が?」と思いました。
 しかし、次のページには、江戸時代の奈良奉行所の所在地は今の奈良女子大学の位置だと書いてあって、奈良女の写真が載っている意味が分かりました。

 それは納得できたのですが、記事内容にまた「はて?」でした。
 というのは、以前、『和州奈良之絵図』の複製を入手したときに、奈良奉行所の位置は今の奈良県庁だと思って、今に到っていたからです。

 その絵図は以下の通りです。
Narabugyo01

 この絵図では上が東ですので、見やすいように90度時計回りに回転させて北を上にし、中心部を拡大します。

Narabugyo02
 これを見ると、御奉行所の位置は、東大寺の西で、興福寺の北になります。

 現代の地図は次のようです。
Narabugyo05

 東大寺の西、興福寺の北には奈良県庁があります。

 江戸時代の奉行所の位置に現代では県庁があるというのが、いかにもありそうな気がして、納得してしまいました。

 絵図をもっとじっくりと見るべきでした。
 そう精密には描いていないだろうという先入観もありました。
 絵図を馬鹿にしてはいけません。(^_^;

 絵図をよく見れば、興福寺の敷地の形が現代とは大きく異なります。
 結論としては、江戸時代の興福寺の敷地の北半分に奈良県庁や県警本部などが建っているのでした。
 役所に接収されてしまったのでしょうかね。興福寺は廃仏毀釈の影響も大きく受けたようですし、維新後は酷い目に遭ったようです。
 今のメインストリートと言える登大路は、旧興福寺の境内の中央部を東西に貫いているのですね。

 絵図の御奉行所の近辺を拡大します。
Narabugyo03

 明治45年の奈良市地図は次のようになっています。
Narabugyo04

 御奉行所の北沿いの道に書いてある地名は、東から順に、川久保丁、おしこうじ、ごとう丁、うをや丁、となっています。
 これが、明治の地図では、川久保町、押小路町、後藤町、北魚屋町、となっていて、位置と名称とがきれいに対応します。

 御奉行所の東側の道の地名も、北から順に、半田突抜、北半田東丁・中丁・西丁、南半田東丁・中丁・西丁です。
 明治の地図でも、これはそのまま対応します。

 御奉行所の南沿いの道は、東から順に、由(?)留木丁、なべや丁、石切丁、宿いん丁、田中町です。
 明治の地図では、油留木丁、鍋屋町、宿院町、坊屋敷町となっていて、ほぼ一致します。

 ということで、御奉行所の位置は、まさに明治の女子高等師範学校、現在の奈良女子大学に当たるのでした。
 道路も昔のまま良く残っています。

 そういえば、以前、蜂矢真郷先生から、奈良女の南沿いの道が二条大路だとご教示頂いたことを思い出しました。

 まさに、旧興福寺の北沿いの道が二条大路、南沿いの道が三条大路ということになります。
 そして、その2つの大路の中間に今の登大路が通っているのでした。

 以上、縷々書いてきたことは、奈良の街に詳しい方には常識のような内容と思います。
 でも、私にとっては新発見の事柄でした。
 「おお!」と思いましたので、恥を忍んで述べた次第です。

2021年6月 5日 (土)

奈良玉屋旅館の史跡案内

 奈良の玉屋旅館の史跡案内を手に入れました。
Tamayachizu01
 表紙に鹿の絵が描いてあるのが嬉しいです。♪

Tamayachizu02
 5つの大学等の名前が挙がっていて、「御用宿」とあります。
 そのうち、東京文理科大学、東京高等師範学校、広島高等師範学校はよく分かりますが、
奈良女子高等師範学校と奈良県教育会は地元なので、不思議です。
 奈良女高師や奈良県教育会へのお客さんの御用宿ということですかね。
 旅館の写真も載っています。

 玉屋旅館の宣伝もバッチリ書いてあります。
Tamayachizu03
 この2番目に、別館を合わせて500人のお客さんを泊められると書いてあります。
 大規模な旅館ですね。

 裏面は地図になっています。
Tamayachizu04

 玉屋も、当然ながらしっかり載っています。
Tamayachizu05
 省線の奈良駅や、大軌の油阪駅の近くですね。

 この案内の時代を考える上で、先日知ったばかりの奈良県物産陳列所が手がかりになります。
Tamayachizu06
 この地図には、「商品陳列所」とあります。
  明治35(1902)年 奈良県物産陳列所開業
  大正10(1921)年 奈良県商品陳列所に改称
  昭和 9(1934)年 奈良県商工館に改称
という経緯ですので、この案内は、大正10年から昭和9年までの間の状態を反映していることになります。

 もう1つ、歩兵連隊も手がかりになります。
Tamayachizu07
 歩兵38連隊の兵営があります。
 奈良駐屯の連隊は、大正14年に53連隊から38連隊に代わりますので、この地図は大正14年以降ということになり、
商品陳列所と併せて、大正14年から昭和9年までの間ということになります。
 10年ほどの期間に絞れました。

 鳥瞰図のような地図ですので、立体感があって、見て楽しいです。

2021年5月19日 (水)

印判屋、魚佐旅館の地図の年代

 一昨日書いた印判屋の地図の年代を考察してみようと思いました。
Inbanya02

 詳しい人ならば年代を決める観点をいくつもご存知と思いますが、私は未熟で。
 あれこれ眺めて、奈良博の南東にある「奈良県商品陳列所」という名称に目が留まりました。
Shokokan01

 この施設、他の地図で別の名称だったのを見た憶えがあります。
 そこで、調べてみましたら、この施設の名称は以下のように変遷していたことが分かりました。

  明治35年(1902) 奈良県物産陳列所として開業
  大正10年(1921) 奈良県商品陳列所に改称
  昭和9年(1934) 奈良県商工館に改称

 この建物は現存し、今は奈良国立博物館仏教美術資料研究センターになっているのでした。

 印判屋の地図には「奈良県商品陳列所」とありますので、この地図は大正10年から昭和9年までの間の状態を反映していることになります。
 今から90年近く前、ないし100年くらい前ですね。
 今後、さらに他の手がかりも探してみます。

 ここで、以前ご紹介した魚佐旅館の地図のことを思い出しました。
Uosaannai01

 この地図の下限は、油坂池を手がかりに昭和3年以前と考えたのですが、奈良警察署の位置を手がかりとした古都の焼け門さんのご教示で、昭和13年以降ということが判明しました。
 油坂池は手がかりにならないのでした。

 そこで止まっていたのですが、あの地図で商品陳列所がどういう名称で載っているか見てみました。
Shokokan02
 「商工館」とあります。
 とすると、魚佐旅館の地図は昭和9年以降ということになります。
 昭和3年以前説は完全に崩壊しました。(^_^;

 何かが分かると、それを手がかりに別の何かが分かるというのは楽しいです。
 あれやこれやが思わぬところで繋がっているのですよね。

 どうでも良いことのように思えても、それを明らかにすることが、別の極めて大事なことの解明に役立つことがありますよね。
 些細なことも、ないがしろにはできません。

2021年5月17日 (月)

奈良印判屋の地図

 このようなものを入手しました。
Inbanya01
 奈良の旅館、印判屋の地図です。

 地図部分。
Inbanya02

 左下部分のアップ。
Inbanya03
 この旅館は猿沢池の西に位置します。

 「御注意」として、次のようにあります。
 「近頃停車場や電車停留所附近で弊館の御出迎と偽り口実を構へて
  彼等の都合のよい他家へご案内申し不正の利得を貪る者がありますから
  何卒御油断ない様願います」という注意書きがあります。

 なかなか油断ならない世の中だったのですね。

 印判屋は、明治31年の定宿帳に載っています。
M31issinko03
 上に三笠山がありますので、上が東になります。
 印判屋はまさに猿沢池の西に当たります。

 明治30年前後に神戸で発行された地図にも載っています。左端、中央やや下です。
Narachokan04

 印判屋は有名な旅館だったようで、上方落語の「東の旅」に次のような部分があります。

 「奈良には印判屋庄右衛門、小刀屋善助という二軒の大きな旅篭がございます。
  幾日逗留いたしましても、夜具と家具とが変わるのがここの自慢やそうでございます。
  それだけ大きい宿屋さんやったんでございます。」

 今の地図を見ると、印判屋は天平ホテルの位置に当たります。
M31issinko05
 印判屋が天平ホテルになったのか、印判屋の跡地に天平ホテルができたのか、今のところ不明です。

 地図の裏側は名所案内になっています。
Inbanya04
 字が小さすぎますね。

 冒頭部。
Inbanya05

 末尾。
Inbanya06

 いつ頃作られたものか、分かりません。
 少し検討してみようと思います。

2021年2月 3日 (水)

明治10年の『新撰年代記』(3)地図

 少し日が空いてしまいましたが、2回ご紹介した明治10年の『新撰年代記』の3回目です。
 この本には日本地図も載っています。
M10nendaiki15

 ちょっと小さいですね。
 部分的に拡大します。
M10nendaiki19

 文政5年の『懐宝 和漢年代記大全』にも日本地図が載っています。
Wakannendaiki07
 明治10年の地図と比べると、日本の形はさすがに明治の方が正確ですね。
 一方、拡大して見ると、文政の方がずっと詳細です。
Wakannendaiki15

 詳細さが異なるのは、明治の地図が小さいせいです。
 なぜ小さいのかというと、明治のは地図の範囲が広いのです。
 冒頭の明治の地図は、実は日本地図の一部でした。全体はこうなっています。
M10nendaiki14
 千島の果てまで載っています。このために地図がずいぶん寝ることになりました。

 この地図の2年前、明治8年にロシアとの間に「千島樺太交換条約」が結ばれて、千島列島は全て日本領になりました。
 この地図はそれを反映しているのですね。
 明治14年に作られた「蛍の光」の4番にも「千島の奧も 沖繩も 八洲の内の 護りなり」とあります。

 また、上の地図にも見えていますが、明治の地図には世界全図も載っています。
M10nendaiki16

 これは文政の本にはないものでした。
 国際化した明治日本。

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