地図・航空写真

2023年10月24日 (火)

東横・目蒲電車沿線案内

 東横・目蒲電車の「沿線案内」を入手しました。
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 ちょっとローカルな路線ですが、私、子供の頃から東急沿線に住んでいる東急っ子ですので、東急線には愛着があります。

 目蒲電車というのは、現在の東急目黒線で、その前は東急目蒲線でした。
 この沿線案内の時点では、東横電車とは別の会社だったようです。
 ただ、共通の沿線案内を作っているわけですから、グループ会社のような関係ではあったのでしょう。

 中身はこのような路線図になっています。
Toyokomekama02
 画面が小さいですが、ほぼ中央を横に貫いている路線が現在の東横線で、一番右が渋谷駅、一番左が桜木町駅です。

 右側を拡大します。
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 現在の路線と比較すると、この案内図では、渋谷と代官山との間に並木橋という駅がありますが、この駅は今はありません。
 あとは、この路線図では、祐天寺と自由が丘との間に碑文谷と府立高等という駅がありますが、この2駅は今は学芸大学と都立大学です。
 目黒から大岡山を経て田園調布までの目黒線の駅名は今と同じです。

 大井町から自由が丘を経て二子玉川までの大井町線は、今は大井町と戸越との間にある下神明がこの路線図にはありません。
 また、この路線図では戸越と中延との間にある蛇窪駅が今はありません。
 荏原町と大岡山の間にある東洗足と洗足公園の2駅が今は旗の台と北千束です。
 自由ヶ丘と二子玉川との間は今と変わりません。

 渋谷から大橋を経て二子玉川までは黒い線で結ばれ、玉川電車と書かれています。東急の玉電ですが、凡例に依れば黒い線は他社線となっています。この案内図が作られたときは東急とは別会社だったことになります。
 画面左端下方にある「池上」を通る路線は赤い細線で描かれています。これはバス路線です。池上線はまだないのでしょうか。

 その左隣り。
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 画面中央付近を横に貫く東横線の続きは、右端の多摩川園前が今は多摩川です。
 また、今は新丸子と元住吉との間に武蔵小杉があります。この駅はJRとの乗換駅にもなっている大きな駅ですが、この路線図には影も形もありません。
 あとは、綱島温泉が今は綱島、新太田町が今はないなどの相違があります。

 多摩川から蒲田に至る旧・目蒲線(現・多摩川線)では、蒲田の1つ手前にある本門寺通が今はありません。

 裏面は沿線各地の案内です。
 文字が小さい上に、なぜか薄い藤色のような色で印刷されていて、読みにくいです。
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 「電車経営分譲地」という項目があります。
 私鉄会社は、娯楽施設や分譲地を沿線に作ることによって発展していったんですよね。阪急方式でしたっけ。

 左端に、東京横浜電鉄株式会社と目黒蒲田電鉄株式会社という2つの会社名が並んでいますが、所在地は共通ですね。
 一心同体だったようです。

 さて、この路線案内がいつのものかについては、会社名や駅名などから絞り込めそうです。
 でも、ちょっと忙しいので、しません。(^_^;
 ただ、玉川電鉄が東横電鉄に合併されたのは昭和13年ですので、この路線案内は昭和13年以前のものということになります。

2023年8月21日 (月)

大正10年の彦根市街図

 ネットオークションで見つけて買ってしまいました。
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 彦根市街図です。

 大正10年発行です。
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 古地図、好きですけど、何でもかんでも買っているわけではありません。
 少し前の「ブラタモリ」彦根の回で、江戸時代の彦根城には今以上に堀がめぐらしてあったというようなことが出てきたからです。←やや不正確。確認すれば良いのですけど。
 あと、うちの先祖は、彦根ではないのですが、もう少し南方に暮らしていたようなので、それで彦根には親近感があります。

 この大正10年の地図では真北は40度ほど左です。
 北が真上になるように回転して、彦根城の付近を切り出します。
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 現代の地図はこんな感じです。
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 堀というより、大正10年の地図では、城の北東はずっと水ですね。
 今はそこが埋め立てられたのか、陸上競技場や野球場などがあります。
 確かに、外敵からの防御を考える必要がなければ、そこに何かを建てた方が土地の有効利用になるという考え方は一理ありそうです。

 折角買った地図ですが、あまり深読みできていません。もう少し眺めてみます。

2023年8月20日 (日)

佐紀古墳群の航空レーザー計測

 昨年、「古墳時代の大王が眠る!佐紀古墳群を航空レーザ計測し真相解明へ!」というクラウドファンディングが開催されましたので、ささやかながら乗りました。
 当初の目標額は200万円でしたが、参加者が多かったので、第二次、第三次と目標額を上げ、最終的には500万円が達成されました。
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 先日、そのリターンとして、クリアファイル、
Sakikofungun02

速報成果資料集、
Sakikofungun03

エコバッグが送られて来ました。
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 そして、今日、Zoomによる成果報告会が開催されましたので、参加しました。

 この計測によって、以下の成果が上がったとのことです。
  ①佐紀古墳群全域の計測を達成
  ②詳細な遺跡の位置情報を取得
  ③市内遺跡の地形データも取得
  ④各古墳の詳細な墳丘構造を確認

 これら佐紀古墳群には天皇陵に指定されているものが多く、中に立ち入っての測量や調査ができないために、上空からのレーザー測量は極めて価値あるものと思います。

 ②に関しては、例として次の図が示されました。
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 奈良ドリームランドの跡地から南西に延びるいくつかの尾根筋部分にあると考えられてきた小さな古墳について見直しができるとのことです。

 ④に関しては、例として次の図が示されました。
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 左の旧図に対して、右の新図が今回の測量成果です。確かに等高線のきめが細かくなっています。

 佐紀古墳群の年代的な位置づけは次の通りとのことです。
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 佐紀古墳群は、3世紀後半から4世紀前半に位置付けられるオオヤマト古墳群と、5世紀の百舌鳥古墳群・古市古墳群との間をつなぐ、4世紀後半から5世紀にかけてのものなのですね。
 謎の4世紀を考察する上でも、今回の調査は意義あるものということです。

 また、この図を見て、初めて富雄丸山古墳の時代的な重要さにも気づきました。

 今日の成果報告会の報告者は、村瀬 陸氏(奈良市埋蔵文化財調査センター)と、柴原聡一郎氏(東京大学大学院、奈良文化財研究所)のおふたりです。
 村瀬氏が研究代表者、柴原氏が研究協力者とのことです。
 村瀬氏は30代前半、柴原氏は20台と伺い、びっくりしました。
 こういうお若いおふたりが中心になって、このプロジェクトが実施されたのですね。
 すごいことです。

 今回のレーザー測量は2月に実施され、その成果が提供されたのは5月だそうです。
 それからまだ3ヶ月しか経っていません。
 今後研究を進め、1年後をメドに詳細な報告書を作成する予定とのことで、楽しみです。

2023年7月24日 (月)

奈良市発行の鳥瞰図

 類友ではありませんが、先日の魚佐旅館の地図に続き、奈良市発行の鳥瞰図を入手しました。
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 地図の全体像は以下の通りです。
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 南から北を見る形で、右側に春日山が描かれています。

 東大寺付近。
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 下中央部の建物の名は「商工館」とありますので、この地図の刊行年代は一応昭和9年以降と推定されます。

 奈良市西部。
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 左上隅付近に、例の長大な剣が出土した富雄があります。
 平城宮趾も載っています。
 下辺に郵便局と警察署があり、警察署の方が東側なので、一応昭和13年以前と推定されます。
 先日の魚佐旅館の地図で見たように、これらを手がかりにした年代推定にはやや危ないところがありますが、この地図の年代は、一応昭和9年~13年の可能性が高そうです。

 地図の右下にピンクで塗りつぶされた部分があります。
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 ピンクのすぐ左側には「三十八聯隊」とあります。
 歩兵聯隊の敷地を隠したのでしょう。

 裏面は奈良案内になっています。
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 ①興福寺には「一二八〇年前の建立」とあります。③春日神社には「一一六九年前の鎮座」とあります。
 これらを手がかりにすれば、この地図の刊行年代は簡単に出せるではないか。
 そう思って、計算してみました。
 建立、鎮座の年代が書かれているのは以下の神社仏閣です。

  興福寺 :1280年前建立 669年建立→1949年刊行
  春日神社:1169年前鎮座 768年鎮座→1937年刊行
  東大寺 :1191年前鎮座 741年建立→1933年刊行
  新薬師寺:1189年前建立 747年建立→1936年刊行
  般若寺 :1201年前建立 629年建立→1830年刊行
  法華寺 :1188年前建立 745年建立→1933年刊行

 バラバラです。どの時点を建立、鎮座と見るかで揺れがあるのでしょう。
 1933年(昭和8年)が2つあります。
 先ほどの推定の昭和9年~13年からは1年外れますが、近似です。このあたりの年の刊行の可能性が高そうです。

 諸種料金と名産。
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 これまた、先日の魚佐旅館の記載と重なりますので、比較するのもおもしろそうです。

2023年7月21日 (金)

魚佐旅館の奈良案内比較

 今週の月曜日(7月17日)に「魚佐旅館の奈良案内(2)」という記事を書きました。
Uosamap07_20230721210901

 「2」としたのは、以前、同じ魚佐旅館の同様の案内をブログに載せていたからです。
Uosaannai02

 どちらが古いのかなど、比較してみます。

 掲載されている地図を比較してみると、いくつか違いが見つかりました。

 まず、奈良国立博物館の南東にある施設名です。
Uosamap10
 左が今回入手した奈良案内(Aとします。以下同)、右が以前入手した奈良案内(Bとします。以下同)です。
 右下隅の施設名が、左のAでは「物産陳列場」とありますが、右のBでは「商工館」です。
 これは地図の年代を決める指標になります。この建物の名称は以下のように変遷しています。

  明治35(1902)年 奈良県物産陳列所開業
  大正10(1921)年 奈良県商品陳列所と改称
  昭和 9(1934)年 奈良県商工館と改称

 現在は、奈良国立博物館仏教美術資料研究センターになっています。

 Aの地図の名称は「物産陳列場」ですので、ぴったり合う名称はありませんが、「所」と「場」の相違を無視すれば、Aは明治35年から大正10年までの間に作成されたことになります。
 ところが、そううまくは行きません。この案内の裏側にこんな記述があります。
Uosamap12
 3行目の「倶楽部」の説明に「明治帝 大正帝 今上陛下」とあります。この文章はAB共通です。
 ということは、AもBも昭和になってからのものということになります。
 油断なりません。

 一方、Bには「商工館」とありますので、こちらは昭和9年以降であることが確実です。
 Aは昭和元年~9年と考えて良さそうです。
 少なくとも、Aの方がBよりも古いことは確実です。
 そう思って表紙を見れば、Aには「魚佐旅館」とあるのみですが、Bには「魚佐旅館」「魚佐別館」とあります。
 別館が増えたのでしょうね。

 もう1つの手がかりは奈良警察の所在地です。
Uosamap11
 左のAでは、奈良警察は大軌(現近鉄)の電車乗り場の南にありますが、Bでは郵便局の西にあります。
 奈良警察は昭和13年に東から西に移転していますので、Aは昭和13年以前、Bは昭和13年以降と推定されます。
 Bは確実ですが、Aの年代には多少のタイムラグがあるかもしれません。

 Aの年代の上限については他に手がかりがあるかもしれません。

 裏面は奈良の名所案内等の解説文になっていて、こちらはABともに大差はありません。
 やや異なるのは奈良の名産品などです。
Uosamap14
 このように随分異なります。理由を知りたい気がします。業界からの希望があったのでしょうかね。

 交通機関やその料金などはほぼ同じです。
Uosamap13
 相違点は「自動車 人力車」の「市内」料金です。
 より古いAでは70銭均一ですが、新しいBでは50銭均一になっています。
 ものの値段は徐々に上がってゆくものと思っていましたが、値下げですね。
 あとは、値段も電車の所要時間も全く変わりません。
 表記に関して、Aには「自働車」とあるのが、Bでは「自動車」となっています。この相違に新旧の差を感じます。

 魚佐旅館については以前も書いたのですが、奈良市の地図を地図を見るたびに、猿沢池の南にある魚佐旅館という旅館名に目が行き、不思議な名称と思っていました。
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 ところが、明治18年の道中記(定宿帳)に「うをや佐兵衛」とあるのを見つけました。位置もまさに猿沢池の南です(右が南)。
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 魚屋佐兵衛を縮めて魚佐だったのです。
 これが分かった時は「おお!」でした。
 こういうのは楽しいです。

2023年7月17日 (月)

魚佐旅館の奈良案内(2)

 このようなしおりを入手しました。
Uosamap07
 奈良市の魚佐旅館の奈良案内です。

 同様なものは以前も入手し、ブログに載せたことがありました。
Uosaannai02
 この時の表紙は興福寺の天灯鬼立像ですね。
 今回のは、鞍を置いた奈良の鹿です。
 鞍のある奈良鹿というのは珍しいです。鹿島から神様がいらした時に騎ってきた鹿でしょうか。

 表紙に続いて奈良市の案内地図があります。
Uosamap08

 裏面は名所案内などです。
Uosamap09

 後日、両者を比較してみます。

2023年6月30日 (金)

「壬申の乱の経緯を追って」に地図を追加

 大海人皇子が吉野を出て東国に向かった6月24日以来、「壬申の乱の経緯を追って」と題する記事を日付に合わせて書いてきました。
 ふと思い立って始めたことでしたので、地図の用意もありませんでしたが、この度やっと途中までできあがりましたので、「壬申の乱の経緯を追って」01~04まで、それぞれの日に合わせた地図を載せました。

 たとえばこんな感じです。ご覧頂ければ幸いです。
Jinshinchizu03
 御批正もお待ちしています。

 地図の土台には地図ソフトの「プロアトラスSV7」をお借りしました。
 この地図ソフトのシリーズは綺麗で見やすいのでお気に入りでしたが、もう絶版になってしまいました。
 地名の比定には、小学館の新編全集の『日本書紀』の注記を参考にしました。
 

2023年4月21日 (金)

明治27年の「旅館改良組」

 このような道中記を入手しました。
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 今までに入手した道中記は「一新講社」「文明講」「真誠講」「浪花講」などでした。「改良組」というのは初めてです。
 明治27年のもので、この年は日清戦争が起きた年ですね。

 表紙には、住吉屋栄六という旅館名が記されていて、所在地も「新潟古町通五番丁」とあります。
 現代の新潟市の地図を見ると、古町通5番町は現存します。
M27kairyo02
 北から南に6番町、5番町、4番町と並び、南北の道路に「○○通」という通りの名が付けられています。
 それぞれの道を挟んだ両側が「○○通」ということになりましょうか。
 それで、「○○通」と「○番町」との組合せで場所を示すというシステムのようです。
 京都と似ていますね。
 130年前も今も同じシステムが続いているというのは大変にありがたいことです。

 表紙裏に趣旨が候文で記されています。
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 2項目で、第1項目には、信用ある旅館を選んでグループを作った。もしもグループの旅館に宿泊して不親切な扱いを受けることがあれば、本部に知らせて欲しい、という内容です。
 第2項目は、人力車夫や旅館の客引きの中には不都合な旅館に案内しようとする者がいるので、泊まる予定の旅館の場所が分からなければ、交番で聞いて欲しい旨が記されています。

 目次。2ページにわたるものを切り貼りしました。
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 ご覧の様に、北海道の函館に始まり、最後は東海道の藤沢まで。東日本をカバーしています。

 そのうち群馬の部分。
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 前橋の2つ目には今もある油屋が載っています。
 前橋の1つ目の松坂屋藤七の所在地は「堅町」とありますが、残念ながらこの町名は現存しません。
 前橋市の地名は、昭和37年5月10日に施行された「住居表示に関する法律」によって大きく変わってしまいました。
 下の地図で、上が昭和32年のもの、下が現代のものです。
M27kairyo06
 昭和32年の地図の中央上部に「堅町」の地名があります。
 他にも、立川町、横山町、桑町、紺屋町、榎町などの町名が見えます。
 それが、現代の地図では、一帯が千代田町になってしまっています。

 新潟と前橋とを対比して、どうこう言うつもりはありません。
 新潟の場合は、非常にシステマティックな住所システムが早くから行われていたので、これで特に不都合はなかったのでしょう。
 ところが前橋の場合は、1つ1つの町名が比較的狭く、それぞれの町の大きさ位置も結構バラバラという事情があったのでしょう。
 そういう前提が大きく異なるので、前橋の場合はやむを得ない部分があったと思います。
 一帯が全部千代田町というのは何だかなぁという気はしますけれども、これまた、どの地名を残すかという風に考えた場合、地域住民の理解や反発を考えると、その難しさは容易に想像できます。

 伊香保には、木暮金太夫と福田與重があります。
 この2つの旅館は現存します。老舗ですね。

2023年4月19日 (水)

「多武峯之図」

 「多武峯之図」を入手しました。
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 江戸か明治のものか不明です。

 中央上部。
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 「大織冠御神殿」とあります。談山神社の本殿ですね。
 回廊に囲まれた中央付近に、拝礼している様な人物が見られます。

 そのすぐ左側。
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 多武峰といえば十三重塔。
 左下には閼伽井があります。

 下方には「○○院」がたくさん並んでいます。
 左下と右下。
Tonominenozu04
Tonominenozu05
 寺院の塔頭子院でしょうね。

 多武峰といえば十三重塔というイメージがありましたが、思えば、十三重塔って寺院の要素ですよね。
 ぼーっと生きているので、恥ずかしながらそんなことは今まで全く意識しませんでしたが、こうしてみると、神社とお寺とが同居しているのですね。
 明治初期の廃仏毀釈の影響はどうだったのでしょうかね。
 現状が気になります。

 私、中学校の修学旅行で多武峰観光ホテルに宿泊したのですが、その時、談山神社を見学したかどうか記憶が定かではありません。
 昭和41年か42年です。大昔です。
 この修学旅行の折に、バスの窓からチラと見えたカラーテレビが、生まれて初めてのカラーテレビ体験でした。
 大相撲中継でした。綺麗だなぁと思いました。
 伊勢だったか多武峰に登る時だったか、はっきりしません。

 多武峰に行ったのはそれが唯一です。
 行きたい気はありながら、ついそのままになって今に至っています。

2023年3月29日 (水)

明治36年の『一新講社』

 私の収集品の中に江戸から明治の道中記(定宿帳?)もあります。
 この度、明治36年の道中記を入手しました。
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 私が持っているのは東海道を中心としたものが多いのですが、この道中記は函館から箱根までという珍しいものです。

 最初のページはこのようになっています。
M36isshin02
 このように函館スタートで、連絡船に乗って、次の宿場が青森です。
 函館も青森も宿屋が多いです。
 そして青森県の小港まで。

 最後のページはこのようになっています。
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 東海道の平塚から箱根湯本までです。

 冊の途中に紙を貼り継いだページが2ヶ所あります。1つは日光で、もう1つは善光寺から高崎の部分です。
 後者はこのようになっています。
M36isshin03
 上半分の横川におぎのやがありますね。峠の釜めしのおぎのやでしょう。
 当時は旅館も営んでいたのでしょうかね。というか、旅館の方が本業だったのかもしれません。

 下半分の前橋には、2つ目に「同ツキアタリ」として油屋安太夫があります。
 油屋は現存します。
M36isshin05
 名称は入っていませんが、前橋駅北口前の道を真っ直ぐ北上して、突き当たりの右側、矢印を付けたところです。

 高崎の1つ目には「ステーション前左がわ」としてとよたや松三郎があります。
M36isshin06
 高崎駅の西口前の道を真っ直ぐ進んだ先、左側に豊田屋旅館があります。
 こちらは、現在は料亭になっていて、宿泊はできないように思います。
 2回ほど打合せに利用したことがあります。

 油屋にしろ豊田屋にしろ、こういう古い旅館は駅を出て真っ直ぐの分かりやすい場所に立地していますね。

 古い資料に登場する宿屋などが現存していると嬉しいです。

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