地図・航空写真

2019年9月29日 (日)

明治40年の市街線入り東京全図

 このようなものを入手しました。
M40shigaisen01

 上は表紙で、中身は以下のようなものです。
M40shigaisen02
 上が西です。左方向に90度回転させると通常の向きになります。

 「東京全図」とありますが、範囲は、赤坂区、芝区、神田区、下谷区、麻布区、浅草区、本郷区、牛込区、四ッ谷区、小石川区、本所区、深川区の12区です。
 新宿も渋谷も品川も、まだ郡部です。

 区と郡の表が載っています。郡部は以下の通りです。
M40shigaisen03

 玉電の経路はこの地図の範囲外ですが、別枠で乗っていました。
M40shigaisen04

 玉電は、多摩川の川原の砂利を運ぶために引かれたと聞いたことがあります。ずいぶん昔から通っていたのですね。

 びっくりしたのは現在の世田谷線です。右端の渋谷駅から左へ延びてきた線路が三軒茶屋で分岐して、一方は玉川へ、もう一方は現在は下高井戸に行きますが、この路線図では、松陰神社のあたりから下に折れて用賀で本線に合流しています。これは全く知りませんでした。

 以前ご披露した昭和12年の地図を載せます。
M40shigaisen05

 比較すると、三軒茶屋から駒沢の間に、昭和12年の地図では3駅あります。私が玉電を使っていた頃も同様でした。明治40年の地図では三軒茶屋と用賀の間は旭橋の1駅のみです。この駅名は知りませんでしたが、位置は後の上馬駅付近ではないかと思います。私が通っていた小学校は旭小学校という名で、もとは上馬駅付近にあったと聞いたことがあります。そのあたりに旭橋という地名があったのなら、学校名はその「旭」を採ったと思われます。

 すみません。途中から個人的な懐かしさからローカルな話になってしまいました。(^_^;

2019年9月 7日 (土)

昭和12年の東急沿線案内

 このようなものを入手しました。
S12tokyu01
 名称は「沿線案内 東横.目蒲.玉川電車」ということになりましょうか。
 当時はまだ東急電鉄という名称はなかったかもしれません。
 東横線はそのままですが、目蒲線は目黒線と名を変え、玉川電車(玉電)は新玉川線から田園都市線となりました。
 小中高校の時代は玉電のお世話になり、大学以降は目蒲線のお世話になり、今は大井町線と目黒線のお世話になっている私ですので、つい手が出てしまいました。ローカルな路線です。

 裏です。
S12tokyu02
 字が小さいですが、沿線の名所案内、四季の見どころ、運賃表などが並んでいます。

 渋谷駅付近。
S12tokyu03
 東横百貨店がど~んと描かれています。
 近隣の青山学院、國學院、赤十字病院よりもずっと巨大に。(^_^)
 さらに、「東横百貨店」の文字が赤字で、赤枠で囲われています。盛大にアピールしています。
 東横のマーク、懐かしいです。
 渋谷駅から斜め左上に延びているのは玉電です。
 左に延びているのは東横線。渋谷駅の隣の並木橋という駅は今はありません。

 東横線沿線。
S12tokyu04
 中央を横に走っているのが東横線です。
 左にある自由が丘駅の隣が「府立高等」「青山師範」となっています。今は「都立大学」「学芸大学」です。
 この旧称は初めて見ました。

 玉電沿線。
S12tokyu05
 右下隅の三宿から、太子堂を経て、三軒茶屋で分岐します。左が本線、上に延びているのが支線で、今も世田谷線として残っています。
 子供の頃、私の家の最寄り駅は上馬でした。三軒茶屋から駒沢までの間に上馬を含めて3駅あります。玉電が地下化されたときに、この3駅は廃止されてしまいました。その時はうちはもう引越した後でしたが、この3駅を利用していた人たちは随分不便になったことと思います。

 大井町線沿線。
S12tokyu06
 上野毛の下と等々力の左に「分譲地」とあり、尾山台の下には「貸住宅地」とあります。
 東急が宅地開発も手がけていたのでしょう。関西の阪急と同じ手法ですね。

 裏面の冒頭。
S12tokyu07
 沿線名所案内の冒頭が東横百貨店です。(^_^;
 山の手随一の百貨店、堂々たる百貨殿堂、日々千客万来の盛況は他の追随を許さず、など大絶賛しています。(^_^;
 次項の東横映画劇場にも、山の手随一の映画殿堂という文言があります。
 今も、大井町線に乗ると、「次は大岡山。東急病院最寄り駅です」など、しっかり東急グループの宣伝が入ります。

 沿線名所案内の後半から。
S12tokyu08
 豪徳寺の項に、「俗に「お猫さん」と称する猫塚があり招福の吉祥として花柳界方面の信仰が厚い」とあります。
 豪徳寺には何度か行きましたが、これは知りませんでした。今は溢れんばかりの招き猫が有名ですが。
Gotokuji04

 あ、これかも。
Gotokuji11
 あ、でもこれ、お堂であって、塚ではありませんね。
 今度確かめに行かねば。

2019年7月 5日 (金)

昭和22年の「畝傍山」・ゆききの岡

 去年の秋、幻の地名「ゆききの岡」の探究にハマっていました。
 実地踏査もした結果、現在の万葉文化館の西の岡(飛鳥寺の瓦窯の岡)がそれであろうとの結論に達しました。
 論文にも書いてしまいました。

 最近、昭和22年発行の2万5000分の1地形図「畝傍山」を入手しました。
S22unebi01
 発行は昭和22年8月ですが、大正11年測図、昭和4年鉄道補入という経緯を経ています。地形自体は大正11年当時とほとんど変わっていないでしょう。「著作権所有印刷兼発行者」は「地理調査所」とあります。まだ国土地理院ではありません。

 この地図の範囲に飛鳥寺のあたりも含まれます。
S22unebi02
 「安居院」という文字が赤線で囲んであります。これが飛鳥寺ですね。
 安居院の右下(南東)に池があります。今は亡き飛鳥池で、現在はここに万葉文化館が建っています。
 池の西から南に掛けて、岡になっています。岡にいくつか地図記号が描かれています。

 地図記号の一覧もあります。
S22unebi03
 これと突き合わせると、岡にあるのは濶葉樹林(今の広葉樹林、照葉樹林でしょうか)と竹林のようです。

 古い地図は楽しいです。(^_^)

2019年6月13日 (木)

「奈良名勝案内図」比較

 以前、「奈良名勝案内図」という地図を入手しました。
 その後、同じ地図がネットオークションに時々出品されているのを見ましたが、もう持っているから、ということで、入札することはしませんでした。
 ところが、先日、同じ地図でかなり保存状態の良さそうな品が出ていましたので、買ってしまいました。
 この2点、発行年代が異なっていて、よく見るとそこそこの相違があります。
 これに興味を覚えていたところ、「類は友を呼ぶ」といいますか(ちょっと違うか)、発行年違いのものが相次いで出てきました。
 それらをせっせと入手していたところ、全部で8枚が集まりました。
Narameisho10
 小さくて見にくいですが、一番古いのは大正8年で、以下同11年、同12年、昭和3年1月、同3年8月、同4年、同5年、同8年です。幸いなことに同じものはありませんでした。昭和3年版が1月と8月とあります。この地図、よく売れたのでしょうね。こんなに頻繁に発行されているのなら、時々の変化をかなり忠実に反映しているかもしれません。年代不明の地図の発行年を推定するための資料になるかもしれません。
 発行者は、大正8年ののみ大渕傳次郎氏、他は大渕善吉氏です。親子かもしれません。

 一番古いのと一番新しいのとを比べてみます。
 一番古い大正8年版。
Narameisho11
 一番新しい昭和8年版。
Narameisho12
 ぱっと見、あまり変わりませんが。

 奈良駅の西の市街地化が進んでいます。
 大正8年版。
Narameisho13a
 昭和8年版。
Narameisho13b
 駅の西側の色がだいぶ違います。新しい道路もできています。あと、大正版にはあった駅の北東の油坂池が昭和版では消えてしまいました。埋め立ててしまったのでしょうか。「駅前」が「油坂」に変わりました。昭和版にのみ奈良駅から赤い実線が伸びていますが、これはバス路線です。

 さらにその東側。
 大正8年版。
Narameisho14a
 昭和8年版。
Narameisho14b
 開化天皇陵の堀が昭和版では南に拡大しています。油坂の北も市街地化が進んでいます。

 現在の奈良女子大学の北西。
 大正8年版。
Narameisho15a
 昭和8年版。
Narameisho15b
 大正版では農地のようですが、昭和版では、県立奈良中学校、市立第五小学校、私立育英高等女学校という3校が建築され、市街地化も進み、バス路線も通っています。

 比較するのは楽しいです。(^_^)

2019年5月 2日 (木)

令和最初の買い物は

 一昨日のブログで、平成最後の買い物は近所のスーパーで、令和最初の買い物も同じスーパーでということになろう、と書きました。
 ところが、昨日、スーパーに行く前に、レターパックと宅配便が届き、そちらが令和最初の買い物となりました。
 ま、支払いは平成の内に済んでいるものと、これから振り込むものとがありますので、なかなか微妙ではあるのですが。(^_^;

 八木書店に直接注文していた本。
Reiwahatsu01
 ネットオークションで落札した品。
Reiwahatsu03
 同じく。
Reiwahatsu02
 ということで、キーワードは、飛鳥、奈良、木簡、古地図、忠臣蔵、ですね。
 全く期せずして、これらが令和最初の買い物となりましたが、今後もこれらの路線の買い物が続くことでしょう。なかなか象徴的な3点でした。(^_^)

 「奈良名勝案内図」は昭和3年の発行です。同じ地図で大正14年のをすでに持っていますが、わずかに違いがあるようです。3年のうちに変化した部分が早速反映されたのか、あるいは旧版の誤りを新版で訂正したのかは分かりません。じっくりと比べてみるのも楽しそうです。

 「義士始末記」という作品は知りませんでした。島田正吾が内蔵助なのかと思いましたが、ググってみたら、荻生徂徠でした。以下、ググって知った結果です。

 この作品は昭和37年大曾根辰夫監督作品です。入手したポスターには「後篇」とありますが、「義士始末記」に前後篇があるのではなく、昭和32年に同監督が製作した「大忠臣蔵」を短縮再編集して「仮名手本忠臣蔵」と改題したものを「前篇」とし、それに対しての「後篇」だそうです。

 内容は、討ち入りのあと、浪士達の処分を巡って将軍綱吉は苦慮します。荻生徂徠は、世間の浪士達に対する賞賛・同情の思いに背を向け、情よりも法を重んじて切腹を主張します。

 この徂徠の周囲に、徂徠が貧しかった頃に面倒を見てくれたおかつ(岡田茉莉子)や、関係性はよく分かりませんがおしま(岩下志麻)がいます。おかつは浪士の1人である間新六の姉、おしまは同じく浪士の1人中村勘助の恋人という設定です。おかつもおしまも、浪士の切腹を主張する徂徠をさぞ恨んだことでしょう。さんざん悪態をついているかもしれません。岡田茉莉子や岩下志麻からなじられたらどんなにか怖いことでしょう。(^_^;

 徂徠を主人公にした忠臣蔵外伝ということで、ユニークですね。興味深く、ぜひ見てみたいものです。

2019年4月28日 (日)

「いが越なら大和廻り順案内図」

 ネットオークションでこのようなものを入手しました。
Igagoenara01  
 興味を持ったきっかけは、左上に「大阪」と書いてあったことです。
 この地名は、江戸時代には「大坂」と書いていたのが、明治になってから、「坂」の字を分解すると「土に反る」となることを嫌って、土偏をこざと偏に変えて「阪」と書くようになったと、(かなり曖昧に)そう理解していました。

 ところが、この絵図は、江戸時代風でありながら、「大阪」とあったので、そこに興味をおぼえました。

 上の画像は小さすぎてよく分かりませんね。
 奈良県の部分を拡大します。
Igagoenara02
 「なら」から南下すると、「おびとけ」「丹波市」「柳本」を経て、「みわ」に至ります。そこから西へ「あべ」「あすか」「おか寺」「立花寺」「神武天皇」となります。「みわ」から「おか寺」へは「たうのみね」を経由する道もあります。
 これまで、いくつかご紹介してきた絵図や道中記でもおなじみのルートですね。岡寺・橘寺・神武天皇とくれば、また例の久米寺前の道しるべが思い起こされます。
Kumedera01
 神武天皇陵が載っているところを見ると、この絵図は江戸時代のものではなく、明治になってからのものなのでしょう。

 あちこち眺めているうちに、こんな記述に目が留まりました。
Igagoenara03
 冒頭は「此所ながの峠」でしょうか。この文の5行目と最後の行に「トンネル」とあります。この古びた絵図と「トンネル」という語とが何ともミスマッチです。
 この文章の3行目を、最初「昭和十七年十一月」と読んでしまいました。いや、なんぼ何でもそこまで新しくはなかろうと思い、この記述は後からの加筆かと思いましたが、ちゃんとトンネルの絵が描いてありますので、加筆ではありません。よくよく見ると、「昭和十七年」ではなくて、「明治十七年」のようでした。(^_^;
 とすると、この絵図は明治十七年以降のものということになりましょう。その時代でもまだこのような江戸時代風の絵図が作られていたのですね。

 三重県のHP(県史編さん班担当部分)によれば、このトンネルが掘られたのは、津と伊賀上野とを結ぶ伊賀街道「伊賀越え奈良みち」の長野峠の部分で、明治十三年に工事を開始し、明治十八年六月竣工とのことです。絵図の記述とは半年ほどズレます。
Igagoenara04
 そういった疑問点は残るものの、あれこれ興味深いです。
 同時代資料は楽しい、という、またいつも通りの結論に達します。(^_^;

2019年4月16日 (火)

明治10年の『萬国地誌略』

 このようなものを入手しました。題簽は剥がれてしまっています。
M10bankokuchishiryaku01
 表紙裏には次のようにあります。
M10bankokuchishiryaku02
 奥付ページは以下の通りです。
M10bankokuchishiryaku03  
 明治10年の刊行です。以前、この年代の教科書を何点かご紹介しました。それらと同じく、これまた師範学校の編纂です。

 内容はアジアとアフリカです。私が入手したのはこの1冊だけですが、他にヨーロッパ、アメリカ、オセアニアなどがあるはずですから、全3冊でしょうかね。
M10bankokuchishiryaku04
 亜細亜総論の本文4行目に「蘇葉士」とあります。「う~ん?」としばし唸りました。内容から考えて、たぶん「スエズ」だと思います。難解。(^_^;

 こういうページもあります。
M10bankokuchishiryaku05
 外国地名が相変わらず漢字表記され、難解です。頭が疲れるので解読はやめました。(^_^; その一方で、カタカナで「ラダック」とあります。「え? これがアリなら、全部カタカナで書けば良いのに」と思ったことでした。

 巻末に折り込みでアジアの地図がありました。
M10bankokuchishiryaku06
 同じくアフリカの地図も。
M10bankokuchishiryaku07
 アフリカは今よりもずっと国が少ないですね。

2018年11月29日 (木)

洗足池をゆく(5)地理編/完

 洗足池の南東にある御松庵の境内、日蓮上人の袈裟懸け松の近くに馬頭観音像があります。
Senzokuike43
 光背の裏に年紀があります。
Senzokuike49
 「天保十一子年□月大安日」と読めます。残念ながら□は読めません。一から十までの何れかの漢数字が入るのでしょうが、どれも違うようです。今度行った時にじっくりと見てこようと思います。

 社寺編に載せた千束八幡神社の狛犬の年紀は「天保八丁酉年九月大安日」でした。干支の示し方が異なるだけで同じ書式です。共通しているとみるか、あるいは当時はこれがごく一般的な書式だったのか、知識がなくて分かりません。

 馬頭観音像の下は4面すべて道しるべになっています。

 正面には「北 堀之内/碑文谷道」とあります。
Senzokuike45
 馬頭観音像は南面していますので、道しるべの向こう側が北になります。
 碑文谷は洗足池のすぐ北に目黒区碑文谷があります。
 堀之内は普通名詞的固有名詞であちこちに多数存在しますが、どうも現在の杉並区堀ノ内ではないかと思います。洗足池からは北北西に直線距離で10kmほどあります。
 ここからはやや遠いですが、なぜこの堀ノ内と考えたかというと、ここには妙法寺という日蓮宗の寺院があり、そこに安置されている祖師像が厄除け祖師像として信仰を集め、落語「堀の内」の題材にもなるなど著名な寺院であったこと、そしてこの祖師像は碑文谷の法華寺から移されたものであること、などによります。

 西側の面には「東 江戸中延」とあります。
Senzokuike46
 江戸は確かに洗足池からは東に当たります。
 中延は、洗足池の少し東に品川区中延があります。

 北側の面には「南 池上/大師」とあります。
Senzokuike48
 池上は、池上本門寺のことでしょう。洗足池の南南東にあります。
 大師は、川崎大師のことでしょう。洗足池の南です。

 東側の面には「西 丸子稲毛」とあります。
Senzokuike47_2
 丸子は、川崎市中原区に丸子という地名がありますので、そこかと思います。方角は洗足池からは南西に当たります。
 稲毛は、鎌倉時代以降、今の川崎市北部が稲毛領または稲毛荘と呼ばれたそうですので、あるいはここかと思いますが、方角的には洗足池から南ないし南西に当たります。

 解説板があります。
Senzokuike44
 千束の馬医者や馬主がこの供養塔を建てたということは、道しるべのさらに下の台座に書かれています。

 また、解説板の最後には、この供養塔は本来の場所から平成13年に現在地に移されたとあります。本来安置されていた場所は、中原街道と碑文谷-池上間の道との交差点付近と推定されています。

 たまたま持っていた明治時代の地形図を載せます。
Senzokuike52
 明治14年測量、明治20年発行、明治24年再版です。洗足池のすぐ南沿いの道が中原街道、洗足池の西を南北に通っている道が碑文谷-池上間の道です。前の所有者が青く塗っています。青い道を北に進めば碑文谷です。池上は、青い道と中原街道との交差三叉路の少し東側を南南東に進んだ先です。

 この地図は半年ほど前にネットオークションで入手しました。昔住んでいた地や今住んでいる地、その他、よく行く場所などが収録されているので、興味を持って入手しました。思いがけず役に立ちました。(^_^)

 供養塔が建てられたのは天保11年ですので、この地図とは時代差がありますが、それでも、天保11年は1840年、明治14年は1881年。その差は41年しかありません。天保というとかなり明治に近いですね。地形もあまり大きくは違っていないのではないでしょうか。

 洗足池の南、中原街道に面した地に中原街道改修記念碑が建っています。
Senzokuike50
 大正12年4月のものです。関東大震災でも倒壊しなかったようです。

 洗足池全体の案内図です。
Senzokuike51_2
 明治の地図では、池の西側が細長く外側に張り出していますが、それが今では消えてしまっています。埋め立ててしまったのでしょうか。

 明治の地図では、今の御松庵が「柳松庵」となっています。名前が変わったのでなければ、明治の地図は誤記ですね。同時代資料は楽しいですが、正しいとは限りません。(^_^) それもまた楽しいです。

 洗足池の探訪記、5回に及びました。長々とお付き合い頂きましてありがとうございました。季節によって、特に植物は見どころも変わると思います。いずれまた洗足池を取り上げようと思います。

2018年8月17日 (金)

明治5年の『日本地理往来』

 このようなものを入手しました。上下2冊です。
M5chiri01
 角書きに「郡名産物」とあるのに惹かれました。

 下巻の奥付に次のようにあります。
M5chiri02
 明治5年の刊行ですね。

 巻頭付近に折り込みの地図があります。
M5chiri03
 関東地方。
M5chiri04
 旧国名が四角の枠で、府県名が楕円形の枠で囲まれて書かれています。現在の栃木・群馬は宇都宮・栃木・群馬に分かれています。現在の茨城・千葉は茨城・新治・印幡・木更津に分かれています。現在の埼玉の西は入間です。

 中部地方。
M5chiri05
 現在の愛知から静岡西部にかけては愛智・額田・浜松です。現在の長野は、北部のみ長野で、信濃南部と飛騨とをあわせた地域は筑摩となっています。

 本文は次の通りです。府県別ではなく、旧国別になっています。
M5chiri06
 頭注欄に郡名や産物が記載されています。

 大和国の産物は次のように書かれています。
M5chiri07
 墨筆、葛粉、索麺、柿などは今も変わりませんね。

 上野国の頭注欄。
M5chiri08
 1行目の「吾妻」、現在は「あがつま」ですが「あづま」となっています。3行目の「群馬」、少なくとも江戸時代の初め頃までは、古代と同じく「くるま」と読んでいたことが分かっていますが、明治の初めでもなお「くるま」と読まれていたのかもしれません。「邑楽」も今は「おうら」と読みますが、これも、古代に「おほあらき」→「おはらき」と変化したと考えられています。明治の初めにも「おはらき」と読んでいたとしたら興味深いです。

 不審なのはその下の「新田」です。この本では「しんでん」とあります。この郡は、新田義貞の新田氏発祥の地ですので、古く「にひた」「にふた」などという読みはあったにせよ、「しんでん」は考えにくいところです。

 同時代資料は貴重ですが、正しいとは限らないと思われます。そこがまた同時代資料の面白いところです。

2018年7月30日 (月)

明治45年の鉄道旅行地図

 明治45年の鉄道地図を入手しました。
M45tetsudo01
 屏風状に折り畳まれていて、広げるとこんな状態です。
M45tetsudo02
 画像が小さすぎますが、左端は台湾と南満州・韓国です。

 この小さな画像でも、どこに鉄道が通っていたのかはおおよそ分かります。四国はまだこれからですね。九州の西側は、佐賀、長崎、熊本・鹿児島まで鉄道が通っていますが、東側の宮崎はこれからです。山陰地方は出雲大社の辺りまでしか通っていません。東北は日本海側がこれからです。

 裏表紙はこのようになっています。
M45tetsudo03
 凡例はこのようです。
M45tetsudo04
 東京付近。
M45tetsudo05
 東京駅がまだありません。有楽町と万世橋との間にある中央停車場が後に東京駅になるのでしょう。ググってみたら、東京駅の開業は大正3年とのことです。山手線も繋がっていませんね。上野駅から南がありません。渋谷駅がまだ「普通駅」扱いです。蒲田駅が「カバ田」となっています。当時は「かばた」と呼ばれていたのでしょうかね。興味深いです。

 群馬付近。
M45tetsudo06
 高崎線(上越線)がまだ高崎までしか行っていません。渋川や沼田は道路のみです。二重丸で囲まれているのが「有名温泉場」です。四万、伊香保、草津などがあり、当時から温泉県ですね。

 奈良付近。
M45tetsudo07
 特にコメントはありません。名古屋方面に行く路線はまだできていませんね。

 愛知・伊勢付近。
M45tetsudo08
 今までに見た定宿帳で、豊橋から伊勢神宮への航路のあったことを知りましたが、この地図には載っていませんね。この頃には廃止されていたのでしょうかね。

 地図全体について言えることですが、旧国名のみで府県名は一切書かれていません。明治45年の時点でもまだ旧国名の方が普通に使われていたのでしょうかね。

 あれこれ興味深いです。古いものは見ていて楽しい。(^_^)

【以下、萩さんから頂いたコメントを受けて、追加します。】

 軽井沢の西は次のようになっています。
M45tetsudo09
 このように、篠ノ井から分岐して、北は長野経由で新潟方面に向かいます。また、塩尻から南下すると甲府・八王子方面に向かいます。塩尻から西へは名古屋笹島まで行って、そこからさらに各地に分岐しています。鉄道網はもうかなり発達していますね。

 昨日お示しすべきでしたが、地図の下の欄外に著作兼発行者名が載っています。個人名ですが、この人は出版者でしょうかね。
M45tetsudo10
2019年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

ウェブページ