歴史

2019年4月 1日 (月)

新元号は「令和」

 新元号、「令和」に決まりましたね。
Reiwa  
 まず違和感を覚えました。「和」はよく元号によく使われる文字ですが、「令」はたぶん初めてなので、それで、元号っぽくないと感じたのかもしれません。

 国書から採る可能性もあるということで、六国史、特に日本書紀と続日本紀とが念頭にありましたので、万葉集というのは意表を衝かれました。

 文系の学問や国文学が軽視される世の中で、文学や万葉集に関心を持つ人が増えてくれたら幸いです。ま、時の経過とともに、令和の典拠が万葉集だということは意識されなくなって行くと思いますが。(^_^;

 今まで、授業や講座などで梅花の宴三十二首の歌を扱うことはありましたが、大体32首のうちの何首かを選んで読む程度で、序はスルーしていました。ちゃんと読み直さねばと思います。(^_^;

 新元号の誕生を2回経験できたのは幸いでした。30年前、「平成」に決まったとき、音の響きの点では、「へーせー」というのは何か空気が漏れるような、力が抜けるような感じで、あまり良いとは思いませんでしたが、時が経つにつれて、次第に慣れてきたせいか、歳をとったせいか、段々好ましく思うようになってきました。いまは良い元号と思っています。

 一方、「令和」は音の響きの点では堅い感じがします。30年前だったら良いなと思ったかもしれませんが、歳をとった今では、ゆるい響きが好みです。(^_^)

 新元号、「れいわ」「りょうわ」両様の読みが可能なのが難ではありますね。後世、きっと分からなくなると思います。幕末の年号でも、元治って、「げんじ」か「がんじ」か迷います。

 昭和と「和」の字がかぶりますね。数百年後、「□和元年」という風に「和」の1字前が欠けた平成前後の木簡が発掘されたとき、昭和か令和か決定できないという問題が生じますけど、ま、今どきは木簡を使わないので、そういう心配はありません。(^_^)

 全く別の観点からは、「令」の字って、手書きの場合と明朝体とで形が違いますよね。書き取りの時に、活字と同じ形でないと×を付けるような不適切な指導が一部では行われているようですが、これをきっかけに、どちらでも良いのだということが普及するように願っています。

 今のところ、そういった感想です。

 万葉文化館や万葉歴史館にはマスコミからの問い合わせや感想を求めるメールや電話が殺到していることでしょうね。しばらく大変そう。

 私のところには、昔の卒業生から、「先生のことを思い出した」というメールが届きました。(^_^)

2019年3月 5日 (火)

谷中の全生庵

 3日前に千駄木の団子坂下に行ったことを書きました。団子坂下の交差点から谷中に向かって歩いて行くと、左側に全生庵という臨済宗のお寺があります。
Zenshoan01
 ここには、山岡鉄舟、三遊亭円朝、弘田龍太郎の墓があるというので、境内に入ってみました。

 山岡鉄舟の墓。
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 賛碑。
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 解説板。
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 三遊亭円朝の墓。
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 追悼碑。
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 解説板。
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 弘田龍太郎の墓。逆光になってしまうので斜めからの撮影になりました。
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 曲碑。「叱られて」の楽譜が刻まれています。
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 解説板。
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 境内に金の菩薩像がありました。
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2019年3月 4日 (月)

明治12年の「新撰早繰年代表」

 先月、「安政3年の年忌早見盤」という記事をアップしました。
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 類は友を呼ぶではありませんが、似たようなものを入手しました。今度のは明治になってからのもので、円盤形の年表といった感じです。
M12hayakuri01
 これも中央部に回転式の円盤があります。
M12hayakuri02
 円盤の外側の一番若い数字は「一」です。そこをスタートに、反時計回りに螺旋状に内側に向かって数字が大きくなります。▲1つが100です。印刷してある最も大きな数字は「▲▲▲七十六」すなわち三百七十六で、そのあとに空欄があり、そこに朱で4年分の追記があります。

 使い方は次のようになります。
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 上の図で、一番下に白抜きで「己卯」とあります。その1つ内側が明治12年です。中央部の回転円盤の「一」をこのマス目に合わせます。1周60年ですので、1つ内側は60年前、2つ内側は120年前ということになります。土台の方も、一番外側が明治12年ならば、その1つ内側は60年前で文政2年ということが分かります。

 最も古い年は永正元年(1504)です。明治12年(1879)の375年前に当たります。多くの年には、その年のできごとが簡単に記されていますので、略年表として使えます。

 構造は安政3年のものと同様ですが、ぱっと見でも両者はずいぶん違います。

 記事は、例えば次のように、元和元年には「大阪落城」とあり、翌2年には「家康公薨」とあります。
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 もう明治の世になっていますが、家康は「公」と待遇しています。

 そればかりか、文化12年には「神君二百年御忌」とあり、神君扱いが続いています。
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 マス目が大きくないので、上のように、明治8年の条には「去年大阪神戸ノ間気車出来」とあります。明治7年の条には他の記事が入っているために余白がなく、8年のマスに「去年」として記載しています。

 家康と異なり、信長と秀吉は呼び捨てです。
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 なかなか興味深いです。

 元禄15年には「義士四十一人夜討」とあります。
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 「四十七士」って、当時誰もが知っていたでしょうに、うっかりしたのでしょうかね。(^_^;

2019年2月11日 (月)

明治13年の『万国史略字引』

 こういうものを入手しました。
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 明治13年の刊行です。
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 書名は、以前当ブログでも同種の例を取り上げましたように、『万国史略』という別の本があって、その「字引」ということになりましょう。「字引」は、その書籍の中に出てくる語の読みや簡単な意味を記したもの、といった意味です。

 『万国史略』というのは世界史の教科書でしょうね。

 巻頭部はこうなっています。
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 表紙題簽に「両点」とありますが、これは、語の右にふりがな形式でその語の音が示されているのと、語の下に訓または意味が示されているのと、その両方を指して「両点」と言っているものと思われます。

 このページの最後の行にある「交通」などは、読みは簡単でしょうから、下にある「ヨシミヲムスブコト」という注記が眼目なのでしょう。

 「漢土」の部は詳細で、唐とか元とか、そういった王朝ごとに項目が立っています。
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 上のページには、劉備や諸葛孔明の名が見えます。後ろから3行目にある「私」の「ハタクシ」という表記に興味を惹かれました。「ワタクシ」を「ハタクシ」と書いています。語中語尾ならともかく、語頭における「ワ」を「ハ」と書いていますね。仮名遣の混乱ということでしょうか。

 国別の分量の内訳は以下の通りです。数字はページ数です。

 漢土:28
 印度:1.5
 波斯(ペルシャ):1.4
 亜細亜土児其(アジアトルコ):3.9
 希臘(ギリシヤ):2.3
 羅馬(ラウマ):7.3
 人民ノ移転:1.5
 仏蘭西(フランス):7.9
 英吉利(イキリス):2.3
 独逸(ドイツ):3
 瑞西(ズーイス):1.4
 和蘭(ヲルランド):1.4
 嗹馬(テンマルク):2
 西班牙(スベイン):3.3
 以太利(イタリア):3.5
 土児其(トルコ):0.6
 露西亜(ロシヤ):1.4
 亜米利加洲:1
 合衆国:2.1

 漢土が群を抜いて多く、28ページあります。第2位の仏蘭西(フランス)7.9ページの3.5倍以上です。次いで羅馬(ラウマ)の7.3ページ、亜細亜土児其(アジアトルコ)の3.9ページ、以太利(イタリア)の3.5ページ、西班牙(スベイン)の3.3ページとなります。

 漢土が多いのは、歴史が長かったり、わが国に及ぼした影響が大きかったり、という理由もあるでしょうが、ふりがなを振るべき人名が多いということもありそうです。欧米の場合、国名は漢字表記ですが、人名は出てきません。『万国史略』で、欧米の人名はカタカナで表記されているのかもしれません。このあたり、国会図書館のデジタルライブラリなどで、『万国史略』を見てみれば良いのでしょうけど。(^_^;

 フランスの項はこのようになっています。
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 語に関しては、最後の行の「豪猛」に付いている「タケシキ」という訓に興味をおぼえました。今なら「タケキ」となるところでしょう。

 内容的には、5行目からの「一女子」「民間」「義兵」「勝利」「焚殺」という箇所、ジャンヌダルクでしょうね。

 あれこれ興味深いです。

2019年1月31日 (木)

『改正浪花講』&二川宿の山家屋

 道中記(というのか定宿帳というのか)に興味を持って、あれこれ集めています。当ブログでもいくつかご紹介しました。最近も入手したのですが、かなりヨレヨレでした。で、アイロンを掛けてみました。

 表紙。左が使用前、右が使用後。
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 裏表紙。同じく左が使用前、右が使用後。
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 秋葉神社と鳳来寺のページ。上が使用前、下が使用後です。
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 見違えるほどきれいになりました。満足です。(^_^) でも、出品者がここまでしてくれても良かったようにも思います。(^_^)

 年号が書いていないので、いつの物か分かりません。

 ただ、東京の部分に以下のようにあります。
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 左端に「新橋ステーシヨンより横浜へ蒸気車往復有」とありますので、新橋・横浜間に鉄道が開通した明治5年以降ですね。

 西京の部分には以下のようにあります。
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 左端に「烏丸七条ステーシヨンヨリ大坂神戸へ蒸気車(その下、字が欠けていて不明)」とあります。大阪・神戸間に鉄道が通ったのは明治7年だそうです。京都駅の開業は明治10年だそうですが、当時の駅の場所は八条通り付近とのことですので、「烏丸七条」という記載と整合するのかどうか分かりません。

 かねて関心のある二川、豊橋の辺りは次のようになっています。
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 豊橋には、当ブログでご紹介してきた道中記に毎度おなじみの「つぼや庄六」がまたまた載っています。代表的な宿なのでしょうね。

 豊橋の名物に、玉あられと浜名納豆が載っています。ググってみますと、浜名納豆は今は浜納豆と呼んでいるそうですが、かつては浜名納豆と呼ばれていたのではないか、という記事がありました。まさにその浜名納豆です。

 さて、二川宿。「山家や」と「橋本や」の2軒が載っています。

 3年前に二川宿の本陣資料館に行った時に撮影した地図を見てみました。
Yamagaya01
 山家屋は東海道の北側、青く塗られた脇本陣の西隣にあります。橋本屋はそこからさらに西、本陣のちょうど向かい側にあります。なんか嬉しい。(^_^)

 資料館には二川宿のジオラマも展示してありました。その一部。
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 右上を拡大します。
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 この旅籠が山家屋でした。そして、浪花講の看板が掛かっています。黒い扇に赤い日の丸のマークが描かれています。これまさにこの『改正浪花講』と同じですね。

 山家屋が浪花講に登録されている旅籠であることを踏まえて、このジオラマには浪花講の看板を掲げたのでしょう。孝証の行き届いたジオラマと思いました。

 あれこれ楽しいです。♪

2019年1月30日 (水)

鳩の棟飾り

 しばらく前、高崎線に乗っているときに、埼玉県北部の某駅のすぐ近くの民家の屋根に鳩が止まっているのが見えました。気づいたのが発車間際でしたし、薄暗くなっていましたので、作り物の鳩のようにも見えましたが、よく分かりませんでした。

 次に通ったとき、作り物であることが確認できました。

 こういうものです。
Munehato01
 人様のおうちなので、勝手に撮影することも憚られますが、屋根の部分だけ載せます。

 アップです。
Munehato02
 何でしょね? お寺の鴟尾やお城の鯱は防火のおまじないのようですね。それらは、いずれも、屋根の両端に置かれていますけれども、これらの鳩は屋根の中央付近に向かい合って鎮座しています。この地方の風習かとも思いましたが、列車の窓から見える範囲では、同様の物を屋根に乗せたおうちは見当たりませんでした。

 ネットで、「屋根 鳩」でググってみても、鳩の追い払い方が多数で、参考になるものはなかなかヒットしません。あれこれ考えて、「棟飾」という言葉を思い付いて「棟飾 鳩」でググってみましたら、多少引っ掛かりました。家内安全などのおまじないかもしれません。ただ、ググってヒットした画像は1羽のケースが多いです。

 そこで、「向かい鳩」という語を思い付いて、これでググってみたら、熊谷氏の家紋が向かい鳩だと分かりました。例の熊谷次郎直実の熊谷氏ですね。「おお!」です。この駅、熊谷ではありませんが、近辺ですので、関係があるかもしれません。いや、ただの偶然で、全く関係ないかもしれません。(^_^;

 今、このようなところです。さらに調べたり、考えたりしてみます。

 駅のすぐ近くのおうちですので、「あの。誠に不躾ですが……」と訪問して聞いてみる手もありますけど、それはあまりにもお騒がせですし、ご迷惑と思いますので、そこまではしません。(^_^;

2019年1月27日 (日)

國學院大學博物館で「神に捧げた刀」展

 今日は、東京渋谷の國學院大學で会議がありました。
 敷地内にある國學院大學博物館で「神に捧げた刀」という特別展を開催中ということで、会議終了後に寄ってきました。
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 神社に奉納された刀剣が展示の中心ですが、記紀や皇太神宮儀式帳などの刀剣の登場する箇所も展示されていました。

 刀剣好きの私は興味深く見学しました。刀剣女子の来館者も多いそうです。(^_^)

 展覧会を覗いてみようと思った大きな動機は、ふつの御魂の模造品が展示されていると伺ったことです。

 石上神宮には、建御雷神から神武天皇へと下された神剣「布都の御魂」が埋納されたという伝承のある禁足地があり、その禁足地で明治7年に鉄刀が発掘されたのだそうです。当時の大宮司はこれを布都の御魂とし、この刀の模造刀が複数製作されたそうです。そのうちの1振りが明治45年に製作されたもので、それが展示されていました。

 やや反りのある刀で、反りの内側に刃が付いているという大変に珍しい形体をしていました。興味深かったです。

2019年1月 7日 (月)

第6回萩原文庫シンポジウム

 2月2日(土)に、群馬県立女子大学で、第6回群馬学センター萩原文庫シンポジウムが開催されます。
Hagiwara06a
 テーマは、「西上州・東上州の誕生」で、趣旨は以下の通りです。

 萩原進はその著作『西上州・東上州』(上毛新聞社、1978年)において、様々な角度から上州の東西の地域性とその差違を論じている。つまり、「西上州・東上州」(あるいは西毛・東毛)は群馬県の地域区分の基本構造と理解できるのだが、上州を西と東で区分するという観念は南北朝時代の成立とされる『神道集』にすでに読み取ることができる。では、中世の人びとはなぜ上野国に、西という地域と東という地域があると認識するようになったのだろうか。そして、そのときの西と東とはどこで、何がそれを画したのだろうか。さらに、上州の東西意識がなぜ南北朝時代に顕著になったのだろうか。中世という時代にプログラムされた上州人の地域観を神話と歴史の双方の世界から解析してみる。

 なんか面白そうです。

 群馬県の最東部、館林のあたりは、隣県栃木県の足利・佐野あたりとの交流が深いということは承知していましたが、今回の話は群馬県をもっと大きく東西に分けて考えようということのようです。

 パネリストは次の方々です。
Hagiwara06b

 大島先生には非常勤講師としてご出講頂いている他、たびたびお世話になっています。ありがたいことです。

 私、多分出席すると思います。

2019年1月 5日 (土)

明治9年の『日本地誌略字引大全』

 このようなものを入手しました。題簽はありません。
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 内題はこのようにあります。
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 著者は神奈川県の師範学校の先生のようですね。

 去年の11月にご紹介した本は群馬県の師範学校の編纂でした。明治の初め頃は師範学校がこういった本を編纂していたのですね。
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 今回入手した本は、「和本、日本地誌略字引大全、三巻」とあったので、全三巻の揃いと思い込んで買ってしまいましたが、そうではなくて「第三巻」の意でした。1冊のみの端本です。(^_^;

 この第三巻は、山陰道と山陽道とを収めています。とすると、多分全四巻なのでしょう。
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 冒頭の丹波は「豊岡県師範校 山宮竹次訂正」とあります。全体の著者は神奈川県師範学校の小林義則氏でも、それぞれの土地の師範学校の先生に確認・訂正して貰ったのでしょう。地名の読みは、その土地の人でないと分からないことも多いことでしょう。

 出雲の部。ここも島根県の師範校の先生のチェックが入っています。
M09chishiryaku04
 驚いたのは「出雲郡」に「シユツト」というふりがなが付いていたことです。これどう考えても「イヅモ」だろうと思いましたに。

 調べてみたら、出雲郡は中世に東西に分割されたようで、その東側が出東郡となったようです。それが、近世初期に表記は出雲郡になったのに、読みは従来通り「しゅっとう」のまま残ったようです。

 それじゃぁ読めませんよね。国名は古代以来「出雲(いづも)」なわけですから、郡名表記が「出東」から「出雲」に戻った時点で、郡名の読みも「いづも」に戻りそうなものですけれど、そうならなかったのは不思議です。

 考えるに、当時の一般庶民の日常生活は表記よりも音声で行われていたことでしょうから、郡名については「出雲」という表記よりも「しゅっとう」という読みが定着してしまっていて、変えることが難しかったのかもしれません。もしもそういうことであるとすれば、こういった表記と読みとの関係は、言語生活や言語意識を考える上での手がかりの1つになりそうに思います。

 出雲郡の隣にある「意宇郡」には「イウ」という読みが付いていますね。本来は「オウ」のはずが、表記に引かれて読みが変わってしまったのですね。こういう風に、上の例とは逆に、読みよりも表記が優先することもあるので、一筋縄ではゆきません。

 次の箇所を見て、さらにびっくり。「出雲郷」に「アダカヰ」という読みが付いています。
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 こうなると、なぜそう読むのか見当も付きません。(^_^;

 これも調べてみたら、この地にある阿太加夜神社に由来するようです。もう不条理と言っても良いかも。(^_^;

 地名は楽しいですが、なかなか難しいです。

2018年12月28日 (金)

明治7年の新暦解説書

 このようなものを入手しました。明治5年(というか6年というか)に太陽暦が採用されたことに伴う解説書です。
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 題簽には「太陽暦和解」とありますが、内題は「改正暦和解」となっています。
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 明治7年1月刊行ということで、改暦からは1年経っています。

 冒頭には、明治5年11月に出された「改暦御布達」とその「別紙」とが掲載されていますので、改暦の具体的な経緯や内容がよく分かります。
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 「別紙」には時刻法に関する記述もあります。
M07koyomi04
 それまでの不定時法が定時法に変わって、人々はさぞ戸惑ったことでしょう。月の大小も、それ以前とは異なり、固定することになります。そして4年に1度の閏年。

 旧暦の仕組みは結構ややこしいですが、それに比べれば太陽暦は簡単ですので、太陽暦そのものに関する解説は多くありません。

 終わりの方に「西洋暦法沿革之説」という項があり、そこでユリウス暦とグレゴリオ暦の解説が載っています。
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 ユリウスカエサル(ジュリアスシーザー)を「由利安設沙爾(ゆりあんせーさる)」と書いていて、興味深かったです。

 グレゴリウス13世は、なぜか「学士」として「業列互利(げりごり)」と書いています。
M07koyomi06
 ただ、あとの方では、「業列互利」のふりがなが、「げりごり」ではなく、「げれごり」になっていました。
M07koyomi07
 同時代資料は面白いです。(^_^)

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