歴史

2022年12月 2日 (金)

「本朝英雄鑑」

 このようなものを入手しました。
Eiyukagami01
 題名は「本朝英雄鑑」で、源平時代から戦国時代の武人が番付状に並んでいます。
 人数は数えていませんが、軽く100人は超えますね。200人や300人はいそうです。
 相撲の番付だと、力士名の上には「大関」「関脇」などの地位が書かれますが、この番付では武人の名の上には「将軍」「忠勇」などの特徴名が書かれています。そして、左右(東西)で、同位置には概ね同じ特徴名が置かれています。

 最上段の左右(東西)を上下に切り貼りして示します。
Eiyukagami02
 上段4番目には坂東武者の鑑と謳われた畠山重忠がいます。それに対応する下段には北条泰時です。
 その2行先の上段には大江広元がいます。それに対する下段は前田利家です。
 その2つ先は「悪勇」で、上段が平将門、下段は明智光秀です。
 うしろから3行目は「勇者」で、上段が柴田勝家、下段は和田義盛です。
 「鎌倉殿の13人」の登場人物もたくさんいますね。
 大江殿が最上段というのはちょっと意外でした。

 3段目はこのようになっています。また左右を上下に切り貼りして示します。
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 ほぼ中央あたり、上段に「奸智」として石田三成がいます。これに対応する下段は「奸雄」として梶原景時です。
 うしろから4行目に「侫奸」として、上段には北条義時、下段には高師直がいます。
 子息の泰時は最上段に「賢者」として扱われているのに、父の義時は3段目に「侫奸」ですからねぇ。
 ま、大河を見る限りは真っ黒に描かれていますね。
 その隣は「猛勇」として、上段が本多平八郎、下段が仁田殿です。

 中央には相撲番付だと行司や勧進元などが書かれますが、この番付では軍師などが書かれています。
 一番上と2番目。
Eiyukagami04
 軍師は、中央に楠木正成、他には竹中半兵衛や真田幸村、山本勘助等がいます。
 「智仁勇」は、中央が源義経、他に木村重成、八幡太郎義家、加藤清正、源頼光。上杉謙信と武田信玄もここにいます。

 3番目と4番目。
Eiyukagami05
 ここは「怪力」ですね。上段中央には武蔵坊弁慶。怪力無双の代表ですね。
 あと、坂田金時や曽我五郎は有名ですが、下段中央の木村正国というのは不明です。

 5番目と6番目。
Eiyukagami06
 上段は「勇婦」で、中央に神功皇后、その左右に巴御前と北条政子がいます。
 下段には中央に豊臣秀吉、左右に源頼朝と平清盛が大きな文字で書かれています。
 その他には、源平藤橘の始祖が小さい文字で書かれています。

 というようなものです。
 あちこち見ていて見飽きません。

 刊記がなく、いつのものか分かりませんが、徳川家康を初めとして、徳川、松平性のものが全く登場しないので、これは恐らく徳川将軍家を憚って対象外としたものと思われますので、江戸時代のものではないかと推察されます。

 なお、左方に真田昌幸と真田大助が張り出されています。
 なぜ張出扱いにしたのか不明ですが、「軍師」に真田幸村と真田幸隆が書かれていることと合わせて、真田人気が偲ばれます。
 だって、真田大助って14歳だか16歳ですよね。異例です。

 などなど、江戸時代に、どのような武人がどのような存在とされていたのかを知る資料として、大変おもしろく眺められます。

2022年11月30日 (水)

明治31年の武者メンコ

 このようなものを入手しました。
M31musha01
 明治31年に発行された武者メンコです。
 薄い紙に印刷されていますので、購入者が厚紙に貼りつけて、切り離して使ったのでしょう。
 全部で36人の武者が描かれています。
 時代は八幡太郎義家から徳川家康の家臣達に及びます。
 そして、隣り合う者同士がライバルであったり親子であったりと関連付けられています。
 それぞれのペアは顔を向かい合わせています。

 バラバラに切り離されてしまえば、隣同士のペアを作っても意味ありませんね。
 あるいは切り離さずにこのまま眺めて楽しんだりもしたのかもしれません。

 ペアを何組かご披露します。

 八幡太郎義家と安倍貞任
M31musha02

 平将門と藤原秀郷
M31musha03

 木曽義仲と源義経
M31musha04
 義経の相手は平家の武将ではなくて木曽義仲になっています。
 平宗盛や源頼朝なども候補になりそうですが、しっくりこないかもしれませんね。
 敵同士でなくても良いので、弁慶という手もありそうです。
 弁慶は伊勢三郎と並んでいます。

 巴御前と和田義盛
M31musha05
 大河ドラマの2人の顔が思い浮かびます。
 木曽義仲の立場は……。

 平敦盛と熊谷直実
M31musha06
 フルネームでなく、「敦盛」と「熊谷」とだけあります。これで十分なのでしょうね。

 楠木正成と足利尊氏
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 武田信玄と上杉謙信
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 この2人は例外的に顔を向き合わせていません。

 山本勘助と直江兼続
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 軍師同士という位置づけと思われますが、直江兼続は立場と時代がズレるように思います。
 直江兼続も単に「山城守」で十分なのでしょうね。

 真田幸村と真田大助
M31musha10
 親子ですね。

 最下段には徳川家康とその家臣達が並んでいます。

2022年11月29日 (火)

『トランヴェール』11月号の特集は「常陸国。水の旅、川の旅」

 愛読している『トランヴェール』の11月号の特集は「常陸国。水の旅、川の旅」です。
Trainvert202211a
 先週の金曜日に前橋まで日帰り往復したときに入手しました。
 最初、タイトルは「『トランヴェール』最新号の特集は~」と書きそうになりましたが、明日は30日。もうすぐ12月号に変わりますね。

 常陸国を中心とした地域の太古からの変遷が模型で示されています。
Trainvert202211b
 「ブラタモリ」を思い浮かべました。
 長期間の間にずいぶん大きな変遷をしていますね。

 今から1000年前の推定地図が載っていました。
Trainvert202211c

 今の地図も載っています。
Trainvert202211d

 両者を比べると、1000年前はかなり水浸しですね。
 常陸国風土記の時代もこの地図に近いものだったのではないでしょうか。
 常陸国風土記を読むときにはこの地図を参照すべきものと思います。

 平将門は、この1000年前の地図の左から1/3位の中央部にある「岩井」を本拠地にして、地政学上の要衝を押さえていた、との指摘もありました。
 それもまた重要な指摘と思います。

 難しいことですが、文献を読むときにはできるだけ当時の地形を知ることは大事ですね。

2022年11月27日 (日)

切り絵・郷土かるた「わたしたちの島根」

 このようなかるたを入手しました。
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 編集は島根県社会科教育研究会、絵は松本伴四郎氏です。

 島根県はかつての出雲国と石見国に当たります。
 まずは古代。
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 絵札の裏には解説が書かれています。たとえばこんな感じです。
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 この解説には書かれていませんが、鰐淵寺の観世音菩薩には持統6年(692)と考えられる造像記があります。
 文面は「壬辰年五月出雲国若倭部臣徳太理為父母作奉菩薩」です。

 中世から近代のもの。
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 新島守の歌は後鳥羽院ですね。「鎌倉殿の13人」。

 名産品と郷土芸能など。
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 このかるたには奥付がありませんが、いつのものかを知る手掛かりはあります。
 この2枚の札の解説です。
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 右の札の解説により、このかるたは昭和55年11月以降のものであることが知られます。
 また、左の札の解説によって、このかるたが作られた時には、安部栄四郎氏は存命だったことが分かります。
 安部栄四郎氏が亡くなったのは昭和59年12月18日です。
 ということで、このかるたの成立は、昭和55年11月から昭和59年12月18日までの間ということになります。

 狭い範囲に絞り込めると嬉しいです。♪

2022年11月18日 (金)

昭和6年の「名流花形大写真帖」(2)

 昨日の昭和6年の「名流花形大写真帖」の続きです。

 右ページは水谷八重子です。左ページはウテナクリームの広告ページで、水谷八重子が登場しています。
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 これは、水谷八重子を特別扱いしているのか、あるいはスポンサーのウテナを特別扱いしているのか。

 右ページは木村光子、左ページは山本安英です。
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 2人の解説は以下の通りです。
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 右ページは伊井蓉峰、左ページは喜多村緑郎です。
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 2人の解説は以下の通りです。
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 伊井蓉峰は昭和3年の「実録忠臣蔵」(マキノプロ)で大石を演じています。

 右ページは柳さく子、左ページは飯田蝶子です。
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 2人の解説は以下の通りです。
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 飯田蝶子は、私が子供の頃、いろいろなドラマにお婆さんの役で出演していました。
 映画俳優には、このように身長と体重が載っています。
 尺貫法です。貫で言われると、なんか重く感じてしまいます。(^_^)

2022年11月12日 (土)

今日の「ブラタモリ」は善光寺

 今日の「ブラタモリ」は善光寺でした。
 善光寺の立地や門前町のことにも触れていましたけれども、多くは善光寺そのものについてでした。
 こういうのは「ブラタモリ」では珍しいと思います。
 最後のところで、野口アナのお腹がグーと鳴ってしまったのを、撮り直さずにそのまま流していたのは「ブラタモリ」らしいと思いました。(^_^)

 善光寺には1度だけ行ったことがあります。
Zenkoji08

 平成27年(2015年)10月に萬葉学会が信州大学の教育学部で開催された折です。
 今から7年前、ご開帳の年でした。

 その折、ブログでも取り上げたのですが、歴代の回向柱の高さが謎でした。
Zenkoji09
 このように、歴代の回向柱が年の順に並んで建てられているのですが、古いものほど低くなっています。

 左側の新しいもの3本をアップにします。
Zenkoji10
 「維時 平成○○年~」の文字の高さが古いものほど低くなっています。
 つまり、これらの回向柱は古いものほど地中に沈んでいることになります。
 回向柱は、年を経るに従って、次第に自重で地中に沈んで行っている。
 なんて、そんなはずはありませんよね。
 古い回向柱は頭を叩いて地中に打ち込んでいるのでしょうかね。

 7年経っても謎が解けません。(^_^;
 「ブラタモリ」で取り上げて欲しかったのですが、出てきませんでした。
 次回は善光寺の2回目ではなくて、安曇野だそうです。

2022年11月 2日 (水)

「倭歌」をめぐって

 一昨日報道された「倭歌」木簡を大変興味深く思って、昨日、新聞記事をまとめてみました。
 取材されていた諸氏の解説も大変に参考になりました。

 ただ、瀬間さんの発言として「漢詩は遣唐使などを通じて、遅くとも7世紀には日本にもたらされた。」とありますが、ご本人は取材に対して「漢詩は亡命百済人を通じて盛んになった」と答えたのだそうです。
 ところが新聞紙上では「亡命百済人」が「遣唐使など」に変えられてしまっています。著者校正がありませんから、こういうことが起こってしまうのですね。
 新聞記者の知識の範囲で記事を書こうとするからこういうことになるのでしょう。困ったことです。

 この木簡の発見によって、漢詩に対する「やまとうた」という語が奈良時代の中頃に既に存在していたことが明らかになったわけで、非常に意味のあることと思います。

 私も「倭歌」木簡をめぐって少し考えてみました。

 順序として、旧国名「やまと」(現在の奈良県)の表記の変遷は次の通りと考えられます。
   倭(やまと)
  →大宝年間に国名を2字にするために「大倭」(よみは「やまと」か「おほやまと」)
  →天平9年(737)疫病の流行により「大養徳」
  →天平19年(747)「大倭」に戻す
  →天平宝字2年(758)頃「大和」(よみは「やまと」か「おほやまと」)。

 次に、国号の表記は古くは「倭」であったものが、天武朝または大宝年間に「日本」と改められ、大宝2年の遣唐使によって唐にも承認されたと考えられます。
 よみはやはり「やまと」です。
 「やまとたけるのみこと」の表記が、古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」であることは興味深いことです。

 国名「やまと」の表記は国号「やまと」の表記にも影響を及ぼします。
 「やまとうた」は古くは「倭歌」と表記されたはずで、これが「和歌」と表記されるようになるのは、国名「やまと」が「大和」と表記されるようになる天平宝字2年(758)頃以降のはずです。
 従って、これ以前に「和歌」という表記があるとすれば、その意味は「和(こたふる)歌」ということになります。

 和名類聚抄では国名「大和」に「於保夜万止(おほやまと)」と附訓していますので、この影響で「和」単独で「やまと」とよまれることもあったのでしょう。かつての「倭」を「和」に置き換えたという経緯もあって。

 日本を意味する「やまと○○」という語は、唐や新羅を意味する「から○○」に対するものですね。
 万葉集には「倭琴」という語が2例(七・1129番歌題詞、十六・3850左注)あります。「からごと」に対する「やまとごと」です。
 そしてもう1つ、大伴家持から送られた手紙と歌への、大伴池主の返書の中に「兼ねて倭詩を垂れ、詞林錦を舒(の)ぶ。」とあります。
 ここでは「倭歌」ではなく「倭詩」ですね。漢文なので、こういう語を用いたのでしょうか。

 万葉集には、日本に対する外国のものという意の「から○○」に、からあゐ(藍)、からうす(臼)、からおび(帯)、からかぢ(楫)、からころも(衣)、からたま(玉)などがあります。
 これらの語に対する「やまと○○」という語は特に用いられず、単に「○○」で用は足ります。
 日本の歌も、通常は「うた」といえば用は足りるので、これをことさらに「やまとうた」というのは、新聞記事で諸氏が指摘されているとおり、漢詩を意識してのものなのでしょう。

 「倭歌」に触発されて、つらつらと考えてみました。
 あまりまとまりませんが。

2022年10月23日 (日)

元禄11年の武鑑(3)将軍の偏諱

 先日2回に亙って取り上げた元禄11年の武鑑ですが、パラパラと見てゆくと、当主の名前に「綱」、嫡子の名前に「吉」字を含むものが目立つことに気づきました。
 たとえば、冒頭にある徳川綱豊もそうですし、尾張徳川家もそうです。尾張徳川家は以下の通りです。
Genroku11bukan11

 これについては、「綱」の字は四代将軍家綱か五代将軍綱吉の諱の1字を賜わったもの、「吉」の字は綱吉の諱の1字を賜わったものと思われます。

 ずっと見てみました。結果は以下の通りです。
  ○徳川綱豊
  ○尾張徳川綱誠 嫡子吉通
  ○紀伊徳川光貞 嫡子綱教
  ○水戸徳川綱條 嫡子吉孚
  ○松平綱近
  ○前田綱紀
  ○島津綱貴 嫡子吉貴
  ○伊達綱村 嫡子吉村
  ○細川綱利
  ○黒田綱政 嫡子吉之
  ○浅野綱長 嫡子吉長
  ○毛利吉広(萩36万9000石)
  □毛利綱元(長門長府5万石)
  ○鍋島綱茂(佐賀35万7000石)
  ○池田綱清(因幡32万5000石)
  ○池田綱政(岡山30万石)
---------------------------------------
  ×井伊直興(彦根30万石)
  ×藤堂高久(津32万3000石)
  ○蜂須賀綱矩(徳島25万7000石)
  ×松平正信(会津23万石)
  ×山内豊昌(高知22万2000石)
  ×有馬頼元(久留米22万石)
  ×佐竹義処(秋田20万5000石)
  ○上杉綱憲(米沢15万石)
   以下略。名に「綱」や「吉」を含む当主や嫡子はナシ。

 点線から上については、全ての大名家の当主や嫡子の名に「綱」または「吉」の1字が含まれます。
 紀州の徳川光貞の場合、「光」の1字は三代将軍家光の1字を賜わったものでしょう。
 長門長府の毛利綱元は萩の毛利家の分家でわずか5万石ながら「綱」の1字を付けています。
 この理由は分かりません。
 なお、余計なことながら、長府毛利家は赤穂浪士を預かった4大名家のうちの1家です。
 あまり待遇の良くなかった家。

 点線から下について。
 井伊家は30万石ですが、譜代大名のために賜わっていません。
 藤堂は32万石ながら賜わっていません。外様大名ながら譜代大名に準ずる位置づけなのでしょうか。
 蜂須賀家は25万7000石で「綱」の字を賜わっています。
 そんな中で、上杉家が15万石で「綱」の字を賜わっているのが例外的です。
 前回触れたように、この武鑑の段階では嫡子がまだ元服前ですが、元服後は綱吉から1字賜わって上杉吉憲となります。
 室町時代には関東管領家だったことで例外扱いされたのでしょうか。

 ということで、将軍の偏諱を賜わるのは、御三家・越前松平家とおよそ30万石以上の外様大名、ということが分かりました。
 近世史の研究者には周知のことかもしれません。
 ま、趣味と自己満足の調査です。

 貴人の偏諱を賜わるというのは、足利高氏が後醍醐天皇の御名「尊治」の1字を賜わって尊氏と変えた例などもありますね。

 逆の例に、
  光仁天皇の名の白壁を避けて、姓の白髪部(しらかべ)を真髪部(まかべ)とする。
  桓武天皇の名の山部を避けて、姓の山部(やまのべ)を山とする。
  平城天皇の名の安殿を避けて、紀伊国の安諦(あて)郡を在田郡とする。
  嵯峨天皇の名の神野を避けて、伊予国の神野(かみの)郡を新居(あらゐ)郡とする。
  淳和天皇の名の大伴を避けて、大伴宿祢を伴(とも)宿祢とする。
といった、平安初期の例があります。これはもうキリが無いので、平安初期だけで打ち止めになったと思われます。

2022年10月19日 (水)

元禄11年の武鑑(2)上杉、田村、真田

 昨日の続きです。
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 松の廊下の3年前に刊行された元禄11年の武鑑。

 思えば、当然のことながら、当時、3年後にあんな大事件が起きるなんて、誰も知る由もなかったわけで。
 浅野内匠頭さえ短気を起こさなければ、と思います。
 でも、本人にしてみれば、耐え難いことがあったのかもしれませんね。

 出羽米沢の上杉家のページ。
Genroku11bukan07
 当主は吉良上野介の子息である上杉綱憲です。
 綱憲の名前の下の家老の欄に千坂兵部の名が見えます。
 赤穂事件の時にはもう亡くなっていますが、元禄11年には存命です。

 左端に嫡子の上杉喜平次の名があります。
 この年に元服して上杉吉憲と名乗ります。
 三船の「大忠臣蔵」では、かの池田秀一が演じていました。

 浅野内匠頭が切腹した屋敷の主である田村右京大夫のページ。
Genroku11bukan08
 奥州一ノ関の田村家は3万石ですが、仙台伊達家の分家扱いとして、この武鑑に載っています。

 この武鑑の末尾には信州松代10万石の真田家が載っています。
Genroku11bukan09

 上欄の系図部の一部を抜き出します。
Genroku11bukan10
 真田昌幸の子として、信幸と幸村が載っています。
 幸村は本名信繁であるとされ、幸村は軍記物などの名であるとされています。
 系図部は当主を載せるのが基準ですので、幸村(信繁)は載せる必要はないにもかかわらず載せていますし、そればかりか幸村の子息の大助まで載っています。
 武鑑は官製のものではなく、民間企業の刊行したものですので、例外的にあえて人気の幸村父子を載せたのでしょう。

 この本には刊記がありません。
 また、10万石以上の大名だけを載せるというのも妙ですので、このあと、第2冊以降があるのでしょう。刊記は最終冊の末尾にあるのではないかと思います。

2022年9月25日 (日)

オンベレブンビンバ

 今日のNHK大河「鎌倉殿の13人」のタイトルは「オンベレブンビンバ」でしいた。
 大河には珍しいカタカナのタイトルですし、意味不明なので、ネットでも話題になっていました。
 正解は今日の番組で明かされました。
 北条時政がかつて大姫が唱えていた真言を間違って憶えていたのでした。

 間違えって。(^_^;

 これが、北条一家の最後の晩餐となるわけですね。
Onbere
 この席には、りくだけでなく、泰時ものえもいません。昔からのメンバーです。
 でも、かつての大姫がいたときからはだいぶ減ってしまっています。

 和田さんちでは「武衛」まで登場して。

 平六は本当に喰えない奴です。(^_^)
 りくは平六を分かっていません。

 あ、大姫の真言について、皆が皆、自分の憶えている言葉を言っていましたが、正解は長沢まさみが冷静なナレーションで示した「おんたらくーそわか」でした。正解はなし、というか全部かなり違っていました。

 でも、ネットで出されていた、イタリア語で「ombre per un bimbo」「Ombre Banbinba」(意味は「子供のための影」)というのも正解なのではないかと思います。
 鎌倉殿の毎回のタイトルは2つの事柄を兼ねていることが多いですから。
 油断のならない三谷幸喜。

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