歴史

2019年5月25日 (土)

九州女子大学・九州共立大学で上代文学会

 今日・明日は、2019年度の上代文学会の大会です。
 
 鹿児島本線の折尾駅で降りて会場校に向かって歩いて行くと、会場校の手前に地下歩道がありました。歩道には壁画が。
Jodai2019e
 会場校の学生さん達の作品でした。
Jodai2019f
 こういう地域貢献は良いことと思います。

 会場校の門。大変に良いお天気でした。
Jodai2019g
 会場のある建物。
Jodai2019h
 学会挨拶。代表理事の品田悦一先生。
Jodai2019i
 会場校挨拶。教育機構副長の中島久代先生。
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 新元号「令和」がらみで、大宰府のことや、大学の校章が梅の花であることなどにも触れられました。

 工藤浩先生の講演。演題は「大嘗祭に関する二、三の問題」。
Jodai2019k
 佐藤隆先生の講演。演題は「大伴家持とその意匠ー「白」への関心ー」。
Jodai2019l
 このあと懇親会が開かれ、第1日目は無事に終了しました。

2019年5月 9日 (木)

シンポジウム「新田源氏研究の最前線」

 明後日、第37回の群馬学連続シンポジウムが開催されます。テーマは「新田源氏研究の最前線」です。もっと早くお知らせすれば良かったです。
Gunmagaku37a
 趣旨は以下の通りです。
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 「上毛かるた」に「歴史に名高い」と詠まれる新田義貞は、群馬県で最も有名な歴史上の人物です。群馬県人は新田義貞のことを、「鎌倉幕府を倒した源氏の嫡流」と顕彰する一方で、「足利の後塵を拝した愚直な武将」と惜しむ心性を少なからず持っていますが、それは歴史の断片を捉えたに過ぎません。そもそも、「歴史に名高い」の意味は、それが詠まれた70年前と現在とで、はたして同じなのでしょうか。
 本シンポジウムでは、「新田源氏の名門意識が700年の武家社会の中で生き続けたのはなぜか」ということについて、一線の研究者から最新の知見を引き出すとともに、新田源氏のブランド力の意味と価値について県民と意見を交わし、群馬の文化的ポテンシャルの発見とその活用を展望します。
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 群馬県立女子大学の講堂は工事中とのことで、会場は学内ではなく、玉村町文化センターです。

 現在、群馬県立歴史博物館で次のような展覧会が開催されています。
Gunmagaku37b
 これとコラボです。同じ県立の施設同士の連携、良いことと思います。
Gunmagaku37c
 私はこの日、午前中から午後に掛けて高崎で仕事なので、開始時刻の13時には行けません。遅れて行くか、行かないか、思案中です。

2019年5月 2日 (木)

令和最初の買い物は

 一昨日のブログで、平成最後の買い物は近所のスーパーで、令和最初の買い物も同じスーパーでということになろう、と書きました。
 ところが、昨日、スーパーに行く前に、レターパックと宅配便が届き、そちらが令和最初の買い物となりました。
 ま、支払いは平成の内に済んでいるものと、これから振り込むものとがありますので、なかなか微妙ではあるのですが。(^_^;

 八木書店に直接注文していた本。
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 ネットオークションで落札した品。
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 同じく。
Reiwahatsu02
 ということで、キーワードは、飛鳥、奈良、木簡、古地図、忠臣蔵、ですね。
 全く期せずして、これらが令和最初の買い物となりましたが、今後もこれらの路線の買い物が続くことでしょう。なかなか象徴的な3点でした。(^_^)

 「奈良名勝案内図」は昭和3年の発行です。同じ地図で大正14年のをすでに持っていますが、わずかに違いがあるようです。3年のうちに変化した部分が早速反映されたのか、あるいは旧版の誤りを新版で訂正したのかは分かりません。じっくりと比べてみるのも楽しそうです。

 「義士始末記」という作品は知りませんでした。島田正吾が内蔵助なのかと思いましたが、ググってみたら、荻生徂徠でした。以下、ググって知った結果です。

 この作品は昭和37年大曾根辰夫監督作品です。入手したポスターには「後篇」とありますが、「義士始末記」に前後篇があるのではなく、昭和32年に同監督が製作した「大忠臣蔵」を短縮再編集して「仮名手本忠臣蔵」と改題したものを「前篇」とし、それに対しての「後篇」だそうです。

 内容は、討ち入りのあと、浪士達の処分を巡って将軍綱吉は苦慮します。荻生徂徠は、世間の浪士達に対する賞賛・同情の思いに背を向け、情よりも法を重んじて切腹を主張します。

 この徂徠の周囲に、徂徠が貧しかった頃に面倒を見てくれたおかつ(岡田茉莉子)や、関係性はよく分かりませんがおしま(岩下志麻)がいます。おかつは浪士の1人である間新六の姉、おしまは同じく浪士の1人中村勘助の恋人という設定です。おかつもおしまも、浪士の切腹を主張する徂徠をさぞ恨んだことでしょう。さんざん悪態をついているかもしれません。岡田茉莉子や岩下志麻からなじられたらどんなにか怖いことでしょう。(^_^;

 徂徠を主人公にした忠臣蔵外伝ということで、ユニークですね。興味深く、ぜひ見てみたいものです。

2019年5月 1日 (水)

梅花の歌三十二首序の口語訳

 新元号「令和」が万葉集の梅花の歌三十二首の序から採られたことで、にわかに万葉集ブームが起きています。私のところにも講演依頼が来ています。この序文、ちゃんと読んだことがなかったのに。(^_^;
 ということで、ここのところ、諸注釈を読みながら、この序文についてあれこれ考えています。
 諸注釈の間で、訓読や口語訳の内容に大きな差はありません。「言いまわし」レベルの違いといえましょう。異論の出る余地はあまりないのでしょうね。
 私も諸注釈の訓読や口語訳にはよく納得でき、疑問を差し挟みたくなる部分はありません。
 いずれかの口語訳に依ってしまっても良いようなものですが、やはり借り物でなく、自分の言葉で訳さないとしっくりきません。そこで、自分なりに口語訳を付けてみました。「言いまわし」が違うといった程度の口語訳を1つ増やすだけで、屋上屋を架す(「あるいは屋下屋を架す」か)ようなものですが、一応。

 対句が多用されていますので、本文はそれを意識して改行しました。外字が2字あり、〓で示します。

【本文】
 梅花謌卅二首 并序

天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴会也
于時 初春令月 気淑風和
 梅披鏡前之粉
 蘭薫珮後之香
加以
 曙嶺移雲 松掛羅而傾蓋
 夕岫結霧 鳥封〓而迷林
 庭舞新蝶
 空帰故雁
於是
 蓋天坐地
 促膝飛觴
 忘言一室之裏
 開衿煙霞之外
 淡然自放
 快然自足
 若非翰苑 何以〓情
 詩紀落梅之篇
 古今夫何異矣
 宜賦園梅聊成短詠

【訓読文】
 梅花の歌三十二首 序を并せたり

天平二年正月十三日、帥(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まり、宴会(うたげ)を申(の)ぶ。
時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やは)らぐ。
梅は鏡前の粉(ふん)を披(ひら)き、
蘭は珮(はい)後(ご)の香(かう)を薫(かを)らす。
加之(しかのみにあらず)、
曙(あけぼの)の嶺に雲を移し、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、
夕(ゆふべ)の岫(くき)に霧を結び、鳥は〓(うすぎぬ)に封(とざ)されて林に迷(まと)ふ。
庭には舞ふ新(しん)蝶(てふ)あり、
空には帰る故雁あり。
ここに、
天を蓋(きぬがさ)とし地を坐(しきゐ)とし、
膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。
言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、
衿(ころものくび)を煙(えん)霞(か)の外(ほか)に開く。
淡(たん)然(ぜん)として自(みづか)ら放(ほしきまま)にし、
快(くわい)然(ぜん)として自(みづか)ら足(た)る。
若(も)し翰(かん)苑(ゑん)に非(あら)ざれば、何を以(もち)てか情(こころ)を〓(の)べむ。
詩に落梅の篇を紀(しる)す。
古今それ何ぞ異ならむ。
宜(よろ)しく園(ゑん)梅(ばい)を賦(よ)みて、聊(いささ)かに短(たん)詠(えい)を成すべし。

【口語訳】
 梅花の歌三十二首 序文を加えた

天平二年正月十三日、大宰帥の老の屋敷に集まって、宴会を開く。
折しも、初春の良い月で、大気は澄んで風は穏やかだ。
梅は、鏡台のおしろいのように白く咲き、
蘭は、玉佩を着けた人とすれ違ったときのように薫る。
さらには、
明け方の峰には雲がたなびき、松は薄物を纏って傘を差し掛けたようであり、
夕方の山の洞からは霧が湧き立ち、鳥は霧の帳に閉じ込められて林の中を飛び迷う。
庭には春に生まれた蝶が舞い、
空には去年の秋に来た雁が帰ってゆく。
ここに、
天空を傘とし、大地を敷物としてくつろぎ、
膝を寄せ合って、盃を巡らせる。
一堂に会して、内には言葉も忘れるほどに打ち解け、
外には良い景色に向かって襟をくつろげる。
心は淡々として自由であり、
気分は快く満ち足りている。
文筆以外の何によってこの思いを述べ尽くせようか。
昔の中国には落梅の漢詩がある。
昔と今と、中国と日本と、何の違いがあろうか。
さあ、この庭園の梅を短歌によもうではないか。

 以上です。御批正賜ればと存じます。

 蘭亭序や帰田賦に依った部分のあることはすでに指摘されているとおりですが、文末近くの箇所には、六朝時代等に作られた中国の梅の漢詩が意識され、われわれも、それに倣って、梅の和歌を読もうではないかと言っています。

 梅は中国渡来の植物であり、場所は外国への窓口である大宰府、その地でこういった趣旨の催しを行ったわけですから、「国書」である万葉集の中では、とりわけ国際的な意味合いを持った部分と思います。内向きでなく、国際交流を意識した元号と捉えたら良いのではないでしょうか。

 同じく末尾近くに、この思いを表現する手段として文筆以外にないという文言も、文学重視という意味で好ましく思います。古今集仮名序とも通じますかね。

 梅花の宴は長屋王の変からまだ1年経っていませんね。旅人の讃酒歌は武智麻呂等への鬱憤をうたったものと考えて良いのでしょうが、梅花の序はどう考えたら良いでしょうかね。
 1.長屋王の変とは全く無関係
 2.武智麻呂等への憤りの気持ちはあるが、今日1日は、それを忘れてこの催しを楽しみたい
 3.陰謀渦巻く都の淀んだ空気の中で暮らしている連中と異なり、我々はさわやかな空気の中で風雅に高潔に生きて行きたい

 さて?
Kanbarahakubai

2019年4月28日 (日)

「いが越なら大和廻り順案内図」

 ネットオークションでこのようなものを入手しました。
Igagoenara01  
 興味を持ったきっかけは、左上に「大阪」と書いてあったことです。
 この地名は、江戸時代には「大坂」と書いていたのが、明治になってから、「坂」の字を分解すると「土に反る」となることを嫌って、土偏をこざと偏に変えて「阪」と書くようになったと、(かなり曖昧に)そう理解していました。

 ところが、この絵図は、江戸時代風でありながら、「大阪」とあったので、そこに興味をおぼえました。

 上の画像は小さすぎてよく分かりませんね。
 奈良県の部分を拡大します。
Igagoenara02
 「なら」から南下すると、「おびとけ」「丹波市」「柳本」を経て、「みわ」に至ります。そこから西へ「あべ」「あすか」「おか寺」「立花寺」「神武天皇」となります。「みわ」から「おか寺」へは「たうのみね」を経由する道もあります。
 これまで、いくつかご紹介してきた絵図や道中記でもおなじみのルートですね。岡寺・橘寺・神武天皇とくれば、また例の久米寺前の道しるべが思い起こされます。
Kumedera01
 神武天皇陵が載っているところを見ると、この絵図は江戸時代のものではなく、明治になってからのものなのでしょう。

 あちこち眺めているうちに、こんな記述に目が留まりました。
Igagoenara03
 冒頭は「此所ながの峠」でしょうか。この文の5行目と最後の行に「トンネル」とあります。この古びた絵図と「トンネル」という語とが何ともミスマッチです。
 この文章の3行目を、最初「昭和十七年十一月」と読んでしまいました。いや、なんぼ何でもそこまで新しくはなかろうと思い、この記述は後からの加筆かと思いましたが、ちゃんとトンネルの絵が描いてありますので、加筆ではありません。よくよく見ると、「昭和十七年」ではなくて、「明治十七年」のようでした。(^_^;
 とすると、この絵図は明治十七年以降のものということになりましょう。その時代でもまだこのような江戸時代風の絵図が作られていたのですね。

 三重県のHP(県史編さん班担当部分)によれば、このトンネルが掘られたのは、津と伊賀上野とを結ぶ伊賀街道「伊賀越え奈良みち」の長野峠の部分で、明治十三年に工事を開始し、明治十八年六月竣工とのことです。絵図の記述とは半年ほどズレます。
Igagoenara04
 そういった疑問点は残るものの、あれこれ興味深いです。
 同時代資料は楽しい、という、またいつも通りの結論に達します。(^_^;

2019年4月27日 (土)

長壁神社をゆく

 昨日は、前橋での仕事のあと、別件で群馬県庁の西側に行きました。そちら方面に行くのは初めてでした。長壁(おさかべ)神社という神社があったので、寄りました。
Osakabe01
 境内には解説板はありませんでしたので、帰宅してからググってみました。

 この神社の祭神は長壁姫で、もとは姫路城の天守閣内に祀られていたのだそうです。
 ところが、この地を治めていた姫路城主の松平朝矩が前橋に転封となり、寛延2年(1749)、長壁姫を前橋に伴って引越しました。
 その際、長壁姫は前橋城内には祀らず、城の未申の地に祠を建て、そこに祀ったのだそうです。
 本丸に入れて貰えなかった長壁姫は怒り、利根川を氾濫させて、前橋城の本丸の一部を押し流してしまいました。ここに住めなくなった松平朝矩は、明和4年(1767)に分領であった川越に移ることになります。
 この時、朝矩の夢枕に長壁姫が立ち、一緒に川越に連れて行ってくれるように懇願しますが、朝矩がそれを断ったために、翌年、朝矩は31歳の若さで没したとのことです。

 祟りの力が強力ですね。
 その後、松平家は赤字が続き、莫大な借金を抱えることになった一方、長壁姫が鎮座している前橋の町は生糸産業の繁栄で好景気に沸いたそうです。

 明治になっても利根川は度々氾濫するので、明治31年(1898)、長壁姫を前橋東照宮に合祀したとのことです。
 ということで、現在の長壁神社の本殿は空き家ということになりましょうか。

 社殿の裏側にはお稲荷さんが祀られていました。
Osakabe02
 土製の狐がたくさん並んでいました。
Osakabe03
 これを見て豪徳寺の招き猫を思い出しました。
Gotokuji13
 長壁姫が合祀されている前橋東照宮には去年行きました。
Maeto09
 この神社の社務所は近代的な建物です。
Maeto01
 そこの窓ガラスにこう書かれています。
Osakabe04
 長壁様と書いてありますね。
 なぜ安産祈願なのかはよく分かりませんが、前橋東照宮には、菅原道真と木花咲耶姫も合祀されています。木花咲耶姫には火中出産の神話がありますので、それと安産祈願とは結びつきそうです。このあたりで混線が生じたのかもしれません。

2019年4月 1日 (月)

新元号は「令和」

 新元号、「令和」に決まりましたね。
Reiwa  
 まず違和感を覚えました。「和」はよく元号によく使われる文字ですが、「令」はたぶん初めてなので、それで、元号っぽくないと感じたのかもしれません。

 国書から採る可能性もあるということで、六国史、特に日本書紀と続日本紀とが念頭にありましたので、万葉集というのは意表を衝かれました。

 文系の学問や国文学が軽視される世の中で、文学や万葉集に関心を持つ人が増えてくれたら幸いです。ま、時の経過とともに、令和の典拠が万葉集だということは意識されなくなって行くと思いますが。(^_^;

 今まで、授業や講座などで梅花の宴三十二首の歌を扱うことはありましたが、大体32首のうちの何首かを選んで読む程度で、序はスルーしていました。ちゃんと読み直さねばと思います。(^_^;

 新元号の誕生を2回経験できたのは幸いでした。30年前、「平成」に決まったとき、音の響きの点では、「へーせー」というのは何か空気が漏れるような、力が抜けるような感じで、あまり良いとは思いませんでしたが、時が経つにつれて、次第に慣れてきたせいか、歳をとったせいか、段々好ましく思うようになってきました。いまは良い元号と思っています。

 一方、「令和」は音の響きの点では堅い感じがします。30年前だったら良いなと思ったかもしれませんが、歳をとった今では、ゆるい響きが好みです。(^_^)

 新元号、「れいわ」「りょうわ」両様の読みが可能なのが難ではありますね。後世、きっと分からなくなると思います。幕末の年号でも、元治って、「げんじ」か「がんじ」か迷います。

 昭和と「和」の字がかぶりますね。数百年後、「□和元年」という風に「和」の1字前が欠けた平成前後の木簡が発掘されたとき、昭和か令和か決定できないという問題が生じますけど、ま、今どきは木簡を使わないので、そういう心配はありません。(^_^)

 全く別の観点からは、「令」の字って、手書きの場合と明朝体とで形が違いますよね。書き取りの時に、活字と同じ形でないと×を付けるような不適切な指導が一部では行われているようですが、これをきっかけに、どちらでも良いのだということが普及するように願っています。

 今のところ、そういった感想です。

 万葉文化館や万葉歴史館にはマスコミからの問い合わせや感想を求めるメールや電話が殺到していることでしょうね。しばらく大変そう。

 私のところには、昔の卒業生から、「先生のことを思い出した」というメールが届きました。(^_^)

2019年3月 5日 (火)

谷中の全生庵

 3日前に千駄木の団子坂下に行ったことを書きました。団子坂下の交差点から谷中に向かって歩いて行くと、左側に全生庵という臨済宗のお寺があります。
Zenshoan01
 ここには、山岡鉄舟、三遊亭円朝、弘田龍太郎の墓があるというので、境内に入ってみました。

 山岡鉄舟の墓。
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 賛碑。
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 解説板。
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 三遊亭円朝の墓。
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 追悼碑。
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 解説板。
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 弘田龍太郎の墓。逆光になってしまうので斜めからの撮影になりました。
Zenshoan04
 曲碑。「叱られて」の楽譜が刻まれています。
Zenshoan09
 解説板。
Zenshoan10

 境内に金の菩薩像がありました。
Zenshoan11

2019年3月 4日 (月)

明治12年の「新撰早繰年代表」

 先月、「安政3年の年忌早見盤」という記事をアップしました。
Kaikihayami01
 類は友を呼ぶではありませんが、似たようなものを入手しました。今度のは明治になってからのもので、円盤形の年表といった感じです。
M12hayakuri01
 これも中央部に回転式の円盤があります。
M12hayakuri02
 円盤の外側の一番若い数字は「一」です。そこをスタートに、反時計回りに螺旋状に内側に向かって数字が大きくなります。▲1つが100です。印刷してある最も大きな数字は「▲▲▲七十六」すなわち三百七十六で、そのあとに空欄があり、そこに朱で4年分の追記があります。

 使い方は次のようになります。
M12hayakuri03
 上の図で、一番下に白抜きで「己卯」とあります。その1つ内側が明治12年です。中央部の回転円盤の「一」をこのマス目に合わせます。1周60年ですので、1つ内側は60年前、2つ内側は120年前ということになります。土台の方も、一番外側が明治12年ならば、その1つ内側は60年前で文政2年ということが分かります。

 最も古い年は永正元年(1504)です。明治12年(1879)の375年前に当たります。多くの年には、その年のできごとが簡単に記されていますので、略年表として使えます。

 構造は安政3年のものと同様ですが、ぱっと見でも両者はずいぶん違います。

 記事は、例えば次のように、元和元年には「大阪落城」とあり、翌2年には「家康公薨」とあります。
M12hayakuri04
 もう明治の世になっていますが、家康は「公」と待遇しています。

 そればかりか、文化12年には「神君二百年御忌」とあり、神君扱いが続いています。
M12hayakuri05
 マス目が大きくないので、上のように、明治8年の条には「去年大阪神戸ノ間気車出来」とあります。明治7年の条には他の記事が入っているために余白がなく、8年のマスに「去年」として記載しています。

 家康と異なり、信長と秀吉は呼び捨てです。
M12hayakuri06
 なかなか興味深いです。

 元禄15年には「義士四十一人夜討」とあります。
M12hayakuri07
 「四十七士」って、当時誰もが知っていたでしょうに、うっかりしたのでしょうかね。(^_^;

2019年2月11日 (月)

明治13年の『万国史略字引』

 こういうものを入手しました。
M13bankokushiryaku01
 明治13年の刊行です。
M13bankokushiryaku02
 書名は、以前当ブログでも同種の例を取り上げましたように、『万国史略』という別の本があって、その「字引」ということになりましょう。「字引」は、その書籍の中に出てくる語の読みや簡単な意味を記したもの、といった意味です。

 『万国史略』というのは世界史の教科書でしょうね。

 巻頭部はこうなっています。
M13bankokushiryaku03
 表紙題簽に「両点」とありますが、これは、語の右にふりがな形式でその語の音が示されているのと、語の下に訓または意味が示されているのと、その両方を指して「両点」と言っているものと思われます。

 このページの最後の行にある「交通」などは、読みは簡単でしょうから、下にある「ヨシミヲムスブコト」という注記が眼目なのでしょう。

 「漢土」の部は詳細で、唐とか元とか、そういった王朝ごとに項目が立っています。
M13bankokushiryaku04
 上のページには、劉備や諸葛孔明の名が見えます。後ろから3行目にある「私」の「ハタクシ」という表記に興味を惹かれました。「ワタクシ」を「ハタクシ」と書いています。語中語尾ならともかく、語頭における「ワ」を「ハ」と書いていますね。仮名遣の混乱ということでしょうか。

 国別の分量の内訳は以下の通りです。数字はページ数です。

 漢土:28
 印度:1.5
 波斯(ペルシャ):1.4
 亜細亜土児其(アジアトルコ):3.9
 希臘(ギリシヤ):2.3
 羅馬(ラウマ):7.3
 人民ノ移転:1.5
 仏蘭西(フランス):7.9
 英吉利(イキリス):2.3
 独逸(ドイツ):3
 瑞西(ズーイス):1.4
 和蘭(ヲルランド):1.4
 嗹馬(テンマルク):2
 西班牙(スベイン):3.3
 以太利(イタリア):3.5
 土児其(トルコ):0.6
 露西亜(ロシヤ):1.4
 亜米利加洲:1
 合衆国:2.1

 漢土が群を抜いて多く、28ページあります。第2位の仏蘭西(フランス)7.9ページの3.5倍以上です。次いで羅馬(ラウマ)の7.3ページ、亜細亜土児其(アジアトルコ)の3.9ページ、以太利(イタリア)の3.5ページ、西班牙(スベイン)の3.3ページとなります。

 漢土が多いのは、歴史が長かったり、わが国に及ぼした影響が大きかったり、という理由もあるでしょうが、ふりがなを振るべき人名が多いということもありそうです。欧米の場合、国名は漢字表記ですが、人名は出てきません。『万国史略』で、欧米の人名はカタカナで表記されているのかもしれません。このあたり、国会図書館のデジタルライブラリなどで、『万国史略』を見てみれば良いのでしょうけど。(^_^;

 フランスの項はこのようになっています。
M13bankokushiryaku05
 語に関しては、最後の行の「豪猛」に付いている「タケシキ」という訓に興味をおぼえました。今なら「タケキ」となるところでしょう。

 内容的には、5行目からの「一女子」「民間」「義兵」「勝利」「焚殺」という箇所、ジャンヌダルクでしょうね。

 あれこれ興味深いです。

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