歴史

2018年11月29日 (木)

洗足池をゆく(5)地理編/完

 洗足池の南東にある御松庵の境内、日蓮上人の袈裟懸け松の近くに馬頭観音像があります。
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 光背の裏に年紀があります。
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 「天保十一子年□月大安日」と読めます。残念ながら□は読めません。一から十までの何れかの漢数字が入るのでしょうが、どれも違うようです。今度行った時にじっくりと見てこようと思います。

 社寺編に載せた千束八幡神社の狛犬の年紀は「天保八丁酉年九月大安日」でした。干支の示し方が異なるだけで同じ書式です。共通しているとみるか、あるいは当時はこれがごく一般的な書式だったのか、知識がなくて分かりません。

 馬頭観音像の下は4面すべて道しるべになっています。

 正面には「北 堀之内/碑文谷道」とあります。
Senzokuike45
 馬頭観音像は南面していますので、道しるべの向こう側が北になります。
 碑文谷は洗足池のすぐ北に目黒区碑文谷があります。
 堀之内は普通名詞的固有名詞であちこちに多数存在しますが、どうも現在の杉並区堀ノ内ではないかと思います。洗足池からは北北西に直線距離で10kmほどあります。
 ここからはやや遠いですが、なぜこの堀ノ内と考えたかというと、ここには妙法寺という日蓮宗の寺院があり、そこに安置されている祖師像が厄除け祖師像として信仰を集め、落語「堀の内」の題材にもなるなど著名な寺院であったこと、そしてこの祖師像は碑文谷の法華寺から移されたものであること、などによります。

 西側の面には「東 江戸中延」とあります。
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 江戸は確かに洗足池からは東に当たります。
 中延は、洗足池の少し東に品川区中延があります。

 北側の面には「南 池上/大師」とあります。
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 池上は、池上本門寺のことでしょう。洗足池の南南東にあります。
 大師は、川崎大師のことでしょう。洗足池の南です。

 東側の面には「西 丸子稲毛」とあります。
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 丸子は、川崎市中原区に丸子という地名がありますので、そこかと思います。方角は洗足池からは南西に当たります。
 稲毛は、鎌倉時代以降、今の川崎市北部が稲毛領または稲毛荘と呼ばれたそうですので、あるいはここかと思いますが、方角的には洗足池から南ないし南西に当たります。

 解説板があります。
Senzokuike44
 千束の馬医者や馬主がこの供養塔を建てたということは、道しるべのさらに下の台座に書かれています。

 また、解説板の最後には、この供養塔は本来の場所から平成13年に現在地に移されたとあります。本来安置されていた場所は、中原街道と碑文谷-池上間の道との交差点付近と推定されています。

 たまたま持っていた明治時代の地形図を載せます。
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 明治14年測量、明治20年発行、明治24年再版です。洗足池のすぐ南沿いの道が中原街道、洗足池の西を南北に通っている道が碑文谷-池上間の道です。前の所有者が青く塗っています。青い道を北に進めば碑文谷です。池上は、青い道と中原街道との交差三叉路の少し東側を南南東に進んだ先です。

 この地図は半年ほど前にネットオークションで入手しました。昔住んでいた地や今住んでいる地、その他、よく行く場所などが収録されているので、興味を持って入手しました。思いがけず役に立ちました。(^_^)

 供養塔が建てられたのは天保11年ですので、この地図とは時代差がありますが、それでも、天保11年は1840年、明治14年は1881年。その差は41年しかありません。天保というとかなり明治に近いですね。地形もあまり大きくは違っていないのではないでしょうか。

 洗足池の南、中原街道に面した地に中原街道改修記念碑が建っています。
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 大正12年4月のものです。関東大震災でも倒壊しなかったようです。

 洗足池全体の案内図です。
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 明治の地図では、池の西側が細長く外側に張り出していますが、それが今では消えてしまっています。埋め立ててしまったのでしょうか。

 明治の地図では、今の御松庵が「柳松庵」となっています。名前が変わったのでなければ、明治の地図は誤記ですね。同時代資料は楽しいですが、正しいとは限りません。(^_^) それもまた楽しいです。

 洗足池の探訪記、5回に及びました。長々とお付き合い頂きましてありがとうございました。季節によって、特に植物は見どころも変わると思います。いずれまた洗足池を取り上げようと思います。

2018年11月28日 (水)

洗足池をゆく(4)歴史編

 千束八幡神社の近くに馬の像があります。
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 碑に「名馬 池月之像」とありますように、宇治川の合戦の先陣争いの折に、佐々木高綱が乗った池月の像です。

 像のアップ。
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 由来を記した銘板があります。
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 ということで、この地は池月の出身地とされています。

 千束八幡神社の社殿脇には池月の絵馬が奉納されていました。
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 千束八幡神社前の橋の名は池月橋です。
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 時代は遥かに降って、明治になると、勝海舟がこの地を気に入り、別邸を建てました。昨日ご紹介した御松庵の近くです。
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 海舟は、歿後この地に葬られました。海舟の墓石と奥さんの墓石とが仲良く並んでいます。
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 遡る明治12年、西南戦争で歿した西郷隆盛の三回忌にあたり、海舟は私費で隆盛の詩碑を今の葛飾区に建てます。この詩碑は大正2年の荒川の開削工事に伴い、海舟の墓の近くに移築されました。
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 江戸無血開城を成し遂げた勝・西郷の偉業を称えた徳富蘇峰の詩碑が昭和12年に建てられ、隆盛の詩碑のすぐ側にあります。
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 海舟の別邸のあった付近に勝海舟記念館が建てられるようで、建築中でした。
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2018年10月19日 (金)

「ニッポンの名字」

 久し振りに日本郵便のサイトを訪問したら、「ニッポンの名字」というページがありました。
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 既にご存知の方もいらっしゃることと思います。
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 名字を入れて検索するとその名字の人数等が出てきます。「名字の由来」については書かれているものとそうでないものとがあります。日本の名字と郵便局との間にはあまり関係はなさそうですが、どうも、年賀状の販売拡大に繋げようという意図があるようです。

 「北川」でやってみました。
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 全国に10万2000人ほどいるそうです。

 順位なども書いてあります。
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 上位の県別の人数も。
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 滋賀県が一番多いようで、私の祖父も滋賀県出身でした。大阪と東京の人数が多いのは人口自体が多いからでしょうね。

 父方の祖母が「柊谷」という名字で、そこそこ珍しいのではないかと思って試してみました。
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 なんと全国で60人ほどだそうで、「天然記念物級」とのことです。それほどまでとは思いませんでした。
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 奈良県が2位です。祖母も三輪山の麓の出身でした。

 あれこれ遊べます。(^_^)

2018年10月16日 (火)

群馬HANI-1グランプリ結果発表

 7月にご紹介した「群馬HANI-1グランプリ」の結果発表が14日にありました。2日経ってしまいましたが、ご報告します。投票総数は59,261票だったそうです。
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 第1位 笑う埴輪      7,969票
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 第2位 ぐんまちゃん埴輪 5,536票
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 第3位 楯持ち人埴輪   4,982票
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 第4位 馬に乗る人     3,338票
 第5位 三人童女      2,285票
 第6位 人面円筒埴輪   2,209票
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 第7位 ぶじんくん     2,130票
 第8位 塩顔埴輪      2,115票
 第9位 武装男子埴輪   2,114票
 第10位 琴弾男子像    1,777票
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 結果を見ると、個性的な埴輪が上位を占めているように思います。また、埴輪のネーミングも票に繋がったのではないかと思います。特に「ぐんまちゃん埴輪」(^_^)

 こういうイベントは楽しいです。そして、これを通して古代に関心を持ってくれる人が増えたら幸いです。

2018年10月13日 (土)

能登立国1300年

 『西Navi北陸』という雑誌があります。以前、一度だけご紹介しましたように、北陸新幹線の座席に置いてある月刊誌です。この雑誌の今月号の特集は「能登立国1300年、お宝拝見!」です。
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 平城遷都1300年以来、あれこれの「○○1300年」が登場しますね。古事記1300年(2012)、多胡碑1300年(2013)、養老改元1300年(2017)、大伴家持生誕1300年(2018)など。能登立国1300年は知りませんでした。家持(推定)と同い年ですね。

 2020年は日本書紀1300年ですが、何かと話題の東京オリンピックと重なってしまいましたね。不運。

 その後で、広く一般にもアピールし得る1300年は、大仏開眼1300年でしょうか。2052年です。あと34年。私はちょっと無理そう。(^_^; ま、2000年というミレニアムを体験できましたので、満足です。←とは言ってみたものの、ミレニアム、あまり関心ありませんでした。(^_^)

 話を戻して、特集ページの冒頭です。
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 解説部分のアップ。
Nishinavi201810c
 越前国から羽咋郡・能登郡・鳳至郡・珠洲郡の4郡を割いて能登国を分置したわけですが、これら4郡は万葉集の末4巻に登場するように、家持が越中守だった頃は越中国の領域になっていました。

 経緯を『国史大辞典』から列挙してみます。

 1.大宝2年(702)、越中国から頸城郡・魚沼郡・古志郡・蒲原郡を越後国に移管。
 2.養老2年(718)、越前国から羽咋郡・能登郡・鳳至郡・珠洲郡を割いて能登国を分置。
 3.天平13年(741)、能登国越中国に併合。
 4.天平宝字元年(757)、能登国を再び分置。
 5.弘仁14年(823)、越前国から加賀郡・江沼郡を割いて加賀国を分置。

 魚沼産コシヒカリで有名な魚沼郡など、今の新潟県西部は古くは越中国だったのですね。

 1~5を図にしてみました。
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 左上が1、上中央が2、右上が3、左下が4、右下が5となります。

 この図は、今日のこの記事のために作りました。(^_^) ブログ命です。ま、今後、講座や講演で家持を対象にするときに使えるかもしれません。

 国が細分化されていっており、それに伴って越前国がどんどん小さくなっていますね。

 能登国越前国から分かれたのに、天平13年の廃止に当たっては、親元の越前に戻るのではなく、越中に併合されていますね。不思議な気がしましたが、これは大宝2年に越中東部を越後に割譲していることのカバーでしょうかね。あるいは越前を弱体化させようという意図なのか。あれこれ妄想が湧きます。(^_^)

2018年9月14日 (金)

国宝木簡手ぬぐい

 こういうものを手に入れました。
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 木簡を図柄にした手ぬぐいです。解説書が付いています。

 去年、平城宮出土木簡が国宝に指定されたのを記念して作ったもので、奈良文化財研究所監修です。
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 奈文献か飛鳥資料館に行かないと買えないのかと思っていましたが、ググってみたら、神田神保町の六一書房の通販で買えることが分かり、それで入手しました。

 全部で32点の木簡が載っています。
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 下の写真で中央にあるのは、参河国篠島からサメの干物を贄として輸送した荷札木簡です。
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 ワニでなくサメです。愛知大学で開催された三遠南信の研究集会で発表したときに、これを含む参河の木簡をあれこれ見た(写真と釈文ですが)ことを懐かしく思い出しました。

 下の写真で右側は、若狭国の遠敷郡青郷からイワシの干物を納めた木簡です。
Mokkantenugui05
 郡郷名は二字表記にするようという朝廷の命に従って、遠敷(ヲニフ)郡はいち早く二字になった(小丹生→遠敷)のに、その郡内に所在するのに青郷はなぜか奈良時代末期まで「青」の一文字を通したという不思議な事例です。

 木簡は、当時書かれたままの文字がそのまま残っていて興味深いです。

2018年6月16日 (土)

第35回群馬学連続シンポジウム

 今日は、群馬県立女子大学で開催された群馬学連続シンポジウムに行ってきました。テーマは「本能寺の変と地域学」です。
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 本能寺の変は、上野国から遠く離れた京で起こった事件でしたが、関東にも大きな影響を及ぼすことになり、のちの秀吉による小田原征伐へと繋がってゆくことになります。

 今回のシンポジウムは、群馬の地域史を日本史との関係性の中で捉えることを目的としているとのことです。

 今年の3月から5月にかけて、群馬県立歴史博物館では「織田信長と上野国」という企画展を開催していました。今回のシンポジウムのテーマは、その二番煎じのような印象があったのですが、どうもそうではなく、大学と博物館とが連動して情報発信すべくわざとこういうテーマにしたようです。

 この企画展、行きそびれてしまったのですが、今日の会場で図録を販売していました。思いがけず入手できて幸いでした。

 雨模様の中でしたが、参加者は600人に達したそうです。たくさんの人が来てくれました。

 でも、中高年の男性が多かったです。多かったというか、あらかたそういう方々。←あ、私もだ。(^_^;

 公式ポスターは冒頭に示したとおりですが、受付担当の事務職員の人が「こういうのもあります」といって、こんなのを見せてくれました。
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 左下が違います。

 その部分のアップです。
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 3人とも群馬県立女子大学の事務職員さんだそうです。3人というのは、ぐんまちゃんの中の人も含めて。(^_^)

 ちょっと羨ましい。

 プログラムは以下の通りです。

 基調講演「本能寺の変から清洲会議まで」金子 拓(東京大学史料編纂所・准教授)

 個別報告
  ・「本能寺の変はどう知らされたか」青木 裕美(群馬県立歴史博物館・主幹(学芸員))
  ・「神流川の戦いを空から見る」中島 直樹(玉村町教育委員会社会教育課文化財保護係長)
  ・「1582年の上信地域―沼田紛争への道―」久保田 順一(群馬県文化財保護審議会委員)
  ・「1582年の北東関東―沼尻合戦への道―」江田 郁夫(栃木県立博物館学芸部長)

 討論 「1582年の歴史的インパクト―国家の目、地域の目―」
 ・パネリスト  金子 拓、青木 裕美、中島 直樹、久保田 順一、江田 郁夫
 ・コーディネーター 簗瀬 大輔(群馬県立女子大学群馬学センター准教授)

 梁瀬氏
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 金子氏
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 青木氏
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 中島氏
Gunmagaku35f
 久保田氏
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 江田氏
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 いつもは13時から16時まで開催される群馬学シンポジウム。今回は12時半から16時までと、いつもよりも30分長かったのですが、それでも個別報告は1人20分でしたし、討論の時間は30分しかありませんでした。
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 興味深い内容ではあったのですが、あまり深い所には行けなかったように思います。ちょっと盛り込みすぎの感があります。シンポジウムの企画はなかなか難しいものです。

2018年6月 5日 (火)

第35回 群馬学連続シンポジウムのお知らせ

 来週の土曜日に群馬学連続シンポジウムが開催されます。
Gunmagaku35
 内容は以下の通りです。

 開催日時:平成30年6月16日(土)12時30分~16時
 会場:群馬県立女子大学 講堂

 次第
  主催者挨拶 群馬県立女子大学学長 小林 良江

  基調講演「本能寺の変から清洲会議まで」金子 拓(東京大学史料編纂所・准教授)

  個別報告
  ・「「本能寺の変」はどう知らされたか」青木 裕美(群馬県立歴史博物館・主幹(学芸員))
  ・「神流川の戦いを空から見る」中島 直樹(玉村町教育委員会社会教育課文化財保護係長)
  ・「1582年の上信地域―沼田紛争への道―」久保田 順一(群馬県文化財保護審議会委員)
  ・「1582年の両毛地域―沼尻合戦への道―」江田 郁夫(栃木県立博物館学芸部長)

  討論 「1582年の歴史的インパクト―国家の目、地域の目―」
  ・パネリスト  金子 拓、青木 裕美、中島 直樹、久保田 順一、江田 郁夫
  ・コーディネーター 簗瀬 大輔(群馬県立女子大学群馬学センター教員)

 群馬学シンポジウムのテーマとして本能寺の変というのはやや唐突に思われるかもしれません。

 織田信長が本能寺で討たれたとき、上野国には信長の部将である滝川一益がいました。やがて信長の死を知った北条が攻め寄せてきて、滝川軍との間に合戦が行われました。

 滝川が本陣を置いたという軍配山古墳が玉村町にあります。
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 また、両軍が戦った神流川合戦の碑がお隣の新町にあります。
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 そんなことで、本能寺の変は群馬とも(特に玉村や新町とも)深く関係します。

 このあたりのこと、一昨年のNHK大河「真田丸」でも描かれていましたね。滝川一益は段田安則。

 群馬学シンポジウム、いつもは13時からですけど、今回は30分早いですね。終了時刻は同じなので、内容豊富なのでしょう。楽しみです。

2018年5月26日 (土)

『全国東照宮連合会々報』

 たまたま知った「東照宮連合会」が気に入ってしまっています。(^_^;

 昨日、前橋東照宮の社務所に立ち寄ったら、こういう雑誌がありました。
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 連合会の会誌なので業界誌ですが、自由に持ち帰れるようになっていました。ありがたく頂いてきました。

 表紙裏には家康の遺訓が印刷されています。
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 いかにもです。♪

 新加入神社の紹介ページがありました。
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 新たに連合会の朱印帳も作られたようです。
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 連合会加盟社10社の御朱印を集めると葵御紋の貯金箱が貰えます。大いに心惹かれますけど、別のページの記述によれば、肝腎なこの御朱印帳そのものがもう完売だそうです。

2018年5月25日 (金)

前橋東照宮をゆく

 今まで、前橋東照宮の前を通ったことは何度かありましたが、あまり関心も湧かず、素通りしていました。それで、まだ一度も境内に入ったことはありませんでした。それが、昨日アップした「全国東照宮連合会」で、にわかに関心が湧きました。世の中、何がきっかけになるか、予想もできません。(^_^)

 今日も前橋で仕事がありましたので、帰りに早速行ってきました。県庁からすぐです。

 前橋東照宮への道を歩いていると、このようなのぼり旗が目に入りました。
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 前橋東照宮は自動車のお祓いに力を入れているようです。群馬は車社会ですし。旗の背後に見えているのは、前橋東照宮の社務所の側面です。なかなか現代的。

 神社の入口正面脇には標柱も立っています。
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 鳥居もありますけど、近すぎて、道の向こう側に渡らないと撮せません。手を抜いて撮影は省略しました。(^_^;

 手水鉢には葵の御紋。
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 水戸黄門の影響か、この紋所には権威を感じます。

 社殿。
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 大変にお天気が良いなか、逆光でしたので、写真うつりはあまりパッとしません。未熟です。

 境内に大きな杉の木がありました。幹に何か巻いてありますね。
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 巻いてあった写真のアップです。
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 写真の下にあった解説文。
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 朔太郎と白秋が記念撮影をした杉の木が現存しているのでした。

 境内には、昭和60年に起きた御巣鷹山の日航機事故にまつわる句碑がありました。
Maeto08

 

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