歴史

2017年8月 9日 (水)

岐阜新聞夕刊休刊&養老ラッピング列車

 岐阜新聞社が9日付の朝刊に社告を掲載し、10月2日から夕刊を休刊とし、朝刊に統合するとのことです。

 理由は、メディアの多様化など時代の変化とともに夕刊の読者数が減少しており、一定の役割を終えたと判断した、とのことです。

 確かに紙の新聞はいろいろと厳しいのでしょうね。

 正直、以前だったら、岐阜新聞の夕刊廃止に反応することはなかったと思いますが、6月に中京大学で開催された古事記学会の休憩室に、養老改元1300年の記事が載った岐阜新聞が置いてありましたので、岐阜新聞に親近感を持っていました。
Yorogifunews02
 瑣細なことに反応しやすい人間です。(^_^)

 あの時に紹介し損ねてしまいましたが、ラッピング列車のことも載っていました。

 あの時は、2両編成で、全体を4色に塗っている、としか見えなかったのですが、今改めて見直してみますと、4色は四季のイメージなのでした。
Yorotrain01
 右から、春。
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 夏。
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 秋。
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 冬。
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 四季それぞれに魅力がある、ということでしょう。

 養老町にも行ってみたいです。

2017年8月 7日 (月)

絵はがき「近江歴史」

 このような絵はがきを入手しました。歴史画、好きなもので。8枚入りです。解説等は一切入っていませんでした。戦前のものであることは間違いありませんが、いつのものか分かりません。
Oumireki00
俵藤太勢田の唐橋を過り龍神の頼みを受け弓を以って三上山に棲息する巨大の蜈蚣を退治し其難を救ふ
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紫式部上東門院の命を受け石山寺に参籠して源氏物語を著し之を上つる文辞絶妙今に至り範を垂る
Oumireki02
皇后宮亮平経正義仲追討の途次竹生島に詣で明神の御前に於て琵琶を弾ず明神感応あり白龍と現して見え給ふ
Oumireki03
義仲の妾巴関東下向の途上畠山重忠之を輔へんとして鎧の袖を取る巴一鞭当てたるに袖ふつツと引切れ遂に之を逸す
Oumireki04
姉川の役に真柄直隆五尺三寸の大刀を翳し無双の勇を奮ふ本多忠勝馬を躍らせ之に対ひ数十合にして遂に其首を取る
Oumireki05
姉川の合戦に浅井方総敗軍遠藤直継死屍の中より躍り出て織田信長を刺さんとし反へて竹中重友の為に討死す
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賤ヶ岳の合戦に加藤清正勇戦反将山路正国を討取り抜軍の功ヲ奏す是れ賤ヶ岳七本槍の随一たり
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明智左馬之助光春大津の合戦に堀秀政の陣を破り単騎馬を躍らし湖水を渡りて敵軍驚かしつゝ悠々として坂本城に入る
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 「近江歴史」とはいいながら、題材が結構偏っていて、合戦を題材にしたものが多いです。源氏物語だけが異質ですね。

 それぞれのエピソードには、知らないことが多かったです。史実かどうか分からないものも多いと思いますが、戦前と今との知識の差を感じます。5枚目の真柄十郎左衛門の話は落語の「浮世床」で知りました。あの落語を聴いていなければ、真柄の名前も知らなかったかもしれません。

 「近江歴史」と題するならば、大津遷都や壬申の乱なども入っておかしくないと思います。戦前だと壬申の乱はアウトですかね。

2017年6月23日 (金)

養老改元1300年

 先日の古事記学会の折、休憩室に次のようなものが置かれていました。
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 養老改元1300年祭とあります。岐阜県養老町のパンフレットです。

 趣旨は以下の通りです。
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 奈良では平城遷都1300年に始まり、古事記撰進1300年、日本書紀撰進1300年と、10年間にわたってさまざまな企画があるようですが、養老改元1300年は思い付きませんでした。「ううむ。そう来たか」という感じです。

 町おこしを目的としたものでしょうが、こうした文化的・学術的な企画は好感が持ってます。しかも古代だし。(^_^)

 今年の3月から12月まで、毎月何かしらのイベントが開催されるようです。
Yoro1300c
 休憩室には次のようなパンフレットもありました。これも養老町のものです。
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 46の宝ものの内訳は以下の通りです。
Yorotakara02
 このうち、29~32の4項目は薩摩藩による宝暦治水に関するものです。幕府のお手伝い普請で多くの犠牲者を出した薩摩藩に対する感謝の念が伝わってきます。

 この46項目はかるたになっているようです。
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 また、岐阜新聞も置いてありました。
Yorogifunews01
 題字付近の拡大です。
Yorogifunews02
 養老町のみならず、岐阜新聞社もこのイベントを応援しているようですね。

 養老町ってどうやって行くのだろうと思って調べてみたら、大垣から養老鉄道に乗るのですね。大垣といえば関ヶ原の近く。今度、2つ兼ねて行ってみようかと思いました。

 *先日、古事記学会の懇親会場から見た伊吹山の写真をご披露しましたが、あの部屋は「伊吹の間」でした。伊吹山が見えることによる命名なのでしょう。その旨、あの記事に加筆しました。

2017年5月 5日 (金)

富本銭のレプリカ

 先日、本物かどうか分からない和同開珎を入手したことを書きました。

 類は友を呼ぶと言いますか(ちょっと違う(^_^;)、それに続き富本銭のレプリカを入手しました。これははっきりとレプリカとうたっています。歴史の教材模型を作っている会社の商品のようです。燦然と輝いています。
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 ウラです。
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 先日の和同開珎と並べてみました。
Wadofuhon
 大きさはほぼ同じですね。


 

2017年4月27日 (木)

和同開珎! ??

 和同開珎を入手しました。(^_^) 頭のあたりに傷があります。
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 ネットオークションです。
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 3000円ほどでスタートし、既に一人が入札していたところに私が入札し、その後誰も入札しませんでした。
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 相場は数十万円とか数百万円にのぼるようですが、目利きの方々はこの品に誰も関心を示さなかったわけで、きっと偽物なのでしょう。(^_^;

 ま、それでも良いです。レプリカのつもりで持っていることにします。

2017年4月18日 (火)

正覚寺(小松姫の墓所)をゆく

 昨日、沼田城で御殿桜を見たあと、帰りの電車の時間までまだ余裕がありました。そこで、正覚寺に行ってきました。真田信之の正室小松姫のお墓があります。

 山門。
Numata2017g
 この山門の屋根の瓦の紋所は、小松姫の実家本多家の立葵です。
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 本堂。
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 ここにもまた燦然と輝く本多立葵が。
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 他に、蔵にもやはり同じ紋がありました。見た限りでは六文銭は見当たりませんでした。

 小松姫についての解説板。
Numata2017k
 小松姫のお墓です。
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 その解説板。
Numata2017m
 すぐ近くのお墓に猫の石像がありました。このお墓に眠っている方、ネコ好きだったのでしょうかね。
Numata2017n
 境内にあった高野槙の巨木。
Numata2017o
 その解説板です。
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 正覚寺から臨む下界。
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 正覚寺は沼田城よりも低い位置にありますので、お城からの眺めよりも視界が開けています。それでも駅との標高差はビルの25階分ほどにもなるそうです。

 画面中央やや下に沼田駅の駅舎が見えます。画面の上から1/4ほどの位置に、中央から右端にかけて桜並木のようなものが見えます。あのあたりに利根川が流れているそうです。

2017年4月17日 (月)

沼田城御殿桜

 沼田城跡に御殿桜という桜の古木があります。樹齢400年余といわれます。

 ということは、真田信之や小松姫も見たかもしれない桜です。

 満開の頃にこの桜を見たいものと思っていましたが、いつ満開になるのか情報がなく、満開の頃に行くことはできませんでした。

 ところが、3月下旬に4期生・5期生の有志が開いてくれた会の折、そのメンバーの中に沼田在住者がいましたので、もし情報が得られたら教えて欲しいとお願いしました。そのことを気に留めていてくれて、土曜日に「満開間近」という情報を寄せてくれました。

 早速、今日、行ってきました。

 沼田城跡は駅からはかなり高いところにあります。石段を登り、下のような坂を上って行きます。
Numata2017a
 お城の近くにはこのような自販機がありました。
Numata2017b
 待望の御殿桜です。これは遠くからズームの望遠側で撮りました。
Numata2017c
 みごとですね。ソメイヨシノではなく、山桜ですので、もっと地味かと思っていましたが、なかなかどうして。タイミングもまさに満開と思います。

 これは近くから。
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 解説板です。
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 城跡から沼田駅方面を望む。タモリさんの大好きな河岸段丘です。
Numata2017f
 さて、研究室の片づけ。(^_^;

 1日も早く終わらせなくてはいけないのに、花見に行ってしまって。(^_^; いや、花見ではなく、本人は史跡めぐりのつもりです。

 沼田に行ったあと、大学に行きましたよ。まずは明日の授業の準備。それが終わったらもうあまり時間はなく、片付けは少ししかできませんでした。明日からまた頑張ります。

2017年3月27日 (月)

ナゾの木簡

 昨日ご紹介した木簡パスポートの続きです。

 あの木簡パスポートは、実在する木簡を複製したものなのかどうか調べてみました。

 こういう調査は簡単です。奈良文化財研究所のサイトで木簡データベースを検索すればすぐに分かります。便利な世の中になりました。

 検索した結果、ぴったりなものはありませんでしたが、よく似たものが1件見つかりました。滋賀県の鴨遺跡から出土した木簡です。この木簡のことは『木簡研究』の第2号と『日本古代木簡選』(岩波書店)とに掲載されていることも分かりました。『木簡研究』は昨日見ることができましたが、図版は掲載されていませんでした。今日、『日本古代木簡選』を見て来ました。こちらには図版が載っていました。
Onyumokkan04
 文字はよく見えませんね。

 収録されていた釈文は次の通りです。

 (上部)遠敷郡/(下部1行目)遠敷郷小丹里/(下部2行目)秦人足嶋庸米六斗

 鴨遺跡木簡と木簡パスポートとを並べてみます。
Onyumokkan05
 形状は大変によく似ています。サイズも、鴨遺跡木簡が160mm×32mm×6mmであるのに対して、木簡パスポートは160mm×30mm×6mmです。幅が木簡パスポートの方が2mm短いだけで、あとは同じです。

 木簡パスポートのモデルは鴨遺跡木簡と考えてよいでしょう。本文は、上部が鴨遺跡木簡では「遠敷郡」であるのに対して、木簡パスポートでは「若狭国遠敷郡」となっており、「若狭国」が加筆されています。下部の1行目は両者同じです。下部の2行目は、鴨遺跡木簡が「秦人足嶋庸米六斗」であるのに対して、木簡パスポートは「秦人庸米六斗」となっており、「足嶋」という人名がカットされています。

 「若狭国」を書き加えたのは、博物館の名称が福井県立若狭歴史博物館だからではなかろうかと思います。

 「足嶋」をカットしたのは、フルネームだと個人情報保護の観点から問題が生ずるからでしょう。

……なんてはずはありませんね。(^_^)

 「若狭国」を書き加えた分、どこかを削る必要が生じたからでしょうか。

 博物館などで、実物の代用として展示するレプリカは、限りなく実物に近いことが求められましょうが、今回のような木簡パスポートは、それとは性格が異なりますので、改変しても良いということでしょう。さらに言えば、複製と贋作とは紙一重でもありますので、現物の趣は残しつつも、あえて現物とは違ったものとして作成したということがあるのかもしれません。

 なかなか面白いことが分かりました。

 でも、鴨遺跡木簡そのものについて、もっと興味深いことがあります。

 この木簡には「遠敷郡遠敷郷小丹里」とあります。郡郷里制下のものですので、この木簡の時代は霊亀三年(717)~天平十一年(739)と考えられます。ところが鴨遺跡木簡の時代は、伴出土器の年代から九世紀後半と考えられるとのことです。しかも同じ出土層から貞観十五年(873)の年紀のある木簡が出土しているということです。この100年以上(150年を越えるかもしれません)の年代のズレをどう理解すればよいのか。

 さらにもう1つ。なぜこの木簡がこの遺跡に埋っていたのか。この木簡は文面から荷札であることが明らかです。荷札であれば、諸国から都へ税として運ばれる物産に付けられ、都に着けば、役目を終えて廃棄されるか、あるいは表面を削って再利用されたことでしょう。従って、荷札木簡は一般的に終着地(藤原京、平城京など)で出土します。

 鴨遺跡は琵琶湖の西岸、北の方に位置します。若狭から都への道中です。どうしてそこからこの木簡が出てきたのか。輸送中に落ちたのかと考えましたが、路傍に落ちたのなら、その場で長年月を経て朽ち果てたことでしょう。遺跡から出土することはありますまい。

 都へ輸送中に賊に襲われて奪われたのでしょうかね。鴨遺跡は賊の根拠地だったとか。

 2つ、大きなナゾです。

 『木簡研究』も『日本古代木簡選』も、ともにそのナゾに触れてはいますけれども、どう理解すべきか苦慮しているようです。『木簡選』には、「(地名の記載方法から推定される年代と)伴出遺物から推定される年代との間の差をどう考えるかは、遠敷郡の庸米が何故ここで消費されたかという問題とともに、この遺跡の性格を考える場合に重要であろう。」とあります。2つのナゾはリンクしていそうですね。この遺跡は、部分的にしか発掘されておらず、「面的に遺構の性格を追求する調査は実施されていない」とのことです。

 興味深いですねぇ。昨日、予告して1日お待ち頂きましたけれども、ご期待に添えたのではないかと思っています。(^_^)

2017年3月26日 (日)

木簡のレプリカ

 木簡のレプリカを入手しました。入手先はまたネットオークションです。
Onyumokkan01
 長さは16cmほどです。

 裏はこのようになっています。
Onyumokkan02
 上の方に捺してある朱印の印文は鮮明で「若博特別展」と読めますが、他に4つ捺してある朱印は、左下の文字が「寺」と読めそうなものはあるものの、全体的になかなか解読困難です。他に4299という黒字の数字があります。
Onyumokkan03
 「若博」の文字を手がかりにググってみましたら、次のようなポスターが見つかりました。
Mokupas
 このポスターやその他の記事を参照すると、この木簡は、福井県立若狭歴史博物館が配布した「木簡パスポート」であることが分かりました。この木簡パスポートを、対象となる寺社や博物館等で提示すると、ポストカードが貰えたり、入館料の割引を受けられたりするようです。また、裏面は朱印帳代わりになります。

 このイベントはもう終わってしまったようですけど、こういうのいいですね。紙のパスポートよりずっと楽しいです。長さ16cmならば嵩張りませんし、軽いし、くしゃくしゃにもなりません。

 この木簡パスポートには、「遠敷郡遠敷郷小丹里」という地名が書いてあります。若狭歴史博物館の所在地のあたりがちょうど小丹里に当たるそうで、それもバッチリです。

 「遠敷」は「おにゅう(をにふ)」と読みます。古くは「小丹生」と書いていたのですが、奈良時代の初め頃に、全国の郡里名は全て二字表記に統一されることになり、「小丹生」は「遠敷」と改められました。「遠(をに)/敷(ふ)」ですね。本来の語構成を無視した表記で、二字表記化の命令でもなければ思い付かないような表記でしょう。

 朝廷の意向は二字表記に加えて、良い文字を使うようにということもありました。「敷く」には治める、統治するという意味もありますので、「遠敷」は遠い後の世までもこの土地が平和に統治されているように、という意味も重ね合わされているのではないでしょうか。

 二字表記化の命令は和銅六年(713)の風土記撰進の詔の第一条がそれにあたるものと考えられてきましたが、「遠敷」と書いた和銅四年の木簡が見つかっているので、二字表記化の命令は実は和銅四年以前にさかのぼるのではないか、ということを論文に書いたことがあります。

 そんなことがありましたので、遠敷木簡には思い入れがあり、それで今回このレプリカを入手したく思いました。

 さてこの木簡パスポート、本物の木簡の忠実な複製なのか、あるいは全くの創作なのか調べてみました。

 これに関しては、また面白いことが出てきたのですが、ちょっと資料で確認しなくてはなりません。明日、確認の上、改めてアップします。もしも明日、木簡以外の話題(たこ飯の駅弁とか(^_^;)がアップされたとしたら、資料確認の結果、ナゾが深まって書けなくなってしまったとお考えください。(^_^;

2017年2月 3日 (金)

「歴史秘話ヒストリア」はよろい人骨

 今日の「歴史秘話ヒストリア」は、群馬県渋川市金井東裏遺跡出土のよろい人骨でした。今日の放送全部丸ごとこれでした。

 大変に興味深く視聴しました。お薦めです。

 近日中に再放送があると思いますので、見逃された方は是非。

より以前の記事一覧

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