歴史

2017年2月 3日 (金)

「歴史秘話ヒストリア」はよろい人骨

 今日の「歴史秘話ヒストリア」は、群馬県渋川市金井東裏遺跡出土のよろい人骨でした。今日の放送全部丸ごとこれでした。

 大変に興味深く視聴しました。お薦めです。

 近日中に再放送があると思いますので、見逃された方は是非。

2017年1月31日 (火)

穂の国豊橋&大失態

 豊橋駅構内でこのような看板を見ました。「ほの国 豊橋」とあります。
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 このような行き先表示板も。「穂の国とよはし芸術劇場」です。
Honokuni02
 また、駅の近くには「ほのくに百貨店」もあります。

 このように、豊橋では「穂の国」という呼称が目に付きました。

 国造本紀に諸国の国造が地理的な順に排列されていて、東海道には、尾張国造-参河国造-穂国造-遠淡海国造、という順に並んだ部分があります。かつては参河国と遠淡海国との間に穂国があったのでしょう。

 やがて律令時代になると穂国は参河国に吸収され、「穂郡(ほのこほり)」となりました。位置は参河国東部、今の豊橋あたりです。

 平城遷都の頃、郡郷名は漢字二字の好字で記すことになり、この郡の表記は「宝飫郡」となります。こう書いても、読みは「ほのこほり」だったことでしょう。「飫」は「あきる」「たべあきる」という意味の漢字ですので、「宝飫」は宝がありあまるほどある、といった意味になりましょうか。好字ですね。(^_^)

 ところが「飫」という文字はあまり使われない文字である故か、誤写されて「宝飯郡」となり、読みも「ほい」となったようです。

 現在の「穂の国」アピールは古代回帰でしょうか?

 「宝飫」という表記は、「木国(きのくに)」を「紀伊国」と表記したのと同様のパターンです。「ほの国」はこの地では「ほぉ」と発音したからこそ、「紀伊型」による二字化が可能だったと推定されます。これが「紀伊型」地名表記の東限で、フォッサマグナの西に当たる、といった話を先日のフォーラムでしました。もう1つ、越後国頸城郡にもこのパターンの郷名表記があります。その地は糸魚川よりもやや東に位置しますので、フォッサマグナの西縁よりは東ですけれども、フォッサマグナ地溝帯の中には入ります。

 以上のようなことは、先日、当ブログに載せたレジュメに書きました。

 さて、ここからが大失態の話になります。

 昨夜、蜂矢真郷先生からメールを頂きました。蜂矢先生は当ブログに掲載のレジュメをご覧くださったのです。

 「紀伊型」の郡郷名には、もう1つ遠江国引佐郡渭伊郷がある、遠藤邦基氏に先行論文がある、という2点のご指摘を頂きました。

 早速両方確認致しました。

 私の大失態でした。今回の発表は、古代における参河と遠江との関係を考えてみようということで、「紀伊型」地名の分布は参河以西に限られるというのはその1つの論点です。西日本のどこかの郡郷名を見落としたのならば(こう言ってはナンですけれども)さしたることはありません。でも、よりによって、遠江の例を落とすとは……。この例をわざと隠したとさえ思われかねません。

 いえ、NHK大河の直虎を見ていて、「井伊」もひょっとしたら「紀伊」と同じパターンかもしれないなぁと思い、会場でもそのように発言したのですが、「井伊」の地名は後世のものと勝手に思い込んでいました。まさか和名類聚抄にすでにあったとは(表記は「渭伊」ですけれども)。

 あれこれ悔まれます。

 そして、遠藤氏の論文(昭和53年のものです)には、「紀伊型」郡郷名(こういう用語ではありませんが)は、遠江以西に偏在しているということが明記してありました。

 蜂矢先生は、「渭伊」については、「遠江の例とは言っても、三河にかなり近いところです。」と言ってくださり、遠藤論文についても「著書に収められていない(多分ですが)ためか、意外に知られていません。」と、それぞれにフォローしてくださり、ありがたいことと存じています。

 今後はもっと慎重であらねばと深く反省しています。

 ただ、不幸中の幸いだったのは、今回の発表は単行本に収録されることになっており、そこで訂正することができることです。蜂矢先生がご教示くださったお蔭で、訂正が可能になったことは何ともありがたいことでした。改めて御礼申し上げます。

2016年12月27日 (火)

真田氏の過去帳(2)「真田丸」の人々

 昨日載せた真田氏の過去帳の続きです。

 今回は「真田丸」に登場した人々を拾いました。

 まず、昌幸と信之は、前回画像を載せましたように、第1丁に歴代当主として2人並んで載っています。
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 昌幸の没年は慶長16年6月4日。慶長19年(1614)大坂冬の陣の3年前ですね。存命だったら勇んで大坂城に乗り込んだことでしょう。享年には異説があるようですが、この過去帳では70となっています。

 信之の享年は93。当時としてはとんでもない長寿ですね。没年の万治元年(1658)は大坂冬の陣の43年後に当たります。弟の分も長生きした感じですね。

 有働さんのナレ死を「まだ早い」と言ってはねのけた真田のばばさまも載っています。右端です。草笛さん。
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 出自は河原氏とあります。調べたところ、真田家家臣の河原綱家(真田父子犬伏の別れの折、誰も近づくなと言われていたのに、様子を見に行って下駄を投げつけられ、前歯が折れたという逸話のある人です)の叔母に当たるようです。

 ばばさまに続いて、昌幸の長兄信綱と次兄信輝が並んでいます。ふたり揃って長篠の合戦で討ち死にしました。それで昌幸が真田の家督を相続することになったわけで、兄2人のうちどちらかでも存命ならば、昌幸・信之・信繁のその後も変わっていたことでしょう。この兄弟はいずれもばばさまの子だったのでしょうか。もしそうなら、2人の子を一度に亡くしたばばさまの嘆きはいかばかりであったかと思います。

 昌幸の正室も載っています。高畑さん。
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 正親町三条中納言の姪で、菊亭大納言の娘、武田信玄の養女とあります。三谷さんは、そんなに高い身分のはずがないと考えて、実は菊亭大納言の侍女だったのに、娘と自称したという風に設定したのでしょう。確かにそんな可能性もあるように思います。

 真田兄弟の姉様も載っています。木村佳乃さん。
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 小山田壱岐守殿御内室とあります。寛永7年(1630)6月20日卒ということで、亡くなったのは冬の陣の15年後です。

 小松姫も載っています。吉田羊さん。
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 本多忠勝殿御息女 東照神君御養女とあります。藤岡弘、の恐ろしい顔が目に浮かびます。(^_^; 没年は元和6年(1620)です。夏の陣のわずか5年後ですね。

 信繁の子、大助も載っています。
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 享年十六とあります。

 「真田丸」に登場した人物で載っているのは大体こんなところです。信之の子、信吉も載っていますが画像は省略しました。

 昌幸の弟信尹は載っていません。信之の側室おこうさんも、信繁の妻達も。

 全体をきちんと見ていませんけれども、側室は載せない方針かもしれません。また、歴代当主本人とその妻子が対象ですので、信繁は載っても、信繁の妻子までは載らないのでしょう。大助が載っているのがむしろ例外的という気がします。

 なかなか興味深い史料です。

2016年12月26日 (月)

真田氏の過去帳(1)概要

 しばらく前に真田氏の過去帳を入手しました。入手先はおなじみのネットオークションです。

 昨年の10月に善光寺に行った折、境内にあった墓石の戒名がこの過去帳に載っていたということを当ブログにアップしました。この過去帳に触れるのはあれ以来です。

 この過去帳には「真田丸」に登場する人物も何人か載っていますので、ネタバレになってはまずかろうと思って、その後触れないできましたが、番組も終わってしまいましたので、改めてご紹介します。

 この過去帳の由緒は全く不明です。真田氏や真田氏の菩提寺に伝わる過去帳の写しなのか、それらとは全く無関係に部外者によって作られたものなのか分かりません。

 表紙はこんな感じで、題簽はありませんし、題簽が剥がれた形跡もありません。
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 表紙をめくると、表紙裏は白紙で、その左ページ(第1丁ですね)は以下の通りです。
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 冒頭にあるのは昌幸の父幸隆です(以下、敬称略)。

 それから、昌幸、信之、信政、幸道、信弘、信安、幸弘、幸専、幸貫と、歴代当主が続きます。歴代当主を10人列挙したあと、改丁して、歴代当主の妻子などが89名列挙されています。

 歴代当主10名+その他89名=全部で99名が収録されています。

 この過去帳の最後の当主幸貫については「嘉永五年 子六月十七日 六十二歳御卒去」とあります。幸貫の実際の命日は嘉永5年(1852)の6月8日らしいので、日付が合いません。間違いなのか、あるいは過去帳の日付は幕府に届け出た日付なのかもしれません。

 この過去帳で一番新しい日付は安政6年(1865)ですから、この過去帳が書かれた(写された)のはそれ以降ということになります。

 幸村も載っています。
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 ご覧の通り、「幸村公」とあります。真田幸村という名は後世の軍記物などに登場する名で、史実としては信繁が正しいとされています。とすると、この過去帳は怪しいのでしょうか? 

 ただ、この過去帳では幸村の享年は四十六とあります。幸村(信繁)の享年は通常49とされていますが、ネット情報ながら、真田氏の菩提寺である松代の長国寺の過去帳では、46となっているそうです。

 それと一致しますね。

 興味深いです。

 明日は、「真田丸」に登場した人々がこの過去帳でどのように書かれているか見てみます。

2016年12月18日 (日)

安居天神をゆく(1)

 「真田丸」、ついに終わってしまいました。NHK大河史に残る名作と思います。

 最終回の真田丸紀行は、幸村終焉の地、安居神社でした。先日の大阪出張の折に行ってきました。(^_^)
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 このようなのぼり旗が立っていました。
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 幸村像。戦いに疲れて休んでいる姿でしょう。
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 そばには戦死跡の碑がありました。酒樽が供えられています。
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 銘柄は「六文銭」。故郷の信州の清酒のようです。幸村公も満足なのではと思います。
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 このような立て札がありました。
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 要はペットを連れてきてはいけないという趣旨なのでしょうが、そうは言わずに「ペットの参拝」と表現したところがいいです。神主さん、動物好きかもしれません。

 この神社の飼い猫か、勝手に住みついた猫か分かりませんが、社務所の脇にこんなネコがいました。気持ちよさそうに日向ぼっこをしていました。
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 顔も洗って。
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 もう1匹ネコを見かけたのですが、それはあとで撮ろうと思って、境内を一回りして戻ってきたら、もういませんでした。教訓。猫は撮れる時に撮らねば。

 この神社には2003年にも訪れています。その時には白い猫がいました。真っ白だし、気品が漂っていましたので、神馬ならぬ神猫かと思いました。
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 もう1匹。
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 どうも猫が住みつく神社のようです。

2016年12月 8日 (木)

真田丸跡をゆく(4)

 先日載せた写真ですが、真田丸の中心部とおぼしき大阪明星学園の東沿いの道はこのような坂になっています。
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 写真は北側から南を望んでいます。北が低くて南が高くなっています。画面右側が明星学園、左側は心眼寺。この坂には心眼寺坂という名が付いています。

 下は大阪明星学園の西沿いの道です。
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 これも北から南を望んでいます。画面左側が明星学園です。これもまた北が低くて南が高くなっています。

 どうなんでしょ? 明星学園の東西の道がともに北に降って行く坂だとしたら、明星学園の敷地も含めて、このあたり一体、本来の自然地形としては、全体が北に降って行く斜面になっていたのではないかと思います。ただ、斜面のままでは明星高校としてはグラウンドも斜面になってしまうので、盛り土(今年の流行語ですね)をして、地表面を水平にしたのではないでしょうか。

 「ブラタモリ」では、以下の史料を引用して、真田丸は一段高いところにあるとしています。
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 そして、下の画面になります。
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 ここ、場所は少し違いますが、今日の記事の2枚目に示した場所のすぐ近く(大阪明星学園の西側)です。

 近代になってから盛り土をして高くしたのだとしたら、一段高いからといって、ここの写真を示すのは不適切ではないでしょうか。南の方は高くなっているのですから、そちらを一段高いところとして示す方が良かったのではないかと思います。

 真田丸のあった場所の北部は、北へ下がって行く傾斜地だった。この傾斜は北側の堀へと続いてゆくのか、あるいは堀そのものだったか、ということになりそうです。

 昨日、心眼寺にあった明治18年頃の地図を題材にしたことで、そういえば「ブラタモリ」にも明治時代の地図が出てきたなぁ、と思い出しました。次の地図です。
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 昨日の地図より古いのか新しいのか分かりませんが、縮尺の度合いは小さく、詳しい地図ですね。

 大阪明星学園はまだ影も形もありません。でも、その西沿いの道はありますね。(^_^; 今の道よりもずっと狭いですけど、あることはあります。ただ、全く同じルートではなく、南の方は一致するものの、北に向けて途中で東側に曲がっています。

 この曲がり具合が何ともですね。昨日に引き続き、ここでもまた大坂城天守閣蔵の絵図に描かれていた斜めの道を思い出しました。
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 昨日の心眼寺の地図にこの斜めの道が描かれていなかったのは、細い道だからなのでしょう。縮尺の関係と思われます。

 地図に描かれていないからといって、存在しなかったとは限らない、という教訓を得ました。(^_^;

 さて、なんかデータを小出しにしているようで心苦しいです。(^_^;

 実際はそんなつもりはありません。

 「真田丸跡をゆく」の(1)と(2)は大阪から帰るときから構想を考えて、(1)は真田丸顕彰碑にあった大坂城天守閣所蔵の絵図を中心に記事を書きました。(2)は「ブラタモリ」を見直して、「ブラタモリ」とそこで紹介されていた松江歴史館の絵図を中心に書きました。

 これで真田丸跡の話は終わる予定だったのですが、関連記事として心眼寺のことを載せようと思い、そこで撮った明治18年頃の地図を子細に眺めていたら、のちに大阪明星学園の敷地になる場所の西沿いの道がないことに気づき、大坂城天守閣蔵の絵図を見直すことになりました。

 その後、大阪明星学園の東沿いの道も西沿いの道も、どちらも北に降る坂だなぁ、ということをつらつら考えていたら、その2つの道が坂なだけでなく、明星学園の敷地自体が元々は斜面なのではないかと思い至りました。それで今日の記事になったという次第です。

 こちらの知識が増えて行くと、同じものを見ていても、今までは気付かなかったことに気付くようになります。なかなか玄妙なものであります。

 さて、「ブラタモリ」に登場した明治の地図、今明星学園のある場所には「字 真田山」とあります。現在、この地よりも少し南東に行ったところに真田山公園があり、その北には真田山小学校。そして、真田人気故でしょうか、近辺には「真田山」の付くマンションが多数。(^_^)

 でも、元祖真田山が明星学園の地なのだとしたら、その字名は真田丸の名残りといえそうです。

 地名は大切。

2016年12月 7日 (水)

真田丸跡をゆく(3)

 「真田丸をゆく」、まだ続きます。

 心眼寺の門には次のような解説板が掲示されています。内容は真田丸の解説です。
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 地図の一部を拡大します。
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 点線で囲まれた部分が真田丸ということでしょう。昨日・一昨日のとはだいぶ形が異なり、東西に細長い形です。

 範囲の推定については根拠も示されていませんし、当否の判断ができませんが、注目すべきは土台の地図で、明治18年頃のものだそうです。

 これに相当する現代の地図を載せます。範囲はややざっくりですが。(^_^;
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 両者を比べると、現代の地図にはある大阪明星学園の西沿いの道が明治18年頃のにはありません。

 この道は昨日・一昨日は真田丸の西限と推定した大事な道です。(^_^;

 ま、道はなくても良いのですが、ここで、一昨日の古絵図が思い出されました。
Sanadamaru02
 一昨日は、この絵図に相当する現代の地図ということで、以下の地図を載せました。
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 古絵図では真田丸の北から西にかけて斜めの道が通っています。この道に注目すれば、現代の地図はもっと西まで広げるべきでした。以下のように。
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 「ブラタモリ」における真田丸の範囲推定も、ひょっとしたらもっと南西の方向に相似形に広げるべきものではないのかと思えてきました。

 また考えることが増えました。もう少し考えてみます。

2016年12月 6日 (火)

真田丸跡をゆく(2)

 昨日書きましたように、元禄年間の『大坂三郷町絵図』(大阪城天守閣蔵)によれば、心眼寺等の4寺は真田丸の外部に位置するとみられますが、それで良いかどうか。

 真田丸の所在地を知る上で有用な資料がもう1つあります。11月12日(土)放送の「ブラタモリ」(「#54 大坂城・真田丸SP」)で紹介された『極秘諸国絵図』所収「大坂 真田丸」(松江歴史館蔵)です。
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 番組内で文字を入れた画像です。
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 この絵図に描かれている場所は、昨日の絵図と同じとみられます。この絵図でも寺院が南北に3つ(4つではありませんが)並んでいます。そして、これらのお寺の西沿いの道の曲がり具合が現代の道の様子とよく似ています。
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 番組では、現代の地図の上に、この絵図を印刷した透明シート重ねると見事に重なっていました。

 航空写真とも重なります。
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 画面中央よりもやや左下にタモリさんマークが付いています。そこは大阪明星学園の校舎の屋上です。番組の終盤で、タモリさんが屋上から真田丸跡を見ていました。

 この写真は上が北です。台地の左側2/3ほどが大阪明星学園の敷地で、道を挟んで右側1/3ほどに心眼寺等4寺が南北に並んでいます。4寺は真田丸の郭内に位置するように見えます。

 絵図では、真田丸の周囲、特に東西は崖として描かれています。北には出丸がありますね。真田丸自体が大坂城の出丸なわけですけど、その真田丸にも出丸が。

 この出丸は大坂城に向いて設けられています。敵が真田丸を迂廻して大坂城の惣構えに向かおうとすれば、その部隊に対して出丸から攻撃ができそうです。

 昨日今日のいずれの絵図でも、真田丸の西限は大阪明星学園の西限と重なるようです。そのあたりの写真です。
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 北から南に向けて撮りました。手前が低く南に向かって上り坂になっています。昨日の、大阪明星学園と4寺との間の道が北から南に向かって上り坂になっていたのと同様です。北が低いというのは大坂城の南限の堀に近いからでしょうかね。

 下は、心眼寺等の東側の道です。
Sanadamaru15
 南側から撮りましたので、画面向かって左側がお寺です。右側は普通に建物が建っていますが、その向こう側は崖になっています。その写真を撮らなかったことが悔まれます。(^_^;

 「ブラタモリ」をご覧になった方は、1人しか通れないような道を体を横にして通ると崖下に出て、そこにお墓があったシーンを憶えていらっしゃるのではないでしょうか。心眼寺のご住職が案内してくださって、子供の頃はこの辺は藪で、隠れんぼをしていたと話していました。真田丸で隠れんぼ。

 大阪明星学園の南沿いの道です。
Sanadamaru16
 ここが真田丸の南限に当たるのでしょうが、痕跡はありません。

 南側は、徳川勢が攻め寄せて、甚大な被害を出した場所なので、特に念入りに破却したのではないかという発言が「ブラタモリ」でありました。そういうことかもしれません。

2016年12月 3日 (土)

地下鉄谷町線の真田丸ラッピング列車

 今日明日、大阪樟蔭女子大学で全国大学国語国文学会があり、昨夜遅くから大阪に来ています。

 折しも「真田丸」は大坂の陣。良いタイミングです。(^_^)

 地下鉄谷町線では「真田丸」のラッピング列車が走っているということで、見に行ってきました。ただ、その列車は多分1編成のみと思います。1編成といっても、そのうちの1両のみです。

 さてうまく遭遇できるかと思いましたが、2~3本見送っただけで出会えました。ラッキーです。(^_^)

 こんな感じです。
Tanimachisanada01
 顔の部分のアップ。
Tanimachisanada02
 なんか悲しそうな表情に見えます。右目の下には傷も。夏の陣での姿でしょうかね。

 同じ車両の別の部分。
Tanimachisanada03
 真田丸の跡とおぼしき地にも行ってきました。それはまた後に。

2016年11月26日 (土)

浅間山冠雪

 今日は土曜日で授業のない日ですが、推薦入試、転編入試がありましたので、朝から出勤しました。

 勤務先最寄りの新町駅から勤務先に行く途中、烏川に架かる橋の上から浅間山がよく見えます。

 きれいに雪をかぶっていました。
Asama20161126
 一昨日の雪でこのようになったものと思われます。昨日も同様の姿をしていたことでしょうが、昨日は前橋で仕事の日でしたので、この橋は通らず、気付きませんでした。

 浅間というと、「真田丸」の第1回を思い出します。

 真田昌幸が、「富士や浅間の山が火でも噴かぬ限り、武田のお家は安泰にございます。」と発言した次の画面で、浅間山が盛大に噴火していました。(^_^)

 おかしかったです。ギャグですね。(^_^)

 でも、ギャグでもあり、史実でもあり。

 天正10年2月12日に織田信忠が岐阜城を進発。2月14日に浅間山噴火。3月11日に武田勝頼自害、となります。

 「真田丸」おもしろそう、と思い、期待を裏切られないまま今に至っています。あと4回でしょうか。いよいよ大詰めです。

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