萩原文庫シンポジウム「紋章の地域学」
今週末、11月30日(土)に群馬県立女子大学で萩原文庫シンポジウムが開催されます。テーマは「紋章の地域学」です。
チラシ裏。
趣旨は次の通りです。字が小さくて。
プログラム。
登壇者略歴等。
どうも、切り貼りばかりで。(^_^;
私、子どもの頃から家紋に興味がありましたので、心惹かれます。
行くかどうかよくよく考えてみます。
今週末、11月30日(土)に群馬県立女子大学で萩原文庫シンポジウムが開催されます。テーマは「紋章の地域学」です。
チラシ裏。
趣旨は次の通りです。字が小さくて。
プログラム。
登壇者略歴等。
どうも、切り貼りばかりで。(^_^;
私、子どもの頃から家紋に興味がありましたので、心惹かれます。
行くかどうかよくよく考えてみます。
このような本を読み終わりました。文庫本です。
別の本を読んでいたのですが、萬葉学会のために千葉へ泊まりがけで行くのに、荷物が軽い方が良いと考えて、この本を持って行くことにしました。千葉への往復と今日の都内移動で読み終わりました。
同名映画の原作本といいますか、映画の脚本を小説化したもののようです。
このカバーを取ると、下にもう1枚カバー。
「大石良雄金銀請払帳」という史料があります。大石内蔵助が瑶泉院から預かった金銭の決算報告書です。私のHPにも載せています。
この史料を解説した山本博文氏の『「忠臣蔵」の決算書』という本(新潮新書)があります。映画及び『決算!忠臣蔵』はこの本を元にしています。
ということで、なかなかユニークな内容です。大石内蔵助の描き方も従来の人物像とはひと味違います。
おもしろく読みました。映画も面白そうに思います。
赤穂浪士達の言葉は関西弁です。播州弁なのかどうかは私には分かりません。浅野内匠頭も関西弁。
どうなんでしょ。内匠頭は江戸生まれで、初めて赤穂の地を踏んだのは16歳頃だったと思います。江戸弁じゃぁなかったかなぁ、とも思いますが、江戸屋敷で殿様の周囲にいる家臣たちが播州弁ならば、殿様も播州弁かなぁとも思います。
そこでまたさらに考えるに、浅野家は秀吉の奥さんであるねねさんの実家なので、もとは尾張弁だったはずです。それから常陸笠間を経て播州赤穂に移ってから55年ほどです。赤穂の藩士たち、どんな言葉をしゃべっていたのでしょうね。
薩摩の島津家のように鎌倉時代以来何百年もずっと薩摩から動かなかった家の家臣たちはバリバリの薩摩弁でしょうけど、そうでない家はどうだったのか気になります。
『現代思想』の8月臨時増刊号「万葉集を読む」を先日読了しました。
家に届いたのが7月30日でしたので、読み終わるのにずいぶん掛かりました。(^_^;
こういう本や雑誌は、興味関心のある論文だけ拾い読みすることが通例なのですが、この雑誌は、論文24本、座談会2本、全部読みました。上代文学を専門とされていない方々も書いていらして、なかなか興味深かったです。勉強になりました。
さて、今度は何を読もう、ということで、候補は3点です。
1番。
2番。
3番。
自分の専門から言えば、迷うことなく1番一択なのでしょうが、2番を選んでしまいました。
古代の家族に関心があったわけではなく、正倉院文書である古代の戸籍について、きちんと勉強してみたかったというのが動機です。
1番も近いうちに。
一番読みたいのは3番であったりするわけなのですが。(^_^)
一昨日、「明治11年『御巡幸御休泊割各駅記』」という記事を載せました。
巡幸の事前の予定なのか、あるいは巡幸の事後の記録なのか、性格のはっきりしない史料です。
それを検討するのに使える史料があります。
『明治天皇紀』全12巻+索引(吉川弘文館)です。
で、今日、早速見てきました。明治11年は4冊目にあります。
この冊は、昭和45年8月 第1刷で、私が見たのは平成12年12月発行の第2刷です。
これと一昨日の各駅記とをつき合わせて行けば、何か分かるかもしれません。
8月30日から11月9日までのこの巡幸は、P.467~P.565に収められていました。
約70日が約100ページ。1日あたり約1.4ページ。
詳細な記録でじっくりと読んでゆきたいのですが、短時間で分析するにはちょっと詳細すぎ。(^_^;
いつか、ということで……。
根性なしです。(^_^;
このようなものを入手しました。
明治11年に行われた明治天皇の北陸東海巡幸時の休息地・宿泊地のリストです。
なぜ、このようなものに関心を持ったかというと、この折の巡幸で明治天皇は群馬県の新町にも宿泊しています。
その時の建物が行在所公園に現存しています。
解説板。
毎年、新町のひな祭りのメイン会場にもなっています。
それで、この巡幸に関心を持っていたのです。
最初のページはこのようになっています。
昼食休憩地は▲、宿泊地は●で示すとあります。
地名リストの冒頭部。
新町にはちゃんと●が付いていて、宿泊地だったことが知られます。
その次のページ。
新町のあとは倉賀野を経て高崎で昼食、そのあと前橋に行って宿泊。翌日、また高崎に戻って昼食の後、中山道を長野方面に進みます。
前橋が寄り道ですが、県庁所在地だったせいですかね。
全行程の宿泊地を抜き出してみました。
(埼玉県)浦和、桶川、熊谷、
(群馬県)新町、前橋、高崎、松井田、
(長野県)追分、上田、長野、関川、
(新潟県)高田、柿崎、柏崎、出雲崎、弥彦、新潟、新発田、新津、三条、長岡、柏崎、柿崎、名立、糸魚川、
(富山県)泊、魚津、富山、今石動、
(石川県)金沢、小松、
(福井県)丸岡、福井、今荘、敦賀、
(滋賀県)木ノ本、高宮、草津、大津、草津、水口、
(三重県)関、津、山田、山田、津、桑名、
(愛知県)名古屋、
(岐阜県)岐阜、
(愛知県)岡崎、豊橋、
(静岡県)浜松、掛川、藤枝、静岡、蒲原、三島、
(神奈川県)小田原、藤沢
ものすごい大旅行です。この折の巡幸は、8月30日~11月9日の2ヶ月以上に及んだそうです。
ルートは基本的に一筆書き方式ですけど、先ほどの高崎→前橋→高崎などの寄り道もあります。
一番大きな非一筆書き方式は新潟県です。
長野県から上越に入って、中越・下越まで行き、そこから戻って中越・上越を経て富山県に向かいます。
最後のページ。
新橋・横浜間には鉄道が通っていますので、最後の部分は鉄道利用です。
さて、これはいつ発行されたものでしょうか。
日付は、最初のページに「御発輦 明治十一年八月三十日」とあるのと、最後のページに「明治十一年八月廿二日御届済」とあるのと、その2ヶ所だけです。
巡幸に先立って発行されたものなのか、巡幸後に発行されたのか。
巡幸前だとすると、予定のお知らせということになりますし、巡幸後なら結果の記録ということになります。
表紙に「定価三銭」とあるので、市販されたものですね。同じく表紙に、「宮内省御検査済」「内務省御届済」とあります。
ものがものだけに、やはり宮内省や内務省の検査や許可が必要だったのでしょう。
巡幸後だとすると、各地の具体的な日付が入っていても良いように思います。そう考えると、予定なのでしょうかね。
そうだとすると、明治天皇の巡幸を一目見たいという沿線住民がこれを買い求めて、行列の見物(というか、お出迎え)に役立てようということなのでしょうかね。
なかなか興味深いです。
さらに昨日の続きです。
『懐宝 和漢年代記大全』(以下『大全』)の裏面にはいろいろな情報が満載です。
高僧の一覧がありました。
漢字に直してみましたが、知らない人物も多く、間違いがあるかもしれません。
釈迦如来、達磨大師、聖徳太子、役行者、行基菩薩、良弁僧都、伝教大師(最澄)、
守敏僧都、弘法大師(空海)、慈覚大師(円仁)、元三大師(良源)、恵信僧都、
熊谷蓮生坊、道元禅師、円光大師(法然)、親鸞上人、一遍上人、日蓮上人、
了誉上人、一休和尚、古幡随院、雄誉上人、慈眼大師(天海)、空也上人、
智証大師(円珍)、証空上人、夢窓国師、隠元禅師、珂碩和尚、祐天僧正、了碩和尚
変わり種は「熊谷蓮生坊」でしょうか。一ノ谷の合戦で平敦盛を討ったことがきっかけで出家した熊谷直実ですね。能や歌舞伎などを通して江戸時代には著名だったのでしょう。
宗派の開祖など著名な僧は網羅されているように思えますが、道元があるのに、栄西がありません。
珂碩和尚は名も知りませんでしたが、奥沢の九品仏浄真寺を創建した人物と知りました。家の近くというほど近くはありませんが、以前奥沢に住んでいましたので、親近感が湧きました。
了碩和尚も全く知りませんでしたが、幡随院のお坊さんだそうです。
現代人と江戸時代の人とでは、関心や知識が違いますね。
『大全』が刊行された文政5年(1822)までの年数が記してありますので、これが人物特定の手がかりになると思ったのですが、史実に合致する者は少なく、ダメでした。
聖徳太子は日本書紀の記述と丁度100年違いですので、単純なミスと思われます。1~2年の差のある人物もいますが、中途半端な差のある人物も多く、誤りの経緯がよく分かりません。
もう1つ。文化人や武将の一覧もありました。
こちらも漢字に直してみました。
大織冠鎌足、守屋大臣、柿本人丸、山部赤人、吉備大臣、中将姫、猿丸大夫、
小野小町、在原業平、大友黒主、参議佐理卿、行成卿、菅丞相、小野道風、
紫式部、清少納言、西行法師、田村将軍、六孫王経基、多田満仲、源三位頼政、
平清盛、木曽義仲、源頼朝、源義経、最明寺時頼、楠正成、新田義貞、吉田兼好、
武田信玄、上杉謙信
万葉歌人は人麻呂と赤人だけでした。旅人、憶良、家持などはあまり関心を持たれていなかったのでしょうね。
猿丸大夫が入っているのは百人一首の影響ですかね。
こちらも、年代は史実と違っている人物の方が多いです。
そもそも没年未詳の人物が何人かいますけど、それらの人物についても漏れなく年数が示されています。
何か資料があったのか、あるいは「大体このあたり」ということで数字を入れたのかもしれません。
紫式部は、『大全』の数字で計算すると990年没となります。現代では源氏物語の年代として1008年という年代が示され、2008年には源氏千年紀の催しなどがありましたが、それと食い違いますね。
戦国武将では信玄と謙信が挙がっています。群雄割拠の時代、それ以外にも著名な武将がいましたが、江戸時代にはやはりこの2人が双璧ということになりましょうか。
信玄の没年は『大全』が4年遅くなっています。信玄は死に際して「三年喪を秘せ」と言ったという伝承がありますけど、そういう事情で、実際よりも遅い没年が伝承されていたということもあったのでしょうかね。
上の2つの一覧で、いずれの人物も没後文政5年までの年数が記されていますけど、あまり意味があるとは思えません。「○○年没」と書いてくれた方が分かり易かったと思います。大体、数年後にまた再版するような場合、また再版年を規準に年数を書き換えなければ(というより、版を彫り直さなければ)ならないので、大変に厄介と思います。
ともあれ、この2つのリスト、江戸時代後期の人々の関心の在り処や、知識などを知る手掛かりになりそうで、興味深いです。
昨日の続きです。
昨日はオモテ面をご紹介しました。オモテは、推古天皇12年(604)から文政10年(1827)までの1224年間の年表が大部分を占めています。
裏側は以下の通りです。
こちら側は、歴代天皇の一覧、鎌倉・室町・江戸幕府の将軍一覧、中国の歴代王朝一覧、など、様々な一覧が並んでいます。他に、暦(日の吉凶関係)や占いに関する項目もあります。盛りだくさんです。
日本地図。
そう大きな地図ではありませんが、単なる国別けに留まらず、国内の地名も載っています。例えば上野国。
このように、高崎、前橋、館林、沼田、安中(全部、大名領のある地ですね)が載っている他、碓氷と三国峠、榛名山と妙義山が載っています。「上ツケ」の下の地名が読めません。「タコ」とあるのは、多胡碑のある多胡郡かと思いますが、その下というか、それに続く部分が分かりません。
この日本全図の上方に「日本神社仏閣旧地年数」という一覧があります。その冒頭部。
それぞれの神社仏閣の創始から『和漢年代記大全』が刊行された文政5年(1822)までの年数が示されています。
加茂社は「二千四百三十二年」、伊勢内宮は「千九百二年」とあります。計算してみたら、加茂社は紀元前609年、伊勢内宮は紀元前52年となります。途方もない数字ですが、日本書紀の紀年によれば、加茂社は神武天皇52年、伊勢内宮は崇神天皇19年となります。どちらも日本書紀に関係記事はありませんが、日本書紀紀年などをもとにした計算があったのでしょうね。
同じリストの後半です。
出雲大社の「六百五十八年」というのが不審です。計算すると1165年(永万元年)になります。平安末期ですね。平清盛の時代。
出雲大社って、平安時代に何度も大風などによって倒壊していますよね。
その一方、鹿島社、多賀社、三輪社、白髭社は「神代よりちんざ年歴不詳」とあります。出雲大社もこの仲間で良さそうに思いますが。(^_^)
諸国の郡名がふりがな付きで全部載っています。600以上あります。
大和国。
上下に分割した郡は、「そふのかみ(しも)」「かつらきのかみ(しも)」「しきのかみ(しも)」などと、表記にかかわらず、きちんと読んでいます。「忍海」は「おしぬみ」ではなく「おしのうみ」ですね。
上野国。
「群馬」が「郡馬」となっています。(^_^; 読みは、「くるま」ではなく「ぐんま」です。「邑楽」は現在では「おうら」と読まれていますが、「おはらき」という古形で載っています。
昨日のオモテ面に続き、今日は裏面をご紹介する予定でしたが、裏面は内容豊富なので、終わりません。続きます。
このようなものを入手しました。
字が随分薄くなっていますが、『懐宝 和漢年代記大全』とあります。
綴じてはありません。1枚紙を縦に22面に屏風状に折り、それをさらに横に2つ折りにしています。
広げた大きさは、140cm×31.5cmほどです。
用紙の和紙は厚手です。
裏です。
「文政五壬年再刻」とあります。
「浄書 田中正造」とありますが、著者名はありません。
江戸の書肆の名が5軒挙がっています。
広げるとこのようになります。
字が小さすぎてよく分かりませんね。(^_^;
推古天皇12年(604)から文政10年(1827)までの1224年間の年表です。
横は12段になっています。1段目が子年、2段目が丑年……というように、格段は同じ干支になるように作られています。
冒頭部。
欄外に「隋」「唐」とあります。
1年はさらに2段になっていて、上段(白い部分)は日本、下段(黄色い部分)は中国です。
右上に推古十二があります。左に「日本式目のはじめ」とあるのは十七条憲法を指すものと思われます。
下段の黄色い部分には「隋 文帝 仁寿四」とあります。
なぜ推古12年から始まっているのかについては、この年が甲子でキリが良かったということがあると思います。
もう1つ、歴史年表を見ると、この年は日本で初めて暦が使われた年とあります。
ただ、日本書紀にはその記事はありません。政事要略に「儒伝云、以小治田朝十二年歳次甲子正月戊辰朔、始用暦日」(巻25)とあるのが典拠と思われます。この年がわが国における暦の初めであるなら、この年から年表が始まるのはよく理解できます。
ただ、『和漢年代記大全』の編集者は政事要略を見ていたのでしょうかね。それが疑問です。
和銅3年付近は次の通りです。
和銅3年は右下隅です。「みやこをならにうつす」とあります。
同年下段の中国の部には「睿宗 景雲」とあり、「中宗 皇后韋氏にころさる」とあります。
こんな感じで、毎年、日本と中国の年号と、その年の主な出来事が記されています。
南北朝時代には両朝の年号が併記されています。
両面印刷で、裏面は次のようになっています。
これまた細かいです。こちらについては後日(たぶん明日)改めて。
ひょんなことから、このチラシを入手しました。
群馬県立歴史博物館のチラシです。開館40周年記念、第100回企画展という記念すべき展覧会です。
まだ始まっていません。9月28日からです。
なんかインパクトがあります。
このチラシを作成したのは、群馬県立女子大学のデザインゼミの学生さん達だそうです。
裏面です。
土偶も好きです。
大学もこの博物館も、ともに群馬県立同士。こういう形の協力も良いですね。
7月31日(水)にBSプレミアムで放送された「英雄たちの選択」は2時間スペシャルで、タイトルは「そして万葉集が生まれた~大伴家持が残した日本人の心」でした。長いので、リアルタイムでは見ずに、2日後の昨夜、録っていたビデオを見ました。
出演は、上の画像で向かって左から、澤田瞳子(小説家)、いとうせいこう(作家)、司会の杉浦友紀、磯田道史、里中満智子(漫画家)、馬場基(歴史家)の諸氏で、会場は平城宮跡の東院庭園です。
他に、ビデオで上野誠、木本好信、新谷秀夫、中西進、鉄野昌弘の諸氏(登場順)のコメントがありました。
番組の初めの方で、大宰府や梅花の宴の解説があり、その宴の当時はまだ13歳くらいだった大伴家持の生涯を辿り、万葉集の成立を絡めるという内容でした。
「英雄たちの選択」という番組名に対応する出来事としては、橘奈良麻呂の変の際に、家持が変には加担せずに静観したことが万葉集の成立に繋がった(加担していたら万葉集は成立しなかったかも)ことが取り上げられていました。
里中満智子氏の万葉仮名に関する発言が「え?」でしたが、全体としては、分かり易く、納得できる内容で面白かったです。東院庭園の池の岸が、建造当初は大陸風に直線だったのが、徐々にデコボコに変えられていったという馬場氏のお話は興味深かったです。
この番組、通常は翌週の水曜日朝に再放送をしているようなのですが、あいにく今回はスペシャルで時間が長いせいか、来週の水曜日は別の回の再放送です。
いずれ再放送があると思いますので、興味のある方は、その折にでも是非。
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