史料・資料

2018年8月17日 (金)

明治5年の『日本地理往来』

 このようなものを入手しました。上下2冊です。
M5chiri01
 角書きに「郡名産物」とあるのに惹かれました。

 下巻の奥付に次のようにあります。
M5chiri02
 明治5年の刊行ですね。

 巻頭付近に折り込みの地図があります。
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 関東地方。
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 旧国名が四角の枠で、府県名が楕円形の枠で囲まれて書かれています。現在の栃木・群馬は宇都宮・栃木・群馬に分かれています。現在の茨城・千葉は茨城・新治・印幡・木更津に分かれています。現在の埼玉の西は入間です。

 中部地方。
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 現在の愛知から静岡西部にかけては愛智・額田・浜松です。現在の長野は、北部のみ長野で、信濃南部と飛騨とをあわせた地域は筑摩となっています。

 本文は次の通りです。府県別ではなく、旧国別になっています。
M5chiri06
 頭注欄に郡名や産物が記載されています。

 大和国の産物は次のように書かれています。
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 墨筆、葛粉、索麺、柿などは今も変わりませんね。

 上野国の頭注欄。
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 1行目の「吾妻」、現在は「あがつま」ですが「あづま」となっています。3行目の「群馬」、少なくとも江戸時代の初め頃までは、古代と同じく「くるま」と読んでいたことが分かっていますが、明治の初めでもなお「くるま」と読まれていたのかもしれません。「邑楽」も今は「おうら」と読みますが、これも、古代に「おほあらき」→「おはらき」と変化したと考えられています。明治の初めにも「おはらき」と読んでいたとしたら興味深いです。

 不審なのはその下の「新田」です。この本では「しんでん」とあります。この郡は、新田義貞の新田氏発祥の地ですので、古く「にひた」「にふた」などという読みはあったにせよ、「しんでん」は考えにくいところです。

 同時代資料は貴重ですが、正しいとは限らないと思われます。そこがまた同時代資料の面白いところです。

2018年6月13日 (水)

大正15年の「忠臣蔵新報」

 このようなパンフレットを入手しました。
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 大正15年4月の発行です。発行元の富士館は浅草六区にあった映画館で、尾上松之助主演映画の上演で人気を博したのだそうです。

 1枚紙の2つ折りで、全4ページです。

 1ページ目に尾上松之助の演説が載っていました。
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 300年の歴史を持つ忠臣蔵も、時代によって描かれ方が変わっていったことが、この文章からも伺えます。

 面白いことが書いてありました。
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 忠臣蔵は雪が降らないと撮れないとあります。今ならば、綿や塩や発泡スチロールを使って雪のシーンを撮影するのでしょうに、この時代は降雪待ちだったのですね。綿や塩だって使えたのでしょうが、予算の関係でしょうかね。

 いつまでも雪が降らない可能性だってあったでしょうに、雪待ちをして、午前3時に総動員しての撮影って、すごすぎます。

 見開きの2~3ページです。
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 ここには撮影スケジュールが載っています。

 その冒頭部。
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 末尾。
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 たまたまでしょうけど、撮影日数が47日。ロケもあちこちで行っています。

 最後のページは丸ごと配役表です。
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 さすがに大正15年というと名前を知っている人さえほとんどいません。あと10年くらい後ならば、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、阪東妻三郎、月形龍之介、山田五十鈴などなど、知っている人がたくさん並ぶのですけど。

 わがライフワークの「忠臣蔵配役表」(更新はずっと中断していますけど)の貴重な資料になります。

 このパンフレットの発行が大正15年の4月。主演の尾上松之助が亡くなったのはこの年の9月11日だそうです。松之助の最後の作品かもしれませんね。

2018年6月 7日 (木)

明治30年前後の奈良市鳥瞰図

 このようなものを入手しました。
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 表紙には英語しか書かれていません。出版者は大阪のカワカミさんで、神戸の神戸ヘラルドが SOLE AGENTS とあります。総代理店ということでしょうか。海外に輸出したものかもしれません。神戸ヘラルドの所在地は Kio Machi,Kobe とあります。神戸の地名には疎いのですが、どうも現在の神戸市中央区京町のことと思われます。そうすると、ここは旧外国人居留地のようです。

 中身です。
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 右下に奈良の大仏の絵が描かれています。
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 なんか、あまり似ていないような。(^_^;

 「おお!」と思ったのは、猿沢池の周囲です。
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 先日ご紹介した明治18年の定宿帳にあった魚屋佐兵衛(魚佐)と、明治31年の定宿帳にあった印判屋が載っています。位置もピッタリ。

 奈良の名所絵図を何枚か持っていますけれども、それらの絵図に宿屋が載っていることはほとんどありません。そういう意味でこの絵図は貴重です。

 海外からの旅行者を対象にしているので旅館を載せたのでしょうかね。

 定宿帳2点とこの鳥瞰図とがうまく繋がりました。

 この絵図、発行年月が記載されていないので、いつのものか分かりません。

 ただ、奈良国立博物館が載っていますので、奈良国立博物館ができた明治28年以後のものです。
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 現代はこのようになっています。
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 この池のあたり、鳥瞰図はこのようです。
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 菊水楼はどちらにも載っていますね。この旅館は明治24年創業とのことです。
 現在、菊水楼の近くにある四季亭は鳥瞰図には載っていません。温泉所とあるあたりです。四季亭の創業は明治32年だそうですので、この鳥瞰図の年代は、奈良博ができた明治28年以降で、四季亭ができる明治32年以前ということになります。

 意外と範囲が狭められました。明治時代の奈良に詳しい方が見れば、もっと絞り込めるかもしれません。

 なお、奈良ホテルの建っている場所は、鳥瞰図では飛鳥山とあり、建物は建っていません。奈良ホテルは明治42年創業だそうですので、載っていなくて当然ですね。

 この鳥瞰図、表紙には英文しか書かれていないのに対して、地図上の文字は全て日本語です。

 ただ、地図上の固有名詞のいくつかには番号が付いていて、それらについては地図の左端に英文が挙がっています。
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2018年5月28日 (月)

明治31年の定宿帳

 明治31年の定宿帳を入手しました。
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 これ、以前ご紹介した明治18年の定宿帳とよく似ています。

 明治18年の最初のページ。
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 今回の明治31年の最初のページ。
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 どちらも、伊勢神宮がスタートですが、その前に豊橋の壺屋庄六があります。豊橋から船に乗って、海路伊勢に向かいます。両者、内容は同じですが、文字が違いますので、同版ではありません。同様の内容を新たに彫ったのですね。

 奈良のページは全く異なります。

 明治18年の。
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 明治31年の。
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 明治18年のは魚屋佐兵衛が指定されています。後年の魚佐旅館ですね。地図も魚屋佐兵衛の旅館が示されています。

 明治31年のは「いんばんや庄右衛門」が指定旅館です。地図もいんばんやが案内されています。

 現代の(というか、少し前の)地図です。
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 定宿帳の地図は、明治18年のも31年のも東が上です。現代のは北が上なので、90度回転させて見ないとなりません。魚佐旅館は猿沢池の南にあります。いんばんや庄右衛門は、定宿帳には「なんゑん堂の下たるい丁さる沢いけのまへかど」とあります。今の天平ホテルの位置に当たりそうです。

 ググってみましたら、上方落語「東の旅」に、奈良の旅籠として、印判屋庄右衛門の名が小刀屋善助と並んで登場していました。有名な旅籠だったようです。

 定宿帳のいんばんや庄右衛門の所には、「いんばんや」という朱印が捺してありますね。表紙にも同じ印があります。表紙にはもう1つ、「大鶴」という朱印が捺してあります。

 探してみたら、法隆寺の宿に「大こくや鶴松」というのが見つかりました。
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 ここに「大鶴」の印が見えます。「大こくや鶴松」をつづめて「大鶴」ですね。

 これもググってみたら、法隆寺夢殿前に大黒屋という旅館のあったことが分かりました。「斑鳩の記憶データベース」に「廃屋の大黒屋」というページがあり、写真も載っていました。

 それによれば、高浜虚子が『斑鳩物語』を執筆した旅館として有名だそうです。鴟尾をのせた木造3階建ての旅館で、明治10年頃に建設されたということです。

 現在も同様の位置に同名の旅館がありますが、関係は分かりません。

 いろいろと分かって楽しいです。

2018年4月 2日 (月)

明治40年の修学旅行地図

 明治40年の「修学旅行地図」を入手しました。範囲は「榛名山 伊香保 妙義山 浅間山 磯部」です。裏面は白紙です。
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 奥付は次のようになっています。
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 凡例は次の通りです。距離がkmではなく、里となっています。
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 地図上の地名等に赤い下線を引いたものがあり、それはこの地図の持ち主が引いたものか、あるいは凡例ともども、最初から印刷されていたものか判然としません。

 赤線が多いのは伊香保・榛名のあたりです。1年生の研修旅行でよく行った地ですので、親近感があります。
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 磯部温泉は、温泉ではなく鉱泉とあります。当時の湯温(水温)は摂氏10度台しかなかったようです。富岡製糸場は「製糸場」として載っています。
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 高崎市、前橋市は今よりもずっと狭い範囲です。町村合併を経て、今は両方とも広い面積を占めるようになりました。
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 なお、「市」はこの2市のみのようで、渋川、藤岡、安中、富岡など、みなまだ「町」です。

 上野三碑のあるあたりはこのようになっています。3碑とも全く記載されていません。当時はまだ関心が持たれていなかったのでしょう。
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 やはり同時代資料は見ていて楽しいです。

 なお、標題に「修学旅行地図」とあるからには、この地図は修学旅行に用いたものでしょうが、どう使ったのでしょうかね。行き先の大まかな位置が分かるくらいの役割しか果たせないように思いますけど。

2018年3月20日 (火)

『師範学校国文教科書』巻六(つづき)

 昨日取り上げた師範学校国文教科書の続きです。

 附録の 「二 文字に関する問題」には次のようにあります。
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 続きです。
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 1から9まで、それぞれに興味深いです。現代ではもう決着の付いてしまったものあり、まだ決着をみないものあり、様々ですね。

 1の平仮名・片仮名の優劣というのはどういうことでしょうね。小さい文字のコメントを読むと、どちらの方が憶えやすいか、ということでしょうかね。当時はまだ漢字カタカナ交じり文も多かったことでしょうし、小学校では片仮名の方を先に教えたようですから、こういうことが問題になっているのでしょうね。

 3の漢字制限のことは、戦後すぐに実現しましたね。でも、近年は電子機器の普及により、読める漢字と書ける漢字とを分けて考えるようになってきたのは、新しい流れですね。

 6も、戦後、現代仮名遣いとして実現しましたね。でも、個別にみてゆくと、矛盾点もあって、解決済みとは言えないようです。

 「四 単語に関する問題」は以下の通りです。
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 これまた、現代でも問題になりそうな事項がありますね。そもそも、どこかで決めるべきことなのか、決める必要のないことなのかという問題もありそうに思えます。

 昨日書いたように、これらの「附録」が初版の明治36年から既に存在していたのか、あるいはその後の訂正版あるいは修正版のどこかで付いたものなのか不明ですが、長年月に亙る問題ですね。

 この教科書では、これらの問題点について、どうあるべきものか、どうすべきものかということは言及していません。こういう問題点があるということを示しているのみです。将来教職に就く人たちに対して、こういう問題点があることを心に止めて置いてもらいたい、という趣旨なのかと思います。

2018年3月19日 (月)

『師範学校国文教科書』巻六

 ネットオークションで見つけて買いました。大正13年のものです。
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 当時、師範学校の国語の教科書にはどんな作品が載っていたのか、ということに興味を抱いて、手を出してしまいました。

 目次です。
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 続き。
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 内容は、評論やら小説やら、様々ですね。古典は中世のものが多いです。この本は巻六ですので、巻によって特定の時代の作品を集めているとか、そういった方針があるのかもしれません。1冊だけでは何とも、です。

 目次の最後にある「附録」が興味深かったです。

 「一 発音に関する問題」は以下の通りです。
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 当時は歴史的仮名遣いだったので、特に1、2などが問題になったのでしょう。現代では解決済みでしょうね。3は、現代においては、鼻濁音を使うべきところではそうすることが望ましい、と言われることもありますけど、強制はされていませんね。4は、現代ではあまり問題にされていないように思います。

 末尾に「訛音矯正」という語がありますね。訛音は矯正すべきものという前提があったことが推測されます。

 この教科書の奥付は以下の通りです。
T13shihankoku6i
 「附録」が、初版の明治36年の時点からあったのか、あるいは、その後の訂正、修正のどこかの段階で付け加わったのかは分かりません。

 「二 文字に関する問題」や「四 単語に関する問題」もなかなか興味深いです。小出しにするわけではありませんが、また後日。

2018年3月 9日 (金)

明治18年の定宿帳(飛鳥)

 一昨日からご紹介している資料について、もう1回。(^_^)

 奈良から先へページを繰って行くと、飛鳥方面が出てきます。
M18isshin08
 このページを見ると、高田から道が分かれるようです。上の方は、今井→神武天皇御陵→立花寺→岡寺と続きます。下の方は、小房→安倍→飛鳥と辿って、岡寺で合流します。

 上のルートは、以前ご紹介した久米寺前の道しるべと重なりますね。
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 この道しるべには、「右 おかてらたち花」「左 じん武橿はら」とあります。まさに、この道しるべは神武天皇陵と橘寺との間に位置しています。

 下の方のルートにある小房は、藤原宮の西に位置し、私はまだ寄ったことがないのですが、おふさ観音寺があります。この定宿帳にある小房は、直接にはこの観音寺を指しているのでしょう。

 前にもご披露したように思いますが、戦前の地図にはこうあります。
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 畝傍駅と畝傍御陵前駅との間に、今はもう廃線になってしまった路線があり、そこに小房駅があります。こういうバイパスができるほどにおふさ観音寺は信仰を集めたお寺なのでしょうね。

 あれこれ面白いです。

2018年3月 8日 (木)

明治18年の定宿帳(奈良・魚佐旅館)

 昨日の定宿帳の続きです。
M18isshin01
 伊勢のあとは榛原や長谷を経由して奈良に至ります。
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 それぞれの宿場には1軒ずつ宿の紹介があります。「入口より四丁目つきあたり」「くわんをんまへ角」「入口より四丁目出口」などという簡単な道順の説明も書いてあります。

 そして奈良。上のページとは異なり、1ページ丸ごと奈良です。
M18isshin04
 ページの左側には山形に「ウ」のマークと「うをや佐兵衛」の文字。その下には印が捺してあり、印面は、中央に「山ウ」のマーク、周囲には「和州奈良魚屋佐平」とあります。この印面は表紙の右下の朱印と同じです。

 この宿屋の所在地の説明も、「さる沢いけのまへ今みかど町 いけより角二けんめ」と詳細です。絵図も詳細ですね。画面右側に「今みかど丁」とあるすぐ下がこの旅館です。「山ウ」のマークが描かれています。猿沢池の前の川に架かる橋を渡った先です。

 説明文とこの絵図があれば迷わずに行き着けることでしょう。破格の扱いです。表紙に「同盟周旋方」とあるように、この道中記はこの宿屋が製作したものなのでしょうね。

 絵図の上方に三笠山などが描かれていますので、方角は上が東。この旅館の位置は猿沢池の南に位置します。今のどの辺だろうと思って、パソコン内の電子地図を見てみました。
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 猿沢池の南に魚佐旅館があります。池の前の橋を渡った先です。「あっ!」です。この旅館の名前は今までも奈良の地図を見る度に目に入ってはいました。「魚屋佐兵衛」と「魚佐旅館」、場所もバッチリ。この旅館が後身なのでしょう。わくわくします。(^_^)

 ただ残念ながら、ググってみましたら、この旅館は2013年の1月に閉館して取り壊され、今は結婚式場が建っているとのことです。私の電子地図はやや古いので、この旅館が載っていました。

 古地図が大切なだけでなく、古電子地図も大切かもしれません。

2018年3月 7日 (水)

明治18年の定宿帳(豊橋の壺屋)

 道中記も私の収集対象の中に入ってきています。この度、このようなものを入手しました。明治18年のものです。
M18isshin01
 左側に、山形に「ウ」のマークの下に「同盟周旋方」とあり、右下にも中央に同じマークの入った朱印が捺してあります。ページをめくって行くと、このマークは奈良の「うをや佐兵衛」のものと分かります。それは別稿で。左下には「袋井駅本多留平改印」とありますが、この意味は分かりませんでした。

 最初のページはこのようです。伊勢神宮から始まって、奈良、飛鳥や高野山、大坂などへの旅程が載っています。
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 不思議なのは1行目にある豊橋のつぼや庄六です。なぜ伊勢神宮の前に豊橋があるのかさっぱり分かりませんでしたが、以前当ブログでもご紹介した明治21年の定宿帳を見て判明しました。
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 左下にありますように、豊橋から伊勢神宮への船が毎日出ていたようです。それで、伊勢の1つ手前が豊橋なのでした。こちらも同じくつぼや庄六です。

 さて、この「つぼや」、ググっていたら、現在、豊橋に壺屋という弁当屋さんがあるのを知りました。HPもあります。そこに、「壺屋の歴史」というページがあって、そこに年表が載っていました。その冒頭部分を示します。

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 明治21年(1888年) 旧東海道船待ちの豊橋付近で豊川を上下する船頭旅行相手に回槽問屋と料理旅館を経営。国鉄東海道本線開業の直前、東海道筋がさびれるのを見越して駅前へ移転進出し壺屋旅館開業。

 明治22年(1889年) 前年の豊橋駅開業に伴い、豊橋駅構内営業を承認される。

 明治末期 この頃より稲荷寿しの販売を開始。

 大正期 「壺屋旅館」から分離独立して「壺屋弁当部」創立。店舗を花田中央町に構える。
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 今回ご紹介しているのは、明治18年の定宿帳ですので、上の年表にある明治21年の壺屋旅館開業よりも前です。まだ旅館ではなく廻船問屋の時代だったのでしょうかね。

 なんか興味深いです。

 さらに探すと、年代未詳の「真誠講」にもこんなページがありました。
Shinseiko03
 伊勢神宮から豊橋へは船での移動となっています。これも当ブログでご披露していたものでしたが、すっかり忘れていました。豊橋の出船所はやはり「壺や庄六」とあります。「泊」ではなく「休」ですので、まだ旅館にはなっていないのかもしれません。

 今回入手した道中記では、伊勢神宮の直前に豊橋があったことで「はて?」と思いました。これで、豊橋と伊勢との船便のことが頭に定着したことと思います。(^_^)

より以前の記事一覧

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