史料・資料

2022年12月 2日 (金)

「本朝英雄鑑」

 このようなものを入手しました。
Eiyukagami01
 題名は「本朝英雄鑑」で、源平時代から戦国時代の武人が番付状に並んでいます。
 人数は数えていませんが、軽く100人は超えますね。200人や300人はいそうです。
 相撲の番付だと、力士名の上には「大関」「関脇」などの地位が書かれますが、この番付では武人の名の上には「将軍」「忠勇」などの特徴名が書かれています。そして、左右(東西)で、同位置には概ね同じ特徴名が置かれています。

 最上段の左右(東西)を上下に切り貼りして示します。
Eiyukagami02
 上段4番目には坂東武者の鑑と謳われた畠山重忠がいます。それに対応する下段には北条泰時です。
 その2行先の上段には大江広元がいます。それに対する下段は前田利家です。
 その2つ先は「悪勇」で、上段が平将門、下段は明智光秀です。
 うしろから3行目は「勇者」で、上段が柴田勝家、下段は和田義盛です。
 「鎌倉殿の13人」の登場人物もたくさんいますね。
 大江殿が最上段というのはちょっと意外でした。

 3段目はこのようになっています。また左右を上下に切り貼りして示します。
Eiyukagami03
 ほぼ中央あたり、上段に「奸智」として石田三成がいます。これに対応する下段は「奸雄」として梶原景時です。
 うしろから4行目に「侫奸」として、上段には北条義時、下段には高師直がいます。
 子息の泰時は最上段に「賢者」として扱われているのに、父の義時は3段目に「侫奸」ですからねぇ。
 ま、大河を見る限りは真っ黒に描かれていますね。
 その隣は「猛勇」として、上段が本多平八郎、下段が仁田殿です。

 中央には相撲番付だと行司や勧進元などが書かれますが、この番付では軍師などが書かれています。
 一番上と2番目。
Eiyukagami04
 軍師は、中央に楠木正成、他には竹中半兵衛や真田幸村、山本勘助等がいます。
 「智仁勇」は、中央が源義経、他に木村重成、八幡太郎義家、加藤清正、源頼光。上杉謙信と武田信玄もここにいます。

 3番目と4番目。
Eiyukagami05
 ここは「怪力」ですね。上段中央には武蔵坊弁慶。怪力無双の代表ですね。
 あと、坂田金時や曽我五郎は有名ですが、下段中央の木村正国というのは不明です。

 5番目と6番目。
Eiyukagami06
 上段は「勇婦」で、中央に神功皇后、その左右に巴御前と北条政子がいます。
 下段には中央に豊臣秀吉、左右に源頼朝と平清盛が大きな文字で書かれています。
 その他には、源平藤橘の始祖が小さい文字で書かれています。

 というようなものです。
 あちこち見ていて見飽きません。

 刊記がなく、いつのものか分かりませんが、徳川家康を初めとして、徳川、松平性のものが全く登場しないので、これは恐らく徳川将軍家を憚って対象外としたものと思われますので、江戸時代のものではないかと推察されます。

 なお、左方に真田昌幸と真田大助が張り出されています。
 なぜ張出扱いにしたのか不明ですが、「軍師」に真田幸村と真田幸隆が書かれていることと合わせて、真田人気が偲ばれます。
 だって、真田大助って14歳だか16歳ですよね。異例です。

 などなど、江戸時代に、どのような武人がどのような存在とされていたのかを知る資料として、大変おもしろく眺められます。

2022年11月30日 (水)

明治31年の武者メンコ

 このようなものを入手しました。
M31musha01
 明治31年に発行された武者メンコです。
 薄い紙に印刷されていますので、購入者が厚紙に貼りつけて、切り離して使ったのでしょう。
 全部で36人の武者が描かれています。
 時代は八幡太郎義家から徳川家康の家臣達に及びます。
 そして、隣り合う者同士がライバルであったり親子であったりと関連付けられています。
 それぞれのペアは顔を向かい合わせています。

 バラバラに切り離されてしまえば、隣同士のペアを作っても意味ありませんね。
 あるいは切り離さずにこのまま眺めて楽しんだりもしたのかもしれません。

 ペアを何組かご披露します。

 八幡太郎義家と安倍貞任
M31musha02

 平将門と藤原秀郷
M31musha03

 木曽義仲と源義経
M31musha04
 義経の相手は平家の武将ではなくて木曽義仲になっています。
 平宗盛や源頼朝なども候補になりそうですが、しっくりこないかもしれませんね。
 敵同士でなくても良いので、弁慶という手もありそうです。
 弁慶は伊勢三郎と並んでいます。

 巴御前と和田義盛
M31musha05
 大河ドラマの2人の顔が思い浮かびます。
 木曽義仲の立場は……。

 平敦盛と熊谷直実
M31musha06
 フルネームでなく、「敦盛」と「熊谷」とだけあります。これで十分なのでしょうね。

 楠木正成と足利尊氏
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 武田信玄と上杉謙信
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 この2人は例外的に顔を向き合わせていません。

 山本勘助と直江兼続
M31musha09
 軍師同士という位置づけと思われますが、直江兼続は立場と時代がズレるように思います。
 直江兼続も単に「山城守」で十分なのでしょうね。

 真田幸村と真田大助
M31musha10
 親子ですね。

 最下段には徳川家康とその家臣達が並んでいます。

2022年11月20日 (日)

昭和6年の「名流花形大写真帖」(4)

 昭和6年の「名流花形大写真帖」の第4弾です。
 右ページは高津愛子、左ページは山田五十鈴。
S06hanagatashin20

 右ページは早川雪洲、左ページは上山草人。
S06hanagatashin21
 この見開きページは、海外の映画界で活躍した2人です。
 早川雪洲は、緒形拳が秀吉、高橋幸治が信長を演じたNHK大河「太閤記」で武田信玄を演じています。

 右ページはゲイリー・クーパー、左ページはモーリス・シュバアリエ。
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 この見開きの間に本来はもう1枚あったのが破り取られています。
 索引によれば、そのページのオモテにはハロルド・ロイド、裏にはクライブ・ブルックがありました。
 ハロルド・ロイド目的に破り取ったのでしょうかね。

 右ページはジョン・クローフォード、左ページはグレタ・ガルボ。
S06hanagatashin24

 ということで、4回に分けてご披露してきた「名流花形大写真帖」、一応今回で終わりにします。
 昭和6年頃に活躍していた舞台俳優、映画俳優でどなたかリクエストがあれば載せます。

2022年11月19日 (土)

昭和6年の「名流花形大写真帖」(3)

 一昨日、昨日に続き、昭和6年の「名流花形大写真帖」の第3弾です。

 右ページは田中絹代です。
 左ページは千代田ポマードの広告ですが、左右のページでリンクはしていないようです。
S06hanagatashin15
 田中絹代の解説。
S06hanagatashin16
 末尾に体重が九貫七百目とあります。
 尺貫法には馴染みがないですが、この冊子の中で体重が1ケタ貫というのはあまり記憶がありませんので、思わずメートル法に換算してしまいました。
 一貫=3.75kgですから、九貫七百目は、9.7×3.75=36.375kgとなります。
 田中絹代、軽すぎ。

 右ページは林長二郎、左ページは坂東壽之助です。
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 林長二郎はのちに長谷川一夫と改名します。
 というか、長谷川一夫が本名だそうです。

 右ページは月形龍之助、左ページは千早晶子です。
S06hanagatashin18
 月形の名は龍之介で親しんできましたが、この冊子では龍之助となっています。
 この当時はそう表記していたのか、あるいは誤植か不明です。
 この左右のページは本来は見開きではなく、中間の1枚が破り取られています。
 両ページの中間下方に破り取られたページの残骸が見えます。
 索引によれば、破り取られたページの表側は市川右太衛門、裏側は明石潮です。
 破り取ったのは市川右太衛門のファンでしょうかね。
 それにしては破り取り方が乱暴ですけど。(^_^;

 右ページは片岡千恵蔵、左ページは酒井米子です。
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 酒井米子は「元録快挙 大忠臣蔵」(昭和5年、日活)、「忠臣蔵」(昭和13年、日活京都)で大石の妻りくを演じています。

 まだ続きます。

2022年11月18日 (金)

昭和6年の「名流花形大写真帖」(2)

 昨日の昭和6年の「名流花形大写真帖」の続きです。

 右ページは水谷八重子です。左ページはウテナクリームの広告ページで、水谷八重子が登場しています。
S06hanagatashin08
 これは、水谷八重子を特別扱いしているのか、あるいはスポンサーのウテナを特別扱いしているのか。

 右ページは木村光子、左ページは山本安英です。
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 2人の解説は以下の通りです。
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 右ページは伊井蓉峰、左ページは喜多村緑郎です。
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 2人の解説は以下の通りです。
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 伊井蓉峰は昭和3年の「実録忠臣蔵」(マキノプロ)で大石を演じています。

 右ページは柳さく子、左ページは飯田蝶子です。
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 2人の解説は以下の通りです。
S06hanagatashin14
 飯田蝶子は、私が子供の頃、いろいろなドラマにお婆さんの役で出演していました。
 映画俳優には、このように身長と体重が載っています。
 尺貫法です。貫で言われると、なんか重く感じてしまいます。(^_^)

2022年11月17日 (木)

昭和6年の「名流花形大写真帖」(1)

 このようなものを入手しました。
S06hanagatashin01
 表紙にハトロン紙が掛かっていて、折角のをきれいに剥がせそうもなかったので、そのままにしました。
 「芝居と映画 名流花形大写真帖」とあります。

 最後のページと裏表紙。
S06hanagatashin02
 奥付により、講談社の雑誌『富士』昭和6年新年号の附録であることが知られます。
 右ページに懸賞募集が載っています。
 この冊子には340人もの俳優が掲載されています。その中から外国人を除き、男女1名ずつの人気投票を行い、一番多くの票を獲得した男女の俳優に銀製の大カップを贈呈するとともに、その俳優に投票した読者の中から抽選で賞品を贈るという企画です。

 賞品は次の通りです。
S06hanagatashin03
 一等は総桐の重ねタンスですねぇ。今ではちょっとありませんね。
 四等の「シャープ鉛筆」というのは今のシャープペンシルでしょうね。

 索引は次のようになっています。
S06hanagatashin04
 いろは順です。この頃はまだいろは順が主流だったのでしょうね。

 本文は次のようになっています。
S06hanagatashin05
 右ページは五代目中村歌右衛門、左ページは十一代目片岡仁左衛門です。
 写真の下に紹介文が書いてあります。仁左衛門の場合は次の通りです。
S06hanagatashin06
 幕末の安政の生まれですねぇ。江戸猿若町というのはいかにも歌舞伎役者という気がします。
 当代は十五代目ですね。

 右ページは十五代目市村羽左衛門、左ページは七代目松本幸四郎。
S06hanagatashin07
 当代は十代目ですね。
 松本幸四郎は3人見て来たので、紛らわしいです。(^_^;
 区別するには、松たか子を基準にするとわかりやすいと聞きました。
 この松本幸四郎は松たか子のひいお祖父さんになりますか。

 この冊子、(2)以下、続きます。

2022年11月 7日 (月)

昭和5年「大忠臣蔵」のパンフレット

 昭和5年の「元禄快挙 大忠臣蔵」のパンフレットです。
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 パンフレットといいますか、1枚紙を三つ折りにしただけのものです。

 三つ折りを開いた内側は次のようになっています。
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 名場面の写真があり、左端には配役表があります。

 配役表は6段組で文字はかなり細かいです。
 最上段。
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 大石は大河内伝次郎、浅野は片岡千恵蔵です。
 今から92年も昔の映画ですので、この段でよく知っている俳優はこの2人くらいです。
 最下段には山田五十鈴がいます。

 表紙と同じ側を内側に折った部分にはこのような画像があります。
S05daichushingura09
 左側が浅野内匠頭で、右側が吉良上野介ですね。
 吉良は画像が薄く、浅野の夢か幻に登場した姿でしょう。
 当時、こういう技術もあったのですね。←92年前の技術を侮ってはいけない。

 裏表紙の下にはこうあります。
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 このパンフレットは池袋平和館のものです。
 「駅の正面」とあります。
 今や、池袋駅は巨大化して、「駅の正面」と言われても、どこだか分かりませんが、当時はこれで通じたのでしょうね。

2022年11月 2日 (水)

「倭歌」をめぐって

 一昨日報道された「倭歌」木簡を大変興味深く思って、昨日、新聞記事をまとめてみました。
 取材されていた諸氏の解説も大変に参考になりました。

 ただ、瀬間さんの発言として「漢詩は遣唐使などを通じて、遅くとも7世紀には日本にもたらされた。」とありますが、ご本人は取材に対して「漢詩は亡命百済人を通じて盛んになった」と答えたのだそうです。
 ところが新聞紙上では「亡命百済人」が「遣唐使など」に変えられてしまっています。著者校正がありませんから、こういうことが起こってしまうのですね。
 新聞記者の知識の範囲で記事を書こうとするからこういうことになるのでしょう。困ったことです。

 この木簡の発見によって、漢詩に対する「やまとうた」という語が奈良時代の中頃に既に存在していたことが明らかになったわけで、非常に意味のあることと思います。

 私も「倭歌」木簡をめぐって少し考えてみました。

 順序として、旧国名「やまと」(現在の奈良県)の表記の変遷は次の通りと考えられます。
   倭(やまと)
  →大宝年間に国名を2字にするために「大倭」(よみは「やまと」か「おほやまと」)
  →天平9年(737)疫病の流行により「大養徳」
  →天平19年(747)「大倭」に戻す
  →天平宝字2年(758)頃「大和」(よみは「やまと」か「おほやまと」)。

 次に、国号の表記は古くは「倭」であったものが、天武朝または大宝年間に「日本」と改められ、大宝2年の遣唐使によって唐にも承認されたと考えられます。
 よみはやはり「やまと」です。
 「やまとたけるのみこと」の表記が、古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」であることは興味深いことです。

 国名「やまと」の表記は国号「やまと」の表記にも影響を及ぼします。
 「やまとうた」は古くは「倭歌」と表記されたはずで、これが「和歌」と表記されるようになるのは、国名「やまと」が「大和」と表記されるようになる天平宝字2年(758)頃以降のはずです。
 従って、これ以前に「和歌」という表記があるとすれば、その意味は「和(こたふる)歌」ということになります。

 和名類聚抄では国名「大和」に「於保夜万止(おほやまと)」と附訓していますので、この影響で「和」単独で「やまと」とよまれることもあったのでしょう。かつての「倭」を「和」に置き換えたという経緯もあって。

 日本を意味する「やまと○○」という語は、唐や新羅を意味する「から○○」に対するものですね。
 万葉集には「倭琴」という語が2例(七・1129番歌題詞、十六・3850左注)あります。「からごと」に対する「やまとごと」です。
 そしてもう1つ、大伴家持から送られた手紙と歌への、大伴池主の返書の中に「兼ねて倭詩を垂れ、詞林錦を舒(の)ぶ。」とあります。
 ここでは「倭歌」ではなく「倭詩」ですね。漢文なので、こういう語を用いたのでしょうか。

 万葉集には、日本に対する外国のものという意の「から○○」に、からあゐ(藍)、からうす(臼)、からおび(帯)、からかぢ(楫)、からころも(衣)、からたま(玉)などがあります。
 これらの語に対する「やまと○○」という語は特に用いられず、単に「○○」で用は足ります。
 日本の歌も、通常は「うた」といえば用は足りるので、これをことさらに「やまとうた」というのは、新聞記事で諸氏が指摘されているとおり、漢詩を意識してのものなのでしょう。

 「倭歌」に触発されて、つらつらと考えてみました。
 あまりまとまりませんが。

2022年11月 1日 (火)

「倭歌」木簡の記事(まとめ)

 昨日、「倭歌」と記した木簡が発見されたという新聞記事がネットにも載り、ツイッターでも話題になりました。貴重な文字資料の発見と思います。
 各新聞記事を読んで、内容をまとめてみました。

 この木簡は、長さ約30センチ、幅約3センチ。東方官衙地区の排水路から令和2年12月に出土し、奈良時代中頃(8世紀半ば)以前のものとみられる。洗浄や解読が進められた結果、「倭歌」という語が記載されていることが分かり、今年10月に上智大学教授瀬間正之氏の指摘で、「倭歌」の最古例とみられることが判明した。

 オモテには「倭歌壱首」に続いて「多□□□□□(奈久毛利阿?)米布良奴」とあり、裏には「□□□□……□米麻児利□(夜?)止加々布佐米多 夜」とある。

 平城宮跡資料館(奈良市)で開催中の「地下の正倉院展」で今日から13日まで展示される。

【参考】
 万葉集の巻5に、大伴旅人が帰京する際の送別の宴で山上憶良が詠んだ歌(876~879)の題詞に「書殿餞酒日倭歌四首」とあるが、写本によって「倭歌」「和歌」という異同がある。「倭歌」ならば「やまとうた」の意になるが、「和歌」の場合は「やまとうた」ではなく「和(こたふる)歌」の可能性がある。
 『続日本後紀』の嘉祥2年(849)3月26日条には、「夫倭歌之体。比興為先。感動人情。最在茲矣。」とあり、従来は少なくともこの頃には倭歌の概念が成立していたと考えられていた。
 古今和歌集(905年)の仮名序の冒頭には「やまとうたは、ひとのこゝろをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。」とあり、これが仮名で書いた「やまとうた」の最古の例。真名序の冒頭には「夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。」とあり、「和歌」の表記が「やまとうた」の意で用いられている。

【上智大学教授・瀬間正之氏】
 「奈良時代に『倭歌』という語が既に広まっていた証しとして貴重だ」
 奈良時代末期ごろに成立した万葉集の後世の写本には「倭歌」との記載があるが、問いかけの歌に答える「こたえうた」の意味で使われる「和歌」と表記される写本もあり、原本で「倭歌」が使われたかは不明だ。
 これまで「倭歌」が明確に意識されたのは古今和歌集が成立した平安時代以降と考えられていたが、今回の木簡で既に奈良時代に「倭歌」の語が普及していた可能性が生じた。 「写本で伝わっている万葉集ではなく、木簡という生の資料に書かれた『倭歌』が見つかったことが重要」
 倭歌とは長歌や短歌、歌謡などの総称。漢詩は遣唐使などを通じて、遅くとも7世紀には日本にもたらされた。それ以前から日本固有の歌はあったが、やがて両者の区別を明確にする目的で「倭歌」という言葉が使われるようになる。平安時代の歴史書「続日本後紀」には、849年3月26日に「倭歌」の記述が見え、従来は少なくともこの頃には倭歌の概念が成立していたと考えられていた。(毎日)
 「『やまとうた』の確実な初出例・最古の例。国際的な意識が感じられる」(朝日)

【奈良大学准教授・鈴木喬氏】
 「倭歌壱首」に続く「多□□□□□(奈久毛利阿?)米布良奴」と読める部分については、「たな曇り雨降らぬかも」と続くと推測する。
 宴で詠まれた歌や恋の歌で「雨が降れば一緒にいられるのに」という心情を詠むのに使われる表現だという。裏面の読解は難解で、表面とつながるかはわからないとしたうえで、「雨を口実に相手を引き留める」歌にも読みうると話す。
 「『倭歌壱首』となっていることで、漢詩を含め、何首か披露される場面も想定される。宴会の座興のように、文芸の場で歌われたのではないか。万葉集では『一首』と書き、行政資料のように『壱首』としたのは初めて見た。歌を書きとどめている書きぶりを想像します」(朝日)

【國學院大學教授・上野誠氏】
 「奈良時代中ごろ以前に『やまとうた』という言葉があったと出土資料で証明した」(朝日)
 「固定電話や和菓子ということばが携帯電話や洋菓子の出現で生まれたように、『やまとうた』も中国の漢詩を意識しないと生まれないことばだろう。『倭』には『背が低い人』などマイナスの意味もあり、『和む』という意味の『和』が好まれるようになった歴史があるのではないか」(NHK)
 「洋菓子と和菓子の関係のように、漢詩がなければ『倭歌』という言葉は生まれない。日本の歌という理解がこの時代には強く意識されていたのだろう」
 この木簡は「儀式などで倭歌を詠むための手控えとして、役人が書き留めたものではないか」(毎日)
 「多□□□□□(奈久毛利阿?)米布良奴」と読める部分については、「『雨が降らないかなあ』といった意味で記したのかもしれない。和歌を作ろうと推敲しながら、フレーズを書き留めていた可能性がある」
 「書き手は宴会で歌を披露する機会が多かったのかもしれない。それなりに位の高い役人だったのでは」(産経)

【奈良県立万葉文化館企画・研究係長・井上さやか氏】
 日本初の漢詩集「懐風藻」(751年)からは、宮内の儀式で漢詩が詠まれていたことが分かるという。
 「当時の役人は漢詩とともに倭歌にも親しんだ。『倭歌』という言葉には、中国に並ぶ独自の文化が日本にもあるという誇りが込められていたのでは」(毎日)

【日本語学者・犬飼隆氏】
 聖武天皇は中国直輸入の文化を重んじた。公式性の高い儀式は中国風で行い、漢詩が詠まれた。宮中の伝統行事などでは倭歌がうたわれた。役人は歌を作るのが仕事で、日ごろから木簡に記録し「データベース化」していた。大伴家持らがそうした歌を集めて整えたのが万葉集で、今回の木簡もそのようなものの一つだろう。(毎日)

【奈良文化財研究所史料研究室長・馬場基氏】
 「奈良時代は外圧の時代。中国文化を積極的に採り入れる一方で、天平の疫病による国力低下も経験した。国の力が落ちた後、大仏をつくるなど新しい国、文化をつくるという内なる力が満ち満ちていた時代ではないか」(朝日。産経・NHKほぼ同趣旨)

朝日新聞
https://digital.asahi.com/articles/ASQB055CVQBXPOMB00G.html?iref=pc_photo_gallery_bottom

毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20221031/k00/00m/040/249000c

産経新聞
https://www.sankei.com/article/20221031-FNZIYZQDL5M7ZKXZZVPYDTMVHE/

NHK
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221031/k10013875891000.html

 私自身ももう少し考えてみます。

2022年10月23日 (日)

元禄11年の武鑑(3)将軍の偏諱

 先日2回に亙って取り上げた元禄11年の武鑑ですが、パラパラと見てゆくと、当主の名前に「綱」、嫡子の名前に「吉」字を含むものが目立つことに気づきました。
 たとえば、冒頭にある徳川綱豊もそうですし、尾張徳川家もそうです。尾張徳川家は以下の通りです。
Genroku11bukan11

 これについては、「綱」の字は四代将軍家綱か五代将軍綱吉の諱の1字を賜わったもの、「吉」の字は綱吉の諱の1字を賜わったものと思われます。

 ずっと見てみました。結果は以下の通りです。
  ○徳川綱豊
  ○尾張徳川綱誠 嫡子吉通
  ○紀伊徳川光貞 嫡子綱教
  ○水戸徳川綱條 嫡子吉孚
  ○松平綱近
  ○前田綱紀
  ○島津綱貴 嫡子吉貴
  ○伊達綱村 嫡子吉村
  ○細川綱利
  ○黒田綱政 嫡子吉之
  ○浅野綱長 嫡子吉長
  ○毛利吉広(萩36万9000石)
  □毛利綱元(長門長府5万石)
  ○鍋島綱茂(佐賀35万7000石)
  ○池田綱清(因幡32万5000石)
  ○池田綱政(岡山30万石)
---------------------------------------
  ×井伊直興(彦根30万石)
  ×藤堂高久(津32万3000石)
  ○蜂須賀綱矩(徳島25万7000石)
  ×松平正信(会津23万石)
  ×山内豊昌(高知22万2000石)
  ×有馬頼元(久留米22万石)
  ×佐竹義処(秋田20万5000石)
  ○上杉綱憲(米沢15万石)
   以下略。名に「綱」や「吉」を含む当主や嫡子はナシ。

 点線から上については、全ての大名家の当主や嫡子の名に「綱」または「吉」の1字が含まれます。
 紀州の徳川光貞の場合、「光」の1字は三代将軍家光の1字を賜わったものでしょう。
 長門長府の毛利綱元は萩の毛利家の分家でわずか5万石ながら「綱」の1字を付けています。
 この理由は分かりません。
 なお、余計なことながら、長府毛利家は赤穂浪士を預かった4大名家のうちの1家です。
 あまり待遇の良くなかった家。

 点線から下について。
 井伊家は30万石ですが、譜代大名のために賜わっていません。
 藤堂は32万石ながら賜わっていません。外様大名ながら譜代大名に準ずる位置づけなのでしょうか。
 蜂須賀家は25万7000石で「綱」の字を賜わっています。
 そんな中で、上杉家が15万石で「綱」の字を賜わっているのが例外的です。
 前回触れたように、この武鑑の段階では嫡子がまだ元服前ですが、元服後は綱吉から1字賜わって上杉吉憲となります。
 室町時代には関東管領家だったことで例外扱いされたのでしょうか。

 ということで、将軍の偏諱を賜わるのは、御三家・越前松平家とおよそ30万石以上の外様大名、ということが分かりました。
 近世史の研究者には周知のことかもしれません。
 ま、趣味と自己満足の調査です。

 貴人の偏諱を賜わるというのは、足利高氏が後醍醐天皇の御名「尊治」の1字を賜わって尊氏と変えた例などもありますね。

 逆の例に、
  光仁天皇の名の白壁を避けて、姓の白髪部(しらかべ)を真髪部(まかべ)とする。
  桓武天皇の名の山部を避けて、姓の山部(やまのべ)を山とする。
  平城天皇の名の安殿を避けて、紀伊国の安諦(あて)郡を在田郡とする。
  嵯峨天皇の名の神野を避けて、伊予国の神野(かみの)郡を新居(あらゐ)郡とする。
  淳和天皇の名の大伴を避けて、大伴宿祢を伴(とも)宿祢とする。
といった、平安初期の例があります。これはもうキリが無いので、平安初期だけで打ち止めになったと思われます。

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