史料・資料

2020年9月18日 (金)

奈良の「つなや」と「魚佐」

 また新たな定宿帳を入手しました。
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 刊年は不明です。

 表紙をめくると、表紙裏はこのようになっています。
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 いきなり奈良です。こういった道中記では、江戸(東京)スタートか、(豊橋から船に乗って)伊勢神宮スタートが普通です。
 上のページは、右端の柱に書いてあるように第五丁です。落丁というよりは、冒頭の4丁分をわざと省いてダイジェスト版を作ろうとしたのではないかと思います。

 このページ、架蔵の明治18年の一新講社の定宿帳と同じ絵図のようです。
 ページの左端の宿の名は、今日の本では「つなや市平」ですが、明治18年のでは「うをや佐兵衛」です。
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 絵地図は同じで、宿のマークだけが異なります。今日のはつなやのマークである「太」に丸で、明治18年のでは魚屋のマークである山形に「ウ」です。

 2つの宿は隣同士ではなく、同じ場所のように見えます。
 どちらの方が古いのか分かりませんが、魚屋佐兵衛の後身に当たる魚佐旅館は平成まで存続していましたので、今日の本の方が古いのかもしれません。
 つなやを魚佐が居抜きで買ったのでしょうか。

 今日の本には神武天皇陵が載っています。
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 とすれば、江戸時代ではなく、明治になってからの刊行のように思えます。

2020年9月 6日 (日)

「今御門町」のよみ

 8月4日に、明治21年の『一新講社 道中宝鑑』のことを取り上げました。
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 この道中記を見ると、奈良に次のような記載があります。
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 奈良の旅館、魚屋佐兵衛と升屋伊兵衛の所在地が「今ゴ門丁」となっています。
 漢字で書くと「今御門丁(町)」です。よみはずっと「いまみかどちょう」と思い込んでいましたが、「今ゴ門丁」の表記だと「いまごもんちょう」になってしまいます。

 「いやぁ、そんなはずは」と思って、他の史料を見ると、例えば次のようなものが見つかりました。

 『奈良名所絵図』(年代不明)
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 「いまみかどはたごや」とあります。

 『真誠講』(明治32年)
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 「ならいまみかど町」です。

 「いまみかど」が正しいのではないでしょうかね。

 「今ゴ門丁」とある明治21年の『一新講社 道中宝鑑』は長野県で刊行されたものです。
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 そういった地理的な遠さも影響しているのかもしれません。
 あるいは、長野といえば善光寺。ひょっとして善光寺近辺では、善光寺の門にちなむ町を「○○ごもん町」と言っていたとか。
 ……などと、単なる妄想を書いてはいけません。(^_^;

 同時代資料は貴重ですが、同時代資料であっても、必ずしも常に正しいとは限らないということになりましょう。
 厄介なことではありますが、面白いことでもあります。

 なお、「今御門」の名は、元興寺の北門に由来するようです。

2020年9月 5日 (土)

昭和28年の歌本(2)

 7月20日に「昭和28年の歌本(1)」という記事を書きました。
 ネットオークションで購入した「流行歌謡 歌の花束」という小冊子を取り上げたものです。
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 『婦人倶楽部』の昭和28年新春特大号の付録です。
 全部で194曲収録されています。

 もう67年も前のものです。当時どんな歌が流行っていたか知られます。
 全く知らない歌も多いですが、よく知っている歌もあります。私が懐メロ好きなせいもありそうですが。(^_^)

 その時は、歌のタイトルをざっと眺めて、どんな文字や語が多く使われているのか調べただけでしたが、データがあると集計したくなるサガで、作詞家・作曲家・歌手別の集計もしたくなります。それで、タイトルに(1)を付けました。

 やっと集計が終わりましたので(2)として載せます。

 それぞれの上位は以下の通りです。主な曲名を( )内に入れました。「主な」というのは私の主観です。

【作詞】
1.佐伯孝夫 19(桑港のチャイナ・タウン、銀座カンカン娘、湯島の白梅、勘太郎月夜唄、燦めく星座)
2.西條八十 17(青い山脈、誰か故郷を想わざる、東京音頭、侍ニッポン、サーカスの唄、カナリヤ)
3.藤浦 洸 10(水色のワルツ、悲しき口笛、別れのブルース)
4.佐藤惣之助 9(湖畔の宿、人生の並木路、赤城の子守唄)
5.野口雨情 7(船頭小唄、青い眼の人形、雨ふりお月さん、赤い靴、証城寺の狸ばやし、七つの子)
6.北原白秋 5(からたちの花、城ヶ島の雨、この道、雨ふり、待ちぼうけ)

 西條八十は象徴詩や童謡の作詞家という風に理解していました。歌謡曲もたくさん作っていたとは知りませんでした。


【作曲】
1.古賀政男 18(誰か故郷を想わざる、東京ラプソディ、丘を越えて、影を慕いて、酒は涙か溜息か)
2.服部良一 11(三味線ブギー、青い山脈、銀座カンカン娘、蘇州夜曲、湖畔の宿)
3.上原げんと 10(東京の花売娘)
4.佐々木俊一 9(桑港のチャイナ・タウン、東京夜曲、燦めく星座)
4.中山晋平 9(東京音頭、船頭小唄、雨ふり、肩たゝき、証城寺の狸ばやし)
6.万城目正 6(悲しき口笛、リンゴの唄)
6.吉田 正 6(黄色いリボン)

 古賀政男、強いです。(^_^) 服部三代の始祖である服部良一も多いですね。
 朝ドラ「エール」の古関裕而は5曲(イヨマンテの夜、長崎の鐘、フランチェスカの鐘)で8位です。


【歌手】
1.藤山一郎 13(長崎の鐘、青い山脈、東京ラプソディ、丘を越えて、影を慕いて、酒は涙か溜息か)
2.小畑 実 10(湯島の白梅、勘太郎月夜唄)
3.岡 晴夫 9(憧れのハワイ航路、啼くな小鳩よ)
3.美空ひばり 9(リンゴ追分、悲しき口笛)
5.田端義夫 7(かえり船、大利根月夜)
6.近江敏郎 5(湯の町エレジー、山小舎の灯)
6.竹山逸郎 5(月よりの使者)
6.津村 謙 5(上海帰りのリル)
6.二葉あき子 5(フランチェスカの鐘、夜のプラットホーム)

 藤山一郎が多いです。美空ひばりも3位に付けて、これから。

2020年8月 9日 (日)

赤穂花岳寺(華嶽寺)の絵図

 ネットオークションで入手しました。
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 赤穂浅野家の菩提寺である花岳寺(華嶽寺)の絵図です。
 標題は「播州赤穂城下臺雲山華嶽禪寺全圖」とあります。

 左下隅にこうありますので、明治には降らず、江戸時代のものではないかと思います。
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 赤穂には11年前に1度だけ行ったことがあります。忠臣蔵ファンとしては、1度だけというのはどうも。(^_^;
 その折、花岳寺にも行きました。
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 絵図の本堂。
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 今の本堂。
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 同じようですね。再建かもしれませんが、そうだとしても、元の姿と同じように建てたものと思います。

 義士の墓所。
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 中央に3基の大きな墓石があり、周囲に多数の墓石が並んでいます。

 今の墓所。
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 中央の墓は浅野内匠頭のもので、その左右は大石内蔵助と主税のものです。周囲の墓はそれ以外の義士たちのもの。
 これらの墓は、義士の三十七回忌に当たる元文4年(1739)に、当時の赤穂藩を領していた森家の家臣有志が建てたものだそうです。
 伝によれば、義士の遺髪を埋めているということです。

 絵図では、墓所の入口の両脇に、「大石桜」と「大野柳」が描かれています。大石内蔵助と大野九郎兵衛にちなんだものでしょう。
 現地に行ったとき、桜には気づきませんでしたが、柳はありました。
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 絵図と同じ位置にあります。
 しかし、「不忠柳」って、なにもそんな風に呼ばなくても、と思います。それで、目に付いたのでした。

 寺号については、このような解説板がありました。
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 浅野長重の墓石には確かにこう彫られています。
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 本堂の額も同様です。
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 でも、お寺としては、その正式表記とは別に、「花岳寺」を日常的に使っているのですね。なかなか柔軟です。

 絵図の右端付近にこのようなことが書かれていました。
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 勝手にスペースを空けるとこうなりますかね。
 「開帳案内 并 義士摺物 土産焼塩等 弘所」
 すぐ下には「茶所」とあります。

 参拝者の休憩所と、参拝記念のお土産販売を兼ねている建物ですね。
 義士摺物はブロマイドといった趣でしょうか。
 そして、赤穂のお土産というと、やはり塩ということになるのでしょう。
 遠方からの参拝者も多かったのかもしれません。

 「弘所」という語は初めて見ました。日国には載っていない語ですが、ググってみると、古文書や古文献などに「弘所」「売弘所」という語は見つかります。暦などの頒布所に用いられていました。

2020年8月 4日 (火)

明治21年の『道中宝鑑』

 こういう本を入手しました。旅行案内といいますか、「一新講社」のお薦めの宿のリストです。
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 小さいです。
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 こんなに小さいと、旅行に持って行くのに軽くて便利だったことでしょう。

 刊記。
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 明治21年に長野で刊行されたものです。

 目次。
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 上の方に漢数字が丸で囲んであるのはページ数です。
 全部で11のルートが載っています。

 最初は東海道。
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 今まで当ブログでご披露してきた同種のものは、江戸(東京)から西へ並んでいるのが普通でしたが、これは京都から東京に向かって並んでいます。
 京都は「西京」と書かれています。

 恒例の二川宿。
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 橋本屋と山家屋は今までに買った同種の本にも出てきましたが、西橋本は見なかったように思います。橋本屋の分家でしょうか。
 豊橋にはおなじみの壷屋庄六が載っていて、「いせ神宮へ毎日出舟あり」とあります。伊勢への航路が確立していたのでしょうね。
 豊川に描かれているのは豊川稲荷でしょう。

 東海道のゴールは東京日本橋。中山道への出発点でもあります。
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 中山道には新町宿も当然載っています。知っている場所が載っていると嬉しい。(^_^)
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 新町には「左富岡セイ糸場ミチ」とあります。富岡製糸場、名所扱いなのでしょうか。
 新町の手前には「武蔵上野国境」とあります。もう明治21年ですが、いまだに旧国名が生きています。
 川の渡し賃は、新町の手前が「かんな川 一人五リン」で、先が「からす川 一人四リン」です。
 金額が異なるのは、川幅や深さの差でしょうか。

 奈良は、おなじみのうをや(魚佐旅館)、ますや、いんばんやが並んでいます。
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 うをやの所在地「今御門丁」は、「いまみかど」と思い込んでいましたが、これを見ると「今ゴ門丁」とありますね。「いまごもん」なのでしょうか。

 末尾は新潟です。
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 私が持っている同種の本の中に新潟を載せるものはあまりありませんでしたので、珍しいです。
 「住吉や栄六」の所在地が「古町通五番町」とあります。
 新潟には高校訪問などで何度か行ったことがありますが、あまり土地勘はありません。
 でも、古町という地名には見覚えがあります。地図を見てみたら、古町通五番町は今もありました。
 「○○通り」と「○番町」の組合せで場所を表すのですね。四条烏丸などと同じく縦横の組合せ。
 明治21年の地名が今も続いているのは素敵です。どこなのか、すぐに分かりますし。

 同時代資料は楽しいです。←いつも同じ結論。(^_^)

2020年7月28日 (火)

大相撲出世双六

 またまたネットオークションの収穫物です。
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 いつのものか分かりません。
 描かれている服装や髪型は江戸時代風ですが、この双六が作られたのは戦後、それも戦後すぐではなく、昭和40年代・50年代くらいではないかと思います。根拠はありません。勘です。(^_^;

 右下がふりだしで、中央に「あがり」があります。
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 「あがり」は横綱土俵入です。お相撲さんにとっては、やはり綱を張ることが大きな目標なのでしょうね。

 ふりだしはこのような絵です。
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 まだ暗い頃に、風呂敷包み1つを持って、1人で家を出たところですね。家出同然の旅立ちなのでしょうか。

 全部で29のマスがあります。以下の通りです。
  1.ふりだし
  2.のじゅく
  3.にほんばし
  4.ふれだいこ
  5.ばしょいり
  6.りょうごく
  7.にゅうもん
  8.そうじせんたく
  9.ちゃんこ
 10.にもつはこび
 11.かえろかな
 12.あさげいこ
 13.もうげいこ
 14.もちつき
 15.のみくらべ
 16.じょのくち
 17.じょにだん
 18.さんだんめ
 19.まくした
 20.十両
 21.前頭
 22.けんかさわぎ
 23.小結
 24.三役出世祝
 25.関脇
 26.ふろ
 27.大関
 28.本場所
 29.横綱土俵入

 故郷を出てからいろいろと苦労して、序の口になるのが16番目ですから、厳しい世界です。横綱になれたのならば何よりです。

 2つ目のマスは、旅の途中の野宿ですね。
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 旅の道連れになった犬でしょうか。あるいは、野良犬に風呂敷包みの中のゴハンを狙われているところか。

 11番に「かえろかな」があります。そういう気持ちになることもありましょう。
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 「こゝへくればふりだしへもどる」というのがシビアです。

 15番「のみくらべ」に止まると、飲み過ぎて1回休みになります。
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 18番「さんだんめ」に止まると、ケガのために序の口に戻ることになります。そういうこともありましょう。
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 22番「けんかさわぎ」では、幕下に戻ることになります。
Sumosugoroku08
 22番というのは前頭と小結の間です。そこから一気に幕下というのは、大きく番付を下げることになります。
 しかし、相手は抜刀していますね。物騒な事態です。幕下に戻るくらいで済めばむしろ幸いかもしれません。

 20番「十両」で止まると3つ進めます。
Sumosugoroku09
 3つ先は「小結」です。双六ですから、出た目の数だけ進んで、その結果、十両から小結に進むこともありましょうけど、でも、「十両」に止まると、そのまま「小結」にワープできるというのには、ちょっと引っかかります。(^_^)

 助詞の「へ」はずっと「へ」と書かれていたのに、ここだけ「え」になっています。
 ここだけ、マスの中の記載ではなく、マスの標題の一部としての注記ですので、そこが異なります。文字も標題と同じく相撲字で書かれています。こういう仮名遣いで、江戸時代風の趣を出したのでしょうかね。

 あれこれおもしろいです。

2020年6月18日 (木)

大正九年、群馬県の「流行性感冒予防注意書」

 しばらく前、群馬県立文書館のフェイスブックに「流行性感冒予防注意書」という1枚紙の文書が載っていました。大正九年一月二十一日付、日本赤十字社群馬支部発行の書類です。
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 100年前のスペイン風邪への対応ですね。

 標題の「流行性感冒予防注意書」には「はやりかぜのふせぎかた」(濁点は補いました)というふりがなが付いています。
 このふりがなは、漢語では難しいと思われる人に対して、和語を用いた分かり易い解説といった趣旨なのでしょう。

 現代では、「流行性感冒」に「はやりかぜ」というふりがなを付けることはないでしょうが、古代において、漢字や漢語に付けた「訓」というのは、日本における「意味」、いわば「訳」ですから、それと照らせば、「はやりかぜ」という訓はいわば一種の熟字訓として位置づけられそうです。
 「予防注意書」に付けられた「ふせぎかた」というふりがなは、さらにその上をゆきそうです。

 文書全体に総ルビが施されています。その中には現代と同様のふりがなと、「はやりかぜのふせぎかた」風のものと、両方あります。

 大きな箇条書の一番は「伝染の仕方」で、ふりがなは「うつりかた」。二番は「容態」で、こちらは「ようだい」です。「容態」は和語に置き換えなくても、そのままで十分に理解できると考えられたのでしょうかね。

 「一、伝染の仕方」の本文は以下の通りです。( )内にふりがなを示します。

 流行性感冒(はやりかぜ)の毒(どく)は其(その)の病人(びやうにん)の痰(たん)や唾液(つば)の中(なか)にあり空気(くうき)を介(なかだち)して鼻(はな)及口(くち)から伝染(うつり)します

 全体をざっと見ますと、病人、医者、頭痛、肺炎、心臓麻痺、石鹸液、硼酸水、療養、注射、学校、汽車、電車、馬車、相談、肝要、掃除などには現代と同様のふりがなが付いています。

 一方、関節痛(ふしぶしのいたみ)、倦怠(だるいこと)、食気不振(くいもののまづきこと)、咽頭痛(のどのいたみ)、就床(とこにつき)、肺結核(はいびやう)、養生(てあて)、消毒薬(どくをけすくすり)、静養(ちからをつけ)、恢復(なをつた)、巡査駐在所(けいさつかんのうち)などは、訳語に近い感じです。
 ま、訓というものの本質は訳語なわけですけど。

 私は、大正時代の文書を見る機会が普段ありませんので新鮮に感じました。日頃から見ていらっしゃる方には珍しくもないことかもしれませんが。

 内容的には、「四、予防の仕方」の中の「二」に「マスク(口覆)を用いなさい」という項目があります。「マスク」という語も使われてはいたのでしょうが、念のための「口覆」という説明でしょうか。
 その下の「イ」に「マスクの見本は巡査駐在所や学校や役場にありますから可成(なるべく)自分で造りなさい」とあります。マスクは市販もされていたのかもしれませんが、自作が一般的だったのでしょうかね。

 「四、予防の仕方」の中の「四、其他の数々」の「イ」に「夜遊は此際中止(およしなさい)」とあるのは、今と通じそうです。

 あれこれ興味深い文書です。

2020年5月22日 (金)

『大和言葉』の解説書

 このような本を購入しました。この本の存在は、三友亭主人さんに教えて頂きました。
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 内容は、ある『大和言葉』の写本の影印と、各項目の解説です。

 影印はこのようになっています。
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 この本には、前書きも、あとがきも、出版元も、何も書かれていないとのことです。
 項目数は全部で156。
 私が入手した5種類の『大和詞』はいずれも語頭のいろは順でしたが、この本はそうではありません。
 ご覧のように、「あきつしま」「ひのもと」「もろこし」「あつま路」「こし路」という順です。
 このあたりは広域地名と括れそうですが、その先は、「かわ竹」「むはたま」「ぬはたま」「くすのうらかせ」と続いていますので、あまりきっちりとした排列意識は伺えません。

 この影印の後に、各項目の解説が続くのですが、このような感じです。
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 各項目、見開き2ページにわたって、考察・解説があり、参考となるカラー写真もあって、見て楽しめます。

 この本の「三輪の山とは」の項目は次のようになっています。
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 左ページの三輪山の写真は、三友亭主人さんの撮られたものです。
 三友亭主人さんの写真が掲載された経緯については、三友亭主人さんのブログにいきさつが書かれています。

 オリジナルの写真に比べて、ちょっと傾いてしまっていますし、色合いも変わってしまっています。
 三友亭主人さんとしては、その点は不本意だったのではと思いました。

 上の影印にちょうど見えていますが、11番が「いななきとは いなかをいふ」という記述で、意味がよく分かりません。
 著者の児玉氏もいくつか考えを示されながらも疑問としています。
 この項、私の入手した異本でも全く同じ本文で、疑問に思っていました。
 項目の排列は全く異なる本同士ですが、どこかで繋がっていそうです。
 興味深いです。

2020年5月18日 (月)

「大和詞」4種

 昨年の3月に、「寛政11年の『増補 大和詞』」という記事を載せました。
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 『増補 大和詞』の内容はこのようなものです。
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 語頭のいろは順になっていて、「一いもせ とは ふうふをいふ」などという形で記述されています。
 江戸時代における古典語を、江戸時代の言葉で説明したものです。
 江戸時代の人が古典を読むための古語辞典といった用途で作られたのかと思います。

 今回、同種のもの4種を一括して入手しました。
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 外題と刊年は以下の通りです。
 1.『新板増補大和詞大全 完』延宝九年(1681)
 2.『やまと詞大成 全』享保十一年(1726)
 3.『大和詞集』宝暦六年(1756)
 4.『新増大和詞大成 全』享保十一年元版/寛政四年再刻(1792)

 それぞれに、巻頭に前書きがあったりなかったり、同じく巻頭付近に挿絵があったりなかったりします。
 「い」の部の冒頭は以下の通りです。
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 順序は、右上が1.左上が2.右下が3.左下が4.です。
 3.は明らかに異なりますが、1.2.4.は極めてよく似ています。内容は同一ですし、文字も同じように見えます。
 それぞれのページの左下の下段うしろから2行目の「十六日の」の部分を並べてみます。
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 どうでしょう。同じようでもあり、仔細に比較すると微妙に違うようでもあり……。微妙です。

 厚さは異なります。
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 内容を仔細に比較してみればいいんですけどね。

 本文を翻字してみたいと思いながら、もう1年2ヶ月も経ってしまいました。
 それも果たせないうちに異本が4種も。(^_^)
 あ、去年ご披露したのは寛政十一年(1799)刊で、今回の4種のどれよりも新しく、上の「い」の部冒頭の比較に見るように、明らかに他の4種とは異なります。

 今回の4種をパラパラと見ていたら、「ちはやふる とは  久しき事を云」という項目がありました。4種全く同一です。
 現代では、この枕詞は「勢い激しく荒々しい」の意で、「神」や「氏」にかかるとされます。
 『大和詞』で「久しき事を云」としているのは、あるいは、「ちはやぶる神世も聞かず龍田川から紅に水くくるとは」の歌が有名なので、この歌を念頭に、「遠く久しい神世」と理解してのことでしょうかね。

 あれこれ興味深いです。

【画像追加】
 「源さんの後輩」さんから頂いたコメントにより、画像を1枚追加します。
 それぞれのページの左下の下段うしろから4行目の「木て」の部分です。
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2020年5月14日 (木)

大正16年のチリ硝石のポスター

 このようなものを入手しました。
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 ネットオークションで見つけて、うさぎの絵が描いてあるので、入札してしまいました。
 うさぎ年生まれで、うさぎが好きなもので。(^_^)

 ものは、チリ硝石のポスターです。
 ググってみると、チリ硝石は、19世紀に発見され、当初は火薬、その後は肥料に使われたそうです。
 20世紀初頭の輸出量は年間200万トンを超える規模となったそうですが、チリにおける硝石生産は、1930年代をピークに衰退していったとのことです。掘り尽くしてしまったのですかね。

 このポスターの右下の部分を拡大します。
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 「大正十六年」とあります。
 大正15年(1926)の12月25日に大正天皇が崩御し、即日裕仁親王が践祚、昭和に改元したため、昭和元年はわずかに7日で終わり、年明けは昭和2年となりました。大正十六年は幻の年号ですが、あまりにも年末ギリギリの改元でしたので、当時、「大正十六年」とした印刷物はたくさんあったことでしょう。

 このポスターの発行者は「智利硝石普及会」ですね。
 ポスターの上方に「麦作と桑肥に欠く可からざる」とありますように、智利硝石を主として麦と桑の肥料として普及させようとの趣旨なのでしょう。
 表の中にも、「智利硝石 与へる時と分量」という項目があって、月別に詳細に記されています。

 ポスターの大部分を占めるのは、うさぎの餅つきです。
 なぜうさぎかというと、大正十六年(昭和二年)がうさぎ年だからなのでしょう。丁卯の年でした。
 毎年、干支にちなんだ絵柄なのかと思います。

 昭和2年って、93年前なのですね。私の世代は、親が大正から昭和1桁の生まれ、祖父母が明治の生まれでしたが、いつのまにやらずいぶん歳月が経ってしまいました。

 昭和も遠くです。

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