史料・資料

2019年8月18日 (日)

文政5年の『懐宝 和漢年代記大全』(3)

 さらに昨日の続きです。
 『懐宝 和漢年代記大全』(以下『大全』)の裏面にはいろいろな情報が満載です。

 高僧の一覧がありました。
Wakannendaiki13
 漢字に直してみましたが、知らない人物も多く、間違いがあるかもしれません。

  釈迦如来、達磨大師、聖徳太子、役行者、行基菩薩、良弁僧都、伝教大師(最澄)、
  守敏僧都、弘法大師(空海)、慈覚大師(円仁)、元三大師(良源)、恵信僧都、
  熊谷蓮生坊、道元禅師、円光大師(法然)、親鸞上人、一遍上人、日蓮上人、
  了誉上人、一休和尚、古幡随院、雄誉上人、慈眼大師(天海)、空也上人、
  智証大師(円珍)、証空上人、夢窓国師、隠元禅師、珂碩和尚、祐天僧正、了碩和尚

 変わり種は「熊谷蓮生坊」でしょうか。一ノ谷の合戦で平敦盛を討ったことがきっかけで出家した熊谷直実ですね。能や歌舞伎などを通して江戸時代には著名だったのでしょう。

 宗派の開祖など著名な僧は網羅されているように思えますが、道元があるのに、栄西がありません。
 珂碩和尚は名も知りませんでしたが、奥沢の九品仏浄真寺を創建した人物と知りました。家の近くというほど近くはありませんが、以前奥沢に住んでいましたので、親近感が湧きました。
 了碩和尚も全く知りませんでしたが、幡随院のお坊さんだそうです。

 現代人と江戸時代の人とでは、関心や知識が違いますね。

 『大全』が刊行された文政5年(1822)までの年数が記してありますので、これが人物特定の手がかりになると思ったのですが、史実に合致する者は少なく、ダメでした。
 聖徳太子は日本書紀の記述と丁度100年違いですので、単純なミスと思われます。1~2年の差のある人物もいますが、中途半端な差のある人物も多く、誤りの経緯がよく分かりません。

 もう1つ。文化人や武将の一覧もありました。
Wakannendaiki14
 こちらも漢字に直してみました。

  大織冠鎌足、守屋大臣、柿本人丸、山部赤人、吉備大臣、中将姫、猿丸大夫、
  小野小町、在原業平、大友黒主、参議佐理卿、行成卿、菅丞相、小野道風、
  紫式部、清少納言、西行法師、田村将軍、六孫王経基、多田満仲、源三位頼政、
  平清盛、木曽義仲、源頼朝、源義経、最明寺時頼、楠正成、新田義貞、吉田兼好、
  武田信玄、上杉謙信

 万葉歌人は人麻呂と赤人だけでした。旅人、憶良、家持などはあまり関心を持たれていなかったのでしょうね。
 猿丸大夫が入っているのは百人一首の影響ですかね。

 こちらも、年代は史実と違っている人物の方が多いです。
 そもそも没年未詳の人物が何人かいますけど、それらの人物についても漏れなく年数が示されています。
 何か資料があったのか、あるいは「大体このあたり」ということで数字を入れたのかもしれません。

 紫式部は、『大全』の数字で計算すると990年没となります。現代では源氏物語の年代として1008年という年代が示され、2008年には源氏千年紀の催しなどがありましたが、それと食い違いますね。

 戦国武将では信玄と謙信が挙がっています。群雄割拠の時代、それ以外にも著名な武将がいましたが、江戸時代にはやはりこの2人が双璧ということになりましょうか。
 信玄の没年は『大全』が4年遅くなっています。信玄は死に際して「三年喪を秘せ」と言ったという伝承がありますけど、そういう事情で、実際よりも遅い没年が伝承されていたということもあったのでしょうかね。

 上の2つの一覧で、いずれの人物も没後文政5年までの年数が記されていますけど、あまり意味があるとは思えません。「○○年没」と書いてくれた方が分かり易かったと思います。大体、数年後にまた再版するような場合、また再版年を規準に年数を書き換えなければ(というより、版を彫り直さなければ)ならないので、大変に厄介と思います。

 ともあれ、この2つのリスト、江戸時代後期の人々の関心の在り処や、知識などを知る手掛かりになりそうで、興味深いです。

2019年8月17日 (土)

文政5年の『懐宝 和漢年代記大全』(2)

 昨日の続きです。
 昨日はオモテ面をご紹介しました。オモテは、推古天皇12年(604)から文政10年(1827)までの1224年間の年表が大部分を占めています。

 裏側は以下の通りです。
Wakannendaiki04
 こちら側は、歴代天皇の一覧、鎌倉・室町・江戸幕府の将軍一覧、中国の歴代王朝一覧、など、様々な一覧が並んでいます。他に、暦(日の吉凶関係)や占いに関する項目もあります。盛りだくさんです。

 日本地図。
Wakannendaiki07
 そう大きな地図ではありませんが、単なる国別けに留まらず、国内の地名も載っています。例えば上野国。
Wakannendaiki08
 このように、高崎、前橋、館林、沼田、安中(全部、大名領のある地ですね)が載っている他、碓氷と三国峠、榛名山と妙義山が載っています。「上ツケ」の下の地名が読めません。「タコ」とあるのは、多胡碑のある多胡郡かと思いますが、その下というか、それに続く部分が分かりません。

 この日本全図の上方に「日本神社仏閣旧地年数」という一覧があります。その冒頭部。
Wakannendaiki09
 それぞれの神社仏閣の創始から『和漢年代記大全』が刊行された文政5年(1822)までの年数が示されています。
 加茂社は「二千四百三十二年」、伊勢内宮は「千九百二年」とあります。計算してみたら、加茂社は紀元前609年、伊勢内宮は紀元前52年となります。途方もない数字ですが、日本書紀の紀年によれば、加茂社は神武天皇52年、伊勢内宮は崇神天皇19年となります。どちらも日本書紀に関係記事はありませんが、日本書紀紀年などをもとにした計算があったのでしょうね。

 同じリストの後半です。
Wakannendaiki10
 出雲大社の「六百五十八年」というのが不審です。計算すると1165年(永万元年)になります。平安末期ですね。平清盛の時代。
 出雲大社って、平安時代に何度も大風などによって倒壊していますよね。
 その一方、鹿島社、多賀社、三輪社、白髭社は「神代よりちんざ年歴不詳」とあります。出雲大社もこの仲間で良さそうに思いますが。(^_^)

 諸国の郡名がふりがな付きで全部載っています。600以上あります。
 大和国。
Wakannendaiki11
 上下に分割した郡は、「そふのかみ(しも)」「かつらきのかみ(しも)」「しきのかみ(しも)」などと、表記にかかわらず、きちんと読んでいます。「忍海」は「おしぬみ」ではなく「おしのうみ」ですね。

 上野国。
Wakannendaiki12
 「群馬」が「郡馬」となっています。(^_^; 読みは、「くるま」ではなく「ぐんま」です。「邑楽」は現在では「おうら」と読まれていますが、「おはらき」という古形で載っています。

 昨日のオモテ面に続き、今日は裏面をご紹介する予定でしたが、裏面は内容豊富なので、終わりません。続きます。

2019年8月16日 (金)

文政5年の『懐宝 和漢年代記大全』(1)

 このようなものを入手しました。
Wakannendaiki01
 字が随分薄くなっていますが、『懐宝 和漢年代記大全』とあります。

 綴じてはありません。1枚紙を縦に22面に屏風状に折り、それをさらに横に2つ折りにしています。
 広げた大きさは、140cm×31.5cmほどです。
 用紙の和紙は厚手です。

 裏です。
Wakannendaiki02
 「文政五壬年再刻」とあります。
 「浄書 田中正造」とありますが、著者名はありません。
 江戸の書肆の名が5軒挙がっています。

 広げるとこのようになります。
Wakannendaiki03
 字が小さすぎてよく分かりませんね。(^_^;

 推古天皇12年(604)から文政10年(1827)までの1224年間の年表です。
 横は12段になっています。1段目が子年、2段目が丑年……というように、格段は同じ干支になるように作られています。

 冒頭部。
Wakannendaiki05
 欄外に「隋」「唐」とあります。
 1年はさらに2段になっていて、上段(白い部分)は日本、下段(黄色い部分)は中国です。

 右上に推古十二があります。左に「日本式目のはじめ」とあるのは十七条憲法を指すものと思われます。
 下段の黄色い部分には「隋 文帝 仁寿四」とあります。

 なぜ推古12年から始まっているのかについては、この年が甲子でキリが良かったということがあると思います。
 もう1つ、歴史年表を見ると、この年は日本で初めて暦が使われた年とあります。
 ただ、日本書紀にはその記事はありません。政事要略に「儒伝云、以小治田朝十二年歳次甲子正月戊辰朔、始用暦日」(巻25)とあるのが典拠と思われます。この年がわが国における暦の初めであるなら、この年から年表が始まるのはよく理解できます。
 ただ、『和漢年代記大全』の編集者は政事要略を見ていたのでしょうかね。それが疑問です。

 和銅3年付近は次の通りです。
Wakannendaiki06
 和銅3年は右下隅です。「みやこをならにうつす」とあります。
 同年下段の中国の部には「睿宗 景雲」とあり、「中宗 皇后韋氏にころさる」とあります。

 こんな感じで、毎年、日本と中国の年号と、その年の主な出来事が記されています。
 南北朝時代には両朝の年号が併記されています。

 両面印刷で、裏面は次のようになっています。
Wakannendaiki04
 これまた細かいです。こちらについては後日(たぶん明日)改めて。

2019年6月13日 (木)

「奈良名勝案内図」比較

 以前、「奈良名勝案内図」という地図を入手しました。
 その後、同じ地図がネットオークションに時々出品されているのを見ましたが、もう持っているから、ということで、入札することはしませんでした。
 ところが、先日、同じ地図でかなり保存状態の良さそうな品が出ていましたので、買ってしまいました。
 この2点、発行年代が異なっていて、よく見るとそこそこの相違があります。
 これに興味を覚えていたところ、「類は友を呼ぶ」といいますか(ちょっと違うか)、発行年違いのものが相次いで出てきました。
 それらをせっせと入手していたところ、全部で8枚が集まりました。
Narameisho10
 小さくて見にくいですが、一番古いのは大正8年で、以下同11年、同12年、昭和3年1月、同3年8月、同4年、同5年、同8年です。幸いなことに同じものはありませんでした。昭和3年版が1月と8月とあります。この地図、よく売れたのでしょうね。こんなに頻繁に発行されているのなら、時々の変化をかなり忠実に反映しているかもしれません。年代不明の地図の発行年を推定するための資料になるかもしれません。
 発行者は、大正8年ののみ大渕傳次郎氏、他は大渕善吉氏です。親子かもしれません。

 一番古いのと一番新しいのとを比べてみます。
 一番古い大正8年版。
Narameisho11
 一番新しい昭和8年版。
Narameisho12
 ぱっと見、あまり変わりませんが。

 奈良駅の西の市街地化が進んでいます。
 大正8年版。
Narameisho13a
 昭和8年版。
Narameisho13b
 駅の西側の色がだいぶ違います。新しい道路もできています。あと、大正版にはあった駅の北東の油坂池が昭和版では消えてしまいました。埋め立ててしまったのでしょうか。「駅前」が「油坂」に変わりました。昭和版にのみ奈良駅から赤い実線が伸びていますが、これはバス路線です。

 さらにその東側。
 大正8年版。
Narameisho14a
 昭和8年版。
Narameisho14b
 開化天皇陵の堀が昭和版では南に拡大しています。油坂の北も市街地化が進んでいます。

 現在の奈良女子大学の北西。
 大正8年版。
Narameisho15a
 昭和8年版。
Narameisho15b
 大正版では農地のようですが、昭和版では、県立奈良中学校、市立第五小学校、私立育英高等女学校という3校が建築され、市街地化も進み、バス路線も通っています。

 比較するのは楽しいです。(^_^)

2019年6月11日 (火)

澤瀉先生から斎藤茂吉への書簡

 ネットオークションで入手しました。
 タイトル、澤瀉先生には敬称付きで、斎藤茂吉は呼び捨てですが。(^_^;

 封筒表。
Omodaka01
 封筒裏。
Omodaka02
 手紙は巻紙に毛筆書きです。内容は、澤瀉先生がお勤めの大学の国文学会に斎藤茂吉を講師としてお招きしたいという依頼状です。

 そういう内容ではありますが、私信ですので、ほんの少しだけ。
 冒頭部の、時候の挨拶の続きです。
Omodaka03
 「五味君」とあります。
 恩師のお一人である五味智英先生が頭に浮かびましたが、手紙の内容からは、智英先生のお兄さんで、アララギ派の歌人であった五味保義氏と思われます。保義氏は京都大学のご出身ですので。

 斎藤茂吉への講演依頼は五味保義氏を通してすでになされていたようですが、それを受けて、澤瀉氏ご自身が改めて講演依頼をするという内容です。遠方でもあるし、大学の国文学会は貧乏なので、関西にお出での折があれば、その時に講演をお願いしたいという内容でした。

 末尾です。
Omodaka04
 日付は書かれていますが、年が分かりません。封筒の裏も同様です。切手が剥がれていて、消印もあいにく年の部分が失われています。

 ただ、五味保義氏が京都大学を卒業したのが昭和3年とのことですので、この手紙は昭和2年以前の5月と考えられます。

 昭和3年(1928年)3月末現在の関係者の年齢は以下の通りです。
  澤瀉:37歳
  斎藤:45歳
  五味保義:26歳
  五味智英:19歳

 智英先生にも19歳の頃があったのですねぇ。当然のことではありますけれども。

 斎藤茂吉全集に日記や書簡も収められていますので、大正14年~昭和3年のあたりをざーっと見てみましたが、かなり大急ぎでの調べでしたので、関連する事項は見つかりませんでした。見落としの可能性は多分にあります。

 研究史的な意味はないでしょうから、そう重要な書簡ではありませんが、どこかで保管して頂けたらと思います。京都大学、皇學館大学、萬葉学会などが頭に浮かびましたが、萬葉学会は事務局が移りますので、適当ではないかもしれませんね。考えてみます。

2019年5月 2日 (木)

令和最初の買い物は

 一昨日のブログで、平成最後の買い物は近所のスーパーで、令和最初の買い物も同じスーパーでということになろう、と書きました。
 ところが、昨日、スーパーに行く前に、レターパックと宅配便が届き、そちらが令和最初の買い物となりました。
 ま、支払いは平成の内に済んでいるものと、これから振り込むものとがありますので、なかなか微妙ではあるのですが。(^_^;

 八木書店に直接注文していた本。
Reiwahatsu01
 ネットオークションで落札した品。
Reiwahatsu03
 同じく。
Reiwahatsu02
 ということで、キーワードは、飛鳥、奈良、木簡、古地図、忠臣蔵、ですね。
 全く期せずして、これらが令和最初の買い物となりましたが、今後もこれらの路線の買い物が続くことでしょう。なかなか象徴的な3点でした。(^_^)

 「奈良名勝案内図」は昭和3年の発行です。同じ地図で大正14年のをすでに持っていますが、わずかに違いがあるようです。3年のうちに変化した部分が早速反映されたのか、あるいは旧版の誤りを新版で訂正したのかは分かりません。じっくりと比べてみるのも楽しそうです。

 「義士始末記」という作品は知りませんでした。島田正吾が内蔵助なのかと思いましたが、ググってみたら、荻生徂徠でした。以下、ググって知った結果です。

 この作品は昭和37年大曾根辰夫監督作品です。入手したポスターには「後篇」とありますが、「義士始末記」に前後篇があるのではなく、昭和32年に同監督が製作した「大忠臣蔵」を短縮再編集して「仮名手本忠臣蔵」と改題したものを「前篇」とし、それに対しての「後篇」だそうです。

 内容は、討ち入りのあと、浪士達の処分を巡って将軍綱吉は苦慮します。荻生徂徠は、世間の浪士達に対する賞賛・同情の思いに背を向け、情よりも法を重んじて切腹を主張します。

 この徂徠の周囲に、徂徠が貧しかった頃に面倒を見てくれたおかつ(岡田茉莉子)や、関係性はよく分かりませんがおしま(岩下志麻)がいます。おかつは浪士の1人である間新六の姉、おしまは同じく浪士の1人中村勘助の恋人という設定です。おかつもおしまも、浪士の切腹を主張する徂徠をさぞ恨んだことでしょう。さんざん悪態をついているかもしれません。岡田茉莉子や岩下志麻からなじられたらどんなにか怖いことでしょう。(^_^;

 徂徠を主人公にした忠臣蔵外伝ということで、ユニークですね。興味深く、ぜひ見てみたいものです。

2019年4月28日 (日)

「いが越なら大和廻り順案内図」

 ネットオークションでこのようなものを入手しました。
Igagoenara01  
 興味を持ったきっかけは、左上に「大阪」と書いてあったことです。
 この地名は、江戸時代には「大坂」と書いていたのが、明治になってから、「坂」の字を分解すると「土に反る」となることを嫌って、土偏をこざと偏に変えて「阪」と書くようになったと、(かなり曖昧に)そう理解していました。

 ところが、この絵図は、江戸時代風でありながら、「大阪」とあったので、そこに興味をおぼえました。

 上の画像は小さすぎてよく分かりませんね。
 奈良県の部分を拡大します。
Igagoenara02
 「なら」から南下すると、「おびとけ」「丹波市」「柳本」を経て、「みわ」に至ります。そこから西へ「あべ」「あすか」「おか寺」「立花寺」「神武天皇」となります。「みわ」から「おか寺」へは「たうのみね」を経由する道もあります。
 これまで、いくつかご紹介してきた絵図や道中記でもおなじみのルートですね。岡寺・橘寺・神武天皇とくれば、また例の久米寺前の道しるべが思い起こされます。
Kumedera01
 神武天皇陵が載っているところを見ると、この絵図は江戸時代のものではなく、明治になってからのものなのでしょう。

 あちこち眺めているうちに、こんな記述に目が留まりました。
Igagoenara03
 冒頭は「此所ながの峠」でしょうか。この文の5行目と最後の行に「トンネル」とあります。この古びた絵図と「トンネル」という語とが何ともミスマッチです。
 この文章の3行目を、最初「昭和十七年十一月」と読んでしまいました。いや、なんぼ何でもそこまで新しくはなかろうと思い、この記述は後からの加筆かと思いましたが、ちゃんとトンネルの絵が描いてありますので、加筆ではありません。よくよく見ると、「昭和十七年」ではなくて、「明治十七年」のようでした。(^_^;
 とすると、この絵図は明治十七年以降のものということになりましょう。その時代でもまだこのような江戸時代風の絵図が作られていたのですね。

 三重県のHP(県史編さん班担当部分)によれば、このトンネルが掘られたのは、津と伊賀上野とを結ぶ伊賀街道「伊賀越え奈良みち」の長野峠の部分で、明治十三年に工事を開始し、明治十八年六月竣工とのことです。絵図の記述とは半年ほどズレます。
Igagoenara04
 そういった疑問点は残るものの、あれこれ興味深いです。
 同時代資料は楽しい、という、またいつも通りの結論に達します。(^_^;

2019年4月16日 (火)

明治10年の『萬国地誌略』

 このようなものを入手しました。題簽は剥がれてしまっています。
M10bankokuchishiryaku01
 表紙裏には次のようにあります。
M10bankokuchishiryaku02
 奥付ページは以下の通りです。
M10bankokuchishiryaku03  
 明治10年の刊行です。以前、この年代の教科書を何点かご紹介しました。それらと同じく、これまた師範学校の編纂です。

 内容はアジアとアフリカです。私が入手したのはこの1冊だけですが、他にヨーロッパ、アメリカ、オセアニアなどがあるはずですから、全3冊でしょうかね。
M10bankokuchishiryaku04
 亜細亜総論の本文4行目に「蘇葉士」とあります。「う~ん?」としばし唸りました。内容から考えて、たぶん「スエズ」だと思います。難解。(^_^;

 こういうページもあります。
M10bankokuchishiryaku05
 外国地名が相変わらず漢字表記され、難解です。頭が疲れるので解読はやめました。(^_^; その一方で、カタカナで「ラダック」とあります。「え? これがアリなら、全部カタカナで書けば良いのに」と思ったことでした。

 巻末に折り込みでアジアの地図がありました。
M10bankokuchishiryaku06
 同じくアフリカの地図も。
M10bankokuchishiryaku07
 アフリカは今よりもずっと国が少ないですね。

2019年3月12日 (火)

寛政11年の『増補 大和詞』

 このようなものを入手しました。
Yamatokotoba01
 サイズはほぼ文庫本大です。

 奥付には寛政11年5月の年月が記載されています。
Yamatokotoba02
 中身はこのような感じです。
Yamatokotoba03
 語頭のいろは順になっていて、「一いもせ とは ふうふをいふ」などという形で記述されています。

 現在、「やまとことば」というと、漢語や外来語に対する和語という意味で用いられますが、この本の場合は、「雅な古語」といった感じでしょうか。江戸時代の人が古典を読むための古語辞典といった用途で作られたのかと思います。

 上のページの2項目目に「一いね とは あねをいふ」とあります。日国を見ると「いね【姉】」という項目は立っていて、「(1)「姉」の女房詞 (2)下女。女中。」という解説文はあるものの、用例は挙がっていません。

 この本に収録されている語はどのようなものなのか興味があります。源氏や伊勢に載っている語、古今集に載っている語、徒然草に載っている語、など。全部翻字して調べてみたい気がします。

 恥ずかしながら、変体仮名が苦手なので、丸ごと翻字すれば、変体仮名の勉強にもなりそうな気がします。

 大学で古典文学を担当しながら、変体仮名が苦手などと言っていてはいけませんが。(^_^;

2019年3月 4日 (月)

明治12年の「新撰早繰年代表」

 先月、「安政3年の年忌早見盤」という記事をアップしました。
Kaikihayami01
 類は友を呼ぶではありませんが、似たようなものを入手しました。今度のは明治になってからのもので、円盤形の年表といった感じです。
M12hayakuri01
 これも中央部に回転式の円盤があります。
M12hayakuri02
 円盤の外側の一番若い数字は「一」です。そこをスタートに、反時計回りに螺旋状に内側に向かって数字が大きくなります。▲1つが100です。印刷してある最も大きな数字は「▲▲▲七十六」すなわち三百七十六で、そのあとに空欄があり、そこに朱で4年分の追記があります。

 使い方は次のようになります。
M12hayakuri03
 上の図で、一番下に白抜きで「己卯」とあります。その1つ内側が明治12年です。中央部の回転円盤の「一」をこのマス目に合わせます。1周60年ですので、1つ内側は60年前、2つ内側は120年前ということになります。土台の方も、一番外側が明治12年ならば、その1つ内側は60年前で文政2年ということが分かります。

 最も古い年は永正元年(1504)です。明治12年(1879)の375年前に当たります。多くの年には、その年のできごとが簡単に記されていますので、略年表として使えます。

 構造は安政3年のものと同様ですが、ぱっと見でも両者はずいぶん違います。

 記事は、例えば次のように、元和元年には「大阪落城」とあり、翌2年には「家康公薨」とあります。
M12hayakuri04
 もう明治の世になっていますが、家康は「公」と待遇しています。

 そればかりか、文化12年には「神君二百年御忌」とあり、神君扱いが続いています。
M12hayakuri05
 マス目が大きくないので、上のように、明治8年の条には「去年大阪神戸ノ間気車出来」とあります。明治7年の条には他の記事が入っているために余白がなく、8年のマスに「去年」として記載しています。

 家康と異なり、信長と秀吉は呼び捨てです。
M12hayakuri06
 なかなか興味深いです。

 元禄15年には「義士四十一人夜討」とあります。
M12hayakuri07
 「四十七士」って、当時誰もが知っていたでしょうに、うっかりしたのでしょうかね。(^_^;

より以前の記事一覧

2019年8月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ

ウェブページ