史料・資料

2023年9月25日 (月)

楠公像の絵はがき6点

 ネットオークションに、皇居前広場の楠公像6枚セットが出ていました。
 楠公さん、好きなもので、入札しました。
 私の他に誰も入札せず、すんなりと落札できました。
 どれもいつのものか分かりませんが、並べてみます。

 Nankozo01
Nankozo02
Nankozo03

 1枚目は台座の正面からの撮影ですが、2枚目以降は斜め前からの撮影で、この角度が定番になります。
 一番良い角度なのでしょうね。
 最後の6枚目だけが反対側からの撮影です。
 これだと楠公さんの顔が向こう向きになってしまいますが、銘文はこちら側にありますので、こちらが正面なのでしょうかね。
 いや、楠公さんが主役ですから、銘文は裏側でも良いのかもしれません。

 人物の服装は最初の4枚は和服で、あとの2枚は洋服です。

 6枚とも戦前のもののように思います。

2023年8月21日 (月)

大正10年の彦根市街図

 ネットオークションで見つけて買ってしまいました。
T10hikone01
 彦根市街図です。

 大正10年発行です。
T10hikone02

 古地図、好きですけど、何でもかんでも買っているわけではありません。
 少し前の「ブラタモリ」彦根の回で、江戸時代の彦根城には今以上に堀がめぐらしてあったというようなことが出てきたからです。←やや不正確。確認すれば良いのですけど。
 あと、うちの先祖は、彦根ではないのですが、もう少し南方に暮らしていたようなので、それで彦根には親近感があります。

 この大正10年の地図では真北は40度ほど左です。
 北が真上になるように回転して、彦根城の付近を切り出します。
T10hikone03

 現代の地図はこんな感じです。
T10hikone04

 堀というより、大正10年の地図では、城の北東はずっと水ですね。
 今はそこが埋め立てられたのか、陸上競技場や野球場などがあります。
 確かに、外敵からの防御を考える必要がなければ、そこに何かを建てた方が土地の有効利用になるという考え方は一理ありそうです。

 折角買った地図ですが、あまり深読みできていません。もう少し眺めてみます。

2023年8月11日 (金)

「武者鑑」

 先日、戦国大名等を対象にした番付「智勇鑑」を載せました。
 類友ではありませんが、似たようなものが手に入りました。
Mushakagami01
 今回のは「武者鑑」という表題です。
 載っている人名を見ると、大名クラスではなく、その家臣たちです。
 西には竹中半兵衛が張り出されています。
 ほんと、いろいろな番付があります。
 タモリさんの言うとおりです。

 東の上段。
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 この番付では、人名の上には国名ではなくて主家の名が書かれています。
 島左近、山中鹿之助、明智左馬之介、真柄十郎左衛門は分かりますが、あとはちょっと。

 西の上段。
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 こちらで分かるのは、後藤又兵衛、齋藤内蔵助、湯浅五助、片倉小十郎くらいです。あとはちょっと。

 東の3段目の1行目に鳥居強右衛門がいます。
Mushakagami04
 この範囲で知った人は他にいません。(^_^;

 中央の柱部分の上半分。
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 最上段には武田家の山本勘助と上杉家の直江山城守が大きな文字で書かれています。
 他にも武田と上杉の家臣が多いようです。

 同じく下半分。
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 1番下の中央に真田幸村がとりわけ大きな文字で書かれています。
 真田幸村の人気の程が偲ばれます。
 隣には真田大助。享年は13とも16とも言われる人物ですけど、お父さんのお隣に。

2023年8月 6日 (日)

「武者見立鏡」と「智勇鑑」

 一昨日、戦国武将の番付「智勇鑑」のことを書きました。
 書いたあとで、これと似たような番付を見たような気がしてHDDの中を捜したら、ありました。
 しかも、それを2年ほど前のブログにも載せていました。
 それは「武者見立鏡」というタイトルの番付です。
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 一昨日のは「智勇鑑」。
Chiyukagami01

 よく似ています。

 文字の大きい最上段を比べると、どちらも東方は織田信長で始まり、西方は武田信玄で始まっています。
 ぱっと見、並んでいる面々の名前も順序も一緒です。
 どちらも明智光秀が東方の枠外に張り出されている点も共通です。

 相違は、「武者見立鏡」が5段であるのに対して、「智勇鑑」は4段。
 しかも1段あたりの人数も「武者見立鏡」の方が多いです。
 その結果、「武者見立鏡」の方が、東西合わせて140人ほども人数が多くなっています。

 1人1人仔細に比較したわけではありませんが、共通して掲載されている範囲に関しては、おおよそ差はないように思います。
 1ヶ所見つかった相違点は次の通りです。
 「智勇鑑」の最下段は次のようになっています。
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 これに相当する「武者見立鏡」は、3段目の後半から4段目の冒頭に掛けてです。
Mushamitate06

 双方、赤枠で囲みましたように、「武者見立鏡」の4段目冒頭の朝倉左衛門督から薄田隼人までの5人が、「智勇鑑」では藤堂和泉守と武田四郎との間に挿入される形になっています。

 さて、このように非常によく似た2つの番付ですので、無関係とはとても思えません。
 「武者見立鏡」のダイジェスト版が「智勇鑑」なのか、あるいは逆に「智勇鑑」の増補版が「武者見立鏡」なのか、そのいずれかでありましょう。

 結論から言えば、前者、すなわち「武者見立鏡」の方が先に成立していたと考えて良さそうです。
 理由はいろいろありますが、ちょうど今示した例で言えば、この相違は「武者見立鏡」の改段箇所で生じているということが挙げられます。
 さらに、同じ図に現れている例では、赤枠の最後の人名が、「武者見立鏡」では薄田隼人であるのに対し、「智勇鑑」では薄田焦人と書かれています。これは薄田隼人が正解です。
 また、これも上の図を利用すれば、「智勇鑑」の最下段の最後の人物は木井又兵衛とありますが、これも「武者見立鏡」の木村又蔵が正解です。加藤清正の家臣で、講談で有名になった人物とのことです。こうした番付は、史実も講談も区別なく載せているのでしょうね。

 さらに、両番付の柱の部分を比べると、「武者見立鏡」には、行司役の真田幸村などの上に次の記載があります。
Mushamitate07

 これが「智勇鑑」にはありません。
 こういった、番付に掲載した武将の時代範囲に関する注記はオリジナルならではのものと思われます。

 ま、こんな感じです。
 似たようなものがあると、つい比較してみたくなるのはサガのようなものです。(^_^;

2023年8月 4日 (金)

「智勇鑑」

 このような番付を入手しました。
Chiyukagami01
 戦国武将の番付です。
 タモリさんが、「江戸時代の人は番付が好きで、何でも番付にしちゃうんですよ」と言っていました。これもそうですね。

 東の上段。
Chiyukagami02
 地位の下には国名が書いてあるようですが、刷りが薄くてよく読めません。
 東の大関は織田信長ですね。
 関脇は上杉謙信。以下、北条氏康、加藤清正、真田昌幸と続きます。

 西の上段。
Chiyukagami03
 西の大関は武田信玄。以下、毛利元就、島津義弘、山本勘介、竹中半兵衛と続きます。
 武田信玄と上杉謙信は好敵手として同格に見られることが多いのではないかと思いますが、織田信長がトップに座ったために、武田と上杉にやや差が付いてしまいました。

 東の2段目。
Chiyukagami04
 島左近が冒頭にいます。
 「どうする家康」で活躍している徳川四天王については、6番目に酒井忠次、その次に井伊直政がいます。
 福島正則、伊達政宗に次ぐ位置ですし、小西行長、石田三成などより上位という、かなりの高評価です。

 西の2段目。
Chiyukagami05
 直江兼続が冒頭にいます。
 その次が馬場信春で、次に本多忠勝がいます。
 榊原康政が見当たりません。画像は省略しますが、3段目の西の2番目に位置付けられています。
 なぜか四天王の中では康政の評価が少し低いです。

 中央部は行司と世話人等です。
Chiyukagami06
 行司の中央に、真田幸村と木村重成がいます。
 世話人には「入道」が並んでいます。
 真田一徳斎は真田昌幸の父幸綱、島津龍伯は島津義弘の兄義久です。

 明智光秀がどこにも見当たらないと思ったら、東の枠外に張り出されていました。
 謀反を起こしたからでしょうね。

 徳川、松平は1人も載っていません。
 将軍家を憚ったのでしょう。
 格付けは元より、行司等として載せることも避けたのでしょう。
 幕府に睨まれたら怖いです。

2023年7月24日 (月)

奈良市発行の鳥瞰図

 類友ではありませんが、先日の魚佐旅館の地図に続き、奈良市発行の鳥瞰図を入手しました。
Narachokan11

 地図の全体像は以下の通りです。
Narachokan12
 南から北を見る形で、右側に春日山が描かれています。

 東大寺付近。
Narachokan13
 下中央部の建物の名は「商工館」とありますので、この地図の刊行年代は一応昭和9年以降と推定されます。

 奈良市西部。
Narachokan14
 左上隅付近に、例の長大な剣が出土した富雄があります。
 平城宮趾も載っています。
 下辺に郵便局と警察署があり、警察署の方が東側なので、一応昭和13年以前と推定されます。
 先日の魚佐旅館の地図で見たように、これらを手がかりにした年代推定にはやや危ないところがありますが、この地図の年代は、一応昭和9年~13年の可能性が高そうです。

 地図の右下にピンクで塗りつぶされた部分があります。
Narachokan15
 ピンクのすぐ左側には「三十八聯隊」とあります。
 歩兵聯隊の敷地を隠したのでしょう。

 裏面は奈良案内になっています。
Narachokan16
 ①興福寺には「一二八〇年前の建立」とあります。③春日神社には「一一六九年前の鎮座」とあります。
 これらを手がかりにすれば、この地図の刊行年代は簡単に出せるではないか。
 そう思って、計算してみました。
 建立、鎮座の年代が書かれているのは以下の神社仏閣です。

  興福寺 :1280年前建立 669年建立→1949年刊行
  春日神社:1169年前鎮座 768年鎮座→1937年刊行
  東大寺 :1191年前鎮座 741年建立→1933年刊行
  新薬師寺:1189年前建立 747年建立→1936年刊行
  般若寺 :1201年前建立 629年建立→1830年刊行
  法華寺 :1188年前建立 745年建立→1933年刊行

 バラバラです。どの時点を建立、鎮座と見るかで揺れがあるのでしょう。
 1933年(昭和8年)が2つあります。
 先ほどの推定の昭和9年~13年からは1年外れますが、近似です。このあたりの年の刊行の可能性が高そうです。

 諸種料金と名産。
Narachokan17
 これまた、先日の魚佐旅館の記載と重なりますので、比較するのもおもしろそうです。

2023年7月21日 (金)

魚佐旅館の奈良案内比較

 今週の月曜日(7月17日)に「魚佐旅館の奈良案内(2)」という記事を書きました。
Uosamap07_20230721210901

 「2」としたのは、以前、同じ魚佐旅館の同様の案内をブログに載せていたからです。
Uosaannai02

 どちらが古いのかなど、比較してみます。

 掲載されている地図を比較してみると、いくつか違いが見つかりました。

 まず、奈良国立博物館の南東にある施設名です。
Uosamap10
 左が今回入手した奈良案内(Aとします。以下同)、右が以前入手した奈良案内(Bとします。以下同)です。
 右下隅の施設名が、左のAでは「物産陳列場」とありますが、右のBでは「商工館」です。
 これは地図の年代を決める指標になります。この建物の名称は以下のように変遷しています。

  明治35(1902)年 奈良県物産陳列所開業
  大正10(1921)年 奈良県商品陳列所と改称
  昭和 9(1934)年 奈良県商工館と改称

 現在は、奈良国立博物館仏教美術資料研究センターになっています。

 Aの地図の名称は「物産陳列場」ですので、ぴったり合う名称はありませんが、「所」と「場」の相違を無視すれば、Aは明治35年から大正10年までの間に作成されたことになります。
 ところが、そううまくは行きません。この案内の裏側にこんな記述があります。
Uosamap12
 3行目の「倶楽部」の説明に「明治帝 大正帝 今上陛下」とあります。この文章はAB共通です。
 ということは、AもBも昭和になってからのものということになります。
 油断なりません。

 一方、Bには「商工館」とありますので、こちらは昭和9年以降であることが確実です。
 Aは昭和元年~9年と考えて良さそうです。
 少なくとも、Aの方がBよりも古いことは確実です。
 そう思って表紙を見れば、Aには「魚佐旅館」とあるのみですが、Bには「魚佐旅館」「魚佐別館」とあります。
 別館が増えたのでしょうね。

 もう1つの手がかりは奈良警察の所在地です。
Uosamap11
 左のAでは、奈良警察は大軌(現近鉄)の電車乗り場の南にありますが、Bでは郵便局の西にあります。
 奈良警察は昭和13年に東から西に移転していますので、Aは昭和13年以前、Bは昭和13年以降と推定されます。
 Bは確実ですが、Aの年代には多少のタイムラグがあるかもしれません。

 Aの年代の上限については他に手がかりがあるかもしれません。

 裏面は奈良の名所案内等の解説文になっていて、こちらはABともに大差はありません。
 やや異なるのは奈良の名産品などです。
Uosamap14
 このように随分異なります。理由を知りたい気がします。業界からの希望があったのでしょうかね。

 交通機関やその料金などはほぼ同じです。
Uosamap13
 相違点は「自動車 人力車」の「市内」料金です。
 より古いAでは70銭均一ですが、新しいBでは50銭均一になっています。
 ものの値段は徐々に上がってゆくものと思っていましたが、値下げですね。
 あとは、値段も電車の所要時間も全く変わりません。
 表記に関して、Aには「自働車」とあるのが、Bでは「自動車」となっています。この相違に新旧の差を感じます。

 魚佐旅館については以前も書いたのですが、奈良市の地図を地図を見るたびに、猿沢池の南にある魚佐旅館という旅館名に目が行き、不思議な名称と思っていました。
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 ところが、明治18年の道中記(定宿帳)に「うをや佐兵衛」とあるのを見つけました。位置もまさに猿沢池の南です(右が南)。
M18isshin04
 魚屋佐兵衛を縮めて魚佐だったのです。
 これが分かった時は「おお!」でした。
 こういうのは楽しいです。

2023年7月17日 (月)

魚佐旅館の奈良案内(2)

 このようなしおりを入手しました。
Uosamap07
 奈良市の魚佐旅館の奈良案内です。

 同様なものは以前も入手し、ブログに載せたことがありました。
Uosaannai02
 この時の表紙は興福寺の天灯鬼立像ですね。
 今回のは、鞍を置いた奈良の鹿です。
 鞍のある奈良鹿というのは珍しいです。鹿島から神様がいらした時に騎ってきた鹿でしょうか。

 表紙に続いて奈良市の案内地図があります。
Uosamap08

 裏面は名所案内などです。
Uosamap09

 後日、両者を比較してみます。

2023年7月13日 (木)

複製本『宸翰』(6)藤原公真跡屏風帳、大小王真跡帳

 少し日が空いてしまいましたが、5回に亙ってご紹介してきた明治17年の複製『宸翰』の6回目です。

 まず、藤原公真跡屏風帳。
M17shinkan21
 これは、光明皇后が亡父藤原不比等が書いた屏風を東大寺盧舎那仏に奉献するという内容です。

 次は、大小王真跡帳。
M17shinkan22
 王羲之と王献之の真跡を東大寺盧舎那仏に奉献するという内容です。

 この両文書は同筆とされています。
 どちらも恵美押勝の署名は、「押勝」という名前ではなく「朝臣」というカバネになっています。

 大小王真跡帳が複製『宸翰』の末尾に当たりますので、これで全てです。

2023年7月 5日 (水)

明治5年の『改置府県概表』

 この様なものを購入しました。
M05fuken01
 題簽は失われてしまっています。

 表紙裏と第1ページ。
M05fuken02
 この記述によって、書名は『改置府県概表』であることなどが知られます。
 明治5年の刊行です。
 大蔵省編纂です。内容的には、現代ならば総務省の管轄かと思われます。

 左ページが第1ページで、凡例です。
 この本に記載されている各府県の府県庁所在地は緯度・経度で示されています。
 その基準位置については、次のように書かれています。
M05fuken03
 英国の「ギリンウヮチ」ですねぇ。これは今で言う「グリニッジ」でしょう。

 表の例として、最初の東京府・京都府を挙げます。
M05fuken04
 京都府の府庁所在地は二条城ですね。
 どの府県も同様の形式で作成されています。

 府県の排列は以下の通りです。
 府(東京、京都、大坂)、開港場のある県(神奈川、兵庫、長崎、新潟)、関東、近畿、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道。
 開港場はもう1つ函館がありますが、この本には北海道は載っていませんので、開港場のある県は4つです。

 新潟県から足柄県。
M05fuken05
 新潟の「潟」の字が異体字です。

 群馬県から奈良県。
M05fuken06
 現在の群馬県と栃木県の範囲が、群馬県・栃木県・宇都宮県の3県になっています。
 栃木の「栃」の字が異体字です。

 奈良県は、堺県(でしたっけ?)に含まれてしまった時期もありますが、この本の明治5年には奈良県は存在しています。

 あれこれおもしろいです。

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