史料・資料

2017年3月 4日 (土)

『幼稚園唱歌集』

 2月26日に『尋常小学読本唱歌』という記事をアップしました。ネットオークションで入手した資料です。

 類は友を呼ぶと言いますか(ちょっと違うか(^_^;)、今度は『幼稚園唱歌集』という本を入手しました。
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 文部省音楽取調掛の編纂です。
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 奥付によれば明治20年12月の出版で、東京音楽学校蔵版とあります。現在の東京芸術大学ですね。
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 「緒言」には次のようにあります。
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 続きの画像は省略しますが、本文の全体は次の通りです。

幼稚園唱歌集
  緒言
一 本編ハ、児童ノ、始メテ幼稚園ニ入リ、他人ト交遊スルコトヲ習フニ当リテ、嬉戯唱和ノ際、自ラ幼徳ヲ涵養シ、幼智ヲ開発センガ為ニ、用フベキ歌曲ヲ纂輯シタルモノナリ。
一 唱歌ハ、自然幼稚ノ性情ヲ養ヒ、其発声ノ節度ニ慣レシムルヲ要スルモノナレバ、殊ニ幼稚園ニ欠ク可ラズ。諸種ノ園戯ノ如キモ、亦音楽ノ力ヲ仮ルニ非レバ、十分ノ効ヲ奏スルコト能ハザルモノナリ。
一 幼稚園ノ唱歌ハ、殊ニ拍子ト調子トニ注意セザル可ラズ。拍子ノ、緩徐ニ失スルトキハ、活発爽快ノ精神ヲ損シ、調子ノ高低、其度ヲ失スルトキハ、啻ニ音声ノ発達ヲ害スルノミナラズ、幼稚ノ性情ニ厭悪ヲ醸シ、其開暢ヲ妨グル恐レアリ。故ニ本編ノ歌曲ハ、其撰定ニアタリ、特ニ此等ノ要旨ニ注意セリ。
一 幼稚園ニハ、筝、胡弓、若クハ洋琴、風琴、ノ如キ楽器ヲ備ヘテ、幼稚ノ唱歌ニ協奏スルヲ要ス。是レ楽器ニヨリテ、唱和ノ勢力ヲ増シ、深ク幼心ヲ感動セシムルノ力アルヲ以テナリ。

明治十六年七月

 内容はもっともと思います。指導者向けに書かれたものですね。

 収録されている歌は全部で29曲です。私が知っているのは2番目に載っている「蝶々」だけです。隔世の感がします。
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 今とは3行目の歌詞が違いますね。戦後変えたのでしょう。

 1番目に載っているのは「心は猛く」という歌です。
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 「~としも~ぞかし」ですからねぇ。難しい。(^_^; これを幼稚園児が歌ったとは。隔世の感がします。

 楽譜は次の通りです。
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 曲は簡単ですね。歌詞が4行あるうち、1行目と2行目は同じ節、4行目もほぼ同じで、3行目だけが異なります。

 歌うとすれば幼稚園児にもそう難しくはなかったでしょうが、歌詞が何とも。

2017年2月26日 (日)

『尋常小学読本唱歌』

 ネットオークションで入手しました。
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 この本、明治43年の刊行なのですが、表紙の題字等が左横書きです。この時代に極めて珍しいと思います。中身に五線紙の楽譜がありますので、それで全体が左横書きなのでしょう。
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 目次はこんな風です。
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 続き。
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 よくわからずに入札・落札したのですが、ググってみましたら、当時の国語教科書『尋常小学読本』に収録されている韻文教材の中から27の作品が選ばれ、それに曲を付けて教科書としたものだそうです。『尋常小学読本』は学年ごとの分冊になっていますが、この教科書は1冊です。

 たとえば、「こうま」はこんな感じです。
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 音符の上方に数字が書かれています。この教科書の持ち主が書き込んだものでしょう。ドレミではなくて、数字ですね。

 楽譜の次に歌詞のページがあります。
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 私、雪が積もると、革靴ではなくてゴム長で出勤します。その時に、「長靴はいい」「山でも川でもずんずんゆける」と思って、長靴を履きます。その出典はこの歌でした。♪ でも、今改めて見ると、本来の歌詞は「山でも川でも」ではなく、「山でもさかでも」ですね。(^_^;

 「鎌倉」の歌、好きです。
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 小学4年生か5年生の頃、遠足で鎌倉に行く前に、この歌を習いました。そんな思い出があります。
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 文語文の魅力を感じます。

2017年1月20日 (金)

『大和回遊名所案内図』

 昔の奈良の地図を入手しました。入手先は毎度おなじみのネットオークションです。

 袋には「大和めぐり名勝案内地図」とあります。
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 地図本体の左上には「大和回遊名所案内図」とあります。
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 両者、題名が一致していません。おおらかと言いましょうか。(^_^; ブログのタイトルは地図本体の題名によりました。昭和15年3月の発行です。

 奈良市中心部はこんな感じです。
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 平城宮跡はこの範囲よりも西に位置しますけど、この地図には一切載っていません。この時代にはまだ宮跡の位置が確定していないのでしょうね。

 久米寺前で見た道標関係のあれこれ。神武天皇陵、岡寺、橘寺です。久米寺も。
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 天理。駅名はまだ丹波市(たんばいち)ですね。
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 人麻呂塚や和尓社が載っています。そして、画面右側には天理教本部が一部見えています。

 上の画像で一部が見えていた天理教本部、実はこんなに大掛かりに描かれています。
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 東大寺や興福寺よりも遥に大きく詳しく載っています。破格の扱いですね。これは興味深かったです。そのあおりを受けて(?)石上神社が実際よりも東に移動していませんか?(^_^;

 他に興味を惹かれたのは、定家の歌です。
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 「佐野の渡り」が三輪山の南、初瀬川に設定されています。万葉集に載っているこの歌の本歌「苦しくも降り来る雨か神(みわ)の崎狭野の渡りに家もあらなくに」(265)の「神の崎」や「狭野の渡り」は、今、和歌山県新宮市とされていますが、中世には、「神の崎」が大和の三輪と誤解されたこともあったようですね。

 定家自身は佐野をどこと考えてあの歌を作ったのでしょうね。

 大坂夏の陣の折、若江で討ち死にした木村重成が大きく取り上げられていました。
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 NHK大河「真田丸」では、木村重成は、後藤又兵衛や明石全登など五人衆に比べるとやや影が薄い存在でしたけれども、昭和15年頃の人気のほどが偲ばれます。

 古いものはとにかく楽しい。(^_^)

2016年12月27日 (火)

真田氏の過去帳(2)「真田丸」の人々

 昨日載せた真田氏の過去帳の続きです。

 今回は「真田丸」に登場した人々を拾いました。

 まず、昌幸と信之は、前回画像を載せましたように、第1丁に歴代当主として2人並んで載っています。
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 昌幸の没年は慶長16年6月4日。慶長19年(1614)大坂冬の陣の3年前ですね。存命だったら勇んで大坂城に乗り込んだことでしょう。享年には異説があるようですが、この過去帳では70となっています。

 信之の享年は93。当時としてはとんでもない長寿ですね。没年の万治元年(1658)は大坂冬の陣の43年後に当たります。弟の分も長生きした感じですね。

 有働さんのナレ死を「まだ早い」と言ってはねのけた真田のばばさまも載っています。右端です。草笛さん。
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 出自は河原氏とあります。調べたところ、真田家家臣の河原綱家(真田父子犬伏の別れの折、誰も近づくなと言われていたのに、様子を見に行って下駄を投げつけられ、前歯が折れたという逸話のある人です)の叔母に当たるようです。

 ばばさまに続いて、昌幸の長兄信綱と次兄信輝が並んでいます。ふたり揃って長篠の合戦で討ち死にしました。それで昌幸が真田の家督を相続することになったわけで、兄2人のうちどちらかでも存命ならば、昌幸・信之・信繁のその後も変わっていたことでしょう。この兄弟はいずれもばばさまの子だったのでしょうか。もしそうなら、2人の子を一度に亡くしたばばさまの嘆きはいかばかりであったかと思います。

 昌幸の正室も載っています。高畑さん。
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 正親町三条中納言の姪で、菊亭大納言の娘、武田信玄の養女とあります。三谷さんは、そんなに高い身分のはずがないと考えて、実は菊亭大納言の侍女だったのに、娘と自称したという風に設定したのでしょう。確かにそんな可能性もあるように思います。

 真田兄弟の姉様も載っています。木村佳乃さん。
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 小山田壱岐守殿御内室とあります。寛永7年(1630)6月20日卒ということで、亡くなったのは冬の陣の15年後です。

 小松姫も載っています。吉田羊さん。
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 本多忠勝殿御息女 東照神君御養女とあります。藤岡弘、の恐ろしい顔が目に浮かびます。(^_^; 没年は元和6年(1620)です。夏の陣のわずか5年後ですね。

 信繁の子、大助も載っています。
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 享年十六とあります。

 「真田丸」に登場した人物で載っているのは大体こんなところです。信之の子、信吉も載っていますが画像は省略しました。

 昌幸の弟信尹は載っていません。信之の側室おこうさんも、信繁の妻達も。

 全体をきちんと見ていませんけれども、側室は載せない方針かもしれません。また、歴代当主本人とその妻子が対象ですので、信繁は載っても、信繁の妻子までは載らないのでしょう。大助が載っているのがむしろ例外的という気がします。

 なかなか興味深い史料です。

2016年12月26日 (月)

真田氏の過去帳(1)概要

 しばらく前に真田氏の過去帳を入手しました。入手先はおなじみのネットオークションです。

 昨年の10月に善光寺に行った折、境内にあった墓石の戒名がこの過去帳に載っていたということを当ブログにアップしました。この過去帳に触れるのはあれ以来です。

 この過去帳には「真田丸」に登場する人物も何人か載っていますので、ネタバレになってはまずかろうと思って、その後触れないできましたが、番組も終わってしまいましたので、改めてご紹介します。

 この過去帳の由緒は全く不明です。真田氏や真田氏の菩提寺に伝わる過去帳の写しなのか、それらとは全く無関係に部外者によって作られたものなのか分かりません。

 表紙はこんな感じで、題簽はありませんし、題簽が剥がれた形跡もありません。
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 表紙をめくると、表紙裏は白紙で、その左ページ(第1丁ですね)は以下の通りです。
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 冒頭にあるのは昌幸の父幸隆です(以下、敬称略)。

 それから、昌幸、信之、信政、幸道、信弘、信安、幸弘、幸専、幸貫と、歴代当主が続きます。歴代当主を10人列挙したあと、改丁して、歴代当主の妻子などが89名列挙されています。

 歴代当主10名+その他89名=全部で99名が収録されています。

 この過去帳の最後の当主幸貫については「嘉永五年 子六月十七日 六十二歳御卒去」とあります。幸貫の実際の命日は嘉永5年(1852)の6月8日らしいので、日付が合いません。間違いなのか、あるいは過去帳の日付は幕府に届け出た日付なのかもしれません。

 この過去帳で一番新しい日付は安政6年(1865)ですから、この過去帳が書かれた(写された)のはそれ以降ということになります。

 幸村も載っています。
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 ご覧の通り、「幸村公」とあります。真田幸村という名は後世の軍記物などに登場する名で、史実としては信繁が正しいとされています。とすると、この過去帳は怪しいのでしょうか? 

 ただ、この過去帳では幸村の享年は四十六とあります。幸村(信繁)の享年は通常49とされていますが、ネット情報ながら、真田氏の菩提寺である松代の長国寺の過去帳では、46となっているそうです。

 それと一致しますね。

 興味深いです。

 明日は、「真田丸」に登場した人々がこの過去帳でどのように書かれているか見てみます。

2016年11月22日 (火)

奈良京大阪経路図

 奈良京大阪付近の経路図を入手しました。木版です。江戸時代のものと思います。最近、奈良方面の絵図や経路図への関心が増してきました。ご縁といいましょうか、関心が増すとあれこれ手に入ります。(^_^)
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 この経路図の収録範囲は、左上に京・大阪、左下に若山(和歌山)、右下に伊勢神宮、右上に津、ということで、先週ご紹介した「伊勢大和まはり名所絵図道のり」とほぼ同じです。

 奈良を右上に置いた拡大図を示します。
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 奈良から左下への道を辿ると、帯解、丹波市、三輪、阿倍、飛鳥、岡寺、橘寺。またまた岡寺・橘寺のコンビです。

 その先は、Uターンするように、当麻、当麻寺、龍田、法隆寺、小泉。

 同じ「当麻」なのに、当麻は「たへま」、当麻寺は「たゐま寺」となっているのが不思議です。

 小泉の先は、郡山、西の京、と来て、次がまたまた「正大寺」です。これが標準表記のようですね。

 江戸・明治の地図や道中記を見慣れた人には常識なのかもしれませんが、今までほとんど見たことのなかった私にはもの珍しく、興味深いことです。

 全体図に戻って、左端に御定宿として京都六角堂前のちくぜんやの名が記されています。この旅籠が作成した地図でしょうか。あるいは、この部分の旅籠の名を差し替えればどこの旅籠でも使えますので、そのような性格のものなのかもしれませんね。

 大阪の表記が現代と同じく「大阪」となっています。この地名表記については、江戸時代までは「大坂」と書かれていたのが、明治になってから、「土に反(かえ)る」というのは縁起が悪いというので、「大阪」と改められた、と理解していましたが、どうなのでしょうね。

 この絵図は明治以降のものと考えるべきなのか、あるいは江戸時代にも「大阪」という表記はすでにあったのか。

 あれこれ興味は尽きません。(^_^)

 あ、六角堂、1回だけ行ったことがありました。
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 高いところから見えるようになっていました。
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2016年11月15日 (火)

伊勢大和まはり名所絵図道のり

 このような絵図を入手しました。江戸後期のものだそうです。ただ、実物ではなく、人文社の複製です。
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 左上附近が京都、その下が大坂、左下が和歌山、右下が伊勢神宮、右上やや下が名古屋。そして中央付近に奈良があります。

 凡例は以下のようになっています。赤地の○が名所です。
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 奈良附近を拡大しました。
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 奈良はひときわ大きな赤丸で「名所多し」とあります。そうですね。いちいち書き切れないでしょう。(^_^)

 奈良から南へ長谷に至る道筋には、帯解、丹波市、三輪と続きます。三輪には神社マーク。大神神社ですね。そして三輪の次、読みにくいのですが、「ちをんじ」と読めそうです。今、このあたりに「慈恩寺」という地名がありますね。仮名違いですが、位置的にこれと思われます。

 三輪から南西への道を取り、初瀬川を渡ると桜井。そして、安倍、飛鳥、橘寺、岡寺と続きます。

 橘寺、岡寺といえば、またまた例の道しるべが思い浮かびます。
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 やはりこの両寺は名だたる名所だったのでしょうね。でも、この絵図には神武天皇陵は影も形もありません。あの道しるべ、江戸時代のものとばかり思っていましたが、明治以降のもののように思えてきました。

 安倍から西への道は、八木、高田と続きます。高田付近に神社マーク。この拡大図の中に神社マークは大神神社とこれだけのようですけど、高田附近の著名な神社が何か、思い至りません。

 奈良に戻って、西には尼ヶ辻。その南に「せうだいじ」とあります。先月ご紹介した「明治21年の定宿帳」にも「正大寺」が載っていました。
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 唐招提寺のことなのでしょうが、当時は「しょうだいじ」と呼ばれ、「正大寺」と書かれることもあったのでしょうね。

 複数の史料をつき合わせると、面白さも増加します。(^_^)

2016年10月28日 (金)

明治21年の定宿帳

 以前、当ブログで、明治の定宿帳「文明講」、「真誠講」、「一新講」をご紹介しました。このたび、またまた同じようなものを入手しました。なんか、興味をもってしまって。(^_^)

 今回のは明治21年のものです。表紙に朱印がたくさん捺してあります。
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 裏表紙にも。
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 これは、この帳面の持ち主が泊まった旅館のハンコです。さしづめ御朱印帳の旅館版という感じですね。行き先は伊勢神宮だったようです。

 この帳面、東京から伊勢神宮までがメインです。2月に訪れて大いに関心を持った二川宿も載っています。
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 さらに興味を覚えたのは、伊勢で終わりではなく、奈良への道中も載っていたことです。
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 榛原、長谷、三輪、柳本、丹波市、櫟本、帯解を経て、奈良に到ります。榛原には山部赤人の古跡あり、柳本には崇神陵、丹波市には内山永久寺、櫟本には在原業平誕生地あり、などと名所の注記もあります。

 奈良は、春日神社、三笠山、大仏、南円堂、猿沢池が載っています。長谷と三輪とにも絵が描いてあります。長谷寺と三輪山(大神神社)ですね。

 次のページには、奈良の西部から南西部の寺社が載っています。
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 上段の左から2つ目「法立寺」とあるのは、竜田の前にあるという位置関係からみて、法隆寺でしょうね。となると、真ん中へん「西の京」の右隣にある「正大寺」というのはもしかすると「しょうだいじ」と読んで、唐招提寺でしょうか?

 次のページです。
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 上段、右から3つ目に当麻があり、高田、今井ときて、次が神武天皇陵。このあと橘寺、岡寺と続きます。

 神武天皇陵、橘寺、岡寺といえば、先日来、知恵を絞ってきた久米寺前の道標に刻んであった名所です。

 思わぬところで繋がってしまいました。

 あの3ヶ所、当時は今以上に名だたる名所だったのでしょうね。さてこの中で、橘寺と岡寺は昔からの名所だったかもしれませんけど、神武天皇陵はどうでしょう。注目されるのは明治以降のような気もします。例の道標も、ひょっとしたら江戸時代のものではなく、明治以降に下るかもしれませんね。

 なんか面白いです。昔のものを見てあれこれ考えるのは楽しい。

2016年10月21日 (金)

沢渡の万葉歌碑&『上毛温泉廻』

 群馬県中之条町の沢渡神社の境内に万葉歌碑があります。
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 石段の脇に建っているのがその歌碑で、近くに解説板があります。

 万葉歌碑。彫られているのは未勘国東歌の「左和多里の手児にい行き逢ひ赤駒が足掻きを速み言問はず来ぬ」(三五四〇)です。
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 解説板の文章は以下の通りです。
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 後半部をアップで示します。
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 この万葉歌には、「左和多里」という地名が読み込まれていますが、これが沢渡温泉の「沢渡」であるとは断定できず、従って、この歌も上野国の東歌かどうかは分かりません。それでも、こういった場合、多くの解説板ではその地であると決めてかかっている場合が多いのですが、この解説板には「左和多里が沢渡温泉の地であると断定できないが」とあって、好感が持てます。(^_^)

 この解説板によれば、この歌碑のことは『上毛温泉週』という文献に見えるということで、江戸時代にはすでにこの歌碑が建てられていたらしいことが分かります。ただ、年代が、後ろから3行目には「文化十一年」とあり、次行には「文政十一年」とあって、矛盾します。文化か文政のどちらかが誤りなのでしょう。

 群馬県内の万葉歌碑で年代の分かっている最古のものは佐野の舟橋の歌碑で、文政十年(1827)の建立です。
Sanohi
 沢渡の万葉歌碑の年代を考える上でも、この『上毛温泉週』という文献を是非実見したいものと思いつつも、この文献の所在が分からず、実見することは叶いませんでした。

 以上が数年前の状況です。

 ところが、最近になってこの文献が『上毛及上毛人』という雑誌の11号(大正6年7月)と12号(同8月)とに分載されていることを知りました。この雑誌は合冊製本された複製が出ていて、それは勤務先の図書館に所蔵されています。灯台もと暗しです。(^_^;
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 当該ページはこんな感じです。書名は『上毛温泉週』ではなく、『上毛温泉廻』でした。
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 当該箇所は以下の通りです。
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 歌碑の所在は「薬師のみ堂」とあります。現在の所在は沢渡神社ですので、同じものかどうか疑問は残ります。

 この文献の成立年代は、末尾に次のようにあります。
Jomoonsen04
 正解は文化ではなくて文政でした。「九月ついたちの日」というのはこの記録を書き上げた日付です。この文献の著者が沢渡で万葉歌碑を見たのは、記事によれば8月12日のことです。沢渡温泉の解説板、結構不正確でした。(^_^;

 この文献、当時の群馬県の温泉のことがいくつも載っていて興味深いです。

2016年10月 4日 (火)

鳥獣戯画の継ぎ間違い

 2日続けて新聞記事からのネタですが……。

 一昨日の毎日新聞、昨日の朝日新聞(いずれもネット版)に鳥獣戯画の記事が載っていました。

 鳥獣戯画の修理の過程で、甲巻に絵順の入れ替わりのあることが判明したとのことですね。

 和紙を漉くときに刷毛を使うそうなのですが、現行の第23紙と第11紙の刷毛跡がつながることが分かったそうです。そして、この2紙はともに短く、この2枚を繋ぐと54cmになり、この寸法は甲巻の他の紙のサイズとほぼ同じであることから、この2紙は本来は1枚であったのに、後に切断され、その後また継がれるときに、別の場所に継がれてしまったようです。

 現行の状態は以下の通りです。
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 これが本来は以下のようであったということになります。これは自分で画像ソフト上で繋いでみたものです。
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 「高山寺」という割り印が左右で合っていませんので、この印は現状のように継がれた後に捺されたということになりましょう。

 紙漉きの際の刷毛の跡を手がかりにこういうことが分かったって、すごいことだと思います。こういう話、好きです。(^_^)

 そういえば、天下の孤本である定家書写の更級日記が、見開きページの虫食いの位置大きさが重ならないことなどを手がかりに、その綴じ違いが判明したという「更級日記錯簡考」(大正14年)が連想されました。こういう話も、好きです。(^_^)

より以前の記事一覧

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