史料・資料

2019年1月17日 (木)

昭和32年、横浜線の列車ダイヤ

 昭和32年の横浜線の列車ダイヤを入手しました。サイズは、縦14.8cm、横は2.5mほどもあります。折り本形式です。その冒頭部。
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 私はテツではないのですが、幼稚園の途中まで横浜線沿線の町田に住み、都内に越してからも、母の実家が同線沿線の矢部にあったことから、夏休みや冬休みなどにちょくちょく同線に乗っていましたので、興味を惹かれました。

 うちが都内に越したのは昭和32年10月、このダイヤはその翌月の11月のです。

 最冒頭部。
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 右側に「時刻凡例」というのがあります。どうやら、それぞれの駅にどれだけの時間停車するのかを符号で示しているようです。

 駅のリスト。
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 各駅にはカタカナの略号が示されています。何かと思ったら、表の項目に「駅名電略」とあるのに気づきました。電報を打つときの略号なのでしょうね。

 駅間距離が駅名配置に反映しています。淵野辺、矢部、相模原の間隔が異様に短いです。ググってみましたら、矢部駅は以前はなかったのに、淵野辺・相模原間に米軍の相模補給廠があったことで、その便宜のために新設されたそうです。母の実家の最寄り駅は矢部ですけど、矢部駅ができる前は淵野辺駅で降りていました。それで、ずっと後までも、「矢部に行く」とは言わずに、「淵野辺に行く」と言っていました。すみません。大変に個人的なことで。(^_^;

 ダイヤはこんな感じです。
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 縦が距離で、横は時刻のはずですが、どこにも時刻の数字が書かれていません。しばし考えるに、上部に大きな字で書いてある4、5、6の数字が時刻を表すのでしょう。縦線に、細い線とやや太い線とがあって、太い線が10分単位、細い線が1分単位と思われます。数字が入っていないと不便そう。

 当時、横浜線は単線でした。右上がり・右下がりの2種類の向きの線が交差するところはいずれも駅です。上下線は駅以外ではすれ違えません。

 上りも下りも1時間に1~2本だった記憶があります。それが、東海道新幹線が開業して、新横浜駅が横浜線の菊名・小机間にできたことで、後に複線化され、本数が飛躍的に増え、駅も増えました。

 朝の7時台、8時台の部分。
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 7時台の方が線が混んでいて、運行本数が多かったことが分かります。出勤のために都内に向かう人は、7時台のに乗らないと間に合わなかったのかもしれません。それでこのようなダイヤになっているのかと思います。

 列車ダイヤの実物を手にするのは初めてでした。あれこれ興味深いです。同時代資料は楽しい。

2019年1月 5日 (土)

明治9年の『日本地誌略字引大全』

 このようなものを入手しました。題簽はありません。
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 内題はこのようにあります。
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 著者は神奈川県の師範学校の先生のようですね。

 去年の11月にご紹介した本は群馬県の師範学校の編纂でした。明治の初め頃は師範学校がこういった本を編纂していたのですね。
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 今回入手した本は、「和本、日本地誌略字引大全、三巻」とあったので、全三巻の揃いと思い込んで買ってしまいましたが、そうではなくて「第三巻」の意でした。1冊のみの端本です。(^_^;

 この第三巻は、山陰道と山陽道とを収めています。とすると、多分全四巻なのでしょう。
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 冒頭の丹波は「豊岡県師範校 山宮竹次訂正」とあります。全体の著者は神奈川県師範学校の小林義則氏でも、それぞれの土地の師範学校の先生に確認・訂正して貰ったのでしょう。地名の読みは、その土地の人でないと分からないことも多いことでしょう。

 出雲の部。ここも島根県の師範校の先生のチェックが入っています。
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 驚いたのは「出雲郡」に「シユツト」というふりがなが付いていたことです。これどう考えても「イヅモ」だろうと思いましたに。

 調べてみたら、出雲郡は中世に東西に分割されたようで、その東側が出東郡となったようです。それが、近世初期に表記は出雲郡になったのに、読みは従来通り「しゅっとう」のまま残ったようです。

 それじゃぁ読めませんよね。国名は古代以来「出雲(いづも)」なわけですから、郡名表記が「出東」から「出雲」に戻った時点で、郡名の読みも「いづも」に戻りそうなものですけれど、そうならなかったのは不思議です。

 考えるに、当時の一般庶民の日常生活は表記よりも音声で行われていたことでしょうから、郡名については「出雲」という表記よりも「しゅっとう」という読みが定着してしまっていて、変えることが難しかったのかもしれません。もしもそういうことであるとすれば、こういった表記と読みとの関係は、言語生活や言語意識を考える上での手がかりの1つになりそうに思います。

 出雲郡の隣にある「意宇郡」には「イウ」という読みが付いていますね。本来は「オウ」のはずが、表記に引かれて読みが変わってしまったのですね。こういう風に、上の例とは逆に、読みよりも表記が優先することもあるので、一筋縄ではゆきません。

 次の箇所を見て、さらにびっくり。「出雲郷」に「アダカヰ」という読みが付いています。
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 こうなると、なぜそう読むのか見当も付きません。(^_^;

 これも調べてみたら、この地にある阿太加夜神社に由来するようです。もう不条理と言っても良いかも。(^_^;

 地名は楽しいですが、なかなか難しいです。

2019年1月 4日 (金)

昭和37年4月のTV視聴率調査

 このようなものを入手しました。NET(現在のテレビ朝日)が作成した視聴率調査です。
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 表紙裏に調査方法等が書かれています。
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 夜の6時から10時半までの間、無作為に抽出した世帯に電話を掛けて、「今、どの番組を見ていますか?」と聞いていったのでしょうかね。TVを見ているときに電話が掛かってきては、掛けられた方は迷惑だったことでしょう。(^_^;

 11月から6ヶ月間の局別の視聴率の推移を示すグラフが載っています。
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 毎月継続して同様の調査をしていたのですね。
 NHK(今でいう総合)の視聴率が頭1つ(2つくらいか)抜け出ていますね。NHK教育は群を抜いて低いです。NHK教育は、日中は小中学校向けの放送をしていて、学校で理科や社会の番組を見た憶えがありますが、夜はどんな番組を放送していたのか記憶にありません。それはこの調査報告書でも分かりませんでした。

 この期間のベスト20が載っています。
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 トップのNHK「私の秘密」の4月視聴率は45.2%です。近年の紅白歌合戦の視聴率を凌駕しています。当時の紅白が80%台の視聴率だったというのも納得できます。

 みんな、TVをよく見ていたのですね。その他に、1世帯の家族数の差もあるかもしれません。今のように単身世帯が多ければ、その人がTVを見ていなければゼロですけれど、5人家族や8人家族で、その中の誰かしらTVを見ていればカウントされます。

 ベスト20の中にプロ野球中継がありませんね。当時は野球中継は盛んだったと思いますが。あるいは、シーズンの開幕が今よりも遅くて、この次の週辺りからペナントレースが始まったのかもしれません。

 あれこれ面白く、見ていて興味が尽きません。同時代資料は楽しいです。←いつも同じ結論に。(^_^)

2018年12月28日 (金)

明治7年の新暦解説書

 このようなものを入手しました。明治5年(というか6年というか)に太陽暦が採用されたことに伴う解説書です。
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 題簽には「太陽暦和解」とありますが、内題は「改正暦和解」となっています。
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 明治7年1月刊行ということで、改暦からは1年経っています。

 冒頭には、明治5年11月に出された「改暦御布達」とその「別紙」とが掲載されていますので、改暦の具体的な経緯や内容がよく分かります。
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 「別紙」には時刻法に関する記述もあります。
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 それまでの不定時法が定時法に変わって、人々はさぞ戸惑ったことでしょう。月の大小も、それ以前とは異なり、固定することになります。そして4年に1度の閏年。

 旧暦の仕組みは結構ややこしいですが、それに比べれば太陽暦は簡単ですので、太陽暦そのものに関する解説は多くありません。

 終わりの方に「西洋暦法沿革之説」という項があり、そこでユリウス暦とグレゴリオ暦の解説が載っています。
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 ユリウスカエサル(ジュリアスシーザー)を「由利安設沙爾(ゆりあんせーさる)」と書いていて、興味深かったです。

 グレゴリウス13世は、なぜか「学士」として「業列互利(げりごり)」と書いています。
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 ただ、あとの方では、「業列互利」のふりがなが、「げりごり」ではなく、「げれごり」になっていました。
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 同時代資料は面白いです。(^_^)

2018年12月10日 (月)

「浪華言葉入 大阪名所」絵はがき

 このような絵はがきを入手しました。全部で13枚入っています。
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 戦前のものであることは明らかですが、具体的な年代は不明です。袋の右側には澪つくしが描かれています。ググってみましたら、澪つくしが大阪市の市章になったのは明治27年だそうで、長い歴史がありますね。

 四天王寺。
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 ご覧のように、難波ことばによる解説が赤い文字で記されています。全13枚同じです。四天王寺は戦災で焼けてしまい、その後鉄筋コンクリートで再建されました。これは焼ける前の木造製で貴重です。

 大阪城。
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 解説に「天主閣ハ焼ケテ櫓ダケ残ツテヲマス。」とあります。またググってみますと、大阪城の天守閣は江戸時代に焼けて、昭和6年に復興天守が竣工したとのことですので、この絵はがきは昭和6年以前のものということになります。

 道頓堀。
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 繁栄の様がよく分かります。

 心斎橋。
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 新世界。
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 「ルナパーク」とあります。新世界がそう呼ばれていたことは初めて知りました。そして、びっくりしたのは通天閣にロープウェイが繋がっていることです。

 興味深い絵はがきです。

 写真は省略しますが、造幣局の解説には「日本ニタツタ一ツホカナイ、ゼヾヲコサヘル所ハコヽダン子。」とあります。「ゼヾ」って……。確かにそうですけど。(^_^)

2018年11月18日 (日)

明治10年の『上野村名 授業之枝折』&虫除けのいちょう

 このような本を入手しました。
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 群馬県師範学校が編纂したもので、明治10年の刊行です。西南戦争の年ですね。
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 内容は、群馬県内のすべての町村1037を郡ごとに列挙し、ふりがなを付けたものです。

 凡例の冒頭にはこうあります。
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 これを見ると、この本とは別に『上野村名習字帖』という本が刊行されていて、その本の指導書ということのようです。その本の内容は、書名から考えるに、群馬県の村名を筆記するときの手本なのでしょうね。大変に実用的な本と思います。

 地名については、凡例にこのようにあります。このページの3項目目です。
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 地名の読みは判断しがたいので、その読みを示す、ということでしょう。ただし、この本のふりがなは現地の読みと異なる可能性があるので、もしもそういうことがあれば教えて欲しい、とも述べています。

 本文はこんな感じです。
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 私は群馬県で30年暮らしてきましたが、生え抜きではないので、地名の読みについては詳しくありません。気づいた範囲で言えば、この本では「下小塙」「上小塙」に「シモコハナワ」「カミコバナワ」というふりがなが付いていますが、現代では「しもこばな」「かみこばな」と呼んでいます。140年で読みが変わったのでしょうかね。文字から考えれば、「はなわ」が本来の読みでしょうが、全体で6音というのは少し長いので、末尾が省略されてしまったのかもしれません。よく見ていけば、まだ見つかりそうです。

 同時代資料は楽しい。

 裏表紙です。
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 持ち主は、萩原アサ女さんです。署名の上にハンコが捺してあります。
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 「萩あさ」とありますね。これまた興味深いです。同時代資料は楽しい。

 上に載せた画像のいくつかのページに影のようなものが写っています。この本は袋とじになっていて、その袋の中に入っているものの影です。正体不明なので、汚いものではないかと不安でしたが、やがて正体が判明しました。いちょうの葉っぱでした。

 この本の持ち主の萩原アサ女さんが飾りとして入れたのかと思いましたが、そうではなく、いちょうの葉っぱは虫除けになるのですね。虫除けに入れたのでしょう。こういうことは当時広く行われていたのでしょうかね。やはり同時代資料は楽しいです。(^_^)

2018年11月 5日 (月)

明治41年の『惣菜料理』

 このような本を入手しました。
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 明治41年初版で、これは大正4年の第9版です。
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 書名の角書きにありますように、「家庭百科全書」という全50冊の叢書の10冊目に当たります。

 共著者の3人はいずれも赤堀姓ですね。親族なのでしょうね。ググってみたら、赤堀吉松は現在の赤堀料理学園の前身である赤堀割烹教場の創立者で、赤堀峰吉は明治34年に開校した日本女子大学校の創立時のメンバーであり、割烹着の創案者でもあるようです。

 版元は博文館です。

 目次の冒頭。
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 基礎から説かれていますね。

 このページの左端に「芋類の調理法」とあります。次のページは以下の通りです。
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 という次第で、以前、当ブログでご紹介した大正時代の料理本とは異なり、料理別の構成ではなく、素材別の構成になっています。

 集計してみると、以下のようになりました。

 植物系(芋、野菜、豆、海苔、きのこ、果物等)……111ページ強
 魚類(イワシ、アジ、サバ、タイなど21種)……78ページ強
 エビ・カニ・イカ・タコ・貝類……36ページ半
 肉類(鶏肉、鶏卵、鯨肉、牛肉)……21ページ強

 植物が中心です。魚介類も多いですが、肉類はあまり多くありません。明治の終わり頃はまだこのような状況だったのでしょうかね。

 文字表記としては、上の目次の左側に見えるように、だいこんを「蘿葡」と書いています。画像は省略しますが、次のページには「胡蘿葡」が項目に立っていて、これには「にんじん」のルビがあります。文中には「やはり」を「且尚」、「どうしても」を「甚麽しても」と表記するなど、今は全く見ない表記もありますが、多くはありません。

 裏表紙の裏にこのようなシールが貼ってありました。
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 東京堂とあるのは神田神保町の東京堂でしょうかね? これまたググってみたら、東京堂書店は博文館の小売り書店として開業したとのことです。この本の版元が博文館であるということと関係するのかもしれません。

 シールの中央に.360という赤字の数字があります。この本の定価は奥付によれば45銭です。45×0.8=36となります。定価の2割引きの値付けかもしれません。

 あれこれ興味深いです。(^_^)

2018年9月29日 (土)

奈良の「かまや喜八」

 昨日、6月に書いた「明治30年前後の奈良市鳥瞰図」という記事に「いがらし」さんからコメントを頂きました。

 木曜日に「いがらし」さんが入手された大正15年発行の「奈良史蹟案内」が、奈良のいろは旅館(別館かまや旅館)が発行したものであったことから、この旅館に関心をもたれ、探していらっしゃるうちに、当ブログにお越しくださったとのことでした。

 あの記事に載せた画像の1つに、猿沢池の畔に魚佐と並んで鎌屋が載っています。
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 思いがけないことで、大変に嬉しく存じました。

 そこで、幾つか入手済みの道中記を見ていったところ、1つにこの宿が見つかりました。

 明治32年の『真誠講社』です。
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 残念ながら宿の所在を示す地図は載っていませんが、確かに「かまや喜八」の文字がありました。所在地も「ならいまみかど(奈良今御門)町」とあって、一致します。
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 複数の資料を突き合わせると面白さが増します。(^_^)

2018年8月17日 (金)

明治5年の『日本地理往来』

 このようなものを入手しました。上下2冊です。
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 角書きに「郡名産物」とあるのに惹かれました。

 下巻の奥付に次のようにあります。
M5chiri02
 明治5年の刊行ですね。

 巻頭付近に折り込みの地図があります。
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 関東地方。
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 旧国名が四角の枠で、府県名が楕円形の枠で囲まれて書かれています。現在の栃木・群馬は宇都宮・栃木・群馬に分かれています。現在の茨城・千葉は茨城・新治・印幡・木更津に分かれています。現在の埼玉の西は入間です。

 中部地方。
M5chiri05
 現在の愛知から静岡西部にかけては愛智・額田・浜松です。現在の長野は、北部のみ長野で、信濃南部と飛騨とをあわせた地域は筑摩となっています。

 本文は次の通りです。府県別ではなく、旧国別になっています。
M5chiri06
 頭注欄に郡名や産物が記載されています。

 大和国の産物は次のように書かれています。
M5chiri07
 墨筆、葛粉、索麺、柿などは今も変わりませんね。

 上野国の頭注欄。
M5chiri08
 1行目の「吾妻」、現在は「あがつま」ですが「あづま」となっています。3行目の「群馬」、少なくとも江戸時代の初め頃までは、古代と同じく「くるま」と読んでいたことが分かっていますが、明治の初めでもなお「くるま」と読まれていたのかもしれません。「邑楽」も今は「おうら」と読みますが、これも、古代に「おほあらき」→「おはらき」と変化したと考えられています。明治の初めにも「おはらき」と読んでいたとしたら興味深いです。

 不審なのはその下の「新田」です。この本では「しんでん」とあります。この郡は、新田義貞の新田氏発祥の地ですので、古く「にひた」「にふた」などという読みはあったにせよ、「しんでん」は考えにくいところです。

 同時代資料は貴重ですが、正しいとは限らないと思われます。そこがまた同時代資料の面白いところです。

2018年6月13日 (水)

大正15年の「忠臣蔵新報」

 このようなパンフレットを入手しました。
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 大正15年4月の発行です。発行元の富士館は浅草六区にあった映画館で、尾上松之助主演映画の上演で人気を博したのだそうです。

 1枚紙の2つ折りで、全4ページです。

 1ページ目に尾上松之助の演説が載っていました。
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 300年の歴史を持つ忠臣蔵も、時代によって描かれ方が変わっていったことが、この文章からも伺えます。

 面白いことが書いてありました。
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 忠臣蔵は雪が降らないと撮れないとあります。今ならば、綿や塩や発泡スチロールを使って雪のシーンを撮影するのでしょうに、この時代は降雪待ちだったのですね。綿や塩だって使えたのでしょうが、予算の関係でしょうかね。

 いつまでも雪が降らない可能性だってあったでしょうに、雪待ちをして、午前3時に総動員しての撮影って、すごすぎます。

 見開きの2~3ページです。
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 ここには撮影スケジュールが載っています。

 その冒頭部。
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 末尾。
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 たまたまでしょうけど、撮影日数が47日。ロケもあちこちで行っています。

 最後のページは丸ごと配役表です。
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 さすがに大正15年というと名前を知っている人さえほとんどいません。あと10年くらい後ならば、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、阪東妻三郎、月形龍之介、山田五十鈴などなど、知っている人がたくさん並ぶのですけど。

 わがライフワークの「忠臣蔵配役表」(更新はずっと中断していますけど)の貴重な資料になります。

 このパンフレットの発行が大正15年の4月。主演の尾上松之助が亡くなったのはこの年の9月11日だそうです。松之助の最後の作品かもしれませんね。

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