万葉集

2023年6月 8日 (木)

太宰府市のキャラクター

 ネットオークションで大宰府関係の品を落札したところ、太宰府市のものと思われるポリ袋がおまけに付いてきました。
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 袋の下、文字が小さいですが、「太宰府市」という名称と所在地が印刷されていますので、これは太宰府市の公的な袋なのでしょう。

 中央部の絵。
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 3人の人物が描かれています。

 これらの人物については裏面に解説(というほどのものではありませんけど)があります。
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 左上には梅花の宴の歌の序文から、令和に関する部分が載っています。

 3人の人物。
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 旅人の装束は信長公のようです。

 3人には活躍してもらいたいです。
 「たびと」と「タビット」、名前が紛らわしいです。

2023年4月 2日 (日)

「舞い上がれ!」「タモリ倶楽部」終了

 一昨日のことになりますが、半年間にわたって楽しみに見ていた「舞い上がれ!」が終わってしまいました。
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 画面の右下の文字はいつも「つづく」でしたが、ついに「おわり」に。

 主人公が幼い頃から空を飛ぶ夢を抱き、さまざまな困難を経て、2027年(今から4年後ですね)に縁のある五島列島の空を飛ぶまでを描いた作品です。
Maiagare02

 朝ドラでは太平洋戦争はよく登場しましたが、「あまちゃん」で初めて東日本大震災が描かれました。
 「舞い上がれ!」では、リーマンショックと新型コロナ禍が初めて描かれました。
 カッチリした構成と緻密な脚本でした。
 演出も俳優も良かったと思います。

 赤楚衛二って、この朝ドラで初めて知った俳優さんでしたが、印象に残りました。
 赤楚衛二の役柄は、主人公の幼なじみで、やがて主人公の夫になるのですが、歌人です。
 番組にも彼の作品が何首か登場しました。

 「彼の作品」といっても、作者は、番組の脚本家であり歌人でもある桑原亮子さんですね。
 光源氏の和歌を紫式部が作っているのと同じ関係です。
 斉明天皇(の一部の歌)と額田王との関係といっても良さそうです。

 番組に登場した短歌に刺激された俵万智さんが妄想短歌を詠んだのも楽しかったです。
 俵万智さんを刺激するほどの作品であったとも言えましょう。

 あ、そういえば、狭野弟上娘子の歌を本歌取りした短歌が登場したことで、「本歌取り」という語がトレンドになったりもしました。
 この番組を通して、短歌や万葉集に興味を持った人が増えたかもしれません。

 この日は、20年以上見ていた「タモリ倶楽部」も最終回でした。
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 ゆるい番組でしたが、空耳と鉄道関係とが印象に残っています。
 最終回も、タモリさんが料理をするという、特別のことはない内容でした。
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 3品作るはずが、時間切れで2品になってしまったり、何人分か決めずに作り始めてしまうという、ゆるい進行でした。
 タモリさん、ちゃんと予習してきていませんね。
 それで授業(じゃありませんけど)に臨んでしまうというのが羨ましかったです。

 1年前には「ガッテン!」も「生活笑小百科」も終わってしまったし、寂しいことです。

2023年3月20日 (月)

代表的な万葉歌(4)

 昨日の「万葉かるた」を入力したことで、わがライフワークの1つである「代表的な万葉歌」の順位が大幅に変わりました。
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 あ、私のライフワークは、他に、忠臣蔵配役表の増訂や地名表記の研究など、あれこれあります。
 長生きせねば。

 さて、「代表的な万葉歌」ですが、「万葉かるた」のデータを加えたことだけでなく、計算式(というほどのものではありません)を変えたことも大きいです。
 どうも、今までの計算式では戦前の教科書のウェイトが大きすぎることが気になっていました。
 今後さらにデータを加えるとともに、計算式も見直してゆきたく思います。

 その上位100位までは以下の通りです。

    1.石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(8-1418)志貴皇子
    2.銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(5-803)山上憶良
    3.熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(1-8)額田王
    4.あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(1-20)額田王
    5.憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ(3-337)山上憶良
    6.あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり(3-328)小野老
    7.我が宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも(19-4291)大伴家持
    8.東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ(1-48)柿本人麻呂
    9.ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く(6-925)山部赤人
  10.春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山(1-28)持統天皇
  11.稲つけばかかる我が手を今夜もか殿の若子が取りて嘆かむ(14-3459)東歌(未勘国)
  12.君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く(4-488)額田王
  13.紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも(1-21)天武天皇
  14.多摩川に曝す手作さらさらに何そこの児のここだ愛しき(14-3373)東歌(武蔵)
  15.旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群(9-1791)遣唐使の母
  16.家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(2-142)有間皇子
  17.若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る(6-919)山部赤人
  18.我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我れ立ち濡れし(2-105)大伯皇女
  19.笹の葉はみ山もさやにさやげども我れは妹思ふ別れ来ぬれば(2-133)柿本人麻呂
  20.田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける(3-318)山部赤人
  21.わたつみの豊旗雲に入り日差し今夜の月夜清く照りこそ(1-15)天智天皇
  22.近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(3-266)柿本人麻呂
  23.夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも(8-1511)舒明天皇
  24.春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも(19-4290)大伴家持
  25.磯城島の大和の国に人二人ありとし思はば何か嘆かむ(13-3249)作者不明
  26.君が行く海辺の宿に霧立たば吾が立ち嘆く息と知りませ(15-3580)遣新羅使人の縁者
  27.み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも(6-924)山部赤人
  28.秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ(2-88)磐姫皇后
  29.信濃なる筑摩の川の細石も君し踏みてば玉と拾はむ(14-3400)東歌(信濃)
  30.君が行く道のながてを繰り畳ね焼きほろぼさむ天の火もがも(15-3724)狭野弟上娘子
  31.新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(20-4516)大伴家持
  32.我はもや安見児得たり皆人の得かてにすといふ安見児得たり(2-95)藤原鎌足
  33.葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ(1-64)志貴皇子
  34.うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば(19-4292)大伴家持
  35.あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ち渡る(7-1088)柿本人麻呂歌集
  36.わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず(20-4322)若倭部身麻呂/遠江防人
  37.たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野(1-4)中皇命
  38.桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る(3-271)高市黒人
  39.春の野にすみれ採みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜寝にける(8-1424)山部赤人
  40.春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子(19-4139)大伴家持
  41.験なきものを思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし(3-338)大伴旅人
  42.あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに(2-107)大津皇子
  43.吉野なる菜摘の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山蔭にして(3-375)湯原王
  44.君に恋ひ甚も術なみ平山の小松が下に立ち嘆くかも(4-593)笠女郎
  45.士やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして(6-978)山上憶良
  46.百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)大津皇子
  47.籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね
  そらみつ 大和の国は 押しなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそ居れ 我にこそは 告らめ 家をも名をも(1-1)雄略天皇
  48.み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも(4-496)柿本人麻呂
  49.川の上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常処女にて(1-22)吹黄刀自
  50.今朝の朝明雁が音聞きつ春日山もみちにけらし我が心痛し(8-1513)穂積皇子
  51.旅にしてもの恋しきに山下の赤のそほ船沖を漕ぐ見ゆ(3-270)高市黒人
  52.采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く(1-51)志貴皇子
  53.一つ松幾代か経ぬる吹く風の声の清きは年深みかも(6-1042)市原王
  54.沫雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも(8-1639)大伴旅人
  55.わが背子と二人見ませば幾許かこの降る雪の嬉しからまし(8-1658)光明皇后
  56.秋山の木の下隠り行く水の我れこそ益さめ御思ひよりは(2-92)鏡王女
  57.天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士の高嶺を 天の原 振り放け見れば
  渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も  い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける
  語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽の高嶺は(3-317)山部赤人
  58.忘らむて野行き山行き我れ来れど我が父母は忘れせのかも(20-4344)商長首麻呂/駿河防人
  59.夕闇は道たづたづし月待ちていませ我が背子その間にも見む(4-709)豊前国の娘子大宅女
  60.冬こもり春の大野を焼く人は焼き足らねかも我が心焼く(7-1336)作者不明
  61.いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く(2-111)弓削皇子
  62.夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものそ(8-1500)大伴坂上郎女
  63.三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや(1-18)額田王
  64.岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む(2-141)有間皇子
  65.蝦鳴く神名火川に影見えて今か咲くらむ山吹の花(8-1435)厚見王
  66.天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ(7-1068)柿本人麻呂歌集
  67.防人に行くは誰が背と問ふ人を見るがともしさ物思ひもせず(20-4425)昔年防人妻
  68.福のいかなる人か黒髪の白くなるまで妹が声を聞く(7-1411)作者不明
  69.もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花(19-4143)大伴家持
  70.ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ(2-106)大伯皇女
  71.馬買はば妹歩行ならむよしゑやし石は履むとも吾は二人行かむ(13-3317)作者不明
  72.巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を(1-54)坂門人足
  73.燈火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず(3-254)柿本人麻呂
  74.たけばぬれたかねば長き妹が髪このころ見ぬに掻き入れつらむか(2-123)三方沙弥
  75.人言を繁み言痛み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る(2-116)但馬皇女
  76.勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ(9-1808)高橋虫麻呂
  77.妹が見し楝の花は散りぬべしわが泣く涙いまだ干なくに(5-798)山上憶良
  78.天離る夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ(3-255)柿本人麻呂
  79.ますらをや片恋せむと嘆けども醜のますらをなほ恋ひにけり(2-117)舎人皇子
  80.瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものそ
  まなかひに もとなかかりて 安寐し寝なさぬ(5-802)山上憶良
  81.朝寝髪我は梳らじうるはしき君が手枕触れてしものを(11-2578)作者不明
  82.御民我れ生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば(6-996)海犬養岡麻呂
  83.楽浪の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ(1-30)柿本人麻呂
  84.飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ(1-78)元明天皇
  85.淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す(3-251)柿本人麻呂
  86.恋ひ恋ひて逢へる時だに愛しき言尽してよ長くと思はば(4-661)大伴坂上郎女
  87.山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく(2-158)高市皇子
  88.紫は灰さすものそ海石榴市の八十の衢に逢へる子や誰(12-3101)作者不明
  89.楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも(1-31)柿本人麻呂
  90.たらちねの母が手放れ斯くばかり為方なき事はいまだ為なくに(11-2368)柿本人麻呂歌集
  91.磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに(2-166)大伯皇女
  92.君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ(2-85)磐姫皇后
  93.ひさかたの天の香具山この夕霞たなびく春立つらしも(10-1812)柿本人麻呂歌集
  94.秋付けば尾花が上に置く露の消ぬべくも我は思ほゆるかも(8-1564)日置長枝娘子
  95.神奈備の磐瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋増さる(8-1419)鏡王女
  96.にほ鳥の葛飾早稲をにへすともその愛しきを外に立てめやも(14-3386)東歌(下総)
  97.吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくに成らましものを(2-108)石川郎女
  98.振り放けて三日月見れば一目見し人の眉引き思ほゆるかも(6-994)大伴家持
  99.世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(5-793)大伴旅人
100.秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛くありとも(2-114)但馬皇女

 いかがでしょうか。
 当然入っていて然るべき歌がないとか、この歌がこんなに上位にあるのは納得できないとか、それぞれにご意見があるかと思います。
 改訂を続けて行く所存です。

2023年3月19日 (日)

万葉かるた(古都の会)

 こういう万葉かるたを入手しました。
Manyocard04
 枚数は読み札・取り札ともに100枚です。

 そのうち任意の6枚です。
Manyocard05

 解説書が付いていて、1首につき1ページを宛てて、口訳とともに歌の解説と作者の解説が書かれています。
Manyocard06

 製作されたのは昭和59年で、中西進氏の監修、近藤信義氏の訳・解説です。
Manyocard07

 採り上げられている100首は以下の通りです。

 ・たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野(1-4)中皇命
 ・熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(1-8)額田王
 ・あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(1-20)額田王
 ・紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも(1-21)天武天皇
 ・春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山(1-28)持統天皇
 ・楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも(1-31)柿本人麻呂
 ・東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ(1-48)柿本人麻呂
 ・采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く(1-51)志貴皇子
 ・引間野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに(1-57)長意吉麻呂
 ・君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ(2-85)磐姫皇后
 ・秋山の木の下隠り行く水の我れこそ益さめ御思ひよりは(2-92)鏡王女
 ・我はもや安見児得たり皆人の得かてにすといふ安見児得たり(2-95)藤原鎌足
 ・我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我れ立ち濡れし(2-105)大伯皇女
 ・あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに(2-107)大津皇子
 ・吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくに成らましものを(2-108)石川郎女
 ・いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く(2-111)弓削皇子
 ・人言を繁み言痛み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る(2-116)但馬皇女
 ・ますらをや片恋せむと嘆けども醜のますらをなほ恋ひにけり(2-117)舎人皇子
 ・たけばぬれたかねば長き妹が髪このころ見ぬに掻き入れつらむか(2-123)三方沙弥
 ・人は皆今は長しとたけと言へど君が見し髪乱れたりとも(2-124)園生羽女
 ・岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む(2-141)有間皇子
 ・家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(2-142)有間皇子
 ・山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく(2-158)高市皇子
 ・磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに(2-166)大伯皇女
 ・降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに(2-203)穂積皇子
 ・鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ(2-223)柿本人麻呂
 ・今日今日と我が待つ君は石川の峽に交りてありといはずやも(2-224)依羅娘子
 ・天離る夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ(3-255)柿本人麻呂
 ・近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(3-266)柿本人麻呂
 ・旅にしてもの恋しきに山下の赤のそほ船沖を漕ぐ見ゆ(3-270)高市黒人
 ・桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る(3-271)高市黒人
 ・あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり(3-328)小野老
 ・憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ(3-337)山上憶良
 ・家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ(3-415)聖徳太子
 ・百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)大津皇子
 ・君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く(4-488)額田王
 ・み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも(4-496)柿本人麻呂
 ・君に恋ひ甚も術なみ平山の小松が下に立ち嘆くかも(4-593)笠女郎
 ・目には見て手には取らえぬ月の内の楓のごとき妹をいかにせむ(4-632)湯原王
 ・恋ひ恋ひて逢へる時だに愛しき言尽してよ長くと思はば(4-661)大伴坂上郎女
 ・夕闇は道たづたづし月待ちていませ我が背子その間にも見む(4-709)豊前国の娘子大宅女
 ・妹が見し楝の花は散りぬべしわが泣く涙いまだ干なくに(5-798)山上憶良
 ・銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(5-803)山上憶良
 ・遠つ人松浦佐用姫夫恋に領巾振りしより負へる山の名(5-871)作者不明 
 ・若ければ道行き知らじ賄はせむ黄泉の使負ひて通らせ(5-905)山上憶良
 ・若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る(6-919)山部赤人
 ・ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く(6-925)山部赤人
 ・海人娘女棚なし小舟漕ぎ出らし旅の宿りに楫の音聞こゆ(6-930)笠金村
 ・湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く(6-961)大伴旅人
 ・振り放けて三日月見れば一目見し人の眉引き思ほゆるかも(6-994)大伴家持
 ・山越えて遠津の浜の岩つつじ我が来るまでにふふみてあり待て(7-1188)作者不明
 ・人ならば母が愛子そあさもよし紀伊の川の辺の妹と背の山(7-1209)作者不明
 ・福のいかなる人か黒髪の白くなるまで妹が声を聞く(7-1411)作者不明
 ・名児の海を朝漕ぎ来れば海中に鹿子ぞ鳴くなるあはれその鹿子(7-1417)作者不明
 ・石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(8-1418)志貴皇子
 ・春の野にすみれ採みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜寝にける(8-1424)山部赤人
 ・秋萩の散りの乱ひに呼びたてて鳴くなる鹿の声の遥けさ(8-1550)湯原王
 ・沫雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも(8-1639)大伴旅人
 ・山高み白木綿花に落ちたぎつ夏身の川門見れど飽かぬかも(9-1736)大倭
 ・旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群(9-1791)遣唐使の母
 ・勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ(9-1808)高橋虫麻呂
 ・藤波の散らまく惜しみ霍公鳥今城の岡を鳴きて越ゆなり(10-1944)作者不明
 ・風に散る花橘を袖に受けて君がみ跡と偲ひつるかも(10-1966)作者不明
 ・天の川楫の音聞こゆ彦星と織女と今夜逢ふらしも(10-2029)柿本人麻呂歌集
 ・たらちねの母が手放れ斯くばかり為方なき事はいまだ為なくに(11-2368)柿本人麻呂歌集
 ・朝寝髪我は梳らじうるはしき君が手枕触れてしものを(11-2578)作者不明
 ・難波人葦火焚く屋のすしてあれど己が妻こそ常めづらしき(11-2651)作者不明
 ・泊瀬川早み早瀬をむすび上げて飽かずや妹と問ひし君はも(11-2706)作者不明
 ・葦垣の中の和草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな(11-2762)作者不明
 ・朝影に我が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに(12-3085)作者不明
 ・紫は灰さすものそ海石榴市の八十の衢に逢へる子や誰(12-3101)作者不明
 ・たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか(12-3102)作者不明
 ・磯城島の大和の国に人二人ありとし思はば何か嘆かむ(13-3249)作者不明
 ・馬買はば妹歩行ならむよしゑやし石は履むとも吾は二人行かむ(13-3317)作者不明
 ・多摩川に曝す手作さらさらに何そこの児のここだ愛しき(14-3373)武蔵国東歌
 ・にほ鳥の葛飾早稲をにへすともその愛しきを外に立てめやも(14-3386)下総国東歌
 ・信濃なる筑摩の川の細石も君し踏みてば玉と拾はむ(14-3400)信濃国東歌
 ・我が恋はまさかもかなし草枕多胡の入野の奥もかなしも(14-3403)上野国東歌
 ・稲つけばかかる我が手を今夜もか殿の若子が取りて嘆かむ(14-3459)未勘国東歌
 ・君が行く海辺の宿に霧立たば吾が立ち嘆く息と知りませ(15-3580)遣新羅使人の縁者
 ・家人は帰り早来と伊波比島斎ひ待つらむ旅行く我れを(15-3636)遣新羅使人
 ・草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也の山辺にさを鹿鳴くも(15-3674)壬生宇太麻呂
 ・天離る鄙にも月は照れれども妹ぞ遠くは別れ来にける(15-3698)遣新羅使人
 ・君が行く道のながてを繰り畳ね焼きほろぼさむ天の火もがも(15-3724)狭野弟上娘子
 ・帰りける人来れりといひしかばほとほと死にき君かと思ひて(15-3772)狭野弟上娘子
 ・旅にして妹に恋ふれば霍公鳥我が住む里にこよ鳴き渡る(15-3783)中臣宅守
 ・春さらばかざしにせむと我が思ひし桜の花は散りにけるかも(16-3786)壮士某
 ・荒雄らを来むか来じかと飯盛りて門に出で立ち待てど来まさず(16-3861)作者不明
 ・家にてもたゆたふ命波の上に思ひし居れば奥か知らずも(17-3896)大伴旅人の傔従
 ・霍公鳥いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ(18-4035)田辺福麻呂
 ・なでしこが花見るごとに娘子らが笑まひのにほひ思ほゆるかも(18-4114)大伴家持
 ・春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子(19-4139)大伴家持
 ・もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花(19-4143)大伴家持
 ・藤波の影なす海の底清み沈く石をも玉とぞ我が見る(19-4199)大伴家持
 ・春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも(19-4290)大伴家持
 ・わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず(20-4322)若倭部身麻呂/遠江防人
 ・時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来ずけむ(20-4323)丈部真麻呂/遠江防人
 ・唐衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして(20-4401)他田舎人大島/信濃防人
 ・草枕旅の丸寝の紐絶えば我が手と付けろこれの針持し(20-4420)椋椅部弟女/武蔵防人妻
 ・新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(20-4516)大伴家持

 ざっと見ると、著名な歌が採られていて、順当な選歌と思いますが、よくよく見ると、たとえば次のような歌が採られていません。

 ・楽浪の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ(1-30)柿本人麻呂
 ・笹の葉はみ山もさやにさやげども我れは妹思ふ別れ来ぬれば(2-133)柿本人麻呂
 ・田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける(3-318)山部赤人
 ・み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも(6-924)山部赤人
 ・我が宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも(19-4291)大伴家持
 ・うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば(19-4292)大伴家持

 このうち最後の2首は家持の春愁三首のうちの2首です。春愁三首のうち1首だけ採ったということで理解できますが、3首目の赤人の富士山の歌などはなぜ落としたのか不思議です。
 ま、いいのです。選者によって考え方には個人差がありますので、みんな同じではつまりません。
 その一方で、主に作者不明の歌の中にあまり有名でない歌が何首か採られています。そのあたりもこのかるたの個性と思います。

2023年2月27日 (月)

『ならら』最新号の特集は天誅組

 今日、『ならら』の2023年3月号が届きました。
Narara202303a
 特集は天誅組です。

 目次はこのようになっています。
Narara202303b
Narara202303cNarara202303d

 天誅組の乱の年表が載っていました。一部だけ示します。
Narara202303e
 天誅組については詳しく知らなかったのですが、時期は新選組が結成されてから池田屋事件までの間に相当していますね。

 主な隊士達の結末も一覧表になっていました。これも一部だけ示します。
Narara202303f
 多くが戦死したり、斬首になったりした中で、下から6番目の伊藤三彌や1番下の平岡鳩平は維新後に裁判官になったり、県令や衆議院議員になったりしています。
 生き残ったかどうかが大きな差になっています。

 『ならら』の内容は、歴史、考古、行事、風俗などが多いのですが、今号には珍しく国語学の論考が載っていました。
 土居美幸氏の論考で、古事記や万葉集の「参」がテーマです。
Narara202303g
 古事記や万葉集に見える「参入」「参来」「参上」「参向」などは漢語ではなく、和語で「まゐ~」などと訓読すべきものということです。
 後世、これらが音読されるようになれば、和製漢語ということになりましょう。
 逆に、「朝参」は漢語で、万葉集の巻18の4121番歌(大伴家持)の「朝参」は「テウサン」と訓むべきものとの説です。
 大変に分かりやすく、説得力のある論と思います。

2023年2月18日 (土)

朝ドラ「舞いあがれ!」に俵万智さんが追和歌

 毎日、朝ドラ「舞いあがれ!」を楽しみに見ています。

 このドラマを俵万智さんが毎日ご覧になっていて、毎日のようにTwitterに書き込みをしていらっしゃいます。

 昨日は、幼なじみの舞ちゃん(福原遥)と貴司くん(赤楚衛二)が、お互いの思いを伝え合う感動回でした。

 昨日の朝、まだ番組が始まる前の6時7分という時刻に俵万智さんが貴司くんに捧げる歌をtweetしていました。
Tawaramaiagare

 1首目の歌は、かつて貴司くんが舞ちゃんを励ますためによんだ歌、
  「君が行く新たな道を照らすよう千億の星に頼んでおいた」
と、ドラマタイトル「舞いあがれ!」とを踏まえています。

 2首目の歌は、舞ちゃんが貴司くんに伝えた感想、
  「短歌にしたら、一瞬が永遠になるんやな」
を踏まえています。

 プロの歌人がテレビ番組に心打たれて、歌を作って公開するって、滅多にないことと思います。

 予告によれば、来週は2人の結婚式が執り行われるようです。
 いやぁ、いいですね。ハッピーエンドです。
 ……って、まだ1ヶ月あるんですけど、この先どうなるんでしょう。
 舞ちゃんはパイロットになるのか、はたまた別の道を見つけるのか、そういうことでしょうね。

2023年1月19日 (木)

温古堂本元暦校本万葉集

 温古堂本の元暦校本万葉集を入手しました。
Onkogenryaku03
 巻一・二・七の3冊です。

 元暦校本は有栖川王府本の複製も持っていて、そちらにも巻一はあったはずだが、と思って比較してみました。

 温古堂本の冒頭は目録の冒頭です。
Onkogenryaku01
 この本は、元暦校本の原本を模写したものを木版で刊行したものです。
 ご覧の通り、原本の虫損も再現しています。

 末尾は持統天皇の「春過ぎて」の歌まで。
Onkogenryaku02
 28番歌です。

 一方、有栖川王府本の冒頭は柿本人麻呂の近江荒都歌です。
Arisugenryaku01
 29番歌です。

 ということで、温古堂本の末尾に有栖川王府本が接続するのでした。
 何を今頃と思われそうです。(^_^; いや、不勉強で。お恥ずかしいです。

 以前、勉誠社から刊行された影印本には両方とも収められていると思いますが、その本は今群馬の家にありますので、確認できません。
 あ、その本は500組限定出版でした。
 私個人の私費購入の他に、勤務先の図書館と私の研究室にも公費購入しましたので、全世界に500組しかないその本が、当時は玉村町に3組存在したことになります。(^_^)

 勉誠社版があれば、温古堂本は不要かとも思いますが、勉誠社版はモノクロなので、カラーの意味はあるかと思います。

2022年11月 2日 (水)

「倭歌」をめぐって

 一昨日報道された「倭歌」木簡を大変興味深く思って、昨日、新聞記事をまとめてみました。
 取材されていた諸氏の解説も大変に参考になりました。

 ただ、瀬間さんの発言として「漢詩は遣唐使などを通じて、遅くとも7世紀には日本にもたらされた。」とありますが、ご本人は取材に対して「漢詩は亡命百済人を通じて盛んになった」と答えたのだそうです。
 ところが新聞紙上では「亡命百済人」が「遣唐使など」に変えられてしまっています。著者校正がありませんから、こういうことが起こってしまうのですね。
 新聞記者の知識の範囲で記事を書こうとするからこういうことになるのでしょう。困ったことです。

 この木簡の発見によって、漢詩に対する「やまとうた」という語が奈良時代の中頃に既に存在していたことが明らかになったわけで、非常に意味のあることと思います。

 私も「倭歌」木簡をめぐって少し考えてみました。

 順序として、旧国名「やまと」(現在の奈良県)の表記の変遷は次の通りと考えられます。
   倭(やまと)
  →大宝年間に国名を2字にするために「大倭」(よみは「やまと」か「おほやまと」)
  →天平9年(737)疫病の流行により「大養徳」
  →天平19年(747)「大倭」に戻す
  →天平宝字2年(758)頃「大和」(よみは「やまと」か「おほやまと」)。

 次に、国号の表記は古くは「倭」であったものが、天武朝または大宝年間に「日本」と改められ、大宝2年の遣唐使によって唐にも承認されたと考えられます。
 よみはやはり「やまと」です。
 「やまとたけるのみこと」の表記が、古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」であることは興味深いことです。

 国名「やまと」の表記は国号「やまと」の表記にも影響を及ぼします。
 「やまとうた」は古くは「倭歌」と表記されたはずで、これが「和歌」と表記されるようになるのは、国名「やまと」が「大和」と表記されるようになる天平宝字2年(758)頃以降のはずです。
 従って、これ以前に「和歌」という表記があるとすれば、その意味は「和(こたふる)歌」ということになります。

 和名類聚抄では国名「大和」に「於保夜万止(おほやまと)」と附訓していますので、この影響で「和」単独で「やまと」とよまれることもあったのでしょう。かつての「倭」を「和」に置き換えたという経緯もあって。

 日本を意味する「やまと○○」という語は、唐や新羅を意味する「から○○」に対するものですね。
 万葉集には「倭琴」という語が2例(七・1129番歌題詞、十六・3850左注)あります。「からごと」に対する「やまとごと」です。
 そしてもう1つ、大伴家持から送られた手紙と歌への、大伴池主の返書の中に「兼ねて倭詩を垂れ、詞林錦を舒(の)ぶ。」とあります。
 ここでは「倭歌」ではなく「倭詩」ですね。漢文なので、こういう語を用いたのでしょうか。

 万葉集には、日本に対する外国のものという意の「から○○」に、からあゐ(藍)、からうす(臼)、からおび(帯)、からかぢ(楫)、からころも(衣)、からたま(玉)などがあります。
 これらの語に対する「やまと○○」という語は特に用いられず、単に「○○」で用は足ります。
 日本の歌も、通常は「うた」といえば用は足りるので、これをことさらに「やまとうた」というのは、新聞記事で諸氏が指摘されているとおり、漢詩を意識してのものなのでしょう。

 「倭歌」に触発されて、つらつらと考えてみました。
 あまりまとまりませんが。

2022年11月 1日 (火)

「倭歌」木簡の記事(まとめ)

 昨日、「倭歌」と記した木簡が発見されたという新聞記事がネットにも載り、ツイッターでも話題になりました。貴重な文字資料の発見と思います。
 各新聞記事を読んで、内容をまとめてみました。

 この木簡は、長さ約30センチ、幅約3センチ。東方官衙地区の排水路から令和2年12月に出土し、奈良時代中頃(8世紀半ば)以前のものとみられる。洗浄や解読が進められた結果、「倭歌」という語が記載されていることが分かり、今年10月に上智大学教授瀬間正之氏の指摘で、「倭歌」の最古例とみられることが判明した。

 オモテには「倭歌壱首」に続いて「多□□□□□(奈久毛利阿?)米布良奴」とあり、裏には「□□□□……□米麻児利□(夜?)止加々布佐米多 夜」とある。

 平城宮跡資料館(奈良市)で開催中の「地下の正倉院展」で今日から13日まで展示される。

【参考】
 万葉集の巻5に、大伴旅人が帰京する際の送別の宴で山上憶良が詠んだ歌(876~879)の題詞に「書殿餞酒日倭歌四首」とあるが、写本によって「倭歌」「和歌」という異同がある。「倭歌」ならば「やまとうた」の意になるが、「和歌」の場合は「やまとうた」ではなく「和(こたふる)歌」の可能性がある。
 『続日本後紀』の嘉祥2年(849)3月26日条には、「夫倭歌之体。比興為先。感動人情。最在茲矣。」とあり、従来は少なくともこの頃には倭歌の概念が成立していたと考えられていた。
 古今和歌集(905年)の仮名序の冒頭には「やまとうたは、ひとのこゝろをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。」とあり、これが仮名で書いた「やまとうた」の最古の例。真名序の冒頭には「夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。」とあり、「和歌」の表記が「やまとうた」の意で用いられている。

【上智大学教授・瀬間正之氏】
 「奈良時代に『倭歌』という語が既に広まっていた証しとして貴重だ」
 奈良時代末期ごろに成立した万葉集の後世の写本には「倭歌」との記載があるが、問いかけの歌に答える「こたえうた」の意味で使われる「和歌」と表記される写本もあり、原本で「倭歌」が使われたかは不明だ。
 これまで「倭歌」が明確に意識されたのは古今和歌集が成立した平安時代以降と考えられていたが、今回の木簡で既に奈良時代に「倭歌」の語が普及していた可能性が生じた。 「写本で伝わっている万葉集ではなく、木簡という生の資料に書かれた『倭歌』が見つかったことが重要」
 倭歌とは長歌や短歌、歌謡などの総称。漢詩は遣唐使などを通じて、遅くとも7世紀には日本にもたらされた。それ以前から日本固有の歌はあったが、やがて両者の区別を明確にする目的で「倭歌」という言葉が使われるようになる。平安時代の歴史書「続日本後紀」には、849年3月26日に「倭歌」の記述が見え、従来は少なくともこの頃には倭歌の概念が成立していたと考えられていた。(毎日)
 「『やまとうた』の確実な初出例・最古の例。国際的な意識が感じられる」(朝日)

【奈良大学准教授・鈴木喬氏】
 「倭歌壱首」に続く「多□□□□□(奈久毛利阿?)米布良奴」と読める部分については、「たな曇り雨降らぬかも」と続くと推測する。
 宴で詠まれた歌や恋の歌で「雨が降れば一緒にいられるのに」という心情を詠むのに使われる表現だという。裏面の読解は難解で、表面とつながるかはわからないとしたうえで、「雨を口実に相手を引き留める」歌にも読みうると話す。
 「『倭歌壱首』となっていることで、漢詩を含め、何首か披露される場面も想定される。宴会の座興のように、文芸の場で歌われたのではないか。万葉集では『一首』と書き、行政資料のように『壱首』としたのは初めて見た。歌を書きとどめている書きぶりを想像します」(朝日)

【國學院大學教授・上野誠氏】
 「奈良時代中ごろ以前に『やまとうた』という言葉があったと出土資料で証明した」(朝日)
 「固定電話や和菓子ということばが携帯電話や洋菓子の出現で生まれたように、『やまとうた』も中国の漢詩を意識しないと生まれないことばだろう。『倭』には『背が低い人』などマイナスの意味もあり、『和む』という意味の『和』が好まれるようになった歴史があるのではないか」(NHK)
 「洋菓子と和菓子の関係のように、漢詩がなければ『倭歌』という言葉は生まれない。日本の歌という理解がこの時代には強く意識されていたのだろう」
 この木簡は「儀式などで倭歌を詠むための手控えとして、役人が書き留めたものではないか」(毎日)
 「多□□□□□(奈久毛利阿?)米布良奴」と読める部分については、「『雨が降らないかなあ』といった意味で記したのかもしれない。和歌を作ろうと推敲しながら、フレーズを書き留めていた可能性がある」
 「書き手は宴会で歌を披露する機会が多かったのかもしれない。それなりに位の高い役人だったのでは」(産経)

【奈良県立万葉文化館企画・研究係長・井上さやか氏】
 日本初の漢詩集「懐風藻」(751年)からは、宮内の儀式で漢詩が詠まれていたことが分かるという。
 「当時の役人は漢詩とともに倭歌にも親しんだ。『倭歌』という言葉には、中国に並ぶ独自の文化が日本にもあるという誇りが込められていたのでは」(毎日)

【日本語学者・犬飼隆氏】
 聖武天皇は中国直輸入の文化を重んじた。公式性の高い儀式は中国風で行い、漢詩が詠まれた。宮中の伝統行事などでは倭歌がうたわれた。役人は歌を作るのが仕事で、日ごろから木簡に記録し「データベース化」していた。大伴家持らがそうした歌を集めて整えたのが万葉集で、今回の木簡もそのようなものの一つだろう。(毎日)

【奈良文化財研究所史料研究室長・馬場基氏】
 「奈良時代は外圧の時代。中国文化を積極的に採り入れる一方で、天平の疫病による国力低下も経験した。国の力が落ちた後、大仏をつくるなど新しい国、文化をつくるという内なる力が満ち満ちていた時代ではないか」(朝日。産経・NHKほぼ同趣旨)

朝日新聞
https://digital.asahi.com/articles/ASQB055CVQBXPOMB00G.html?iref=pc_photo_gallery_bottom

毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20221031/k00/00m/040/249000c

産経新聞
https://www.sankei.com/article/20221031-FNZIYZQDL5M7ZKXZZVPYDTMVHE/

NHK
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221031/k10013875891000.html

 私自身ももう少し考えてみます。

2022年10月25日 (火)

『国語と国文学』最新号は上代特集

 『国語と国文学』の令和4年11月号の特集は「上代文学研究の新潮流」です。
R0411kokugoto01

 目次部分をアップにして載せます。
R0411kokugoto02
 壮観ですねぇ。
 わくわくします。
 そして、このメンバーの中に、当ブログの前身というべきHPの掲示板に、当時高校生だった頃からちょくちょく書き込んでくださった方が含まれているのも嬉しいことです。
 研究者も育てる「まほろば」。←いえ、全く育ててはいません。(^_^;

 編集後記には以下のようにあります。
R0411kokugoto03
 なるほど、その通りの執筆陣、タイトルと思います。
 楽しみに読ませて頂きます。

 私も地味に頑張ります。

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