万葉集

2020年6月24日 (水)

演習の履修生からの質問(3)

 昨日はまたmeetによる演習の日でした。
 この授業は万葉集の概説からはじめましたが、このブログでもご披露していますように、学生さんからあれこれ質問が寄せられ、次の回でそれについて説明していますので、概説がなかなか終わりません。

 ただ、演習ですので、前々回からは学生さんの発表も並行して行っています。
 発表の方法は、分担を決めて順番に行うのではなく、全員に同じ課題を出して、毎回全員に発表してもらうという形式です。恩師O先生のやり方ですが、私がこの方法をとるのは教員になってから今回が初めてです。新型コロナの影響です。(^_^)

 前回の課題は、万葉集の3399番歌「信濃路は今の墾り道~」の歌について、「万葉集校本データベース」で本文異同を調べ、そこに載っている諸注釈の口語訳を整理し、考えなさい、というものでした。この歌、4句目が元暦校本だけ「足踏ましなむ」、他の諸本は「足踏ましむな」です。どちらの本文に依るかで全体の解釈も変わってきます。

 図書館が自由に使えれば、諸注釈に載っている語釈も参照できますし、当然そうすべきものですが、今はそれが叶わないので、口語訳だけを丁寧に読んで考えることになります。苦肉の策ではありますが、口語訳の比較だけでも意味はありそうです。

 ちょっと難しすぎる課題だったと思いましたが、リアクションペーパー代わりのメールに、「1つの歌について調べて解釈をするというのは、ただ原文を読み訳を見て理解するのではなく、原文から調べて自分なりの解釈を見つける、ということなのだなと今回の課題発表で改めて思いました。」という感想を寄せてくれた学生がいました。2年生です。

 そのように思ってくれたのならば、課題の目的は十分に達せられたと思います。

 学生の発表が終わった後、5句目の「沓履け我が背」の「け」の仮名について、四段活用動詞の命令形、下二段活用動詞の命令形で「け」の甲乙が異なるという話をしました。これなどは、諸注釈の口語訳からは全く読み取れないことです。
 それに関して、「(今までは甲乙のことがピンときていなかったが、)今回、活用形の違いが解釈の参考になることを知って、とても納得することができました」という感想を寄せてくれた学生がいました。これまた幸いです。甲乙のこと、もう少し補足しようと思いました。また概説が増える。(^_^)

 同じ学生が、このような質問も書いていました。

  >信濃路の歌ですが、「しなのち」も「かりはね」も「わかせ」も、全ての訓みが僻案抄のあたりで濁点付きに変わっていました。
  >(奈良時代は濁点、半濁点は認識されていなかったと記憶しています。)
  >これは、僻案抄がつくられた江戸時代あたりから、音韻の自然さをふまえた訓みをつけるようになった、ということでしょうか。

 ( )内の「濁点」「半濁点」というのは「濁音」「半濁音」のことでしょうかね。そうだとすると、次回説明しなくてはなりません。
 それはともかく、この質問は、「万葉集校本データベース」では、万葉集の諸本や、仙覚抄、拾穂抄、代匠記あたりまでの諸注釈では訓に濁点が付いていないが、僻案抄以後の諸注釈では濁点が付いている、ということに着目しての質問です。

 言われてみれば確かに3399番歌についてはそうなっています。恥ずかしながら、いつ頃から濁点を付けるようになってきたのかということは考えたこともありませんでした。「万葉集校本データベース」では、諸注釈それぞれの訓が濁点まで正確に反映されているかどうかの確認が必要ですが、調べてみないといけませんね。

 また私の宿題が増える。
 そして、またわが身の恥をブログにさらしています。(^_^;

 今年の演習は大変に私の勉強になっています。
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2020年6月22日 (月)

「田子の浦ゆ」の歌の訓の校異

 meetを使って実施している演習で、前回提出されたリアクションペーパーの中に「後世の人が元の表記を誤りと認識して書き直してしまうことがあるとのことですが、具体的にどのようなものがあるのか少々気になりました。」という質問がありました。

 どういうことかといいますと、万葉集の書写に際して、ケアレスミス等による誤写の他に、書写者の賢しらによって成された意図的な改変もある、といった話を前回の授業でしました。それを受けての質問です。

 まだ2年生の学生です。ディスプレイ越しの授業ですが、話をちゃんと聴いて、自分で考えて、疑問点を質問しています。
 とても良いです。

 さて、質問について。
 これまで万葉集の本文異同を調べているときに、こういった事例に時々遭遇していたのですが、メモも取っていないので、いざそういう例を示せと言われると、なかなかすぐには揃えられません。(^_^;

 それでも、自分で校異を整理している東歌・防人歌の中からいくつかを示すつもりです。

 質問とはちょっとズレますが、百人一首にも載っている赤人の富士山の歌の本文異同がどうなっているのか、ふと気になって調べてみました。

 原文についての本文異同ではなく、訓について異同がありましたので示します。
 画像は「万葉集校本データベース」(https://www.manyou.gr.jp/)の順序を変えて切り貼りしました。
 そういうものをブログに貼って良いかどうか迷いましたが、学術的な引用ということで。

 万葉歌と現在の定訓は以下の通りです。

  田児之浦従 打出而見者 真白衣 不尽能高嶺尓 雪波零家留(巻三・318)
  田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける

 この歌は新古今集に採られていて、百人一首も新古今集から採っています。

      だいしらず                   赤人
  たごのうらにうち出でてみれば白妙の富士のたかねに雪はふりつつ(新古今集 巻六・675)

 第一句目。
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 「たごのうらに」としている本が多いですね。新点本の中では、寛元本の神宮文庫本が「ユ」なのに文永本の西本願寺本は「ニ」ですね。仙覚は最初「ユ」としたのを後に「ニ」に改めたのですかね。ただ、神宮文庫本の「ユ」は、もとの「ニ」に1画加えて「ユ」に変えたようにも見えます。寛永版本は寛元本の系統なので「ユ」なのでしょう。広瀬本は最初の「ニ」を寛永版本によって「ユ」に改めたのかもしれません。

 第三句目。
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 次点本の類聚古集「しろたへの」、紀州本「シロタエノ」ですね。西本願寺本は青で「マシロニソ」とあるので、仙覚の改訂訓です。神宮文庫本はいろいろ消して、最終的に左側の「マシロニソ」という異本注記に落ち着いたのでしょうか。広瀬本は「シロタヘノ」をやはり寛永版本で「マシロニゾ」と訂したのかもしれません。

 第五句目。
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 類聚古集は、漢字本文は「家留」なのに、訓は「つゝ」という無理筋の状態になっています。他の本はさすがに「ケル」ですね。紀州本には左側に「ツヽ」の訓も付いていますけど。

 ということで、諸本の訓は新古今集の訓に近いということが分かりました。

 ただ、新点本は新古今集の影響を受けている可能性がありますけど、類聚古集の成立は新古今集よりも前ですよね。
 どうなんでしょ? と思って、国歌大観でこの歌を探してみました。

 新古今集以前の文献にもこの歌は載っていました。

  ・田子のうらにうち出でてみれば白妙のふじのたかねに雪ぞふりける(五代集歌枕550)
  ・たごの浦にうちいでてみればしろたへのふじのたかねにゆきはふりつつ(和歌初学抄146)

 類聚古集は藤原敦隆の編。敦隆は保安元年(1120)没なので、それ以前の成立です。五代集歌枕も和歌初学抄も、成立は12世紀半ば頃ということで、類聚古集よりも後です。

 とすると、類聚古集の訓は新古今集などとは全く関わりなく、そう訓まれていたということになります。ひょっとするとこの訓は古点にまで遡るのでしょうかね。

 などと考えました。

 このあたりのことに詳しい方からすれば、何を今さらこんな初歩的なことを……。と思われそうです。(^_^;
 全くの初心者なので、また恥をさらします。(^_^;

2020年6月19日 (金)

萬葉学会の大会も不開催

 今日、萬葉学会からの郵便が届きました。10月17日・18日に奈良県三郷町で開催予定の萬葉学会全国大会は不開催とのことです。
 早速、萬葉学会のHPを見に行ったら、そこにも載っていました。
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 画面右下にあるように、6月7日付けで載っていたのですね。数日前に論文のバックナンバーをダウンロードしようとアクセスしたのですが、気づきませんでした。

 去年の大会で、次回の会場は奈良県の「さんごうちょう」と言われて、恥ずかしながら「はて、どこだろ?」と思ってしまいました。
 漢字で「三郷町」と知って、何となく位置が分かりました。龍田のあるところですね。
 先日の『ならら』の特集が龍田でしたので、大会ついでに探索しようと思っていました。
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 日程が10月と、まだ少し先ですけど、執行部としては、やはり早めの決定をしなくてはならなかったのでしょうね。
 悩ましい判断だったことと思います。
 今日届いた手紙には「秋になる頃に今回の決定を悔いることを願っております」とありました。
 本当にそう思います。

 これで、
  5月23日・24日 上代文学会(関西大学)
  6月6日・7日 全国大学国語国文学会(東京学芸大学)
  7月4日・5日 美夫君志会(中京大学)が中止になり、
  6月20・21日 古事記学会(宮崎市)は12月に延期になりました。

 今年は仕方がないですね。

 4月19日の高校の同窓会も中止になりました。卒業50周年だそうです。
 「え~?」と思って、計算してみましたが、合っているようです。(^_^;
 少年老い易く、学成り難し。
 でも、まだ頑張ろう。

2020年6月16日 (火)

『令和万葉集』作品募集中

 今日もmeetでの演習。無事に済みました。
 リアクションペーパー代わりのメールの中に、「令和万葉集」に応募することを考えているという学生さんがいました。

 「はて?」と思ってググってみました。

 来年の春、KADOKAWAから『令和万葉集』という本が刊行されるそうです。
Reiwamanyo
 この本は、『万葉集』 から100のテーマと100首を選定し、それと呼応する近現代の秀歌を800首、そして一般公募から100首を選んで計1000首を収載する予定だそうです。

 監修は中西進氏(『万葉集』の選歌も担当)と永田和宏氏。
 そのほか、現代を代表する12名の歌人が近現代秀歌800首の選歌と一般公募100首の選歌を担当します。一般公募の募集期間は3月25日(水)~7月10日(金)です。

 募集要項等はこちら

 その学生さん、短歌を作っているとは知りませんでした。是非応募して欲しいです。
 私は、「上野三碑かるた」には応募しましたが、短歌はダメです。残念です。

2020年6月14日 (日)

演習の履修生からの質問(2)増訂

 先週の火曜日に、「演習の履修生からの質問(2)」という記事を載せました。
 この日の演習の授業(meetで行っています)の終了後、学生さん達から寄せられたリアクションペーパー代わりのメールに書かれていた質問と、それに対する私の答とを、そこに載せました。

 私の答は、質問に対して折り返し書いて送信したもので、甚だ不十分なものでした。そういう不十分なものを、そのままブログに載せたり、ツイッターにまでリンクしてしまって、世界に発信してしまいました。(^_^;

 おかげ様で、ブログには筒井茂徳先生からご教示をいただき、またツイッターには小松靖彦先生からご教示をいただきました。大変にありがたく存じています。

 質疑応答のうち、もっとも不十分だったのが以下のものです。

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D.仙覚以降、江戸時代になるまでの間は詳しい万葉集研究はされていなかったのでしょうか? 国学者による古典研究がはじまるまでは万葉集の研究がされていなかったのか気になりました。
 平安時代の作品には万葉集を本歌取りした歌もあるようですが、鎌倉以降はあまり歌人の関心は万葉集に寄せられなかったのでしょうか。
 和歌の中での万葉集の立ち位置について少し気になりました。

d.仙覚から江戸時代までの間に、著名な万葉集の注釈書はありませんが、著名でなくても、全くないのかどうか、少し調べてみます。万葉集の書写は行われています。
 古今集以降の勅撰集の中に万葉歌を載せたものがあります。八代集それぞれについて、何首くらい万葉歌が載っているのか、そんなリストがありそうに思います。捜してみます。
 歌によく読まれる地名を「歌枕」と言い、平安末期以来、歌枕集がいくつも作られています。そんな中に、万葉集の歌を引用したものがあり、どのくらいの万葉歌が引用されているのか、そんなあたりも興味深いです。
 基本的には、歌人たちの関心は勅撰集にあり、万葉集にはあまり注意が向かなかったのではないかと思います。
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 どうも、平安・鎌倉以降の万葉集(受容史・享受史・研究史)にはあまり関心がなく、このような回答しか書けなかったことを恥じ入ります。

 小松先生のご教示や、『古文献所収 万葉和歌集成 平安・鎌倉期』(渋谷虎雄。桜楓社。昭和57年)を参照して、このような回答を書いてみました。

d2.『古文献所収 万葉和歌集成 平安・鎌倉期』によれば、八代集に収載されている万葉歌は以下の通りです。

  古今集(905年):17首
  後撰集(958年頃か):25首
  拾遺集(1006年頃):123首
  後拾遺集(1086年):なし
  金葉集(1126年):なし
  詞花集(1151年頃):なし
  千載集(1188年):なし
  新古今集(1205年):63首

 歌集によって差があるのは、それぞれの編纂方針の違いなどによるのでしょう。

 また、同書の中から、多くの万葉歌を収録、引用、注釈している文献を抜き出してみました。歌数は万葉歌の数です。

  古今和歌六帖(私撰集。976以後):1192首
  俊頼髄脳(歌論書。源俊頼。1112年頃):69首
  綺語抄(歌語の注釈書。藤原仲実。1110年前後):492首
  奥義抄(歌学書。藤原清輔。1140年前後):112首
  和歌童蒙抄(歌論書。藤原範兼。1145年頃):445首
  五代集歌枕(歌枕書。藤原範兼。12世紀中頃か):1024首
  和歌初学抄(歌語の注釈書。藤原清輔。12世紀中頃か):124首
  万葉集抄(万葉集の注釈書。藤原盛方か。平安末期):173首
  袖中抄(歌語の注釈書。顕昭。1186年頃):488首
  古来風体抄(歌論書。藤原俊成。1197年初撰、1201年再撰):194首
  和歌色葉(歌論書。上覚。1198年):92首
  万物部類倭歌抄(歌論書。藤原定家。1209年):387首
  定家八代抄(秀歌集。藤原定家。1215年頃):100首
  顕注密勘(古今集の注釈書。藤原定家。1221年):120首
  八雲御抄(歌論書。順徳天皇。1221年以後):95首
  色葉和難集(歌論書。作者不明。1236年頃か):327首
  万葉抄出(秀歌集。藤原定家。1241年以前):151首

 『古今和歌六帖』には万葉歌が1192首収録されています。1192首というと、万葉集全体の1/4にもなりますね。かなりの数です。
 八代集の中で『拾遺集』に一番多くの万葉歌が収録されていること、また『古今和歌六帖』に多くの万葉歌が収録されていることについては、一昨年の万葉古代学シンポジウムで、池原陽斉氏が梨壺の五人による古点の成立が大きな意味を持っているのではないか、との指摘がありました。

 鎌倉時代の仙覚から江戸時代の下河辺長流に至るまでの間に著された万葉集の注釈書には次のようなものがあります。

  由阿『詞林采葉抄』(1366年以前)
  二条良基『万葉詞』(1375年)
  宗祇『万葉集抄』(1482年以前)

 平安時代にはまだ本格的な万葉集の注釈書はないといって良いと思います。ただ、歌論書の中に万葉歌を引いたものがあり、『五代集歌枕』では万葉・古今・後撰・拾遺・後拾遺という5つの歌集から歌枕を拾っていて、万葉集からも1000首以上の歌を収録していますので、万葉集も重んじられています。

 梨壺の五人による古点を承けて万葉集が読みやすくなり、仙覚による本文校訂と注釈の仕事を承けて由阿や二条良基、宗祇に繋がっていったように思います。
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2020年6月10日 (水)

演習の履修生からの質問(2)

 非常勤先で、1ヶ月遅れの5月12日から始まった遠隔授業の万葉集の演習、昨日で無事に5回終わりました。演習のはずなのに、万葉集に関する講義がまだ続いています。次回からは学生の発表中心の授業に移行できそうです。
 受講生が5名という少人数ですので、Googleclassroom、meetで行っています。

 毎回中休みを設けて、タヌキの写真や奈良の鹿の写真などを見てもらっていましたが、昨日は、桂本と藍紙本の複製の写真と、一昨年訪れた仙覚ゆかりの埼玉県比企郡小川町の写真を見て貰いました。中休みというより、授業の一部のようです。(^_^;

 桂本万葉集の冒頭。
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 軸を上から見たところ。
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 様々な色の料紙を使っていることがよく分かります。

 鳥や植物の絵も見て貰いました。その中で、この部分。
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 「賀茂女王」のすぐ近くに描かれている鳥を見て、女王の名にちなんで鴨の絵が描かれているのかという質問をしかけて、「いや違いますね」と引っ込めた学生がいました。
 確かに違いますね。絵が先に描かれている料紙に、後から文字を書いたのでしょうから。
 しかし、よく見ています。(^_^)

 授業終了後に送られて来たリアクションペーパー代わりのメールに寄せられた質問を載せます。また、私の答えつきで。(^_^;

A.万葉集ができた頃の読者層はどのようなものだったのでしょう? 一般庶民の歌もあるのなら、読者に一般庶民もいたのでしょうか?
 だとしたら、その人々は文字の読み書きが出来たのでしょうか?

a.万葉集は勅撰集ではなく、大伴家持の編纂した私撰集と考えられますが、完成後しばらくは世に知られなかったものと思われます。
 初期の頃の読者層は、皇族や貴族だったことでしょう。鎌倉時代以降は身分の高い武家の中にも万葉集に関心を持った人も現れますが、まだ読者は限られていたと考えられます。
 万葉集が広く大勢の人に読まれるようになるのは、江戸時代の寛永20年(1643)に版本が刊行されてからでしょう。やはり印刷されないと普及しません。


B.平安時代には万葉集が読めなくなっていたというのは、片仮名や平仮名が発達して「万葉仮名」が読めなくなったということでしょうか?

b.平安時代に万葉集が読めなくなっていたというのは、日本の和歌を漢字ばかりで表記するということがそもそも無理だったからだと思います。1字1音の万葉仮名だけで書けばまだしも、正訓字や義訓、戯書なども含まれていれば、書いた本人には唯一の訓が念頭にあったとしても、本人以外の同時代の人にも読めない(訓が1つに定まらない)歌はあったと思います。
 まして、時代が降れば、文法や語法や語形も変わってきますので、さらに読めない、ということになったのでしょう。
 そして、ご指摘のように、片仮名や平仮名(特に平仮名)が発達したことで、漢字ばかりで書かれた万葉集を読むことのハードルが上がってしまったこともあったのでしょう。
 それで、万葉集の歌を読むには「研究」が必要になったということになります。


C.万葉集の注釈書で最も古いものを書いたのは仙覚のようですが、これは万葉集の公的な研究をしたのは仙覚が初めてであるという認識でよろしいでしょうか。

c.平安時代になると、漢字ばかりで書かれた万葉集は訓むことが難しくなっていましたので、天暦5年(951)に、村上天皇が和歌所を宮中の梨壺に置いて、5人の人たち(梨壺の五人)に、万葉集の訓を付けさせました。この時に付けられた訓を「古点」と言います。注釈書ではありませんが、万葉集の公的な研究としては、これが最初と言えそうです。ちなみに、「次点本」の「次点」というのは「古点」に対しての「次点」です。
 梨壺の五人の訓読の成果を形にしたものが残っていれば、それは古点本ということになりますが、残念ながら現存する古点本は知られていません。
 ただ、次点本の中で現存最古の桂本は古点本の面影を留めているのではないかと言われています。
 なお、桂本の書写年代は不明ですが、1000年頃11世紀半ばと考えられていますので、そうすると梨壺の五人の仕事から50年100年ほど後ということになります。(赤字部分、筒井先生からいただいたご教示によって訂正しました。)


D.仙覚以降、江戸時代になるまでの間は詳しい万葉集研究はされていなかったのでしょうか? 国学者による古典研究がはじまるまでは万葉集の研究がされていなかったのか気になりました。
 平安時代の作品には万葉集を本歌取りした歌もあるようですが、鎌倉以降はあまり歌人の関心は万葉集に寄せられなかったのでしょうか。
 和歌の中での万葉集の立ち位置について少し気になりました。

d.仙覚から江戸時代までの間に、著名な万葉集の注釈書はありませんが、著名でなくても、全くないのかどうか、少し調べてみます。万葉集の書写は行われています。
 古今集以降の勅撰集の中に万葉歌を載せたものがあります。八代集それぞれについて、何首くらい万葉歌が載っているのか、そんなリストがありそうに思います。捜してみます。
 歌によく読まれる地名を「歌枕」と言い、平安末期以来、歌枕集がいくつも作られています。そんな中に、万葉集の歌を引用したものがあり、どのくらいの万葉歌が引用されているのか、そんなあたりも興味深いです。
 基本的には、歌人たちの関心は勅撰集にあり、万葉集にはあまり注意が向かなかったのではないかと思います。


E.江戸時代の注釈書の名前が面白く思えました。これらは自分でつけたのでしょうか。
 また、名前に何か意味があるのでしょうか。

e.江戸時代の注釈書の名前、確かにおもしろいですね。
 万葉考、略解、攷証、古義などは素直ですが、管見、拾穂抄、僻案抄、童蒙抄などは謙遜した名称ですね。
 代匠記は、徳川光圀に注釈の仕事を依頼された下河辺長流が、病のためにその依頼を果たせなくなり、それになり代わって作ったのが契沖の代匠記です。「師匠に成り代わって」の意なのでしょうか。ただ、「代匠」という語には出典があって、「本来それを果たすべき者に代わって自分が作るのであるから、誤りがあるだろう」という意味の語なので、「匠」は下河辺長流を指しているわけではないかもしれません。
 書名はいずれも基本的には、著者本人が付けたものと思われます。

 Dだけ4年生で、他は2年生です。今回も良い質問だらけです。私の回答で、特にDは不完全ですね。来週の授業までにもっと調べておかないとなりません。他の質問についても、もう少し調べないと。

2020年6月 3日 (水)

演習の履修生からの質問

 非常勤先の万葉集演習の授業、1ヶ月遅れの5月12日から遠隔授業で実施しています。
 受講生が5名という少人数ですので、Googleclassroom、meetで行っています。
 昨日で4回が無事に終わりました。

 第1回目は、受講生の通信環境の確認、自己紹介、授業概要でした。第2回から第4回まで万葉集概説で、まだ終わりません。
 演習なのに、今のところ講義です。概説はさすがに次回で終わると思います。
 90分間リモートというのも、集中が大変だろうと思い、途中10分間ほど中休みの意味で、昔大学に現れたタヌキや、奈良の鹿の写真などを見て貰っています。←無理やり見せている、という説も。(^_^;
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 授業中、学生のカメラとマイクは切ってもらっていますので、学生の反応がいまいちよく分かりません。
 そこで、第3回目からは授業に対する感想、質問、意見などをメールで寄せて貰うことにしました。リアクションペーパーですね。
 寄せられた感想からは、タヌキや鹿の写真は好評でした。♪
 そして、寄せられた質問と、それに対する私の答は、以下の通りです。私の答までご披露するのは、少し勇気がいります。御批正の程。(^_^;

A.万葉集の四期区分は誰がいつ分けたものでしょうか。

a.江戸時代の国学者である賀茂真淵の『万葉考』に現在の4期区分に近いものがあります。そこでは、5期区分がなされていて、以下の通りです。
  ・推古朝以前
  ・舒明朝から藤原宮の前まで
  ・藤原宮時代
  ・奈良朝初期
  ・奈良朝中期
 現在の4期区分では、推古朝以前は区分外ですが、真淵はその時期を第1期としています。あとは、その次の境を壬申の乱とするか藤原遷都とするか、という違いがあります。また真淵説では最後の区分がどこから始まるのか明示されていません。そういった違いはありますが、これが現在の区分の原型と言えそうです。
 授業で話した4期区分は、澤瀉久孝『萬葉集序説』(昭和16年)がぴったりそのままですが、これが最古かどうか? 岩波の日本古典文学大系本『萬葉集』第1冊(昭和32年)の解説があの4期区分を採用して、以後、あの説が定説になったようです。

B.万葉集には貴族から庶民といった様々な階層の人達の和歌が残されているとのことですが、当時の庶民が読み書き出来たのか、読み書き出来る身分にある人が庶民の和歌を口頭で聞きながら書きうつしたのか、作者の方言が含まれる和歌もあるのか等、気になりました。

b.万葉集には様々な身分の人の歌が収められていますが、庶民の歌は数から言えば少数です。庶民は文字の読み書きはできなかったと考えられますので、庶民の歌は文字の書ける人が文字化したものでしょう。
 東歌は、その全部が東国農民の歌とは限らないようです。東国で実際にうたわれていた歌もあったでしょうが、それらは収集した人物が文字化したのでしょう。
 防人歌は、歌をよんだのは防人本人と考えられますが、文字にしたのは、防人を引率していった国府の役人と考えられます。
 東歌・防人歌には東国方言が含まれていて貴重です。国ごとの方言の特徴までは分かりませんが、大きく東海方言と関東方言という傾向は見られます。


C.15世紀に作られた日匍辞書から当時の日本人の発音が分かるとのことですが、奈良時代の発音についても記された書物はあるのか気になりました。

c.奈良時代の発音を直接知ることのできる資料はないのですが、字音仮名に用いられている漢字の、当時の中国における字音(これは推定ですが)が手がかりになります。


D.義訓の暖(はる)、寒(ふゆ)などは少し捻ったものであるのに、どうして読み方が分かったのでしょうか。

d.義訓の暖(はる)、寒(ふゆ)については、実際に万葉集の中でその表記がなされている歌は2首あります。
  ・寒過 暖来良思 朝烏指 滓鹿能山尓 霞軽引(冬過ぎて春来るらし朝日さす春日の山に霞たなびく)巻10・1844
  ・寒過 暖来者 年月者 雖新有 人者旧去(冬過ぎて春し来れば年月は新たなれども人は古りゆく)巻10・1884
 これらの歌で「寒」を「ふゆ」と訓み、「暖」を「はる」と訓んだのは、前後の文脈と言いますか、歌全体の解釈から、ということになります。
 他に、「冬ごもり 春さり来れば」などという他の歌の似た言い回しなども参考になります。また、短歌は字余り・字足らずはあるにしても、一応五七五七七を基本としますので、その制約からある程度訓みの幅は決まってきます。そういったことを総合して訓みを決めて行きます。
 これらの歌の場合は、それ以外に候補となる訓みも思い付きませんが、歌によっては、訓みに複数の可能性があって、訓みが決まらないものもあります。そのあたりが、大変なところでもあり、おもしろいところでもあります。


E.和歌に出てくる鹿というと一頭だけが寂しく鳴いている、という印象でしたので、カップルで仲良くしていたりたくさん集まっているのを見て微笑ましくなりました。
 私が今まで見た歌は、男性が雄の鹿の寂しさと心を合わせる歌ばかりでした。和歌の鹿といえばやはり牡鹿ですが、女性が詠む女鹿の歌はあるのか(雌は雄を求めないのか)気になってしまいました。

e.古典の和歌では、鹿は秋に1頭だけで寂しく鳴いている様子がよまれることが多いですよね。
 奈良公園の鹿は、春日大社の神鹿として長い間大切にされてきて、人も鹿に危害を加えることがなかったので、その結果が今の状態なのでしょう。和歌に出てくる鹿の方が本来の姿と思います。和歌の鹿の住み処は、多くは人里に近い山などなのでしょう。
 質問のようなことを調べるには、万葉集における鹿の用例を全部集めて、それらを吟味することになります。これは後日演習の材料にするかもしれません。


F.仙覚はお坊さんであったということですが、新点本の校訂は一人でかつ公的に行ったのでしょうか。

f.新点本の仕事は鎌倉幕府の将軍藤原頼経(源実朝の次の将軍)の命令のもとに、仙覚1人で行ったようです。その成果は、後嵯峨上皇にもお目に掛けました。
 その後、仙覚はこの仕事に飽き足らず、更に多くの次点本を入手して、改訂を目指し、また注釈書も作成しました。万葉集研究に大きな功績のあった人です。


 上の質問を寄せてくれたのは全部2年生です。
 万葉集概説でどんな話をしているのか分かりますね。(^_^) 
 そして、私の講義内容に不十分な点のあることもよく分かりますが、それ以上に、学生さんたちが授業をしっかり聴いた上で、自力で更に深く考えてくれていることも分かります。みんな優秀です。

 Eの質問は、中休みの奈良の鹿の写真から出てきたものです。中休みも有意義です。♪
 リアクションペーパー代わりのメールを送って貰って良かったです。

2020年5月31日 (日)

『ならら』6月号は「龍田」の地名特集

 『ならら』最新号の特集は「「龍田」の地名を考える」です。
Narara202006
 ただ、特集とはいっても、龍田の地名を考察した論考が複数載っているわけではなく、同タイトルの論考が1本あるのみです。
 分量は全60ページのうち7ページです。ま、1割は超えています。

 龍田というと奈良県北西部の地名ですね。龍田山や龍田川が古典文学作品に登場します。
 現在の行政地名では、斑鳩町・三郷町のあたりです。
 ところが、現在の斑鳩町には龍田という地名が存在するのに、三郷町には龍田大社はあるものの龍田という地名は存在しない、それはなぜかという論考でした。

 有精堂の『萬葉集事典』の「地名索引」内の「たつた」の項には、「奈良県生駒郡三郷町立野の地」とあり、中西進氏の『万葉集事典』(講談社文庫)の「地名解説」内の「龍田」の項には「奈良県生駒郡三郷町立野の龍田本宮周辺から斑鳩町の西南部(もと龍田町)あたり一帯。」とあります。これらの内容が修正を余儀なくされるようなことはありません。
 「龍田」の地名が後の世に、現在の三郷町から現在の斑鳩町に移動した、といった趣旨でした。あとは、龍田川の流路について。

 三郷町といえば、秋の萬葉学会の会場ですね。5月~7月の学会が軒並み延期や中止になっていますが、三郷町の萬葉学会、無事に開催されると良いです。

 『ならら』次号の特集は、「纏向」「三輪山」だそうで、楽しみです。

2020年5月19日 (火)

西鉄の旅人(たびと)列車

 数年前に学生から貰いました。
Tabitocard01
 鉄道フェスティバルで貰ったのだそうです。
 そういう催しに行ったということは、この学生、テツなのでしょうね。(^_^)
 万葉集関係ということで、私にくれたようです。
 大宰府行きの急行です。「旅人」という名前はぴったりですね。
 去年の「令和」改元を受けて、益々人気が出たことでしょう。

 万葉集関係の列車の写真を私のHDDの中から捜してみました。

 近鉄奈良駅で写した列車。平成23年の撮影です。
Tabitocard02

 高岡駅で写した列車。これも同じく平成23年です。
Tabitocard03
 万葉関係のラッピングは施していませんが、路線名が「万葉線」です。
 この列車は高岡⇔射水間を走っています。

 どちらの写真も9年前ですので、今はまた新たな列車が走っているかもしれません。

2020年5月 4日 (月)

今日は「糸魚川・ヒスイの日」

 今日は「糸魚川・ヒスイの日」です。
 それを知ったきっかけはまた「ねこあつめ」の「今日のあいことば」です。
 5月4日の「今日のあいことば」が「翡翠」でしたので、これは何かあると思ってググってみました。(^_^)

 「糸魚川・ヒスイの日」は、新潟県糸魚川市で活動する市民団体の「NPOまちづくりサポーターズ」が制定したもので、糸魚川市が日本唯一のヒスイ産出地であり、世界最古のヒスイ文化発祥の地でもあることから、ヒスイの魅力をさらに大勢の人に知ってもらい、まちおこしの機運の醸成を図ることが目的とのことです。
Itoigawahisui
 5月4日という日付は、ヒスイの色からの連想で「みどりの日」が選ばれたのだそうで、平成26年に、一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録されました。

 下は、頂き物のお守りです。本物の翡翠ではないとのことです。レプリカ。でも、イメージはよく伝わります。
Nunakawa02

 以前、当ブログに書いたことですが、糸魚川の翡翠というと、松本清張の『万葉翡翠』が思い出されます。原作はまだ読んでいませんが、少年時代に、テレビドラマ化されたのを見て、大いに興味を覚えました。

 万葉集の「沼名川の 底なる玉 求めて 得まし玉かも 拾(ひり)ひて 得まし玉かも あたらしき 君が 老ゆらく惜しも」(巻13・3247)という歌にまつわる作品でした。
 2ヶ所に出てくる「得まし」は、現在は「得し」という訓が一般的です。「得まし」の訓は少数派で、主な注釈書の中でこの訓を採るのは、『万葉集評釈』(窪田空穂)と、『万葉集全註釈』(武田祐吉)だけのようです。松本清張はこのどちらかの注釈書に依ったのでしょう。

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