おくやみ

2018年4月 1日 (日)

石川先生の遺作

 今日は石川先生の告別式に参列してきました。

 昨日も今日も、会葬者には群馬県立女子大学国語国文学会の機関誌『国文学研究』の最新号(平成30年3月刊)に掲載された石川先生の論文「「霜おきまよふ床の月影」-定家詠の表現と風景-」の抜き刷りが配付されました。
Ishikawaronbun
 石川先生が最後に執筆された論文と思われます。今日の学科長の弔辞によれば、石川先生はこの御論文を自分の遺書のつもりで書かれたそうです。歌1首を題材に50枚の論文が書けるということを学生たちに示したいというお気持ちがおありだったようです。

 その歌は、「ひとり寝る山鳥の尾のしだり尾に霜おきまよふ床の月影」(新古今・秋下487。藤原定家)です。

 山鳥は、秋になると山の尾を隔てて雌雄が共寝をしないというのが和歌的イメージだそうです。百人一首の「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝ん」もそういわれるとよく納得できます。

 定家の歌については、上の句を実際の山鳥をうたったものと見るか、山鳥は譬喩であって、人間の恋をうたったものと見るか、両様の解釈があったそうです。しかし、この歌は恋の歌の部ではなく秋の部に収録されていることなどにより、今は、実際の山鳥をうたったものということで決着が付いているようです。

 問題は下の句で、
  1.山鳥の尾に霜が置き、床には月光が射しているとする、霜も月光も実景とする説と、
  2.山鳥の尾に霜が置いたのかと(人が)錯覚するように床に月光が射しているとする説と、

その両方があるそうです。

 石川先生は、その両説どちらにも賛同しかねるということで、「おきまよふ」の用例を博捜され、以下のような結論に到達されました。

 山鳥の尾に霜が降りようとしたところ、そこには既に霜が隙間なく置いていた(実際に置いていたのは霜ではなく、月光であったが、それが霜に見えた)ために、どこに降りたらよいのか、降りる場所を定めかねている霜の状態。

 霜を擬人化した解釈ですね。

 よく納得できるお考えと思いました。

 50枚にも及ぶ分量を使って縷々述べられた内容をこんなに短く、しかも私の言葉でかいつまんでまとめてしまいましたので、先生のお考えを正確に理解し伝えられているかどうか甚だ不安です。

 昨日も今日も、ご遺族を代表してご長男の石川遥至(はるゆき)氏からご挨拶がありました。2日間、別の内容で、どちらも心に響くお話しでした。

 その中に、石川先生は亡くなっても、自分の中に生きているというお言葉がありました。こんな風に言われたら、石川先生もさぞ嬉しく思っていらっしゃるのではないかと思います。

 人は死んでも、その人のことを思う人がいる限り、その人の心の中で生き続けているというのは確かにそうだと思います。それとともに、大野晋先生の告別式で、井上ひさし氏が弔辞の中で述べられた、「大野先生は亡くなっていない。『広辞苑』や『岩波古語辞典』や『角川必携国語辞典』を引く度に、大野先生の教えを受けることができるから」という言葉も思い出されました。

 石川先生も、この御論文や、昨日ブログでご紹介した「群馬県の歌枕」、そして、『式子内親王集・俊成卿女集・建礼門院右京大夫集・艶詞』(和歌文学大系23。明治書院)などの御著書や諸論文などを通して、これから先もそのお教えを受けることができます。それを、ありがたいことと思っています。

2018年3月30日 (金)

石川泰水先生ご逝去

 いつ、どういう風に書けば良いのか迷いましたが……。

 昨年3月に私が定年退職するまで同僚だった石川泰水先生が3月26日の昼に逝去されました。62歳でした。明日・明後日、前橋でお通夜・告別式です。
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 先生は中世和歌がご専門で、30年あまりの長きにわたり群馬県立女子大学に奉職されました。私が着任した翌年の着任でしたので、30年もの間、お付き合い頂きました。ショックです。
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 定年退職まであと3年を残してのご逝去、退職後にはなさりたいことも色々とあったことでしょうに、何とも残念なことです。奥様、ご子息様のお気持ちもいかばかりかとお察し致します。

 群馬県立土屋文明記念文学館所蔵の新古今和歌集(残念ながら、上下2冊のうち上のみですが)が石川先生の調査で、現存最古級の写本ということが分かり、そのこともあったのでしょう、1年生の研修旅行で土屋文明記念文学館を見学する折には、この写本を出してくださり、石川先生の解説で、見学しました。
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 そんなことが思い出されます。

 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

2018年3月15日 (木)

平岡敏夫先生ご逝去

 もと群馬県立女子大学学長の平岡敏夫先生が3月5日に逝去されました。88歳でした。

 先生のご専門は日本近代文学。筑波大学教授の後、平成4年(1992)から平成10年(1998)までの6年間、群馬県立女子大学の学長をお務めくださいました。

 授業大好き人間、講演大好き人間と、みずから仰り、学長時代もずっと1コマずつ授業を担当され、出前講座なども積極的にしてくださっていました。

 また、平岡先生の発案により、毎年秋に国文学科有志主催の東京文学散歩が始まり、今に至っています。もう20年以上になりますね。平岡先生も毎年参加されていました。

 下の写真は、平成19年(2007)2月17日に開催された平岡先生の喜寿のお祝いの折のものです。
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 これが、平岡先生にお目に掛かった最後かもしれません。あまり上手く撮れていないのが残念です。金屏風がバックだと難しいんですよね。←と、言い訳。(^_^;

2017年2月18日 (土)

ブルーナさん死去

 ミッフィーの生みの親、ブルーナさんが亡くなったという記事を見ました。

 東日本大震災の折りに、涙を流すミッフィーのイラストを描いてくれたことが思い出されます。

 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 こんなこけしがあります。
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 群馬県榛東村の「卯三郎こけし」の作です。着物姿というのが良いです。高崎駅構内の物産店でも買えます。

 今回のことで、期せずしてうさぎネタ3連投になりました。

2015年6月18日 (木)

西條勉先生ご逝去

 もと専修大学教授の西條勉先生が逝去されました。今年の3月31日だったそうです。

 私、全く存じませんで、先日の古事記学会で伺ってびっくりしました。

 西條さんは私よりも1つ年上で、親しくして頂いていました。数年前に難病に罹られたということをご本人から伺って、気に掛かっていたのですが、快復されることなく亡くなられたのは何とも痛ましいことです。

 自分で書くのもナンですが、西條さんが院生の頃に私の「古事記上巻と日本書紀神代巻との関係」(昭和55年5月)という論文を読まれて刺激を受け、院生仲間と研究会を作ったというお話しを、大分後年に伺ったことがあります。何とも嬉しいお話しでした。

 平成2年10月に専修大学で開催された萬葉学会の研究発表会では、西條さんの次が私の番でした。学会発表はまだ2回目くらいのこととて、自分の番まで気もそぞろで、西條さんの発表がちっとも頭に入ってこなかったことを憶えています。申し訳ないことでした。(^_^;

 下は、平成11年の古事記学会にて。会場はお茶の水女子大だったようです。初めてデジカメを買った年です。
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 おまけと言ってはナンですが、同じ時に撮った西宮先生の写真もありました。
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 16年前のカメラですので、画素数も少なく、画質もやはり厳しいです。

 翌平成12年には、群馬までお越し頂いて、うちの国語国文学会で講演をお願いしました。題目は「三輪山の神とモモソヒメ-〈巫女の死〉をめぐって-」でした。
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 当日、学会のあとの懇親会にて。
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 2枚とも同じような角度の写真ですね。もっと正面から撮れば良かったです。

 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

2013年12月15日 (日)

橋本達雄先生ご逝去

 橋本達雄先生が亡くなられたことを、つい先ほど、Web版の東京新聞(12月10日付)で知りました。

 記事によれば、「10日、呼吸不全のため死去、83歳。新潟県出身。通夜は13日午後6時から、葬儀・告別式は14日午後0時半から朝霞市溝沼1259の1、朝霞市斎場で」とのことです。

 気付くのが遅かったです。もう、ご葬儀終わってしまいました。

 橋本先生は私が院生の時に非常勤講師として来てくださっていて、何年かお授業を受講しました。演習で9番歌を発表した憶えがあります。

 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 下の写真は平成12年の4月に撮ったものです。今から13年半前。橋本先生の退職記念の会だったと思います。両脇は伊藤博先生と青木生子先生です。お三方、仲が良かったようです。
Hashimoto3nin
 この時にお目に掛かったのが最後になりました。

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