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2022年11月15日 (火)

上野三碑「世界の記憶」登録から5年

 群馬県立歴史博物館で「上野三碑の時代」という企画展を開催中です。
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 開催中といいますか10月8日から開催中で、会期末まで10日ほどしかありません。
 「ユネスコ「世界の記憶」登録5周年記念」とあります。
 上野三碑が「世界の記憶」に登録されてから5年経つのでした。

 当時の上毛新聞の号外(電子版)です。
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 歴史博物館の図録はミュージアムショップの通販で入手できました。
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 目次です。
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 図録ではあるのですが、それに留まらず、上野三碑やその時代背景に関する詳細な解説書です。
 全部で250ページもあります。
 勉強します。

2022年11月 2日 (水)

「倭歌」をめぐって

 一昨日報道された「倭歌」木簡を大変興味深く思って、昨日、新聞記事をまとめてみました。
 取材されていた諸氏の解説も大変に参考になりました。

 ただ、瀬間さんの発言として「漢詩は遣唐使などを通じて、遅くとも7世紀には日本にもたらされた。」とありますが、ご本人は取材に対して「漢詩は亡命百済人を通じて盛んになった」と答えたのだそうです。
 ところが新聞紙上では「亡命百済人」が「遣唐使など」に変えられてしまっています。著者校正がありませんから、こういうことが起こってしまうのですね。
 新聞記者の知識の範囲で記事を書こうとするからこういうことになるのでしょう。困ったことです。

 この木簡の発見によって、漢詩に対する「やまとうた」という語が奈良時代の中頃に既に存在していたことが明らかになったわけで、非常に意味のあることと思います。

 私も「倭歌」木簡をめぐって少し考えてみました。

 順序として、旧国名「やまと」(現在の奈良県)の表記の変遷は次の通りと考えられます。
   倭(やまと)
  →大宝年間に国名を2字にするために「大倭」(よみは「やまと」か「おほやまと」)
  →天平9年(737)疫病の流行により「大養徳」
  →天平19年(747)「大倭」に戻す
  →天平宝字2年(758)頃「大和」(よみは「やまと」か「おほやまと」)。

 次に、国号の表記は古くは「倭」であったものが、天武朝または大宝年間に「日本」と改められ、大宝2年の遣唐使によって唐にも承認されたと考えられます。
 よみはやはり「やまと」です。
 「やまとたけるのみこと」の表記が、古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」であることは興味深いことです。

 国名「やまと」の表記は国号「やまと」の表記にも影響を及ぼします。
 「やまとうた」は古くは「倭歌」と表記されたはずで、これが「和歌」と表記されるようになるのは、国名「やまと」が「大和」と表記されるようになる天平宝字2年(758)頃以降のはずです。
 従って、これ以前に「和歌」という表記があるとすれば、その意味は「和(こたふる)歌」ということになります。

 和名類聚抄では国名「大和」に「於保夜万止(おほやまと)」と附訓していますので、この影響で「和」単独で「やまと」とよまれることもあったのでしょう。かつての「倭」を「和」に置き換えたという経緯もあって。

 日本を意味する「やまと○○」という語は、唐や新羅を意味する「から○○」に対するものですね。
 万葉集には「倭琴」という語が2例(七・1129番歌題詞、十六・3850左注)あります。「からごと」に対する「やまとごと」です。
 そしてもう1つ、大伴家持から送られた手紙と歌への、大伴池主の返書の中に「兼ねて倭詩を垂れ、詞林錦を舒(の)ぶ。」とあります。
 ここでは「倭歌」ではなく「倭詩」ですね。漢文なので、こういう語を用いたのでしょうか。

 万葉集には、日本に対する外国のものという意の「から○○」に、からあゐ(藍)、からうす(臼)、からおび(帯)、からかぢ(楫)、からころも(衣)、からたま(玉)などがあります。
 これらの語に対する「やまと○○」という語は特に用いられず、単に「○○」で用は足ります。
 日本の歌も、通常は「うた」といえば用は足りるので、これをことさらに「やまとうた」というのは、新聞記事で諸氏が指摘されているとおり、漢詩を意識してのものなのでしょう。

 「倭歌」に触発されて、つらつらと考えてみました。
 あまりまとまりませんが。

2022年11月 1日 (火)

「倭歌」木簡の記事(まとめ)

 昨日、「倭歌」と記した木簡が発見されたという新聞記事がネットにも載り、ツイッターでも話題になりました。貴重な文字資料の発見と思います。
 各新聞記事を読んで、内容をまとめてみました。

 この木簡は、長さ約30センチ、幅約3センチ。東方官衙地区の排水路から令和2年12月に出土し、奈良時代中頃(8世紀半ば)以前のものとみられる。洗浄や解読が進められた結果、「倭歌」という語が記載されていることが分かり、今年10月に上智大学教授瀬間正之氏の指摘で、「倭歌」の最古例とみられることが判明した。

 オモテには「倭歌壱首」に続いて「多□□□□□(奈久毛利阿?)米布良奴」とあり、裏には「□□□□……□米麻児利□(夜?)止加々布佐米多 夜」とある。

 平城宮跡資料館(奈良市)で開催中の「地下の正倉院展」で今日から13日まで展示される。

【参考】
 万葉集の巻5に、大伴旅人が帰京する際の送別の宴で山上憶良が詠んだ歌(876~879)の題詞に「書殿餞酒日倭歌四首」とあるが、写本によって「倭歌」「和歌」という異同がある。「倭歌」ならば「やまとうた」の意になるが、「和歌」の場合は「やまとうた」ではなく「和(こたふる)歌」の可能性がある。
 『続日本後紀』の嘉祥2年(849)3月26日条には、「夫倭歌之体。比興為先。感動人情。最在茲矣。」とあり、従来は少なくともこの頃には倭歌の概念が成立していたと考えられていた。
 古今和歌集(905年)の仮名序の冒頭には「やまとうたは、ひとのこゝろをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。」とあり、これが仮名で書いた「やまとうた」の最古の例。真名序の冒頭には「夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。」とあり、「和歌」の表記が「やまとうた」の意で用いられている。

【上智大学教授・瀬間正之氏】
 「奈良時代に『倭歌』という語が既に広まっていた証しとして貴重だ」
 奈良時代末期ごろに成立した万葉集の後世の写本には「倭歌」との記載があるが、問いかけの歌に答える「こたえうた」の意味で使われる「和歌」と表記される写本もあり、原本で「倭歌」が使われたかは不明だ。
 これまで「倭歌」が明確に意識されたのは古今和歌集が成立した平安時代以降と考えられていたが、今回の木簡で既に奈良時代に「倭歌」の語が普及していた可能性が生じた。 「写本で伝わっている万葉集ではなく、木簡という生の資料に書かれた『倭歌』が見つかったことが重要」
 倭歌とは長歌や短歌、歌謡などの総称。漢詩は遣唐使などを通じて、遅くとも7世紀には日本にもたらされた。それ以前から日本固有の歌はあったが、やがて両者の区別を明確にする目的で「倭歌」という言葉が使われるようになる。平安時代の歴史書「続日本後紀」には、849年3月26日に「倭歌」の記述が見え、従来は少なくともこの頃には倭歌の概念が成立していたと考えられていた。(毎日)
 「『やまとうた』の確実な初出例・最古の例。国際的な意識が感じられる」(朝日)

【奈良大学准教授・鈴木喬氏】
 「倭歌壱首」に続く「多□□□□□(奈久毛利阿?)米布良奴」と読める部分については、「たな曇り雨降らぬかも」と続くと推測する。
 宴で詠まれた歌や恋の歌で「雨が降れば一緒にいられるのに」という心情を詠むのに使われる表現だという。裏面の読解は難解で、表面とつながるかはわからないとしたうえで、「雨を口実に相手を引き留める」歌にも読みうると話す。
 「『倭歌壱首』となっていることで、漢詩を含め、何首か披露される場面も想定される。宴会の座興のように、文芸の場で歌われたのではないか。万葉集では『一首』と書き、行政資料のように『壱首』としたのは初めて見た。歌を書きとどめている書きぶりを想像します」(朝日)

【國學院大學教授・上野誠氏】
 「奈良時代中ごろ以前に『やまとうた』という言葉があったと出土資料で証明した」(朝日)
 「固定電話や和菓子ということばが携帯電話や洋菓子の出現で生まれたように、『やまとうた』も中国の漢詩を意識しないと生まれないことばだろう。『倭』には『背が低い人』などマイナスの意味もあり、『和む』という意味の『和』が好まれるようになった歴史があるのではないか」(NHK)
 「洋菓子と和菓子の関係のように、漢詩がなければ『倭歌』という言葉は生まれない。日本の歌という理解がこの時代には強く意識されていたのだろう」
 この木簡は「儀式などで倭歌を詠むための手控えとして、役人が書き留めたものではないか」(毎日)
 「多□□□□□(奈久毛利阿?)米布良奴」と読める部分については、「『雨が降らないかなあ』といった意味で記したのかもしれない。和歌を作ろうと推敲しながら、フレーズを書き留めていた可能性がある」
 「書き手は宴会で歌を披露する機会が多かったのかもしれない。それなりに位の高い役人だったのでは」(産経)

【奈良県立万葉文化館企画・研究係長・井上さやか氏】
 日本初の漢詩集「懐風藻」(751年)からは、宮内の儀式で漢詩が詠まれていたことが分かるという。
 「当時の役人は漢詩とともに倭歌にも親しんだ。『倭歌』という言葉には、中国に並ぶ独自の文化が日本にもあるという誇りが込められていたのでは」(毎日)

【日本語学者・犬飼隆氏】
 聖武天皇は中国直輸入の文化を重んじた。公式性の高い儀式は中国風で行い、漢詩が詠まれた。宮中の伝統行事などでは倭歌がうたわれた。役人は歌を作るのが仕事で、日ごろから木簡に記録し「データベース化」していた。大伴家持らがそうした歌を集めて整えたのが万葉集で、今回の木簡もそのようなものの一つだろう。(毎日)

【奈良文化財研究所史料研究室長・馬場基氏】
 「奈良時代は外圧の時代。中国文化を積極的に採り入れる一方で、天平の疫病による国力低下も経験した。国の力が落ちた後、大仏をつくるなど新しい国、文化をつくるという内なる力が満ち満ちていた時代ではないか」(朝日。産経・NHKほぼ同趣旨)

朝日新聞
https://digital.asahi.com/articles/ASQB055CVQBXPOMB00G.html?iref=pc_photo_gallery_bottom

毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20221031/k00/00m/040/249000c

産経新聞
https://www.sankei.com/article/20221031-FNZIYZQDL5M7ZKXZZVPYDTMVHE/

NHK
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221031/k10013875891000.html

 私自身ももう少し考えてみます。

2022年10月25日 (火)

『国語と国文学』最新号は上代特集

 『国語と国文学』の令和4年11月号の特集は「上代文学研究の新潮流」です。
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 目次部分をアップにして載せます。
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 壮観ですねぇ。
 わくわくします。
 そして、このメンバーの中に、当ブログの前身というべきHPの掲示板に、当時高校生だった頃からちょくちょく書き込んでくださった方が含まれているのも嬉しいことです。
 研究者も育てる「まほろば」。←いえ、全く育ててはいません。(^_^;

 編集後記には以下のようにあります。
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 なるほど、その通りの執筆陣、タイトルと思います。
 楽しみに読ませて頂きます。

 私も地味に頑張ります。

2022年10月12日 (水)

明治7年の『童蒙 画引単語篇 一』(4)

 3回に亙ってご披露してきた明治7年の『童蒙 画引単語篇 一』の続きで、項目は「地理」です。
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 1行目「大洋」の解説の中に「大平洋大西洋」とあります。
 「太平洋」ではなく「大平洋」と書かれています。
 当時、「大平洋」と表記されることも少なからずあったのではないでしょうか。
 これも興味ありますが、自分では調べません。(^_^;

 「大洋」の挿絵には外輪船、「海」には帆船が描かれています。

 左ページの2行目の「半島」の解説に、「三方は海にて一方は大地に続きし海に出たる島をいふ肥前島原などをいふ」とあります。
 今、半島というと、紀伊半島、房総半島、伊豆半島、能登半島、下北半島など大きなものがある中で、ここで例示されているのは島原半島ですね。
 解説のように、半島を「大地に続きし海に出たる島」と定義してしまうと、紀伊半島などはスケールが大きすぎてしまうのでしょうね。
 これまた、他の資料ではどうなっているのか、紀伊半島というような呼称はいつ頃から出現するのか、などなど興味深いです。
 深掘りが可能ですが、たぶんやりません。(^_^;

 少し先の、鉄道や鉄橋などのページ。
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 左ページの1行目「鉄橋」の解説に「鉄を以て悉く造る近年大阪高麗橋心斎橋等鉄橋を架更る甚だ壮観にて他所の人の目を驚歎せしむ」とあり、明治初期の大阪の町の様子の一端が伺えます。

 その次のページ。
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 右ページの最終行「灯台」の解説に「近年海岸に設け置灯明台にて船の目的なり」とあり、「目的」には「めあて」というルビがあります。
 「めあて」はよく理解できますが、現代だと漢字表記は「目標」でしょうか。
 これも興味深いです。

 左ページの最終行の「電信線」の左側に「テレガラフ」というルビが付いています。
 「電信線」ではなく、「電信」かと思います。
 解説文に「西洋は勿論日本にも追々に成就す」とあります。この「成就」も現代の語感とは若干異なるように思います。

 その次のページ。
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 右ページの1行目は「電信線」の解説の続きです。
 ここに、電信は光線よりも速いと書いてありますが、どうなのでしょう。
 恥ずかしながら、地球上では光が一番速いと思い込んでいます。(^_^;
 理系の人に笑われそうな気がします。

 今回は、いろいろと興味深い事柄がありながら、自分では調べないだろうというものが多く、お恥ずかしいです。
 気が向いたら調べます。

 この本については今回で一応終了ですが、何か興味深い内容が目に付いたら補遺として載せるかもしれません。
 とても面白い本でした。

2022年10月 8日 (土)

明治7年の『童蒙 画引単語篇 一』(3)

 2回に亙ってご披露してきた明治7年の『童蒙 画引単語篇 一』、結構面白いので続きます。

 前回の最後の次のページ。金属や宝石の部です。
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 右ページの3行目「真珠」に「鮑より出るを上品とす蛤にも有れと鮑より劣れり」とあります。
 真珠は、アコヤガイから採れるのだと思っていました。
 ここにはアコヤガイの語はなく、アワビやハマグリから採れるとあります。
 そういえば、万葉集にも「あはびたま」の語がありました。
 アコヤガイから採るようになったのは養殖を行うようになってからなのでしょうかね。
 関心はありますが、調べないと思います。(^_^;

 「天文」の部。ここには天体と気象とを含みます。
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 絵が楽しいです。
 左ページの3行目。「液雨」に「シグレ」のルビがあります。
 「しぐれ」は通常「時雨」と書きますので、興味がありますが、やはり調べないかもしれません。(^_^;

 その次のページです。
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 右ページの1行目に「惑星」があります。
 planetの訳語については、以前、NHKのチコちゃんで取り上げられていました。
 明治時代に学術用語の統一を図る際に、東京帝国大学は「惑星」、京都帝国大学は「遊星」を主張して、結局「惑星」に統一されたいきさつがドラマで紹介されていました。感動的な話だったのですが、忘れてしまいました。折角のドラマ仕立てだったのに。

 「時令」の部の最後。
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 右ページには七曜が載っています。
 漢字の右には音がひらがなで付き、左には何と英語がカタカナで付いています。
 七曜自体は古くから日本の暦にも載っていたものですが、この七曜は西洋から入ってきた新暦とセットとして英語の読みが付いているのかもしれません。
 読みは、ソンデイ、マンデイ、チュウスデイ、ヱンスデイ、サアスデイ、フライデイ、サタデイです。

 その次のページ。「地理」の部です。
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 右ページ1行目の「山」に、「世界第一の高山は亜米利加洲(あめりかしう)の安得山(あんですさん)印度(いんど)の喜馬拉山(ひまらやさん)などなり……」とあります。外国地名も全部漢字表記。
 ところが、左ページ2行目の「瀑布」には「ナイヤガラ滝」という片仮名表記があります。
 最終行の「河」にも、国名は漢字表記ですが、ナイル河、アマゾン河は片仮名です。
 片仮名で良いのならば外国の国名も片仮名で良さそうなものですけど。(^_^;
 国名は漢字表記しても、自然地名まで漢字表記しようとすればキリがないので、片仮名にしたのでしょうかね。
 外国の地名を漢字のふりがなにするときは平仮名なのに、本文とするときは片仮名ですね。
 これも興味深いです。

2022年10月 6日 (木)

明治7年の『童蒙 画引単語篇 一』(2)

 少し日が経ってしまいましたが、9月27日(火)にご紹介した「明治7年の『童蒙 画引単語篇 一』」の続きです。
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 「方(方角なり)」
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 東西南北と四隅の方角に続き、上下左右前後は図解してあります。
 最後の「中」は言葉による解説があり、内容は適切と思います。

 「形(物のかたちなり)」
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 冒頭に四角形がありますが、語形は「四角」ではなくて「角」ですね。「角」と呼ぶ方が一般的だったのでしょうかね。
 3行目以下の図もなかなか興味深いです。

 「貨(世界通用の金銀貨幣をいふなり)」
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 左ページの3行目「唐銀」に「イスハニヤドル」、「鷹銀」に「メキシコドル」という解説があります。
 4行目の「イチドル」の表記は「一員銀」、「一ペンニ」の表記は「辺〓(口ヘンに尼)」です。ペニーですよね。

 続きです。
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 「一センド」の表記は「先土(せんど)」とあります。「セント」ではなくて「センド」です。
 続いて、イギリスの金貨・銀貨、ロシアの金貨、フランスの金貨の図が載っています。

 この本、意外と国際的なのでした。

2022年9月27日 (火)

明治7年の『童蒙 画引単語篇 一』

 このようなものを入手しました。
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 題簽に『童蒙画引単語篇 一』とあります。

 巻末の刊記。
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 明治七年九月発行です。
 「発市」という語は初めて見ました。
 右ページが本文の末尾になり、このように挿し絵が入っています。
 それで、書名の「画引」になるのでしょうが、「画引」というより「画入」かと思います。

 本文の最初には五十音が載っています。
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 当時はまだ「いろは」が中心だったことでしょうが、五十音です。
 あ行は「喉音 清」とあります。

 次ページ。
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 こちらも、か行に「牙音 濁」とあるなど、『韻鏡』のような感じです。

 次ページ。
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 こちらには、アカサタナハマヤラワのように、あ段、い段、う段、え段、お段の各段ごとに、唇と歯に注目した発音説明が載っています。

 このあと、項目は、「数字」「方」「形」などと続きます。
 「数字」までは挿絵はありませんが、「方」から挿絵が登場します。

 それらの項目は後日取り上げるかもしれませんが、少し飛ばして「色」が楽しいです。
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 このように、言葉による解説もありますが、何より、カラーで印刷されています。
 カラーはこの4ページだけです。
 手間も掛かったでしょうけど、これならば、どんな色か一目瞭然ですね。

 うしろから2つ目の「老虎色」には「かばいろ」というルビが振ってあります。
 この表記は初めて見ました。

 あれこれおもしろいです。

2022年8月31日 (水)

未裁断の「おとぎかるた」

 未裁断の「おとぎかるた」を入手しました。
 絵札。
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 読み札。
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 4分割して、絵札と読み札とを並べます。
 右上。
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 当ブログでこれまで取り上げてきたおとぎかるたは、日本のおとぎ話だけを対象にしていたものばかりでしたが、このかるたは国際的です。
 おやゆび姫、ピノキオ、アラビアンナイト、マッチ売りの少女などがあります。
 「れ」の札は「れいにもらったたまてばこ」とありますが、お礼じゃないですよね。
 「ろ」の札の「ろばはそのまににげてゆく」は恥ずかしながら分かりませんでした。

 左上。
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 「ほ」の札の「ほしのくにのはたおりひめ」が分かりません。
 「そ」の札の「そうだんはねこのすず」はイソップでしょうか。
 「わ」の札の「わたしはことばがわからない」は童謡「青い眼の人形」ですよね。おとぎ話じゃない。

 右下。
Otogicardn05
 「ま」の「まとをいとめたテルのゆみ」はウイリアム・テルの逸話ですが、おとぎ話ではないような。
 「し」のガリバーも。
 「ゑ」の「ゑんとつからサンタクロース」もおとぎ話ではありませんね。
 「き」の「きんのふねがそらをとぶ」は分かりませんでした。
 「て」の「てんまでとどいたヂックのまめのき」は、「ジャック」ではなくて「ヂック」とあります。

 左下。
Otogicardn06
 「め」の絵札のカニですが、他の絵札の動物はみな体丸ごとですが、このカニだけは体は人間の姿で頭だけがカニです。
 これは、このかるただけでなく、他のおとぎかるたでも同様に描かれていることが多いです。

 このかるたは、いろはカルタ形式「い」から始まり「京」で終わっています。
 それで、「ゐ」「ゑ」「を」がありますが、これは発音上は「い」「え」「お」と同じなので、絵札の絵を見ないとどちらの札か分かりません。
 それはそれで、お手つきを誘ってゲームとしては楽しくなるかもしれませんが、小さい子には難易度が高くなりましょう。

 「ゐ」と「ゑ」の読み札は以下の通りです。
Otogicardn07
 どちらも仮名違いで不条理です。
 それはそれとして、それぞれ左側に「ゐの字はこれから(い)をつかう」「ゑの字はこれから(え)をつかう」とあります。
 このかるたはいつのものか分かりませんが、この注記によって、現代かなづかいが制定された昭和21年11月からほど遠からぬ頃に作られたものと推測されます。
 読み札もほぼ現代かなづかいで書かれています。

 紙質もあまり良くなく、あまりもののなかった時代に作られたのだろうことを推測させます。

 このかるたが未裁断であることについては、最初は製作途中のものかと思ったのですが、右上に「おとぎかるた 日光社」とありますので、どうやらこれで完成品ですね。

 あまり厚みもありませんので、買った人が手持ちの厚紙で裏打ちをして、裁断したのでしょう。
 もののない時代、こういう売り方をすれば、日光社は裏打ち用の厚紙も用意しなくて済みますし、箱も作らなくて済みます。裁断してしまうと箱が要りますものね。

 あるいは、このかるたは、おもちゃ屋さんではなく、駄菓子屋さんで売られていたのか、などとも考えました。
 どうでしょ。

2022年8月 7日 (日)

宝飯社機械製糸の楠公さん

 このようなものを入手しました。
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 サイズは11.8cm×16.1cmです。
 下の方に「大日本 三河国」「宝飯社機械製糸」とあります。
 上の方にはローマ字で「HOISHAKIKASESI」とあります。
 「I」が2つ足りません。「KIKAI」の最後の「I」と、「SEISI」の真ん中の「I」です。
 版を作った職人さんが落としてしまったのでしょうかね。「I」は細長いので見落としがちかもしれません。

 馬上の武将は、三鍬形の兜と胴の紋所から楠木正成と思われます。
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 枠の飾りも菊水の紋を図案化したもののようです。
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 印刷業者は、下の枠外にこのようにあります。
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 一部読みづらい文字がありますが、「尾州亀崎萬象堂石印」でしょうか。
 石版印刷なのでしょう。

 宝飯郡は今の愛知県豊川市・豊橋市を中心とする地で、大宝以前(大化以前か?)の穂国。
 和銅年間の行政地名は二字嘉字にせよとの命で、「宝飫(ほお)」と改められました。
 「飫」の字は「食べあきる。満足する。」の意。
 「宝飫」は宝物が飽きるほどあるという意味を持たせたものと思われます。
 しかし、「飫」はあまり用いられない文字であることから、「宝飯(ほい)」と誤られたと推測されます。

 どうして三河国の製糸会社が楠公さんの画像を用いたものか分かりません。
 社長さんが楠公さんのファンであったのかもしれませんし、楠公さんの人気にあやかろうとしたのかもしれません。

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