史跡めぐり

2019年7月 6日 (土)

百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産に決定

 先ほどこのニュースを見ました。めでたいことです。
 当ブログは私の「憶え」にも使っていますので、この件、書いておくことにします。(^_^)
 これで、「あれはいつじゃったかのぉ?」というときの備えになります。

 平成14年の11月に仁徳天皇陵に行ったことがありました。大阪市立大学で開催された研究会に参加した折です。
Nintokuryo01
 行ってはみたものの、大きすぎて森にしか見えません。

 近くにあった解説板に写真はありましたが。
Nintokuryo02
 「全貌が見えるような場所はありませんか?」とボランティア解説員の方に伺ったら、堺市役所の展望台からならある程度見えるかもしれないと教えて頂きました。

 21階に展望台がありました。
 行ってみましたが、やはり前方後円墳の形はよく分かりませんでした。21階では不足のようです。(^_^) もっと仁徳天皇陵の近くに建っていれば別かもしれませんが、あまり近すぎては景観を損ねます。
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 仁徳天皇陵がいかに巨大か実感しました。

 展望台内に立体模型がありました。
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 左上隅付近にあるのが堺市役所です。

2019年6月 2日 (日)

小倉拾遺

 北九州市で開催された上代文学会の折に、小倉駅付近を少しだけ廻りました。
 森鴎外の旧居と小倉城のことはブログに書きました。
 それ以外のことを載せます。
 小倉駅→鴎外旧居→小倉城→小倉駅という移動でしたので、それ以外といっても、すべてこのルート上です。

 小倉駅前にあった祇園太鼓の像。
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 小倉といえば無法松、無法松といえば祇園太鼓、という連想が湧きます。
 向かって左側のおじさんの頭の上に鳩が止まっていました。ちょっと資料映像になりません。(^_^;

 小倉城内の宮本武蔵像。
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 それと対する佐々木小次郎像。
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 今回は行けませんでしたが、いつか巌流島に行ってみたいです。

 小倉城の東に架かる常盤橋。
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 解説板。
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 この橋の近くに伊能忠敬の記念碑がありました。
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 解説プレートの拡大。
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 ここが九州測量の出発点だったのですね。常盤橋の名も書かれています。
 そういえば、昨日の「ブラタモリ」は「ちばらき」の名で、鹿島、香取、佐原がテーマでした。佐原は伊能忠敬ゆかりの地ですね。

 碑の側面には、当時の測量の様子などが描かれていました。
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 この地から少し東の路上にこのような表示がありました。
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 交通の要衝だったのですね。

 同じ道だったと思いますが、アーケードがありました。
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 「銀天街」とあります。
 見慣れない名称でしたので、ググってみましたら、銀天街(ぎんてんがい)とは、福岡県北九州市小倉北区の魚町銀天街を発祥とするアーケードのある商店街の愛称とありました。上の写真には「京町銀天街」とあります。「魚町銀天街」というのは、もう1本南の商店街のようです。魚町銀天街には、「銀天街発祥地」の碑があり、下記の説明文が記されているそうです。
 「1951年10月ここ魚町に日本ではじめて公道上にかかる全長130mのアーケードが完成。6,000通の公募作のなかから『銀の天井に輝く街』を意味する『銀天街』と命名されました。以降『銀天街』の名称が各地へ広まりました。」

 1951年10月というと私の誕生月です。銀天街は私と同い年と知って、親近感が湧きました。(^_^)

 銀天街という名は、どうも九州と、中国地方西部、四国西部に多いようです。どなたか情報をお持ちでしたら、是非。

2019年6月 1日 (土)

小倉城をゆく

 もう1週間ほども経ってしまいましたが……。
 小倉の森鴎外旧居は、東西に通る道に面しています。その道を西に進むと小倉城の天守閣が見えてきます。
 鴎外の勤務先は小倉城内にありましたので、鴎外はこの道を馬で通勤したのでしょう。

 城に近づくとこのような場所に出ました。
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 道の先に天守閣が見えます。道の両側は井筒屋という商業施設で、5階と8階に連絡通路があって、両館を繋いでいます。
 あの連絡通路からはお城がよく見えることでしょう。(^_^)

 早速行ってみました。
 5階、8階の両方の連絡通路から見てみました。下の写真は8階からです。
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 城内には八坂神社がありました。
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 城内庭園がありました。入口の向かって左側にポスターが見えます。
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 このようなものです。
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 庭園の付属施設の建物があり、そのなかに展示スペースがありました。そこでねこ展を開催中でした。
 内部は撮影禁止でしたが、チラシの裏はこのようです。
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 以前、高崎のタワー美術館で「アートになった猫たち」という展覧会を開催していたことがあり、それと同様の趣旨の展覧会でした。

 庭園。
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 金魚好きとしては池の鯉が気になります。(^_^)

 岸に刺さっているような鯉がいました。岸に乗り上げてしまったわけではなく、食事中でした。
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 天守閣。
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 井筒屋の連絡通路から見たのとちょうど反対側になります。
 城内にも入れたのですが、なまじ連絡通路から見下ろしてしまっていたので、天守閣からの眺望にあまり心惹かれず、省略してしまいました。
 後から思えば、それはそれとして、天守閣からはまた違った光景が見えたでしょうし、天守閣内に何か興味深い展示などもあったかもしれません。反省しています。

2019年5月27日 (月)

森鴎外旧居をゆく

 学会出張の折は、近隣の史跡巡りを楽しみにしています。
 今回は、大宰府に行くかなぁ、巌流島かなぁ、などと考えていました。
 でも、実際に行ったのは、宿を取った小倉駅近くのみでした。昔よりも動くのが億劫になりました。(^_^;

 駅の南に森鴎外の旧居があるというので行ってきました。鴎外の旧居の存在は小倉に着いてから知りました。

 門の所から。
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 ぴったりの場所にバイクが止まっていたので、バイク越しの撮影になりました。帰るときにはもうバイクはありませんでしたので、帰りにもう1度撮せばよかったです。そういう知恵はあとから湧いてきます。(^_^;

 解説板。
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 鴎外が住んだのは1年半ほどのようですね。

 全体像。
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 見取り図。
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 この図では上が北になります。玄関は北向きです。写真は北東から南西方向を撮しています。

 通り土間からの撮影。
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 手前が玄関奥の五畳間。その奥が六畳、その奥が八畳の部屋で、鴎外はこの八畳間とその南の部屋を主に使っていたそうです。

 鴎外が主に使っていたという八畳間。
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 1年半ほどしか住んでいなかったとはいえ、実際に鴎外がこの家で暮らし、作品も書いていたのだと思うと感慨深いものがあります。しばしこの部屋でくつろぎました。

 その八畳間を出たところから撮した廊下。いや、縁側か。
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 鴎外の遺書が展示してありました。
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 墓石には「森林太郎墓」以外に1字も彫ってはいけない、書は中村不折に依頼すること、宮内省や陸軍の栄典は一切固辞することなどが書かれています。こんな貴重なものを、と思いましたが、これは複製だそうです。

 鴎外の胸像。
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2019年4月27日 (土)

長壁神社をゆく

 昨日は、前橋での仕事のあと、別件で群馬県庁の西側に行きました。そちら方面に行くのは初めてでした。長壁(おさかべ)神社という神社があったので、寄りました。
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 境内には解説板はありませんでしたので、帰宅してからググってみました。

 この神社の祭神は長壁姫で、もとは姫路城の天守閣内に祀られていたのだそうです。
 ところが、この地を治めていた姫路城主の松平朝矩が前橋に転封となり、寛延2年(1749)、長壁姫を前橋に伴って引越しました。
 その際、長壁姫は前橋城内には祀らず、城の未申の地に祠を建て、そこに祀ったのだそうです。
 本丸に入れて貰えなかった長壁姫は怒り、利根川を氾濫させて、前橋城の本丸の一部を押し流してしまいました。ここに住めなくなった松平朝矩は、明和4年(1767)に分領であった川越に移ることになります。
 この時、朝矩の夢枕に長壁姫が立ち、一緒に川越に連れて行ってくれるように懇願しますが、朝矩がそれを断ったために、翌年、朝矩は31歳の若さで没したとのことです。

 祟りの力が強力ですね。
 その後、松平家は赤字が続き、莫大な借金を抱えることになった一方、長壁姫が鎮座している前橋の町は生糸産業の繁栄で好景気に沸いたそうです。

 明治になっても利根川は度々氾濫するので、明治31年(1898)、長壁姫を前橋東照宮に合祀したとのことです。
 ということで、現在の長壁神社の本殿は空き家ということになりましょうか。

 社殿の裏側にはお稲荷さんが祀られていました。
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 土製の狐がたくさん並んでいました。
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 これを見て豪徳寺の招き猫を思い出しました。
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 長壁姫が合祀されている前橋東照宮には去年行きました。
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 この神社の社務所は近代的な建物です。
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 そこの窓ガラスにこう書かれています。
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 長壁様と書いてありますね。
 なぜ安産祈願なのかはよく分かりませんが、前橋東照宮には、菅原道真と木花咲耶姫も合祀されています。木花咲耶姫には火中出産の神話がありますので、それと安産祈願とは結びつきそうです。このあたりで混線が生じたのかもしれません。

2019年4月22日 (月)

八丁堀の旧京華小学校(2)

 昨年10月に仕事で八丁堀に行きました。時代劇ではおなじみの土地ですね。(^_^)
 駅の近くに旧京華小学校がありました。帰宅してからググってみたら昭和4年竣工という歴史のある建物で、ユニークな形をしているということでした。でも、現地で見たときにはそういった予備知識がありませんでしたので、こういう写真しか撮りませんでした。
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 今日また八丁堀に行く用事がありましたので、角度を変えて撮りました。
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 もう少し別角度から。
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 さらに。
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 これは並木に遮られていて、建物がよく見えませんね。

 でも確かに当時としてはずいぶんユニークな建物だったのではないかと思います。

 写真を撮っていたら、たまたまこういうバスが通りました。
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 京華小学校とは何の関係もありませんが、八丁堀という江戸繋がりで、良いタイミングでした。(^_^)

2018年10月29日 (月)

八丁堀の旧京華小学校

 先週、八丁堀に行きました。八丁堀というと、江戸時代には与力同心の組屋敷があった地で、時代劇ファンにはおなじみの地名です。(^_^)

 ですが、今まで行ったことがありませんでした。地下鉄日比谷線の八丁堀駅のすぐ近くにこのような解説板がありました。
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 この案内板のすぐ向こうはこのようなビルです。
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 「京華スクエア」という看板がありました。帰宅してからググってみましたら、このビルは元は京華小学校という学校で、建物は昭和4年の竣工だそうです。当時の小学校としてはユニークな建物だったことでしょうね。そうと知っていれば、いろいろな角度から撮影したのにと、残念でした。先達はあらまほしきことです。またいずれ撮影します。

 このあたり、昔は住人も多かったそうですが、交通の便が良いことなどで、オフィス街に変貌してしまい、人口減に伴う児童数の減少で、京華小学校は平成2年に統廃合されてしまったそうです。

 このビルは、現在は中央区の京華スクエアという名で、シルバー人材センターや早稲田大学エクステンションセンターなどが入居する地域のコミュニティーセンターとして活用されています。

2018年10月10日 (水)

小川町の仙覚顕彰碑

 埼玉県比企郡小川町に僧仙覚の顕彰碑があります。……ということを知って、行ってみたいとは思いつつも、ちょっと遠いので、先送りしていました。昨日、玉村で非常勤のあと、群馬に泊まったのを好機として、今日、行ってきました。小川町駅にはJR八高線と東武東上線とが通っています。高崎からだと八高線で1時間ほどで行けます。

 八高線に乗るのは初めてでした。2両編成のワンマンカーです。
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 小川町駅で列車を降りて、跨線橋から撮りました。
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 上の2枚の写真でお気づきでしょうか。車両にはパンタグラフがありません。そして、線路上には架線がありません。八高線は高麗川以北は電化されていないのでした。空中に架線がないと、ずいぶんすっきりした印象になります。

 仙覚顕彰碑は高台の古城跡にあります。下の画像の中央部にある道を入って行きます。案内板がないので迷うところです。
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 道を入るとすぐに行き止まりになり、突き当たりを左折します。
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 この先は道なりに上って行けば目的地に着けます。

 入口に標柱が立っていました。
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 途中には道しるべもありました。
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 道しるべの右側にあるのは万葉歌の解説板です。町中に時々あるのを見かけては撮影していましたが、全部で68あるということがあとで分かりました。それはまた別稿で。

 顕彰碑と解説板。顕彰碑はかなり大きなものです。
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 顕彰碑。
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 解説板。
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 解説板には触れられていませんが、顕彰碑の碑文は佐佐木信綱が執筆したものだそうです。

 碑の近くには露草が咲いていました。露草、憶えました。(^_^)
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 付近の地形は確かに古城跡を思わせます。
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 帰りは違う道を通って駅に戻りました。その途中に案内所がありました。
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 この案内所ではレンタサイクルも扱っていました。前籠がおしゃれです。(^_^)
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 私、今回大誤算がありました。いつものリュックにはノートパソコンなども入っていて結構重かったので、荷物は駅のコインロッカーに預けて、身軽に動くつもりでした。ところが、小川町の駅にはコインロッカーがなかったのです。←見つけられなかっただけという可能性もありますが。

 それで、重いリュックを背負った状態での移動になり、疲れました。体力ないです。(^_^;

 それが、この案内所にはレンタサイクルはあるし、荷物も預かってくれるのでした。行きにこの道を通れば良かったです。

 ともあれ、無事に見学できました。帰りは、小川町駅から東武線に乗り、和光市駅で地下鉄線に乗り換え、そのまま自由が丘駅に着きました。相互乗り入れでずいぶん便利になりました。それでも、小川町を出てから帰宅するまで2時間近く掛かりました。東京の家からの往復でなく、高崎から小川町経由で東京の家に帰宅というのは正解だったと思います。

2018年10月 4日 (木)

谷中霊園をゆく

 今日は用事で日暮里に行ってきました。実際に行ってみたら、そこは谷中霊園のすぐ近くだということに気づきました。谷中霊園には恩師のお墓があります。用事で行ったついでにお墓参りというのは失礼な気がして、逡巡しましたが、寄ってきました。

 谷中霊園からはスカイツリータワーが見えました。まだ上ったことはありません。
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 恩師のお墓。
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 人のお墓を勝手に載せて良いかどうか迷い所でしたが、鴎外や漱石のお墓ならば普通に載せるところですので、いいかと思いました。

 谷中霊園には五重塔の跡があります。幸田露伴の『五重塔』のそれです。
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 解説板。
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 もう1つ。
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 関東大震災や戦災では無事だったのに、戦後昭和32年の放火で焼失してしまったのですね。霊園の事務所に模型が展示してあるそうです。

 五重塔跡のすぐそばにブルーシートに覆われた場所がありました。遠目にはこれが塔跡かと思いました。
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 正体は砂場なのでした。シートはネコ避けだったのですね。
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 そういえば、谷中といえばネコですね。

 以前谷中霊園に来たときは何匹もネコを見ました。
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 これも。
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 今回は日暮里駅を降りてから駅に戻って来るまでの間、1匹もネコに会いませんでした。1匹もというのも珍しいことかもしれません。今度、ネコ目当てに谷中に行きたいです。

 夕方帰宅したら、お向かいはこんなになっていました。
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 昼頃にはまだ土台のコンクリートなどがあったのですが、見事に更地ですね。昨日書いた枝シュレッダーが遠慮なく使える大チャンスは終了しました。(^_^;

2018年8月 2日 (木)

塚越古墳をゆく

 昨日、北金目神社に行った後、もう少し先にある塚越古墳にも足を伸ばしました。ここには去年は行きませんでしたので、初めての訪問です。
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 この標示のように、古墳を含む地域が公園になっています。

 (たぶん)全景。
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 ググってみると、この古墳は4世紀の前方後方墳だそうです。

 墳丘上に桜の木があり、その根方には石塔がありました。
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 墳丘上から東海大学方面を望む。
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 画面中央左側に見える森は北金目神社です。

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