史跡めぐり

2023年6月13日 (火)

昨日は乙巳の変

 1日遅れになってしまいましたが、昨日6月12日は蘇我入鹿が殺害された日なのですね。
 恥ずかしながらツイッターで知りました。
 ま、1日遅れとはいいながら、今日6月13日は蝦夷が討たれて蘇我本宗家が滅亡した日ですから、良いかと思います。

 多武峰縁起絵巻の入鹿殺害の場面。
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 首チョンパですねぇ。
 生々しい絵です。描かれたのは江戸時代初期だそうで、服装などは平安時代風です。
 胴体側の切断面に頸骨が描かれているあたり、まだ戦国時代からそんなに経っていないからでしょうか。

 飛鳥寺西方の入鹿の首塚。
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 平成18年(2006)9月の撮影です。
 花が供えてありました。
 背後に広がっているのが槻木の広場。
 その奥に見える丘は甘樫丘で、ここに蘇我氏の邸宅がありました。

 蘇我氏邸宅の発掘現場。
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 平成17年(2005)12月の撮影です。
 もう20年近く経ってしまいました。

 発掘主体は奈良国立文化財研究所です。
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2021年9月15日 (水)

今日は関ヶ原合戦の日

 ツイッターを覗いたら、関ヶ原合戦絡みのつぶやきが見られました。
 そういえば、今日は9月15日。慶長5年のこの日、関ヶ原合戦が行われたのでした。
 太陽暦だと1600年の10月21日にあたるということです。
 季節感を知るには太陽暦は参考になりますが、日付としては旧暦のままの方が良いです。

 関ヶ原には10年ほど前に、1回だけ行ったことがあります。
 関ヶ原駅のあたりが東軍最前線附近になりますので、そこから南下し、西に移動し、北上して島津義弘の陣跡まで行きました。
 もう少し北に行けば石田三成の陣跡でしたが、そこまで行かずに時間切れになりました。
 その東には黒田長政や細川忠興の陣跡があるのですが、見ることができませんでした。
 松尾山の小早川秀秋の陣跡や島津義弘の脱出路にも行ってみたいです。
 また行くとしたら、1回では見切れませんね。2回か3回要りそう。

 開戦地の碑。
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 大谷刑部の墓。
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 向かって左側は、最後まで刑部に従った湯浅五助の墓です。
 NHK大河「真田丸」では、大谷刑部が片岡愛之助。湯浅五助は愛之助のお弟子さんの片岡愛一郎が演じました。味のある配役でした。

 関ヶ原の古戦場の近くに不破関跡があります。
 関ヶ原の「関」は不破関の「関」ですね。
 このあたりは、古代の壬申の乱の折にも戦場になったようです。

 藤古川という名の川です。
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 このような解説板がありました。
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 関ヶ原から帰ったあと、謎のめまいに襲われました。
 病院に行って、脳のMRIを撮って貰いましたが、脳には問題はないとのことで、安心しました。
 数多の将兵が討ち死にした地をほっつき歩いたので、その祟りだったのかもしれません。
 ま、歩いたのが、8月4日でしたので、熱中症だったのかもしれません。
 なにもわざわざそんな暑い盛りに行かなくても良いようなものでした。

2020年8月 9日 (日)

赤穂花岳寺(華嶽寺)の絵図

 ネットオークションで入手しました。
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 赤穂浅野家の菩提寺である花岳寺(華嶽寺)の絵図です。
 標題は「播州赤穂城下臺雲山華嶽禪寺全圖」とあります。

 左下隅にこうありますので、明治には降らず、江戸時代のものではないかと思います。
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 赤穂には11年前に1度だけ行ったことがあります。忠臣蔵ファンとしては、1度だけというのはどうも。(^_^;
 その折、花岳寺にも行きました。
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 絵図の本堂。
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 今の本堂。
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 同じようですね。再建かもしれませんが、そうだとしても、元の姿と同じように建てたものと思います。

 義士の墓所。
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 中央に3基の大きな墓石があり、周囲に多数の墓石が並んでいます。

 今の墓所。
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 中央の墓は浅野内匠頭のもので、その左右は大石内蔵助と主税のものです。周囲の墓はそれ以外の義士たちのもの。
 これらの墓は、義士の三十七回忌に当たる元文4年(1739)に、当時の赤穂藩を領していた森家の家臣有志が建てたものだそうです。
 伝によれば、義士の遺髪を埋めているということです。

 絵図では、墓所の入口の両脇に、「大石桜」と「大野柳」が描かれています。大石内蔵助と大野九郎兵衛にちなんだものでしょう。
 現地に行ったとき、桜には気づきませんでしたが、柳はありました。
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 絵図と同じ位置にあります。
 しかし、「不忠柳」って、なにもそんな風に呼ばなくても、と思います。それで、目に付いたのでした。

 寺号については、このような解説板がありました。
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 浅野長重の墓石には確かにこう彫られています。
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 本堂の額も同様です。
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 でも、お寺としては、その正式表記とは別に、「花岳寺」を日常的に使っているのですね。なかなか柔軟です。

 絵図の右端付近にこのようなことが書かれていました。
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 勝手にスペースを空けるとこうなりますかね。
 「開帳案内 并 義士摺物 土産焼塩等 弘所」
 すぐ下には「茶所」とあります。

 参拝者の休憩所と、参拝記念のお土産販売を兼ねている建物ですね。
 義士摺物はブロマイドといった趣でしょうか。
 そして、赤穂のお土産というと、やはり塩ということになるのでしょう。
 遠方からの参拝者も多かったのかもしれません。

 「弘所」という語は初めて見ました。日国には載っていない語ですが、ググってみると、古文書や古文献などに「弘所」「売弘所」という語は見つかります。暦などの頒布所に用いられていました。

2020年1月 9日 (木)

新田神社をゆく

 金魚の水槽の水草、かなりしょぼくなってしまっていましたが、先端から新芽が出たり、茎の途中から脇芽が出ていたりしているので、撤去するのは躊躇していました。
 でも、水草自体、かなり弱まっていて、茎にコケが付くなど、水質悪化の原因にもなっていそうな気がします。

 背に腹は代えられず、新しい水草と取替えてしまうことにしました。

 水草を買いに、いつもの金魚屋さんに行きました。東急多摩川線の武蔵新田が最寄り駅です。

 この駅の近くには新田神社があります。新田義貞の子息である新田義興が祀られています。……ということは承知していたのですが、具体的な場所は知らず、まだ行ったことはありませんでした。

 先日、ふとしたことで、この神社の場所が分かりました。金魚屋さんのすぐ近くでした。

 お正月だし、お天気も良くて、暖かく、参拝日和でした。
 金魚屋さんのついでというのは憚られますので、神社に行ってから金魚屋さんに向かいました。

 鳥居。
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 社殿。
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 塀には、この神社についての長い解説が書いてありました。
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 ポイントを切り貼りします。
 一昨日から切り貼りが多くて。(^_^;
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 上に、多摩川の矢口渡や、平賀源内の「神霊矢口渡」が登場しています。
 ちなみに、武蔵新田の隣の駅が矢口駅です。

 境内にある御神木。ケヤキだそうです。
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 御神木の解説板。
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 寄生木の花というのに興味が湧きました。季節になったら行ってみたいです。

 境内にあったお稲荷さん。
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 この小山は新田義興の墓所だそうです。
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 解説板。
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 墓所の傍らにこのような道しるべがありました。江戸時代のものです。
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 境内にあるのに「これより右」もないものです。
 この道しるべ、もとは別の場所にあったのを、ここに移設したのだそうです。
 橿原の久米寺の前にあった道しるべも、もとは別の地にあったものを移設したものかもしれませんね。

2019年7月 6日 (土)

百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産に決定

 先ほどこのニュースを見ました。めでたいことです。
 当ブログは私の「憶え」にも使っていますので、この件、書いておくことにします。(^_^)
 これで、「あれはいつじゃったかのぉ?」というときの備えになります。

 平成14年の11月に仁徳天皇陵に行ったことがありました。大阪市立大学で開催された研究会に参加した折です。
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 行ってはみたものの、大きすぎて森にしか見えません。

 近くにあった解説板に写真はありましたが。
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 「全貌が見えるような場所はありませんか?」とボランティア解説員の方に伺ったら、堺市役所の展望台からならある程度見えるかもしれないと教えて頂きました。

 21階に展望台がありました。
 行ってみましたが、やはり前方後円墳の形はよく分かりませんでした。21階では不足のようです。(^_^) もっと仁徳天皇陵の近くに建っていれば別かもしれませんが、あまり近すぎては景観を損ねます。
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 仁徳天皇陵がいかに巨大か実感しました。

 展望台内に立体模型がありました。
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 左上隅付近にあるのが堺市役所です。

2019年6月 2日 (日)

小倉拾遺

 北九州市で開催された上代文学会の折に、小倉駅付近を少しだけ廻りました。
 森鴎外の旧居と小倉城のことはブログに書きました。
 それ以外のことを載せます。
 小倉駅→鴎外旧居→小倉城→小倉駅という移動でしたので、それ以外といっても、すべてこのルート上です。

 小倉駅前にあった祇園太鼓の像。
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 小倉といえば無法松、無法松といえば祇園太鼓、という連想が湧きます。
 向かって左側のおじさんの頭の上に鳩が止まっていました。ちょっと資料映像になりません。(^_^;

 小倉城内の宮本武蔵像。
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 それと対する佐々木小次郎像。
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 今回は行けませんでしたが、いつか巌流島に行ってみたいです。

 小倉城の東に架かる常盤橋。
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 解説板。
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 この橋の近くに伊能忠敬の記念碑がありました。
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 解説プレートの拡大。
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 ここが九州測量の出発点だったのですね。常盤橋の名も書かれています。
 そういえば、昨日の「ブラタモリ」は「ちばらき」の名で、鹿島、香取、佐原がテーマでした。佐原は伊能忠敬ゆかりの地ですね。

 碑の側面には、当時の測量の様子などが描かれていました。
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 この地から少し東の路上にこのような表示がありました。
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 交通の要衝だったのですね。

 同じ道だったと思いますが、アーケードがありました。
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 「銀天街」とあります。
 見慣れない名称でしたので、ググってみましたら、銀天街(ぎんてんがい)とは、福岡県北九州市小倉北区の魚町銀天街を発祥とするアーケードのある商店街の愛称とありました。上の写真には「京町銀天街」とあります。「魚町銀天街」というのは、もう1本南の商店街のようです。魚町銀天街には、「銀天街発祥地」の碑があり、下記の説明文が記されているそうです。
 「1951年10月ここ魚町に日本ではじめて公道上にかかる全長130mのアーケードが完成。6,000通の公募作のなかから『銀の天井に輝く街』を意味する『銀天街』と命名されました。以降『銀天街』の名称が各地へ広まりました。」

 1951年10月というと私の誕生月です。銀天街は私と同い年と知って、親近感が湧きました。(^_^)

 銀天街という名は、どうも九州と、中国地方西部、四国西部に多いようです。どなたか情報をお持ちでしたら、是非。

2019年6月 1日 (土)

小倉城をゆく

 もう1週間ほども経ってしまいましたが……。
 小倉の森鴎外旧居は、東西に通る道に面しています。その道を西に進むと小倉城の天守閣が見えてきます。
 鴎外の勤務先は小倉城内にありましたので、鴎外はこの道を馬で通勤したのでしょう。

 城に近づくとこのような場所に出ました。
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 道の先に天守閣が見えます。道の両側は井筒屋という商業施設で、5階と8階に連絡通路があって、両館を繋いでいます。
 あの連絡通路からはお城がよく見えることでしょう。(^_^)

 早速行ってみました。
 5階、8階の両方の連絡通路から見てみました。下の写真は8階からです。
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 城内には八坂神社がありました。
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 城内庭園がありました。入口の向かって左側にポスターが見えます。
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 このようなものです。
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 庭園の付属施設の建物があり、そのなかに展示スペースがありました。そこでねこ展を開催中でした。
 内部は撮影禁止でしたが、チラシの裏はこのようです。
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 以前、高崎のタワー美術館で「アートになった猫たち」という展覧会を開催していたことがあり、それと同様の趣旨の展覧会でした。

 庭園。
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 金魚好きとしては池の鯉が気になります。(^_^)

 岸に刺さっているような鯉がいました。岸に乗り上げてしまったわけではなく、食事中でした。
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 天守閣。
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 井筒屋の連絡通路から見たのとちょうど反対側になります。
 城内にも入れたのですが、なまじ連絡通路から見下ろしてしまっていたので、天守閣からの眺望にあまり心惹かれず、省略してしまいました。
 後から思えば、それはそれとして、天守閣からはまた違った光景が見えたでしょうし、天守閣内に何か興味深い展示などもあったかもしれません。反省しています。

2019年5月27日 (月)

森鴎外旧居をゆく

 学会出張の折は、近隣の史跡巡りを楽しみにしています。
 今回は、大宰府に行くかなぁ、巌流島かなぁ、などと考えていました。
 でも、実際に行ったのは、宿を取った小倉駅近くのみでした。昔よりも動くのが億劫になりました。(^_^;

 駅の南に森鴎外の旧居があるというので行ってきました。鴎外の旧居の存在は小倉に着いてから知りました。

 門の所から。
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 ぴったりの場所にバイクが止まっていたので、バイク越しの撮影になりました。帰るときにはもうバイクはありませんでしたので、帰りにもう1度撮せばよかったです。そういう知恵はあとから湧いてきます。(^_^;

 解説板。
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 鴎外が住んだのは1年半ほどのようですね。

 全体像。
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 見取り図。
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 この図では上が北になります。玄関は北向きです。写真は北東から南西方向を撮しています。

 通り土間からの撮影。
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 手前が玄関奥の五畳間。その奥が六畳、その奥が八畳の部屋で、鴎外はこの八畳間とその南の部屋を主に使っていたそうです。

 鴎外が主に使っていたという八畳間。
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 1年半ほどしか住んでいなかったとはいえ、実際に鴎外がこの家で暮らし、作品も書いていたのだと思うと感慨深いものがあります。しばしこの部屋でくつろぎました。

 その八畳間を出たところから撮した廊下。いや、縁側か。
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 鴎外の遺書が展示してありました。
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 墓石には「森林太郎墓」以外に1字も彫ってはいけない、書は中村不折に依頼すること、宮内省や陸軍の栄典は一切固辞することなどが書かれています。こんな貴重なものを、と思いましたが、これは複製だそうです。

 鴎外の胸像。
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2019年4月27日 (土)

長壁神社をゆく

 昨日は、前橋での仕事のあと、別件で群馬県庁の西側に行きました。そちら方面に行くのは初めてでした。長壁(おさかべ)神社という神社があったので、寄りました。
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 境内には解説板はありませんでしたので、帰宅してからググってみました。

 この神社の祭神は長壁姫で、もとは姫路城の天守閣内に祀られていたのだそうです。
 ところが、この地を治めていた姫路城主の松平朝矩が前橋に転封となり、寛延2年(1749)、長壁姫を前橋に伴って引越しました。
 その際、長壁姫は前橋城内には祀らず、城の未申の地に祠を建て、そこに祀ったのだそうです。
 本丸に入れて貰えなかった長壁姫は怒り、利根川を氾濫させて、前橋城の本丸の一部を押し流してしまいました。ここに住めなくなった松平朝矩は、明和4年(1767)に分領であった川越に移ることになります。
 この時、朝矩の夢枕に長壁姫が立ち、一緒に川越に連れて行ってくれるように懇願しますが、朝矩がそれを断ったために、翌年、朝矩は31歳の若さで没したとのことです。

 祟りの力が強力ですね。
 その後、松平家は赤字が続き、莫大な借金を抱えることになった一方、長壁姫が鎮座している前橋の町は生糸産業の繁栄で好景気に沸いたそうです。

 明治になっても利根川は度々氾濫するので、明治31年(1898)、長壁姫を前橋東照宮に合祀したとのことです。
 ということで、現在の長壁神社の本殿は空き家ということになりましょうか。

 社殿の裏側にはお稲荷さんが祀られていました。
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 土製の狐がたくさん並んでいました。
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 これを見て豪徳寺の招き猫を思い出しました。
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 長壁姫が合祀されている前橋東照宮には去年行きました。
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 この神社の社務所は近代的な建物です。
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 そこの窓ガラスにこう書かれています。
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 長壁様と書いてありますね。
 なぜ安産祈願なのかはよく分かりませんが、前橋東照宮には、菅原道真と木花咲耶姫も合祀されています。木花咲耶姫には火中出産の神話がありますので、それと安産祈願とは結びつきそうです。このあたりで混線が生じたのかもしれません。

2019年4月22日 (月)

八丁堀の旧京華小学校(2)

 昨年10月に仕事で八丁堀に行きました。時代劇ではおなじみの土地ですね。(^_^)
 駅の近くに旧京華小学校がありました。帰宅してからググってみたら昭和4年竣工という歴史のある建物で、ユニークな形をしているということでした。でも、現地で見たときにはそういった予備知識がありませんでしたので、こういう写真しか撮りませんでした。
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 今日また八丁堀に行く用事がありましたので、角度を変えて撮りました。
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 もう少し別角度から。
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 さらに。
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 これは並木に遮られていて、建物がよく見えませんね。

 でも確かに当時としてはずいぶんユニークな建物だったのではないかと思います。

 写真を撮っていたら、たまたまこういうバスが通りました。
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 京華小学校とは何の関係もありませんが、八丁堀という江戸繋がりで、良いタイミングでした。(^_^)

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