飛鳥・奈良

2020年12月23日 (水)

亀形石造物発見は20年前

 先日、渋川の家で見つけました。
H12kamegata01
 平成12年(2000年)2月23日付の朝日新聞朝刊群馬版です。
 今から20年前といいますか、あと2ヶ月で21年になりますね。

 記事によれば、この遺跡の発掘成果は、前日の2月22日に明日香村教育委員会が発表したとのことです。

 もう1面。同紙の別ページです。
H12kamegata02
 酒船石との関係が書かれています。

 左上の図の拡大。
H12kamegata03

 さらにもう1面。これも同じ新聞の別面です。
H12kamegata04
 こちらでは斉明天皇の土木工事との関係が書かれています。

 この記事から3ヶ月半後に現地に行きました。
H12kamegata05
 この写真しかありません。
 これ以上には近づけなかったのかもしれません。

 翌年の5月にまた行ってきました。
H12kamegata06
 付近にはまだブルーシートや土嚢があります。

2020年11月30日 (月)

生きていた油坂池

 「奈良名勝案内図」という地図の異版を集めています。
 今のところ、大正8年版から昭和8年版まで集まりました。
 最近、昭和18年版を入手しました。
S18narameishou
 この版は戦争中のものですので、紙質はあまり良くありません。

 別の版と比較すると、なかなか興味深いですが、国鉄(当時は「省線」でしょうか)奈良駅の北東に位置する油坂池に注目しました。

 昭和3年1月版。
Aburasaka01

 同年8月版。
Aburasaka02
 1月版と比べて、8月版では、油坂池の西側が小さくなっています。埋め立てられたのでしょうか。
 他には、東の開化天皇陵の堀の形が異なります。

 昭和5年版。
Aburasaka03
 油坂池が消えてしまいました。
 埋め立てがさらに進んで、完全に消滅してしまったのかと思いました。
 そして、それを、年代不明の魚佐旅館のパンフレットの年代推定にも使いました。

 ところが、その後、「古都の焼け門」さんからコメントを頂き、空中写真によれば油坂池は昭和42年までは存在している旨、ご教示頂きました。ありがたいことです。
 地図とは整合しませんが、空中写真は確かです。

 そこで止まっていたのですが、新たに入手した昭和18年の地図にはこうありました。
Aburasaka04
 油坂池、復活していますね。昭和3年8月版と同じような形です。
 一度埋め立てたものをまた元通りに掘ったとも考えにくいです。
 とすると、昭和5年版に油坂池がないのは、地図上で間違って消してしまったということですかね。
 なぜ間違ったのかも含めて、ナゾのままです。

 南の三條池は、道路整備のために西側が削られてしまっていますね。
 刊行年の異なる地図を比較するのは楽しいのですが、地図が正しくない場合もあるということになると、なかなか油断がなりません。

2020年11月26日 (木)

奈良旅手帖2021

 毎年買っている奈良旅手帖、予約していた来年度のが届きました。
 表紙は何種類かある中から選べますが、毎年鹿の柄を選んでいます。(^_^)
Naratabi2021a

 裏側。
Naratabi2021b

 中身はほぼ例年通りです。

 天智・天武を中心とした系図も従来通りです。
 ここには前回のを載せます。
Naratabi2020f

 この中で、天武のキサキのうちの2人に一部カナが使われていました。
Naratabi2021c
Naratabi2021d
 JISの第1水準・第2水準以外の文字なので、こういうことになったのでしょう。
 一方がひらがなで、もう一方がカタカナというのも不統一です。
 気づいたのは今回初めてでしたが、これはずっと同じでした。
 プロの印刷所、作字するなり何とかできると思うんですけどねぇ。

 今回は業者を変えたためにしおり紐が付かないということで、代わりに透明なプラスチックのしおりが付いてきました。
Naratabi2021e
 このしおりもよいです。

2020年9月18日 (金)

奈良の「つなや」と「魚佐」

 また新たな定宿帳を入手しました。
M00naniwako01
 刊年は不明です。

 表紙をめくると、表紙裏はこのようになっています。
M00naniwako02
 いきなり奈良です。こういった道中記では、江戸(東京)スタートか、(豊橋から船に乗って)伊勢神宮スタートが普通です。
 上のページは、右端の柱に書いてあるように第五丁です。落丁というよりは、冒頭の4丁分をわざと省いてダイジェスト版を作ろうとしたのではないかと思います。

 このページ、架蔵の明治18年の一新講社の定宿帳と同じ絵図のようです。
 ページの左端の宿の名は、今日の本では「つなや市平」ですが、明治18年のでは「うをや佐兵衛」です。
M18isshin04
 
 絵地図は同じで、宿のマークだけが異なります。今日のはつなやのマークである「太」に丸で、明治18年のでは魚屋のマークである山形に「ウ」です。

 2つの宿は隣同士ではなく、同じ場所のように見えます。
 どちらの方が古いのか分かりませんが、魚屋佐兵衛の後身に当たる魚佐旅館は平成まで存続していましたので、今日の本の方が古いのかもしれません。
 つなやを魚佐が居抜きで買ったのでしょうか。

 今日の本には神武天皇陵が載っています。
M00naniwako03
 とすれば、江戸時代ではなく、明治になってからの刊行のように思えます。

2020年9月15日 (火)

Google Classroom の看板

 もう後期が始まった大学もあるようですね。
 私の非常勤先(もとの勤務先)は、前期授業の終了が8月末で、今日が成績登録締切日です。昨夜、無事に成績を出しました。出すとほっとします。(^_^)

 後期は10月1日からで、原則遠隔、一部対面です。
 私は3科目全て遠隔で行います。
 Google Classroom と Google Meet です。
 クラスを作成すると、自動的に看板(?)が生成されます。
 看板の絵は、いくつか用意してあるものと差し換えも可能ですし、自前の画像を使うこともできます。

 前期は二上山の写真を使いました。
Classroom02

 後期は3科目なので、「さて?」と考えましたが、上代関係で3つセットのものというと、大和三山しか思い付きませんでした。
 授業開始までまだ半月ありますけど、作ってみました。

 火曜3限の講義講読は畝傍山。
Googleclassroom01

 4限の演習は耳成山。
Googleclassroom02

 5限の文学史は天香久山です。
Googleclassroom03

 前期の二上山も含め、どれも暗めです。もとの画像はもっと明るいのですけど。
 文字がはっきり見えるようにするための仕様なのかもしれません。

 後期の授業開始に向けて、看板などよりも先に準備すべきものがいくらでもありそうなものですけど、そこはまぁ。(^_^;

2020年9月 6日 (日)

「今御門町」のよみ

 8月4日に、明治21年の『一新講社 道中宝鑑』のことを取り上げました。
M21dochuhokan01
 
 この道中記を見ると、奈良に次のような記載があります。
Imamikado01
 奈良の旅館、魚屋佐兵衛と升屋伊兵衛の所在地が「今ゴ門丁」となっています。
 漢字で書くと「今御門丁(町)」です。よみはずっと「いまみかどちょう」と思い込んでいましたが、「今ゴ門丁」の表記だと「いまごもんちょう」になってしまいます。

 「いやぁ、そんなはずは」と思って、他の史料を見ると、例えば次のようなものが見つかりました。

 『奈良名所絵図』(年代不明)
Imamikado02
 「いまみかどはたごや」とあります。

 『真誠講』(明治32年)
Imamikado03
 「ならいまみかど町」です。

 「いまみかど」が正しいのではないでしょうかね。

 「今ゴ門丁」とある明治21年の『一新講社 道中宝鑑』は長野県で刊行されたものです。
M21dochuhokan03
 そういった地理的な遠さも影響しているのかもしれません。
 あるいは、長野といえば善光寺。ひょっとして善光寺近辺では、善光寺の門にちなむ町を「○○ごもん町」と言っていたとか。
 ……などと、単なる妄想を書いてはいけません。(^_^;

 同時代資料は貴重ですが、同時代資料であっても、必ずしも常に正しいとは限らないということになりましょう。
 厄介なことではありますが、面白いことでもあります。

 なお、「今御門」の名は、元興寺の北門に由来するようです。

2020年8月24日 (月)

長屋王邸宅跡確認の新聞記事

 段ボール箱からの発掘品シリーズ、今日は昭和63年(1988)の新聞記事です。32年前ですね。黄変が甚だしいです。
 最初は1月13日の朝刊。
S63nagayao01
 発掘された遺構が長屋王邸であったことは出土木簡で知られたのですね。文字資料は大事。

 リード部分を拡大します。
S63nagayao02

 その地に建ったそごうは、すでに撤退してしまい、さらにその後のイトーヨーカ堂も撤退してしまいました。
 その後にはまだ行っていません。

 直木先生のコメントが載っていました。
S63nagayao03

 もう1枚ありました。
 こちらは9月13日付朝刊です。
S63nagayao04

 こちらには平野先生のコメントが載っていました。
S63nagayao05

 やはり文字資料は大事。←同じ事を何度も。(^_^)

2020年8月17日 (月)

藤原京の範囲

 絶賛進行中の段ボール箱の中身の整理で、先日の広瀬本万葉集発見の新聞記事に続き、藤原京の京域の見直しに関する新聞記事が出てきました。
Daifujiwarakyo01
 黄変が甚だしいですね。
 昭和62年(1987)の記事ですので、今から33年前ということになります。

 リードの部分。
Daifujiwarakyo03

 図。
Daifujiwarakyo02

 今はどう考えられているのだろうと思って、奈文献のブログを見てみました。

 藤原京の京域はまだ確定していないようですね。
 諸説ある中で、十条十坊説が現在の定説になっているようですけど、その設計では南部や南東部には山や丘陵が多く、直線道路を通せるような地形ではないこと、また、山田道よりも南では条坊道路の遺構は検出されていないとのことです。
 計画はあっても完成しないうちに平城京に遷都してしまったとか、何か事情がありそうですね。

 今後の発掘に期待します。

2020年8月 7日 (金)

額田王の三輪山惜別歌の作者

 昔、「飛鳥古京を守る会」に入会していたのですが、先年、その会は解散されてしまいました。
 その後継のような形で、新たに「飛鳥を愛する会」という会が発足し、それにも入会しました。

 先日、その機関誌『飛鳥の風たより』が届きました。もう24号です。
Asukanokaze01

 そこに大島信生氏の「額田王、三輪山惜別歌をめぐって」という論考が掲載されていました。
 今年度の総会で講演をなさる予定だったのに、それがコロナ禍で中止になってしまったために、話される予定だった内容の概略をおまとめくださったそうです。

 三輪山惜別歌というのは、有名な以下の三首ですね。

    額田王の近江国に下りし時作る歌、井戸王すなはち和ふる歌
 ・味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積るまでに
  つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 情なく 雲の 隠さふべしや(17番歌)
    反歌
 ・三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなも隠さふべしや(18番歌)
   右二首の歌、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく、都を近江国に遷す時に三輪山を御覧す御歌そ。
   日本書紀に曰はく、六年丙寅の春三月辛酉の朔の己卯、都を近江に遷すといへり。
 ・へそがたの林のさきの狭野榛の衣に着くなす目につくわが背(19番歌)
   右一首の歌は、今案ふるに、和ふる歌に似ず。ただし、旧本この次に載す。故以になほここに載す。

 これら三首の歌の作者については、17番、18番が額田王(左注の類聚歌林によれば天智天皇)、19番が井戸王と考えられてきたと思います。
 私もそれ以外のことは全く思いもよりませんでした。

 ところが、大島氏の論考の最後の節にはこうありました。
Asukanokaze02
Asukanokaze03

 関係部分の注。
Asukanokaze04

 4番の注によれば、影山氏の論文の初出は平成二十三年とあります。
 何に掲載されたのだろうと思って調べてみましたら、なんと『万葉集研究』の第32集でした。
 まずいです。こんなメジャーな論集に載っていたのに全く知らなかったなんて。不勉強にも程があります。

 ま、そういう自分の不勉強さを、わざわざ自分から公表しなくても良いようなものですけど。(^_^;

 18番歌は17番歌の反歌となっていますし、内容的にも17番歌の要点の繰り返しになっていますので、普通ならば、17番歌と18番歌の作者は同一と考えるところなのでしょうけれど。

 影山氏の論文を読まねばと思います。

2020年8月 2日 (日)

『奈良鹿ものがたり』

 このような本を買いました。
Narashika01
 刊行は2018年12月でした。気付くのが遅くて。
 鹿の母子の表紙、良いです。

 写真集かと思ったのですが、そうではなくて、文章がメインです。
 ただ、巻頭の4ページのカラー口絵の他に、モノクロの写真も豊富です。

 目次を切り貼りして載せます。
Narashika02

 奈良鹿のあれこれを知ることができます。
 総ルビではないながら、ルビは多く、小学校中学年以上を対象にしているようです。
 文字は大きく、高齢者にも好適です。(^_^)

 よく読んで勉強します。
 なかなか奈良には行けませんが、せめてこの本で。

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