飛鳥・奈良

2022年12月 5日 (月)

奈良旅手帖2023

 予約していた来年の「奈良旅手帖」が数日前に届きました。
Naratabi2023a
 表紙は数種類の中から選べるのですが、毎年鹿の絵を選んでいます。♪

 内容は例年とほぼ同じと思います。
 様々な有用なデータが収められています。
 見開きで、推古天皇元年(593)から延暦13年(794)まで約200年間の年表が収められています。
Naratabi2023b

 ふと、梅花の宴の天平2年の所を見てみました。
Naratabi2023c
 載っていませんねぇ。
 全体を見てみると、純粋な歴史年表といった趣で、上代文学関係の事項は載っていませんでした。
 奈良旅手帖は8年間も毎年買っていたのですが、今になって気づくというのは迂闊でした。
 奈良旅手帖の愛用者には文学好きの人も多いと思いますので、この増補は是非。

 透明なしおりが4枚入っていました。
Naratabi2023d
 順に、#moppoi、レトロ風、奈良絵、千鹿格子です。
 #moppoiというのは不明です。ツイッターで検索しても分かりませんでした。
 千鹿格子は千鳥格子のもじりですね。(^_^)

 アップです。
Naratabi2023e
 鹿がたくさん。

 一方、千鳥格子はこういうものです。
Naratabi2023f
 千鳥がたくさん(のように見える)。

 楽しい手帖です。

2022年12月 3日 (土)

奈良市の古都保存法規制区域図

 このような地図を入手しました。
Kotohozonho01
 青焼きの地図で、折り畳んだ箇所が黄変しています。
 上部中央に「奈良市全図」とあり、それに重ねるように、手書きで「古都保存法規制区域図」と書かれています。

 左下に凡例があります。
Kotohozonho03

 赤い線で囲んだ「古都保存法保存区域」は3ヶ所あります。
 そのうちの西の赤枠。
Kotohozonho04
 この範囲内には「山陵特別保存地区」と「平城宮跡特別保存地区」とが含まれます。

 南の赤枠。
Kotohozonho05
 この範囲内には「唐招提寺特別保存地区」と「薬師寺特別保存地区」とが含まれます。

 東の赤枠。
Kotohozonho06
 この範囲内には「春日山特別保存地区」が含まれます。

 西の赤枠と東の赤枠との間をアップで示します。
Kotohozonho07
 2つの赤枠の間にすき間があります。
 奈良市街から転害門の前を通って北に延びる奈良坂越えの道周辺が、古都保存法保存区域から除かれています。
 保存区域に含まれるといろいろと制約を受けることになりますので、含むか含まないかの線引きはなかなか難しいものと思われます。

 昭和41年に古都保存法が施行された頃の地図なのでしょうが、詳細は分かりません。

2022年11月28日 (月)

『ならら』最新号の特集は春日若宮おん祭

 今日、『ならら』の最新号が届きました。
Narara202212a

 今号の特集は「春日若宮おん祭」です。
Narara202212b

 その他の目次は以下の通りです。
Narara202212cNarara202212d
 今号も奈良満載で充実しています。

 春日大社の御造替ということで思い出されるのは、マスコットの「すがちゃん」です。
Sugachan06
 「かすが」の「すが」でしょうね。
 しかまろくんもかわいいですけど、すがちゃんもお気に入りです。

 丸い鹿の子模様の中に、1つだけハートマークのがあるんですよね。
Sugachan07
 キュートです。

2022年11月26日 (土)

佐藤和斗氏『明日、シカに会いに行こう』

 このような本が出ました。
Asushika01
 佐藤和斗氏の『明日、シカに会いに行こう』(青菁社)です。
 サブタイトルに「奈良公園で見つけた幸せのかたち」とあります。

 裏表紙。
Asushika02
 奈良公園の鹿を撮した写真集です。
 四季の鹿や、鹿の食べ物、鹿の行動、子鹿などに分類して収められています。
 他に、鹿に関する豆知識なども記載されていて、勉強になります。

 奈良鹿、本当に良いです。
 また実物の鹿に会いに行きたいです。

2022年11月22日 (火)

60年くらい前の奈良絵はがき

 ネットオークションに、少し昔と思われる奈良の絵はがきが出ていましたので、買ってしまいました。
 今と比べてみたかったのです。
Naraehagaki01
 いつのものか分かりませんが、郵便番号の枠が印刷されていないことから、郵便番号制度ができた昭和43年以前の可能性が高いと思われます。
 見た目では、昭和30年代後半以降かなぁという感じです。
 昭和40年前後とすると、今から60年くらい前になります。

 大仏と猿沢池越しの興福寺。
Naraehagaki02

 春日大社と東大寺。
Naraehagaki03

 朝の鹿と三月堂。
Naraehagaki04

 そして、はがき2枚大見開きのワイド写真。
Naraehagaki05

 この絵はがきにはこういう説明があります。
Naraehagaki06
 英文は、「奈良公園」ではなくて「奈良の鹿公園」ですね。良いです。♪
 今も同様に英訳されているのでしょうかね。

 さて、どの絵はがきも今と変わらないように思います。
 ま、変わって欲しくありませんから、これで良いです。
 この先ずっと、このままであり続けて欲しいです。

2022年11月 2日 (水)

「倭歌」をめぐって

 一昨日報道された「倭歌」木簡を大変興味深く思って、昨日、新聞記事をまとめてみました。
 取材されていた諸氏の解説も大変に参考になりました。

 ただ、瀬間さんの発言として「漢詩は遣唐使などを通じて、遅くとも7世紀には日本にもたらされた。」とありますが、ご本人は取材に対して「漢詩は亡命百済人を通じて盛んになった」と答えたのだそうです。
 ところが新聞紙上では「亡命百済人」が「遣唐使など」に変えられてしまっています。著者校正がありませんから、こういうことが起こってしまうのですね。
 新聞記者の知識の範囲で記事を書こうとするからこういうことになるのでしょう。困ったことです。

 この木簡の発見によって、漢詩に対する「やまとうた」という語が奈良時代の中頃に既に存在していたことが明らかになったわけで、非常に意味のあることと思います。

 私も「倭歌」木簡をめぐって少し考えてみました。

 順序として、旧国名「やまと」(現在の奈良県)の表記の変遷は次の通りと考えられます。
   倭(やまと)
  →大宝年間に国名を2字にするために「大倭」(よみは「やまと」か「おほやまと」)
  →天平9年(737)疫病の流行により「大養徳」
  →天平19年(747)「大倭」に戻す
  →天平宝字2年(758)頃「大和」(よみは「やまと」か「おほやまと」)。

 次に、国号の表記は古くは「倭」であったものが、天武朝または大宝年間に「日本」と改められ、大宝2年の遣唐使によって唐にも承認されたと考えられます。
 よみはやはり「やまと」です。
 「やまとたけるのみこと」の表記が、古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」であることは興味深いことです。

 国名「やまと」の表記は国号「やまと」の表記にも影響を及ぼします。
 「やまとうた」は古くは「倭歌」と表記されたはずで、これが「和歌」と表記されるようになるのは、国名「やまと」が「大和」と表記されるようになる天平宝字2年(758)頃以降のはずです。
 従って、これ以前に「和歌」という表記があるとすれば、その意味は「和(こたふる)歌」ということになります。

 和名類聚抄では国名「大和」に「於保夜万止(おほやまと)」と附訓していますので、この影響で「和」単独で「やまと」とよまれることもあったのでしょう。かつての「倭」を「和」に置き換えたという経緯もあって。

 日本を意味する「やまと○○」という語は、唐や新羅を意味する「から○○」に対するものですね。
 万葉集には「倭琴」という語が2例(七・1129番歌題詞、十六・3850左注)あります。「からごと」に対する「やまとごと」です。
 そしてもう1つ、大伴家持から送られた手紙と歌への、大伴池主の返書の中に「兼ねて倭詩を垂れ、詞林錦を舒(の)ぶ。」とあります。
 ここでは「倭歌」ではなく「倭詩」ですね。漢文なので、こういう語を用いたのでしょうか。

 万葉集には、日本に対する外国のものという意の「から○○」に、からあゐ(藍)、からうす(臼)、からおび(帯)、からかぢ(楫)、からころも(衣)、からたま(玉)などがあります。
 これらの語に対する「やまと○○」という語は特に用いられず、単に「○○」で用は足ります。
 日本の歌も、通常は「うた」といえば用は足りるので、これをことさらに「やまとうた」というのは、新聞記事で諸氏が指摘されているとおり、漢詩を意識してのものなのでしょう。

 「倭歌」に触発されて、つらつらと考えてみました。
 あまりまとまりませんが。

2022年11月 1日 (火)

「倭歌」木簡の記事(まとめ)

 昨日、「倭歌」と記した木簡が発見されたという新聞記事がネットにも載り、ツイッターでも話題になりました。貴重な文字資料の発見と思います。
 各新聞記事を読んで、内容をまとめてみました。

 この木簡は、長さ約30センチ、幅約3センチ。東方官衙地区の排水路から令和2年12月に出土し、奈良時代中頃(8世紀半ば)以前のものとみられる。洗浄や解読が進められた結果、「倭歌」という語が記載されていることが分かり、今年10月に上智大学教授瀬間正之氏の指摘で、「倭歌」の最古例とみられることが判明した。

 オモテには「倭歌壱首」に続いて「多□□□□□(奈久毛利阿?)米布良奴」とあり、裏には「□□□□……□米麻児利□(夜?)止加々布佐米多 夜」とある。

 平城宮跡資料館(奈良市)で開催中の「地下の正倉院展」で今日から13日まで展示される。

【参考】
 万葉集の巻5に、大伴旅人が帰京する際の送別の宴で山上憶良が詠んだ歌(876~879)の題詞に「書殿餞酒日倭歌四首」とあるが、写本によって「倭歌」「和歌」という異同がある。「倭歌」ならば「やまとうた」の意になるが、「和歌」の場合は「やまとうた」ではなく「和(こたふる)歌」の可能性がある。
 『続日本後紀』の嘉祥2年(849)3月26日条には、「夫倭歌之体。比興為先。感動人情。最在茲矣。」とあり、従来は少なくともこの頃には倭歌の概念が成立していたと考えられていた。
 古今和歌集(905年)の仮名序の冒頭には「やまとうたは、ひとのこゝろをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。」とあり、これが仮名で書いた「やまとうた」の最古の例。真名序の冒頭には「夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。」とあり、「和歌」の表記が「やまとうた」の意で用いられている。

【上智大学教授・瀬間正之氏】
 「奈良時代に『倭歌』という語が既に広まっていた証しとして貴重だ」
 奈良時代末期ごろに成立した万葉集の後世の写本には「倭歌」との記載があるが、問いかけの歌に答える「こたえうた」の意味で使われる「和歌」と表記される写本もあり、原本で「倭歌」が使われたかは不明だ。
 これまで「倭歌」が明確に意識されたのは古今和歌集が成立した平安時代以降と考えられていたが、今回の木簡で既に奈良時代に「倭歌」の語が普及していた可能性が生じた。 「写本で伝わっている万葉集ではなく、木簡という生の資料に書かれた『倭歌』が見つかったことが重要」
 倭歌とは長歌や短歌、歌謡などの総称。漢詩は遣唐使などを通じて、遅くとも7世紀には日本にもたらされた。それ以前から日本固有の歌はあったが、やがて両者の区別を明確にする目的で「倭歌」という言葉が使われるようになる。平安時代の歴史書「続日本後紀」には、849年3月26日に「倭歌」の記述が見え、従来は少なくともこの頃には倭歌の概念が成立していたと考えられていた。(毎日)
 「『やまとうた』の確実な初出例・最古の例。国際的な意識が感じられる」(朝日)

【奈良大学准教授・鈴木喬氏】
 「倭歌壱首」に続く「多□□□□□(奈久毛利阿?)米布良奴」と読める部分については、「たな曇り雨降らぬかも」と続くと推測する。
 宴で詠まれた歌や恋の歌で「雨が降れば一緒にいられるのに」という心情を詠むのに使われる表現だという。裏面の読解は難解で、表面とつながるかはわからないとしたうえで、「雨を口実に相手を引き留める」歌にも読みうると話す。
 「『倭歌壱首』となっていることで、漢詩を含め、何首か披露される場面も想定される。宴会の座興のように、文芸の場で歌われたのではないか。万葉集では『一首』と書き、行政資料のように『壱首』としたのは初めて見た。歌を書きとどめている書きぶりを想像します」(朝日)

【國學院大學教授・上野誠氏】
 「奈良時代中ごろ以前に『やまとうた』という言葉があったと出土資料で証明した」(朝日)
 「固定電話や和菓子ということばが携帯電話や洋菓子の出現で生まれたように、『やまとうた』も中国の漢詩を意識しないと生まれないことばだろう。『倭』には『背が低い人』などマイナスの意味もあり、『和む』という意味の『和』が好まれるようになった歴史があるのではないか」(NHK)
 「洋菓子と和菓子の関係のように、漢詩がなければ『倭歌』という言葉は生まれない。日本の歌という理解がこの時代には強く意識されていたのだろう」
 この木簡は「儀式などで倭歌を詠むための手控えとして、役人が書き留めたものではないか」(毎日)
 「多□□□□□(奈久毛利阿?)米布良奴」と読める部分については、「『雨が降らないかなあ』といった意味で記したのかもしれない。和歌を作ろうと推敲しながら、フレーズを書き留めていた可能性がある」
 「書き手は宴会で歌を披露する機会が多かったのかもしれない。それなりに位の高い役人だったのでは」(産経)

【奈良県立万葉文化館企画・研究係長・井上さやか氏】
 日本初の漢詩集「懐風藻」(751年)からは、宮内の儀式で漢詩が詠まれていたことが分かるという。
 「当時の役人は漢詩とともに倭歌にも親しんだ。『倭歌』という言葉には、中国に並ぶ独自の文化が日本にもあるという誇りが込められていたのでは」(毎日)

【日本語学者・犬飼隆氏】
 聖武天皇は中国直輸入の文化を重んじた。公式性の高い儀式は中国風で行い、漢詩が詠まれた。宮中の伝統行事などでは倭歌がうたわれた。役人は歌を作るのが仕事で、日ごろから木簡に記録し「データベース化」していた。大伴家持らがそうした歌を集めて整えたのが万葉集で、今回の木簡もそのようなものの一つだろう。(毎日)

【奈良文化財研究所史料研究室長・馬場基氏】
 「奈良時代は外圧の時代。中国文化を積極的に採り入れる一方で、天平の疫病による国力低下も経験した。国の力が落ちた後、大仏をつくるなど新しい国、文化をつくるという内なる力が満ち満ちていた時代ではないか」(朝日。産経・NHKほぼ同趣旨)

朝日新聞
https://digital.asahi.com/articles/ASQB055CVQBXPOMB00G.html?iref=pc_photo_gallery_bottom

毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20221031/k00/00m/040/249000c

産経新聞
https://www.sankei.com/article/20221031-FNZIYZQDL5M7ZKXZZVPYDTMVHE/

NHK
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221031/k10013875891000.html

 私自身ももう少し考えてみます。

2022年10月31日 (月)

『ならら』最新号の特集は「「奈良」で学ぶ」

 今日、『ならら』の11月号が届きました。
Narara202211a
 特集は「「奈良」で学ぶ」です。

 奈良県立橿原考古学研究所所長と奈良大学学長との対談が組まれていますが、これと関連する記事はなく、特集はこの対談のみです。
 これ以外の目次は以下の通りです。
Narara202211cNarara202211d

 18ページに「王寺町のガイドブック誕生!!」という項目があります。ここで紹介されているのは以下の本です。
Narara202211e
 この本について、見開き2ページにわたって紹介されています。
 つい最近王寺町に泊まったばかりですので、関心を持ちました。

 また、30ページの「聖徳太子とゆきまる」のところには、雪丸君の絵が。
Narara202211f
 聖徳太子の愛犬ですね。
 これまた、王寺駅の改札付近で大きな雪丸君の像を見たばかりでしたので、これも興味深く眺めました。

 どうも、個人的な感想ばかりで。(^_^;

 あと、今日はネットで、「倭歌」と書かれた木簡が発見されたという記事を見ました。
 大変に興味深い発見ですが、これについては少し考えてから書きます。

2022年10月26日 (水)

今日は柿の日

 10月26日は柿の日だそうです。
 これは、全国果樹研究連合会カキ部会が2005年(平成17年)に制定したもので、日付は、1895年(明治28年)のこの日、俳人・正岡子規が奈良旅行に出発し、「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を詠んだとされることから。
 また、柿の旬の中心的な時期にあたることもその理由の一つだそうです。
 「柿喰へば」の句をよんだその日ならばぴったりですが、それは分からないのでしょうね。それで、奈良旅行に出発した日なのでしょう。

 奈良の柿。
Kakinohi01
 平成27年の11月にいつもの近所のスーパーで買いました。
 7年前。

 飛鳥寺で撮影した奈良の柿。
Kakinohi02
 撮影は平成17年の12月2日(金)です。17年前ですねぇ。
 この向こうが真神の原ということになります。

 12月にどうして奈良にいたのだろうかと思って調べてみましたら、この翌日・翌々日に広島で全国大学国語国文学会が開催されています。
 どうやら、広島に行くので、ついでに奈良に立ち寄ったのでしょう。
 それならばよく分かります。
 ……って、普通、群馬から広島に行くついでだからという理由で奈良に立ち寄りませんよね。
 奈良のオニでした。

2022年10月17日 (月)

奈良県三郷町で萬葉学会(3)おまけ

 いつの萬葉学会でしたか、「次回の会場は奈良県のサンゴウ町です」と言われたとき、「はてどこだろう?」と、すぐにはピンときませんでした。やがて、「三郷町」という字面が頭に浮かび、「ああ」と納得できました。
 といっても、恥ずかしながらおおよその位置が分かるくらいでした。
 地図を見ると、聖徳太子ゆかりの斑鳩の西で、平群の南、斑鳩町の東の堺の向こうには龍田があります。
 上代文学や古代史ゆかりの地なのでした。信貴山の南東麓にも当たります。

 会場は三郷町ですが、宿はお隣の王寺に取りました。
 王寺駅の改札口には雪丸君がいて、迎えてくれました。
R04manyo15

 通路には雪丸君の足跡が。
R04manyo16

 階段を降りると、聖徳太子が迎えてくれました。
R04manyo17
 雪丸君は聖徳太子の愛犬です。

 1日目の大会のあと、3人連れで王寺駅まで歩きました。
 途中、大和川沿いの道がありました。
R04manyo18
 この川の手前が三郷町、川の向こうが王寺町です。
 左側に見えている橋を渡ります。

 橋を渡って歩いていると、途中にこういうのぼり旗が何本か立っていました。
R04manyo19
 久度神社と書かれています。
 延喜式祝詞に久度古開(あるいは久度古関)とあるのを思い出しましたが、神社まではやや距離がありそうでしたので、立ち寄りませんでした。
 帰宅して調べてみたら、この神社は式内社の久度神社でした。
 行けば良かったかも。

 会場の近くにはこのようなマンホールの蓋がありました。
R04manyo20
 三郷町はやはり龍田と関連の深い町なのでした。
 昨日ご披露しましたように、会場のホールの緞帳も龍田の紅葉でした。

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