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2025年7月23日 (水)

壬申の乱の経緯をたどる(20)大友皇子の最期

 7月23日、村国男依は、淡海の将犬養五十君と谷塩手とを粟津市で斬刑に処します。
 このうち犬養五十君は、かつて倭の戦闘の折に、中ツ道の指揮官として登場していました。
 倭では敗退しますが、その後、大津に戻って最後まで淡海方として戦ったのですね。

 大友皇子は、瀬田から引き返して山前(やまさき)に隠れ、自ら首を縊って自決します。
 その時、左右大臣をはじめとする群臣たちは逃亡してしまい、皇子に最後まで従ったのは物部麻呂と一両人の舎人のみでした。

 さてここで、大友皇子が自縊したという山前の所在がはっきりしません。
 新編全集の日本書紀の注には5説上がっています。
  ①三井寺背後の長等の山前
  ②河内国茨田郡三矢村山崎
  ③河内国交野郡郡門の山崎
  ④山城国乙訓郡大山崎村の山崎
  ⑤山崎は固有の地名でなく、普通名詞で大津京付近の地
 そして、「①説が有力だが、⑤説を採りたい。」としています。
Jinshinchizu42

 新編全集の説では、大友皇子はあまり遠くには逃れず、大津京近辺で最期を迎えたことになります。
 日本書紀には、「乃ち還りて山前に隠れ、自ら縊れぬ(乃還隠山前、以自縊焉。)」とあります。
 大友皇子は大津京から瀬田川の戦いに出馬して敗退します。「還」る先は大津京以外にはないでしょう。
 そう考えれば、皇子は大津京を目指して落ちて行く途中に①の山前で自尽したか、あるいは大津京に帰り着いて⑤の地で自尽したか、ということになるのでしょう。
 ただ、「還」という文字の日本書紀における用例を検討してみたく思います。←来年ですかね。

 日本書紀には「山前」がもう1ヶ所登場します。
 大海人皇子方の置始兎が布陣した山前です。
 この山前は、書紀本文には「山前に至りて、河の南に屯(いは)む。(至于山前、屯河南。)」とあります。

 2つの山前は同じ場所であるのか、それとも異なる場所であるのか。
 同じ壬申紀に「山前」と出てくる以上は同じ山前とする方が考えやすいです。
 そうだとすると、④の山前もありそうです。
 大友皇子は④の「山前」まで落ち延びたものの、そこには既に大海人皇子方の軍勢が布陣していたので、もう逃れられないと悟り、その地で自尽したということになりましょう。
 
 日本書紀には、大友皇子自尽の地も、置始兎が布陣した地も、どちらも単に「山前」とあるばかりです。
 壬申の乱当時、複数の「山前」が存在したのならば、それらのいずれであるのかを明示するために「○○郡の山前」などと書きそうなものです。単に「山前」とある以上、もうそれだけで当時の人にはどこの地か明瞭だったのでしょう。
 そういう意味で④の山前も捨てがたいです。

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