紙資源ゴミ出し、雑々と
今日は木曜日。紙資源ゴミの日です。
今朝はこんなのを出しました。
段ボールが2束、雑誌が2束、チラシなどが2束です。
どれもあまり多くなかったので、サイズ別に分けるにも及ばず、サイズは段ボールと雑誌を大きく2つに分けただけでした。
渋川の家の荷物を東京の家に持ってくるに当たって、東京の家のゴミを積極的に減らさないとなりません。
頑張ります。
すみません。今日はこんな内容で。
頑張ります。
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今日は木曜日。紙資源ゴミの日です。
今朝はこんなのを出しました。
段ボールが2束、雑誌が2束、チラシなどが2束です。
どれもあまり多くなかったので、サイズ別に分けるにも及ばず、サイズは段ボールと雑誌を大きく2つに分けただけでした。
渋川の家の荷物を東京の家に持ってくるに当たって、東京の家のゴミを積極的に減らさないとなりません。
頑張ります。
すみません。今日はこんな内容で。
頑張ります。
『ならら』最新号が届きました。
特集は「戦後80年-戦争と奈良-」です。
目次を載せます。
奈良と戦争との関わりとして、現在の奈良教育大学の地にあった歩兵第38聯隊のこと、空襲のこと、国宝の疎開のこと、進駐軍のことなどが取り上げられています。
7月23日に大友皇子が山前で自害し、壬申の乱は終結します。
その3日後の26日には、大海人皇子方の将軍たちは野上行宮に参上し、大友皇子の首級を献上します。
それから1ヶ月経った8月25日、捕らえられた淡海方の群臣を処罰します。
右大臣中臣金は斬罪、左大臣蘇我赤兄は流罪になります。
蘇我赤兄は、有間皇子の謀反事件の折に皇子をそそのかした人物ですね。
8月27日には、大海人皇子方で功績のあったものが寵賞されます。
9月に入って、大海人皇子は飛鳥に向かって引き上げます。
9月8日、桑名着。9日鈴鹿、10日阿閉、11日名張を経て、9月12日に倭京に帰着し、島宮に入ります。
9月15日、島宮から岡本宮に遷ります。
この年、宮殿を岡本宮の南に造り、冬にそこに遷り、その宮を飛鳥浄御原宮と称します。
12月4日、功績のあったものを選んで、位階を上げます。
6月下旬からお付き合い戴いた「壬申の乱の経緯」はこれで終了です。
長々とお付き合い戴き、ありがとうございました。
来年また改訂版を載せます。(^_^)
『星の王子さま』の冒頭附近に帽子の絵……ではなくて、象を飲み込んだウワバミの絵が登場します。
畝傍山って、見る方向によって随分形が変わりますが、南東方向から見ると、象を飲み込んだウワバミのように見えます。
かねてそう思っていました。
今、実際に『星の王子さま』の挿絵と比べると、左右が逆でした。
私の記憶はいい加減ですが、左右逆でも、やはり象を飲み込んだウワバミです。
象を飲み込んだウワバミのキーチェーンを購入しました。セキグチの製品です。
皆さまご推察とご期待のとおり、中に象さんいます。
楽しい品です。
伊藤弥寿彦氏の『古事記の博物図鑑』(世界文化社)を購入しました。
この本のことは、Twitter(現X)の相互フォロワーさんである史而さんのポストで知りました。
令和7年6月5日の刊行です。
定価税込6600円ですが、写真満載、463ページという大冊ですので、納得のお値段です。
古事記に記載のある動物・植物・鉱物が網羅されています。
著者は動物学がご専門で、NHKの『生きもの地球紀行』『ダーウィンが来た!』などの自然番組ディレクターとしてご活躍だそうです。
これまで本の紹介をするときには、著作権に配慮し、表紙と目次程度に留めてきましたが、今回の場合、それでは不十分なので、ほんの少しだけ中身を載せてしまいます。
蛭の項。
ご自身の血を吸わせるという衝撃の写真入りです。
蒲黄の項。
蒲の花粉の写真が載っています。
日本原産のうさぎには、冬毛を除き白うさぎはいないことや、日本海に生息するサメ類49種の名前リストが載っているなど、動物学の専門家ならではの内容も満載です。
お薦めです。
【追記】
この本の刊行年を、最初平成7年と書いてしまいました。
萩さんのコメントによって間違いを知り、あわてて令和7年と直しました。
萩さん、ありがとうございました。
7月26日、大海人皇子方の将軍たちは野上行宮に参上し、大友皇子の首級を献上します。
大友皇子が「山前」で最期を遂げたのが7月23日のことでした。首級は3日掛かって大海人皇子に届けられたことになります。
遺体全身だと移動も大変なので首だけを運んだのでしょうかね。
そうだとすれば、首なし遺体は「山前」附近に埋葬されたことと思います。
首級とか首実検というと、鎌倉時代や戦国時代のイメージでしたが、このような時代から、首実検は行われていたのですね。
確かに、首は本人であることを証する最適のものでしょう。
首級献上はこんなイメージでしょうか。
角度を変えて名前を入れます。
草壁皇子がいませんが、これは、母親のうの皇女が息子を心配して野上行宮には行かせなかったという勝手な想像です。
【追記】
Twitter(現X)での相互フォロワーさんであるヒカルさんから、大海人皇子から見て左側の方が上席ではないだろうかとのご指摘をいただきました。
確かにそのように思いましたので、画像を撮り直しました。
ヒカルさん、ありがとうございました。
逆側から。
大津皇子の背後に控えているのは、介添です。
皇子はまだ10歳ですので。
鳥瞰図風に。
左下に控えているのは部将達です。
村国男依をはじめとして、長い間の戦いで戦塵に塗れ、日焼けもして、このような色になってしまいました。
倉本一宏氏の『壬申の乱-古代日本の風景を歩く』(角川ソフィア文庫)を購入しました。
この本のことは、Twitter(現X)の相互フォロワーさんである「わこにょ」さんのポストで知りました。
本年の7月25日刊です。今日ですね。
本書は、吉川弘文館から平成19年(2007)7月に刊行された『歴史の旅 壬申の乱を歩く』を改題し、文庫化したものだそうです。
ただし、文庫化にあたり、大幅に加筆・修正し、写真も新たに撮り直したものがたくさん含まれるとのことです。
地図や写真が豊富です。特に地図(国土地理院の五万分の一の地図など)が山のように掲載されています。
文庫本なので、この本を携えて旅ができそうですが、ご本人は拡大コピーを勧めています。
目次を切り貼りします。
第Ⅰ章は、壬申の乱の前年、天智天皇の崩後、大海人皇子が大津京から吉野に隠棲するまで。
第Ⅱ章は、天武天皇が吉野を脱出して不破に至るまで。
第Ⅲ章は、倭・河内の戦線。
第Ⅳ章は、琵琶湖の湖東戦線。
第Ⅴ章は、その他の局地戦。
このように、合戦は、時間軸での記述ではなく、地域別に記述されていて、分かりやすいです。
第Ⅵ章以下はエピローグです。
一昨年から、自分自身で壬申紀を読んで地図を描いてきましたので、大変に分かりやすく、理解が進みました。
予習・復習は効果的。
私の地図における移動進路は、特に道路に沿ったものではなく、大雑把なものでした。
来年はこの本を参考にして、もう少しきちんとしたルートを描きたく思います。←来年もやるらしい。(^_^)
倉本氏は、壬申の乱の首謀者は持統天皇とお考えのようです。
また、大友皇子の終焉の地は、後の大山崎とされています。
7月10日(木)に、うちの浜木綿は満開まであとひと息でした。
その2日後の7月12日(土)、満開になりました。
ただ、残念ながら、既に咲いていた左側の花は萎れ始めています。
全部一斉に咲けば綺麗なのに、時間差があるのですね。
12日といえば、今から10日少し前です。
渋川でパソコンが使えなかったのと、「壬申の乱の経緯をたどって」に追われて、今になってしまいました。
7月23日、村国男依は、淡海の将犬養五十君と谷塩手とを粟津市で斬刑に処します。
このうち犬養五十君は、かつて倭の戦闘の折に、中ツ道の指揮官として登場していました。
倭では敗退しますが、その後、大津に戻って最後まで淡海方として戦ったのですね。
大友皇子は、瀬田から引き返して山前(やまさき)に隠れ、自ら首を縊って自決します。
その時、左右大臣をはじめとする群臣たちは逃亡してしまい、皇子に最後まで従ったのは物部麻呂と一両人の舎人のみでした。
さてここで、大友皇子が自縊したという山前の所在がはっきりしません。
新編全集の日本書紀の注には5説上がっています。
①三井寺背後の長等の山前
②河内国茨田郡三矢村山崎
③河内国交野郡郡門の山崎
④山城国乙訓郡大山崎村の山崎
⑤山崎は固有の地名でなく、普通名詞で大津京付近の地
そして、「①説が有力だが、⑤説を採りたい。」としています。
新編全集の説では、大友皇子はあまり遠くには逃れず、大津京近辺で最期を迎えたことになります。
日本書紀には、「乃ち還りて山前に隠れ、自ら縊れぬ(乃還隠山前、以自縊焉。)」とあります。
大友皇子は大津京から瀬田川の戦いに出馬して敗退します。「還」る先は大津京以外にはないでしょう。
そう考えれば、皇子は大津京を目指して落ちて行く途中に①の山前で自尽したか、あるいは大津京に帰り着いて⑤の地で自尽したか、ということになるのでしょう。
ただ、「還」という文字の日本書紀における用例を検討してみたく思います。←来年ですかね。
日本書紀には「山前」がもう1ヶ所登場します。
大海人皇子方の置始兎が布陣した山前です。
この山前は、書紀本文には「山前に至りて、河の南に屯(いは)む。(至于山前、屯河南。)」とあります。
2つの山前は同じ場所であるのか、それとも異なる場所であるのか。
同じ壬申紀に「山前」と出てくる以上は同じ山前とする方が考えやすいです。
そうだとすると、④の山前もありそうです。
大友皇子は④の「山前」まで落ち延びたものの、そこには既に大海人皇子方の軍勢が布陣していたので、もう逃れられないと悟り、その地で自尽したということになりましょう。
日本書紀には、大友皇子自尽の地も、置始兎が布陣した地も、どちらも単に「山前」とあるばかりです。
壬申の乱当時、複数の「山前」が存在したのならば、それらのいずれであるのかを明示するために「○○郡の山前」などと書きそうなものです。単に「山前」とある以上、もうそれだけで当時の人にはどこの地か明瞭だったのでしょう。
そういう意味で④の山前も捨てがたいです。
今日7月22日、瀬田橋を挟んで大友皇子の軍勢と村国男依の軍勢とが対陣します。
淡海方は大友皇子自身が出陣しています。
日本書紀に依れば、大友皇子の軍勢は大軍で、末尾が見えないほどだったといいます。
この表現には誇張があることでしょう。実態はどれほどだったのでしょうか。
本当に大軍勢を擁していたのだとすると、その兵力を決戦に備えて温存していたというべきか、あるいは戦線に投入すべき時機を逸したというべきか。
合戦は、淡海方の先鋒を務めた智尊が精鋭を率いて善戦しますが、大海人皇子方の大分稚臣の奮闘によって先鋒が崩されると、その勢いに抗えず、敢えなく全軍が崩壊します。
淡海方の兵は実際にはあまり多くなかったのかもしれません。
勝利をおさめた村国男依は、粟津の岡のもとに陣営を定めます。
同日、湖西では、羽田矢国・出雲狛の部隊が三尾城を陥落させます。
また、倭の三道を北上してきた置始兎らの部隊は山前に到り、河の南に布陣します。
湖西の羽田矢国の部隊と、山前の置始兎の部隊は、決戦に間に合わなかったようにも思えますが、どうでしょうか。
2部隊の位置を見ると、この2部隊の役割は、淡海方の軍勢の退路を断つことだったように見えます。
大神神社から『大美和』149号が届きました。
というか、群馬に行く直前に届きましたので、10日ちょっと前に届いていました。
年に2回、年末と今頃に届きます。
毎号、三輪山セミナーの講演録が掲載されています。
その題目と名前は講演者の自筆なんですよね。
これは親しみが持てます。
載せてしまいます。
最後の平藤先生のだけは東京での出張講演のようですね。
内容は、考古学あり、文学あり、神道学あり、神話学あり、バラエティー豊かです。
文字もそれぞれに個性的で親しみが持てます。
私は字が下手なので、書けと言われたら嫌ですけど。(^_^;
日本書紀には7月20日の記事はありません。
倭では相変わらず日付不明ですが、河内から進撃してきた淡海方、山背から進撃してきた淡海方の部隊をともに撃退した大海人皇子方が倭を勢力下に置きます。
置始兎が率いる部隊は北上し、山前に布陣します。
また、大伴吹負は大坂を越えて難波の小郡に駐屯します。
そして、難波以西諸国の国司に命じて、正倉の鍵と駅鈴・伝印を提出させ、西国の財政・軍事権を預かります。
一方、淡海方面では、大海人皇子方は、湖東を栗太まで南下してきた村国男依部隊と、湖西を進軍してきた羽田矢国部隊とが大津京を目指しています。
淡海方も瀬田川を最後の防衛線として、戦備を整えていることでしょう。
決戦間近です。
渋川の家の片づけはまだ終わりませんが、明日は選挙なので、東京の家に帰ってきてしまいました。また行きます。
今日から高崎駅はぐんまちゃんにジャックされて、ぐんまちゃん駅になりました。9月30日までです。
みどりの窓口の壁。
改札口手前の表示。
東口。
同じく東口。
西口。
もう少しカメラを下に向ければ良かったです。バランスがヘン。
西口の仁王像。

帽子のマークは「JR」ではなくて「GR」ですねぇ。
ぐんまちゃん鉄道。
高崎駅だけじゃなくて鉄道会社もジャックしてしまったのでしょうか。
中央通路の旗。
ぐんまちゃんだらけで嬉しいです。
帰宅したら、先ずはアナベルを見ました。
葉が萎れることもなく、元気でした。東京でも雨降ったのですよね。
根も次第に延びてきたのだと思います。
金魚も無事でした。
届いていたメールは1160通。
そのうち、まともなメールは726通、迷惑メールは434通でした。
まともなメールのうち、ネットオークション関係のものがかなりの量を占めています。
私信は数通でした。
数年前から渋川の家のテレビは壊れていて映りません。幼稚園時代にわが家に初めてテレビが来て以来テレビっ子の私は、東京の家に帰ると、留守録してあった番組や、NHKプラスを視聴するのに多忙です。
また、パソコンは仕事の道具であるとともに遊び道具でもあります。渋川の家に持っていって滞在中に使っているノートパソコンは先日起動しなくなったままです。
渋川の家で、テレビとパソコンのない生活を強いられている私は、何を楽しみに過ごせば良いのでしょう?
絶望的とも思えましたが、ありました。スマホですねぇ。(^_^; これ、いじっているとキリがありません。
特に、渋川の家では地を這うように流れて来るエアコンの冷気を受け止めるために、横になることが有効なので、横になってスマホをいじっていた日には。怠惰で、メリハリのない日々になります。荷造りしなければいけないのに。
中高生の時代にスマホがなくて本当に良かったと思います。もしあったら、私は勉強もせずに身を持ち崩していたことでしょう。幸いでした。
さて、荷造りをせねば。
昨日は何となく買物に行くのが面倒になり、夕飯はパックのご飯とレトルトのおかずを食べることにしました。雨で買物に行けない時のために買ったはずのものを早速消費してしまいます。(^_^;
おかずは以前買ったカレーにしました。ところがこのカレー、タンパク質が4.2gしか入っていません。パックご飯のタンパク質が3.8gですからあまり変わりません。両方合わせてカレーライスが8g。メインディッシュにしてはちとさみしいです。でも、もう1品の鶏むね肉のサラダのタンパク質は23.1gです。これでまぁ何とかでしょうか。
買物に行けない日のためのおかずはもう少し吟味しないといけませんね。
月曜日の段階では、火曜・水曜は雨の予報でしたので、いつもの青いコンビニで、パンやら、パックご飯やら、レトルトの牛丼・麻婆茄子やらサラダやらをたくさん買い込んできました。籠城用の兵糧です。
昔だったら、雨の日には自転車の片手傘差し運転で出かけたものですが、今は技術的に自信がありません。また、法的にも規制が厳しくなりました。来年からでしたっけ、自転車の片手傘差し運転は5000円の罰金だそうですね。もうダメです。
雨ならば傘を差して歩いて行けば、と言われそうですが、コンビニまでは少し遠く、脊柱管狭窄症の身にはちょっと厳しいのです。それで、雨の日は籠城ということになります。
実際には雨は降ったものの大したことはなく、私の買物タイムともズレていたので、買物に行けました。こういうこともあります。
コンビニでの支払いはSuicaでピッ!です。渋川滞在中にこの残金を限りなくゼロに近付けるゲームをしています。好きで楽しんでいるだけなので、賞金も景品ありません。
このゲームに名前はありませんでしたが、先ほど思い付きました。「首の皮一枚ゲーム」です。良き名じゃ。
籠城とか兵糧とか首の皮一枚とか、用語の選択がなんだかなぁです。
今回渋川に来た時、最寄駅でSuicaの残金が心細かったので、駅でチャージしました。おかげで籠城用の兵糧を大量に買い込んでも余裕でした。今回はゲームにならないかも。
淡海方面では7月13日に大海人軍が安河で大勝しています。
倭方面では日付不明ながら大海人軍が河内方面からの淡海軍を撃退し、飛鳥京の本営に戻ってきています。
その後、飛鳥古京には東国からの軍勢が多数到着したので、大伴吹負は兵を3つに分けて、上ツ道、中ツ道、下ツ道に配します。
上ツ道では、三輪高市麻呂・置始兎が箸陵の戦いで淡海軍に大勝します。
中ツ道では、村屋に陣を敷いた淡海軍の犬養五十君が廬井鯨に精兵二百を与えて大伴吹負の陣営を衝かせます。
吹負麾下の兵は少なく苦戦しますが、そこに、箸墓から救援に駆け付けた三輪高市麻呂らの部隊が廬井鯨の背後を衝き、勝利をおさめることができました。
下ツ道については不明です。
大伴吹負は飛鳥京の本営に戻って軍を編成し直しますが、この先、淡海軍はもう攻めてきませんでした。
淡海方面で敗戦が続いているので、そちらに兵を集中させようとしたのかもしれません。
逃亡した兵もいたことでしょう。
7月13日、大海人皇子方の村国男依が、安河(野洲川)のほとりで淡海軍に大勝します。
本当に破竹の勢いです。
村国男依は、横河・鳥籠山に続いて安河のほとりでも淡海軍に大勝し、大津京に大きく迫りました。
このあと、両軍とも態勢を整えるのにしばらく掛かったようで、決戦は数日後になります。
一方、倭では、河内から侵入した壱伎韓国を破った大海人皇子軍はいったん飛鳥京に戻って態勢を整え、大津京を目指して北上します。
また渋川の家に来ました。
前回はあまりの暑さに何もできずに終わってしまいました。今日は涼しいです。毎日このくらいだとありがたいです。
グズグズしていたので、東京の家を出るのが19時近くになってしまいました。東京駅19時36分発の新幹線に何とか乗れそうです。これに乗れなくても次は19時48分発のがありますが、高崎駅での在来線への乗り継ぎは1時間15分違ってしまいます。高崎駅で1時間も待つのはイヤですから、何とか36分のに乗りたいです。
ところが東京駅に向かっていた京浜東北線が新橋のあたりで停まってしまいました。上野駅で急病人看護に当たった影響とのことです。そういうことならば仕方ないですが、大ピンチです。
やがて電車は動き出しました。東京駅に着いて、新幹線ホームに急ぎました。ほぼアウトでしたが、新幹線は私を待ってくれていて、無事に乗れました。先行する列車の出発が2分遅れたので、信号が変わり次第発車とのことです。ラッキーでした。
そんなことで、渋川の家の最寄駅に無事到着し、さて自転車に乗ろうとしたらカギがありません。どこに行ったのやら、訳が分かりません。
そうしたら、自転車の錠にささっていました。10日間もささったまんまだったのです。怖いですね。よく盗まれなかったものと思います。
思うに、この自転車にはこの錠の他に、もうひとつ頑丈なチェーン錠も付いています。それで盗まれなかったのかもしれません。
でもね、実は、2つの錠のカギは一緒なのです。同じカギで両方兼用。むふふです。
そんなこんなで、無事に渋川の家に着きました。神仏の御加護に感謝しています。
令和4年(2022)に、「古墳時代の大王が眠る!佐紀古墳群を航空レーザ計測し真相解明へ!」というクラウドファンディングが開催されましたので、ささやかながら乗りました。
当初の目標額は200万円でしたが、参加者が多かったので、第二次、第三次と目標額を上げ、最終的には500万円が達成されました。
翌年には、そのリターンとして、クリアファイル、速報成果資料集、エコバッグが送られてきました。

そして、今年、詳細な報告書が刊行されましたので購入しました。
奥付に拠れば、発行は2025年7月18日です。
これはリターンではありません。
目次は以下の通りです。

私は考古学は専門外で、詳細な報告書は猫に小判ですが、図版が豊富なので、見て楽しいです。
日本書紀では、7月10日~12日の記事はありません。
この間、淡海では琵琶湖の湖東を村国男依の部隊が、湖西を羽田矢国の部隊が、それぞれ大津京を目指して進軍中です。
一方、倭では、日付は不明ながら大坂を越えてきた淡海方の壱伎韓国の部隊を、大伴吹負・置始兎の部隊がこのころ当麻の衢で撃退します。
7月4日に乃楽山で敗北した大伴吹負は、置始兎の援軍を得て、ついにリベンジを果たすことができました。
壱伎韓国の部隊はかなりの損害を受けたようで、以後、淡海方は河内方面から攻めてくることはありませんでした。
一方、乃楽山の戦いで大伴吹負を撃ち破った大野果安の動きは相変わらず不明です。
琵琶湖東岸で淡海方は連敗していますので、ひょっとすると倭方面の兵は琵琶湖方面に転用されていたのかもしれません。
あるいは、脱走兵もいたのでしょうかね。
3日前の7月7日(月)、うちの浜木綿はこういう感じでした。
そして、3日後の今日。
大分ほころんできました。
あと1歩で満開です。
受粉して種が取れたらいいなぁと願っています。
先ほどまでものすごい雷雨でした。
雨で花粉が流れてしまうと困ります。
7月7日に息長の横河で淡海軍に勝利した村国男依らは、7月9日には鳥籠山で淡海軍に勝利をおさめ、将の秦友足を斬ります。
また、7月2日頃に犬上川のほとりに軍営を置いていた淡海軍に内乱が起こり、羽田矢国が一族もろとも大海人方に投降しています。
大海人方は早速これを受け入れ、羽田矢国を将軍として、琵琶湖の北岸経由で、西岸沿いに南下させます。
琵琶湖の東岸と西岸、両方から大津京を攻めようということなのでしょうが、うがって考えれば、羽田矢国を必ずしも信用していなかったために、近くに置きたくなかったのかもしれません。
一方、倭方面は相変わらず日付が不明ですが、紀阿閇麻呂に派遣された置始兎は墨坂で大伴吹負と合流します。
そして、大坂にいる淡海方の壱伎韓国を撃つべく、西に向かっている最中と思われます。
乃楽山の戦いで大伴吹負を破った大野果安の軍勢は飛鳥京附近まで攻め寄せながら、飛鳥京の守りが堅いとみて引き返していますが、どこまで引き返したのか不明です。
また河内の壱伎韓国の部隊も、大野果安の勝利につけ込んで飛鳥方面に攻め込んでも良さそうなものですが、動きが見られません。
大野果安と壱伎韓国の動き次第では、倭を淡海方の勢力圏にできていたかもしれません。
どうも淡海方は戦略的な動きが鈍いように思います。
今日はお盆のお塔婆を頂きに菩提寺に行ってきました。
お寺で生まれたたぬきを初めて撮影することができました。
ご住職がエサを置かれ、私は物陰に隠れてカメラを構えて待ち構えました。
1頭、2頭と段々増えて3頭になりました。
いつもの猫も車の下にいました。
以下はご住職がメールの添付ファイルでお送りくださった写真です。
縁の下から顔を出したたぬき。
まん丸の目がかわいいです。
エサを食べに来たたぬき。
5頭います。私の目の前には3頭しか現れてくれませんでした。
大胆な子と用心深い子とがいるそうです。
最近は馴染みの鳩も来るそうです。
ご住職は、たぬき、猫、鳩それぞれにエサを用意されています。
以前、たぬきは追い払おうとしていらしたのに、なぜエサを用意するようになさったのか伺ったら、「猫もたぬきも来るのはご縁だから」とのことでした。
なるほどです。
コロナ禍以来、ご法事はご住職の単独法要になっています。
今年の盆棚です。
背後に檀家のお塔婆が並んでいます。
ここのところ、壬申の乱の日付に合わせて「壬申の乱の経緯をたどる」という文章を書いています。
それをご覧になった方が次のような新聞記事の切り抜きをお送りくださいました。
今年の7月4日付けの『岐阜新聞』とのことです。
野上というのは、壬申の乱の折に大海人皇子が本陣を置いた地です。
私は不勉強で、野上についてはこの記事に書かれていることは何も知りませんでした。
大変に勉強になりました。
御礼申し上げます。
7月2日(水)に群馬から東京の家に戻ってきたとき、浜木綿に苞ができているのに気づきました。
昨日あたりからその苞が開き始めました。
今日はこんな感じです。
この浜木綿は、平成29年(2017)に親の浜木綿から種が取れ、翌年発芽したものです。
去年、初めて花が咲きました。
今年は2回目の開花になります。
種から育てた株なので愛着もひとしおです。
花が咲くまであと数日かかります。
花が見頃になった時に群馬に行っていなければ、また写真を載せます。
東京にいるときに咲くと良いです。
7月7日、大海人皇子方の村国男依らが息長の横河で淡海軍を破り、その将境部薬を斬ります。
村国男依は、大海人皇子が吉野を脱出する2日前に東国に派遣された大海人皇子の舎人です。
男依はいち早く美濃の兵三千を率いて不破の道を塞いでいました。
そして、今また大軍を率いて大津京に向けて進軍しています。
舎人には有能な人物が多かったのかもしれませんが、身分に拘らない人材登庸です。
男依は緒戦でみごと勝利を収め、この先破竹の進軍を続けます。
一方、敗北して斬殺された境部薬といえば、有間皇子の事件の折に有間皇子とともに捕われ、尾張国に流罪になった人物です。
のちに許されて淡海軍の将になり、破れて殺されるという、なかなか波瀾万丈の人生です。
淡海方が不破の手前まで攻め込んでいます。
大海人皇子方は押し込まれているようにも見えますが、兵力が充実するのを待っていたのかもしれません。
あるいはこのあたりまで淡海側の勢力範囲だったため、戦いながら南下するしかなかったのかもしれません。
淡海方の田辺小隅の部隊は、7月5日夜半に倉歴道を奇襲攻撃で突破し、翌6日にたら野の陣営を襲撃しますが、ここを守る多品治に撃退されます。
この頃、大伴吹負敗走の報に接した紀阿閉麻呂は、置始兎に千余騎の兵を与えて、倭京に向けて派遣します。
*日本書紀では、置始兎を倭京に向けて派遣したのは7月9日のこととして記述しますが、その条にはその後の展開もまとめてそこに懸けて記述してあると読めますので、置始兎の派遣はおおよそ7月6日頃と推測しました。
たら野の位置については諸説ありますが、三重県伊賀市上野付近とする説が有力のようです。
吉野を脱出した大海人皇子が東国に向かう際も、この地で朝食を摂っています。
大津京から鹿深山を越えて倭に向かう際の重要な通過点であったのでしょう。
淡海側がたら野を越えて倭に侵入できれば、大海人皇子側にとっては大きな脅威になったことでしょうが、それは叶いませんでした。
多品治の大手柄です。
先日、群馬に行く日に届きました。
特集は「「飛鳥・藤原」を愉しむ」です。
「飛鳥・藤原の宮都」の世界遺産への登録を視野に収めた特集ですね。
大和三山は除いて申請するそうで、そこは残念です。
目次は以下の通りです。


あらっ?
「たのしむ」の漢字が表紙と目次とで違っています。
誌面では、表紙と同じ「愉しむ」です。
目次のミスですね。
たまにあるミスですね。ドンマイです。
7月5日の夜半、淡海方の田辺小隅が率いる部隊が鹿深山を越え、倉歴道を守備する田中足麻呂の部隊を奇襲します。
田中足麻呂隊は不意を突かれ、敗北します。
乃楽山で大野果安が大伴吹負を破った戦闘の翌日夜半ですね。
タイミングを合わせる予定が、田辺小隅部隊の到着が遅れたのでしょうか。
それとも、大伴吹負が敗走したのを見て、さらにダメージを与えるための奇襲攻撃だったのでしょうか。
淡海方は、たら野を押さえることで、大海人皇子軍の本営のある不破と倭との分断を図ったものと思われます。
大海人皇子側もこの地の重要性は十分に承知の上で、倉歴道には田中足麻呂の部隊、たら野には多品治の部隊を配していたのでしょう。
双方の戦法は、それぞれに見事です。
6月28日に、当日開催された群馬県立女子大学の国語国文学会のことを載せましたが、その時は画像は載せられませんでした。
遅ればせながら、画像を少し追加します。
先ずはポスターです。
夏らしい、爽やかなデザインのポスターです。どなたの作だったのでしょうか。
研究発表者は院生3人と鈴木崇大先生です。
院生3人の画像は省略します。というか、写真撮りませんでした。
鈴木崇大先生の発表。
国文学研究資料館の渡部泰明館長の講演。
大変に充実した会でした。
7月4日、乃楽山に陣を敷いた大伴吹負部隊は、攻め寄せた大野果安らの淡海軍に敗れ、敗退します。
吹負自身も数騎で敗走します。
果安は、八口(やくち)まで追い、飛鳥京を望観したところ、京には厳しく楯を立てていたので、伏兵の存在を疑って、引き返します。
大伴吹負軍の方が高所に陣取っていて地の利はあったはずなのに敗退したということは、吹負は諸方の防備に兵を割いたために本隊の兵が不足していたのでしょう。
さらに、大野果安軍は兵がかなり多かったか、士気が高かったのかもしれません。
勝ちに乗じて飛鳥京付近まで追っていった果安が引き返したのは随分慎重です。
これも壬申の乱全体の勝敗に繋がる分岐点の1つになった可能性があります。
昨日、東京の家に帰ってきたとき、地植えにしたアナベルが萎れていました。
地植えにしたので安心していたのですが、ダメでした。
やはり根の量に比べて葉の数が多すぎるのではないかと思います。
水をたっぷりやったら復活しました。
根が長く広く延びて欲しいです。
金魚は元気でした。
水温は33度。
前回帰宅したときは30度くらいであまり元気がなかったので心配していましたが、高い水温に慣れてきたのかもしれません。
毎月1日に載せている恒例の体重推移グラフは、渋川の家での測定結果を持ってくるのを忘れたので、次回渋川に行ったときに載せます。
このあたり、渋川の家でパソコンが使えなかったことの弊害です。
東京の家でパソコンが使えるようになりましたので、「壬申の乱の経緯をたどる」をまとめて載せました。
3月3日に右足首を手術してから4ヶ月経ちました。
今日、こんなです。
だいぶ良くなってきました。
7月3日、大伴吹負はさらに北上し、乃楽山に布陣します。
そして、荒田尾赤麻呂の進言によって、飛鳥京を守るために赤麻呂と忌部子人らを飛鳥京に向かわせます。
一方、淡海方は大野果安を乃楽山に向かわせます。
大津京を攻撃すべく進軍を続ける大伴吹負の部隊ですが、河内から倭を窺う壱伎韓国部隊への抑えと、飛鳥京の
守備のために兵を割くことを強いられ、本体の兵力はだいぶ削がれています。
淡海側も、北上して不破に向かう部隊と、南下して倭に向かう部隊と、河内から倭を窺う部隊とに三分されています。
双方ともに、広範囲な部隊の運用を行っています。
7月2日、大海人皇子は、紀阿閉麻呂らに数万の兵を与えて倭に向わせ、また、村国男依らに数万の兵を与えて不破から直接淡海に入らせます。
兵たちには淡海軍と区別するために赤色を衣の上に着けさせます。
柿本人麻呂作の高市皇子挽歌(巻二・199)には「捧げたる 幡(はた)の靡(なびき)は 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに 着きてある火の 風の共(むた) 靡くがごとく」とあり、軍旗の色が赤であったことを伺わせます。
さらに多品治に3000の兵を与えて、たら野に駐屯させ、田中足麻呂には倉歴(くらふ)道を守らせます。
一方、この頃、淡海方は山部王・蘇賀果安らに命じて、数万の兵で不破を襲わせようとしますが、内紛により統制を失い、投降者も出る始末です。
大海人皇子側は、不破道から大津京を攻める他に、倭方面にも部隊を配備します。
一方の淡海側は、不破に向かう軍勢の司令官同士に内紛が起こるなど、厳しい状況です。
渋川の家でパソコンが不具合のために「壬申の乱の経緯をたどる」の更新ができませんでした。
東京の家に帰ってきましたので、まとめて更新します。
7月1日、大伴吹負は大津京を攻めるべく、北に向かって進軍します。
その途中、稗田に至った時に、河内から大軍が迫っているという情報に接し、兵を割いて、龍田、大坂、石手道に配備します。
龍田に遣わされた坂本財らは、淡海軍が高安城にいると聞いて高安城に向かいますが、淡海軍はいち早くそれを察知し、倉を焼いて逃亡します。
坂本財は高安城を占拠しますが、河内方面から壱伎韓国の大軍が迫っているのを知り、城を出て、衛我河で韓国軍と戦います。
しかし、兵力差は如何ともしがたく、坂本財は敗れ、味方が守っていた懼坂道に退きます。
この頃、河内守来目塩籠は大海人皇子に従おうと兵を集めていましたが、そのことが壱伎韓国に知られ、塩籠は自尽します。
大伴吹負の動きも速いですが、その隙に河内から倭に侵入しようとする淡海側の動きも迅速です。
吹負は全軍で大津京を攻めたかったでしょうが、河内から倭に攻め込まれては、背後を突かれる怖れもあり、飛鳥京を奪還される怖れもあり、兵を割いてそれを阻止しなければなりません。
淡海側の作戦も適切です。
一方、正確な日付は分かりませんが、不破方面でも同じ頃に戦闘がありました。
大海人皇子方が不破道を堅く守っていたので、淡海方は北の脇道を通って攻め込もうと考え、精兵に玉倉部邑を急襲させますが、出雲狛に撃退されます。
奇襲作戦は無理とみて、淡海側は大軍をもって不破を攻めることになります。
今日、渋川の家から無事に帰京しました。
今回は先週の土曜日から4泊5日。割と短めです。
で、片づけ、荷造りは何もできませんでした。これでは何しに渋川に行ったのか分かりません。
何もできなかった理由は昨日のブログに書いたとおりです。
猛暑、燃え尽き症候群、疲労が大きな3つの要因と思います。
渋川市の最高気温は、土曜日が36度、日曜日が35度、月曜日が37度、火曜日が36度でした。
ただ事ではありません。それに、寝室にはエアコンがないし。
次回は週間予報をよく見て、少しでも涼しい期間を選びます。
私も多少とも暑さに慣れているでしょう。
今日の午後は雨の予報でした。
渋川の家を出たのは3時17分でした。
予報によればもう降り出していてもおかしくないのですけど、幸い降られずに済みました。
雨に濡れてしまうと、東京まで濡れたままですから、風邪をひきかねません。
演習で雨に打たれて肺炎になった速水中尉の二の舞はイヤです。
あ、速水中尉というのは、朝ドラ「おはなはん」でおはなはん(樫山文枝)の夫です。高橋幸治さん。
時間の関係で新幹線に乗りました。
16両編成で自由席は3両のみ。指定席はグランクラス以外全て満席。
自由席に座れる可能性は低いと思いましたが、ギリギリ座れました。
それやこれや(といっても、雨に濡れなかったことと、席に座れたことだけですけど)無事に帰れました。
あ、帰りに寄った整形外科のクリニックでも、調剤薬局でも、あまり待たずにすみました。
渋川の家の片付けは、処分する本を先日古書店に出張買取してもらって、いよいよ終盤になりました。
あとは本の残りと、その他諸々を荷造りすれば、引越し業者に運んでもらうことになります。
本の残りというのは、ガラガラになった書架にポツンポツンと残っているのが全てです。その他諸々は、まああれこれ持って行こうと思えばキリがありませんが、極端なことを言えばひと抱えくらいでも済んでしまいそうです。
そういう段階なのに、何もする気になりません。土曜日から来ているのに、実際に何もしていません。やる気スイッチが入らないのです。ここまでのことは初めてです。
原因はいくつかありそうです。ひとつは暑さですね。渋川市の最高気温は、土曜日が36度、日曜日が35度、月曜日が37度だそうで、今日も35度くらいでしょう。
これはあくまで気温なので、わが家の本のある部屋の室温は40度くらいあってもおかしくありません。その部屋に入って作業しようという気になりません。
もうひとつの理由は、先日の古書の出張買取に備え、長期に亘って本の分類と梱包作業をし、古書店が来る前日夜半過ぎ、当日未明までその作業をしていたので、なんか燃え尽き症候群のような感もあります。
また、日頃から昼夜逆転の生活をしているなか、先日の古事記学会や、午前中の病院再診や、4年に1度の東京ガスの検査や、群馬県立女子大学の国語国文学会などで生活リズムが狂ったことによる疲労もあったと思います。
あ、生活時間は昼夜逆転を直したいとは思っています。朝型の人に比べて、夜型の人の方が認知症になるリスクは高いのだそうです。まして昼夜逆転となれば、それ以上でしょうね。直さねば。
ま、そんな理由でやる気スイッチが入らないようです。これでは何のために渋川の家に来たのか分かりません。
といって、無理は禁物。出直した方が良さそうです。
近年、気象情報などで「暑熱順化」ということが言われていますね。そのためのトレーニングはせずとも、だんだん暑さに慣れてくるでしょう。
渋川市の予想最高気温も、来週の月火は38度ですが、後半は32度くらいに落ち着くようなので、このあたりでリベンジを目指そうと思います。
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