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2024年8月 9日 (金)

『萬葉集正義』(八木書店)到着

 今年の8月から刊行が開始される『萬葉集正義』全10巻、予約していた第1巻が届きました。
Manyoseigi06
 編者は「萬葉集正義編集委員会」となっています。委員長は國學院大学名誉教授の辰巳正明先生です。
 辰巳先生の教え子の方々を中心に、辰巳先生が編集されたお仕事なのでしょう。

 まだ届いたばかりですが、大いなる興味を持って、早速あちこち見てみました。
 特徴としては、東アジアを中心とした比較文学、民俗学への目配りが目立ちました。
 漢籍仏典や和漢の古辞書の引用が多く、江戸時代の国学の著作からの引用も多くあります。
 その一方で、近現代の研究への参照や国語学的な観点は手薄のように思いました。

 例えば、巻頭歌「籠もよみ籠持ち」の歌で、「家吉閑」を「家聞かな」と訓んでいるのには驚きました。
 確かにこの原文ならばそう読めますけれど、近年の(というか昭和30年代以降の)諸注釈はこれを「家告閑」と校訂して、「家告らせ」と訓んでいます。その理由として、動詞「聞く」には、上代は「尋ねる」「質問する」という意味用法はまだないと考えられるからです。
 『萬葉集正義』が底本の西本願寺本万葉集の本文を重視しようという姿勢は分かりますが、「吉」と「告」とは筆の運び次第で容易に誤写しうる関係にあるので、ここは「告」と校訂して「告らせ」で解釈すべきものかと考えます。

 また、但馬皇女の「遅れゐて恋ひつつあらずは追ひしかむ道の隈廻にしめ結へ我が背」(2-115)の歌の結句の「しめ」は、従来は「目印」「道しるべ」の意に理解するのが普通でしたが、近年は「しめ」は占有の印、部外者立ち入り禁止の意であって、「道しるべ」の意はないということで、その意味で理解できないかという考え方が行われていますが、この注釈では、「目に付くようにした占有の印」というやや分かりにくい解釈がなされています。ここはもう少し詳細な説明が欲しいところです。

 おもしろく思ったのは、中大兄皇子の三山歌の反歌(1-14)です。この4句目・5句目の「立ちて見にこし印南国原」の部分、誰が立って見に来たのかについては、従来の諸注釈は播磨国風土記を参照して、阿菩大神だということで一致していますが、この注釈書では以下のようにあります。
Manyoseigi07

 これ、7月21日に私のブログの創作童話に登場したかめ夫くんの解釈と近いです。
http://mahoroba3.cocolog-nifty.com/blog/2024/07/post-df90b8.html

 かめ夫くんは、印南国原が立ち上がって見に来たと解していたのですが、この注釈では「印南国原(の神)そのものが」としてあります。
 なるほど、印南国原の神ととれば、平野がむくっと立ち上がって見に来たと解するよりは抵抗がないかもしれません。

 どの注釈書も、強みと弱みとがあります。
 この注釈書もそれを承知して学恩に預かりたく思います。

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コメント

ついに出ましたか。
私も手に入れるべきかどうか…迷っていたのですが、結局決心しきれず(そんなに大した決心ではないはずなんですが)に今日まで来てしまいました。

釋注のときもまごまごしているうちに買いそびれて、結局何年も経ってからまとめて購入したという始末でしたからね。

今回はどうなりますやら…

三友亭主人さん

 コメントをありがとうございます。

 出ました。
 8月8日発売ですので、当ブログの誕生日と一緒です。(^_^)
 三友亭主人さんのブログでお祝いのお言葉を戴き、ありがとうございます。
 恐縮です。

 年に2冊ですから、完結まで5年掛かります。
 私は生きているやら。

 昨日届いたばかりで、まだちゃんと見ていませんが、特徴は上に書いたように、東アジア、民俗学、漢籍仏典、古字書、国学系注釈書というのがキーワードとして挙げられると思います。
 こういう点では、今までにない注釈という点では貴重です。

 一方、従来の見るべき諸説を列挙・検討して、この注釈としての見解を示すということはあまりしていません。そして、国語学的な考察が弱いです。

 そういった長所・短所のある個性的な注釈です。

『万葉集正義』へのご支援に深く感謝申し上げます。あまりにも高名な先生からのコメントに恐縮しています。以下、ご質問です。

近現代の研究への参照や国語学的な観点は手薄のように思いました。例えば、巻頭歌「籠もよみ籠持ち」の歌で、「家吉閑」を「家聞かな」と訓んでいるのには驚きました。確かにこの原文ならばそう読めますけれど、近年の(というか昭和30年代以降の)諸注釈はこれを「家告閑」と校訂して、「家告らせ」と訓んでいます。その理由として、動詞「聞く」には、上代は「尋ねる」「質問する」という意味用法はまだないと考えられるからです。
 『萬葉集正義』が底本の西本願寺本万葉集の本文を重視しようという姿勢は分かりますが、「吉」と「告」とは筆の運び次第で容易に誤写しうる関係にあるので、ここは「告」と校訂して「告らせ」で解釈すべきものかと考えます。

以上のご指摘には、根本的な二つ間間違いがあります。お気づきでしたら回答をおねがいいたします。

国語に手薄な田舎の爺さんさん

 コメントをありがとうございます。

 間違いには気づきませんので、回答はできかねます。
 申し訳ありません。

お忙しいところ、余計なことを申し上げたのかも知れません。お急ぎになる必要はありません。ご用意出来た段階で結構です。ご高名な先生からの回答を、若い人たちは楽しみにしていると存じます。先生のご回答により、今後の万葉集研究に大きな進展が期待されるものと存じます。それほどの問題提起と存じます。なにとぞ、よろしくお願い申し上げます。

岩波の『古語辞典 』には、〈き・き[聞き]〉があり、「答えを求めてたずねる」として、「家―・かな、告らさね」をあげていた。同じく岩波の日本古典文学大系『萬葉集一』では「家聞かな 告らさね」であったように思います。

くろねこさん

 コメントをありがとうございます。

 はい。おっしゃるとおり、岩波の大系本では「家聞かな 告らさね」と訓読しています。
 この「聞く」が質問するの例とすれば、上代に既に「聞く」という動詞には「質問する」の意味用法があったことになります。

 しかし、万葉集に百数十例ある動詞「聞く」には、他に「質問する」という意味用法の例はありません。この1番歌の例をどう扱うかということになりますが、百数十例もある「聞く」の中に他に1例も「質問する」の意味用法がないのも不思議なことですし、上代では、「質問する」という意味は「問ふ」という動詞が担っていますので、その点からもここのみ「聞く」が用いられているのは不審です。

 なお、『日本国語大辞典』は、動詞「聞く」の最古の用例としては源氏物語の用例が挙がっていますので、どうも、万葉集のみならず、他の文献を見ても動詞「聞く」に「質問する」という意味用法が生じたのは平安中期ではないかと推定されます。

 『岩波古語辞典』には動詞「聞く」の「質問する」の意で1番歌を用例として挙げていますが、これは当該辞書の当時の判断ですね。

 昭和30年代以降の万葉集の主な注釈は、岩波の大系本を除き、すべて「家告らせ 名告らさね」と訓んでいて、これが現在の定訓になっていますので、『正義』が「家聞かな」と訓むのであれば、なぜそう訓むのかという説明が必要になろうかと考えます。

奈良県立万葉文化館の「万葉百科」では、「家聞かな 名告らさね」としているようです。高岡の万葉歴史館では、「家告らせ 名告らさね」と巻一冒頭の歌について載せておられます。「いへきかん なのらさね」と講談社の万葉秀歌にはあったように思います。つまり、「告」なのか、「𠮷」なのか。

くろねこさん

 コメントをありがとうございます。

 万葉集諸本では、この箇所は「家吉閑」で一致していますので、それによるならば「家聞かな」と訓むべきものとなります。しかし、上に述べたような次第で、動詞「聞く」には当時「質問する」の言はなかったものと考えられますので、この「吉」は「告」の誤写とみて、「家告らせ」と訓む説が通行しています。
 万葉文化館と万葉歴史館の訓の差はその判断の差によるものですね。

①もし1.000の内の1例の例外を抹殺するのは独裁者か非論理的思考です。
②源さんの二つの誤りについて、まったく回答がなされていません。けっして急ぎませんが、みなさんが固唾を飲んで待っています。

国語に手薄な田舎の爺さんさん

 コメントをありがとうございます。

 たった1つの例外をどう扱うか。
 例外が1例しかない、というときでも、その例外を無視して良いとは思いません。
 逆に、その1つの例外を重く見過ぎるのも誤りの元になり得るでしょう。
 例外にうまく説明がつけばよいと思います。
 「吉」と「告」とは容易に誤写しうる関係にあるというのは1つの説明になっていると思います。
 「曰」と「白」、「目」と「自」と「日」などのように。

 私の2つの誤りというのは、本人に全くその自覚がないので回答のしようがありません。

①例外の1例が間違いではない場合の処理の話です。一般論ではありません。この場合の例外の処理を先にすべきです。
②源さんの二つの間違いについて、もう少し考えてほしいと思います。いずれ誰かが気がつくことと存じます。

国語に手薄な田舎の爺さんさん

 「例外の1例が間違いではない」かどうかをどう決めるか、判断は難しいと思います。

 かりに、間違いではない、すなわち、上代にも「聞く」には「尋ねる・質問する」という意味があったとした場合、あの歌は、「家を聞きましょう。名前をおっしゃい(家聞かな 名告らさね)」、あるいは「家を聞きましょう。おっしゃい(家聞かな 告らさね)」となりますね。
 前者では前半と後半とがズレた感じになります。後者では肝腎な名前を聞いていないことになります。どちらにもそういう問題が存在します。

 なお、あえて指摘せずともと思っていましたが、『正義』では、訓読は「家聞かな 名告らさね」となっていながら、口語訳では「あなたのお家を聞きたいな、教えてちょうだいよ」となっていて、両者が整合していません。これは再版の折に訂正すべき案件と思います。

論争の本旨から離れることは本意ではありません。この論争はこの辺で終わりたいと思います。
ご迷惑をお掛けいたしました。

国語に手薄な田舎の爺さんさん

 承知しました。
 自分の考えを確認する上でも有用でした。

『萬葉集正義』の訓読が「家聞かな 名告らさね」なら、奈良県立万葉文化館の「万葉百科」にある「家聞かな 名告らさね」と同じですね。口語訳は「あなたのお家を聞きたいな、教えてちょうだいよ」なのですか。ほんとに?
くろねこは財布が小さいので、どこか図書館で探します。あっ、國學院の図書館、渋谷ですかあ。

くろねこさん

 コメントをありがとうございます。

 「ほんとに?」って、疑われるのは心外です。
 ウソは書きません。

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