壬申の乱の経緯(20)大友皇子の最期
7月23日、村国男依は、淡海の将犬養五十君と谷塩手とを粟津市で斬刑に処します。
このうち犬養五十君は、かつて倭の中ツ道の戦いの司令官として登場していました。
倭で敗退しても逃走せずに最後まで淡海方として戦ったのですね。淡海方にも人ありです。
大友皇子は、瀬田から引き返して山前(やまさき)に隠れ、自ら首を縊って自決します。
その時、左右大臣をはじめとする群臣たちは逃亡してしまい、皇子に最後まで従ったのは物部麻呂と一両人の舎人のみでした。
さてここで、大友皇子が自縊したという山前の所在がはっきりしません。
新編全集の日本書紀の注には5説上がっています。
①三井寺背後の長等の山前
②河内国茨田郡三矢村山崎
③河内国交野郡郡門の山崎
④山城国乙訓郡大山崎村の山崎
⑤山崎は固有の地名でなく、普通名詞で大津京付近の地
そして、「①説が有力だが、⑤説を採りたい。」としています。
新編全集の説では、大友皇子はあまり遠くには逃れず、大津京近辺で最期を迎えたことになります。
日本書紀には、「乃ち還りて山前に隠れ、自ら縊れぬ(乃還隠山前、以自縊焉。)」とあります。
大友皇子は大津京から瀬田川の戦いに出馬して敗退します。「還」る先は大津京以外にはないでしょう。
そう考えれば、皇子は大津京目指して落ちて行く途中に①の山前で自尽したか、あるいは大津京に帰り着いて⑤の地で自尽したか、ということになるのでしょう。
②~④の山前は離れすぎていて「還」るという記述に合いませんので、これらの場合は、大津京を目指して敗走する途中、方向転換して向かったということになるのでしょう。
日本書紀に「山前」はもう1ヶ所登場します。
昨日書いた、大海人皇子方の軍勢が倭の三道を北上してきて布陣した山前です。
こちらの山前は、書紀本文には「山前に至りて、河の南に屯(いは)む。(至于山前、屯河南。)」とあります。
地図にもう1ヶ所「枚方市楠葉」と記したのは、新編全集で倭からの北上軍が布陣した方の山前の候補地として追加してある地点です。
2つの山前は同じ場所であるのか、それとも異なる場所であるのか。
同じ壬申紀に「山前」と出てくる以上は同じ山前とする方が考えやすいです。
そうだとすると、①⑤の山前では、大海人皇子方の北上軍はもうすでに大津京近辺まで攻め込んでいることになり、合わないように思います。
大友皇子は「山前」まで落ち延びたものの、そこには既に大海人皇子方の北上軍が布陣していたので、もう逃れられないと悟り、その地で自尽したと考えたいです。
日本書紀には、大友皇子自尽の地も、倭から北上してきた大海人皇子軍が布陣した地も、どちらも単に「山前」とあるばかりです。
壬申の乱当時、複数の「山前」が存在したのならば、それらのいずれであるのかを明示するために「○○郡の山前」などと書きそうなものです。単に「山前」とある以上、もうそれだけで当時の人にはどこの地か明瞭だったのでしょう。
そういう方面からの考察もできそうです。
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自尽ということばに違和感を感じ,自刃じゃないのと検索してみました。
自尽も同じような意味ですね。
源さんの博識に今更ながら驚かされます。
大友皇子・大海人皇子,
おじさんのほうが,知略・軍略に長けていたのでしょうね。
投稿: 萩さん | 2024年7月24日 (水) 11時23分
萩さん
コメントをありがとうございます。
大友皇子は首を縊って亡くなったので、刃物を使う「自刃」ではありませんね。
それで、「自尽」としました。「自殺」や「自死」でもいいのですが、一応総大将なので、それに相応しいのは「自尽」かなと。
言葉選びは難しいですね。
どうも、大海人皇子の方が1枚も2枚もうわてだった感じですね。
投稿: 玉村の源さん | 2024年7月24日 (水) 12時43分