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2024年7月

2024年7月31日 (水)

「小学生国史満点かるた」

 この様なものを入手しました。
Kokushimanten01
 「小学生 国史満点かるた」とあります。
 全部で40組です。
 「株式会社 不動貯金銀行」の印が印刷してあります。この銀行が顧客に配ったものでしょうか。

 読み札から6枚。
Kokushimanten02
 こんな感じで、読み札は短歌形式になっていて、下の句の冒頭が年号になっています。
 ただし、その年号は西暦ではなく、神武紀元なので、西暦よりも660年多い数字になっています。

 これに対応する取り札。
Kokushimanten03
 下の句が取り札になっています。

 仏教公伝は1212年です。660を引いて西暦に直すと552年になります。
 これは日本書紀による年代です。
 現在、仏教公伝は538年ですね。これは『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』による年代です。
 戦前の教育を受けた亡母は「おいちにおいちに(1212)と仏教伝来」と憶えたそうです。このかるたと重なりますね。
 平安遷都は「なくよ(794)うぐいす」と憶えますけど、このかるたの時代には「いよいよ(1454)つづく」ですね。
 1414と憶えてしまう子供もいそうです。

 読み札の裏側は解説ではなく、問題になっています。
 裏側から2枚。
Kokushimanten04
 こんな感じで、1枚につき何問か問と答とが載っています。
 年号を憶えるだけでなく、そのできごとの内容も学べます。
 「建武の中興」については、特に功のあった人物として、護良親王、楠木正成、新田義貞、名和長年、足利尊氏の名が並んでいます。
 この5人の中で尊氏だけボロクソな形容が付いています。ちょっとひどい。
 「江戸幕府開く」については、家康を高く評価していますね。

 奥付等は全くなく、いつのものか分かりませんが、一番新しい年代が昭和7年の満州国建国ですので、それ以降です。

2024年7月30日 (火)

大正7年の『東海道』(4)広重の「京師」

 昨夜、ビデオデッキの中の録画済み番組リストを見ていたら、6月26日(水)のNHK「歴史探偵」をまだ見ていないことに気づきました。
 テーマは広重です。
 早速見てみたら、「東海道五十三次」や「名所江戸百景」について、あれこれ知ることができ、面白かったです。
 「東海道五十三次」については、先日来、大正7年の『東海道』を載せていることもあり、さらに興味を惹かれました。
 そのうちの1つが「京師」です。
T07tokaido06
 広重の絵には山並みの向こうに茶色い山が見えます。これは比叡山だそうです。
 実際の比叡山はずっと左側にあって、この画角には全く入らないのだそうです。
 それを広重はずずーーっと、右側に引っ張ってきて、遠景としたのだそうです。
 大幅なデフォルメですねぇ。
 写真にも遠くにうっすらと山のようなものが見えますけど、あれは見開きの印刷が写ったもので、元の写真にはないはずです。

 もう1つ。
 広重の絵の右側です。
T07tokaido16
 右側に見える塔は八坂の塔、その左側、山の中腹にあるのは清水寺だそうです。

 同じく左側です。
T07tokaido17
 中央青い屋根は知恩院だそうです。

 京都の名所をあれもこれも描き入れたのですね。

 少しのことにも先達はあらまほしきものです。
 たまたま最近この『東海道』を入手していたお陰で、より興味深かったです。

2024年7月29日 (月)

『ならら』最新号の特集は「柳澤吉里」

 今日、『ならら』の最新号が届きました。
Narara202408a
 特集は「柳澤吉里」です。
 柳澤吉里は、将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保の嫡男です。
 享保9年(1724)に大和郡山に入部してから300年になるということで、特集に取り上げられています。

 目次は以下の通りです。
Narara202408b
Narara202408cNarara202408d

2024年7月28日 (日)

スマホのACアダプタが不調

 大分前にスマホの充電がうまくゆかなくなりました。
 自宅のコンセントに原因があるのか、コンセントとACアダプタとの間にある延長コードに原因があるのか、あるいはスマホに原因があるのか、それらのどれかだと思いました。
 ところが、スマホとパソコンとをUSBコードで繋げば、何の問題もなく充電できます。
 とすると、原因は充電用のACアダプタということになりそうです。
 このACアダプタはスマホを機種変更したときに同じものを2つ買って、1つは渋川の家で使っています。
 6月末に渋川の家に行った時に、渋川の家のACアダプタで充電したら、何の問題もなく充電できました。
 ということで、原因は東京の家で使っているACアダプタの不具合ということが確定しました。
 まだ数年しか使っていないACアダプタが故障することもあるのですね。意外でした。

 そのような次第で、以後は、パソコンから充電したり、モバイルバッテリーを使って充電していました。
 ACアダプタを買えばいいようなものですけど、渋川の家を引き払ったら、もうACアダプタは1つですみますので、購入は躊躇していました。
 でも、まあアマゾンを覗いてみようと思って行ってみたら、ACアダプタの後継機が発売されていました。
 私の使っているのよりも高速で充電できるそうです。
 そういうことならば話は別です。早速購入しました。

 右が新しいの、左が今までのです。
Acad08a
 サイズはやや大きくなりました。

 別の角度から。
Acad08b
 厚みもだいぶ違います。
 ほとんど家で使うことになりましょうから、問題ありません。

 説明書き。
Acad08c
 安心安全です。

 という次第でした。
 話が長いですね。(^_^;
 もう少しシンプルに書けないものかと思います。

2024年7月27日 (土)

壬申の乱の経緯(22・終)乱のあと

 7月23日に大友皇子が「山前」で自害し、壬申の乱は終結します。
 そして、昨日書きましたように、26日に大海人皇子方の将軍たちは野上行宮に参上し、大友皇子の首級を献上します。
Jinshinchizu34
 イメージ画像です。(^_^)
 右手前のオレンジ色が大海人皇子、その脇のピンクは高市皇子のようです。
 二人の前に控える青と緑の人々は不破に詰めていた幕僚達、そして左側にいる面々が戦場から帰ってきた将軍たちと幹部たち。
 勝手なイメージです。

 これから1ヶ月経った8月25日、捕らえられた淡海方の群臣を処罰します。
 右大臣中臣金は斬罪、左大臣蘇我赤兄は流罪になります。

 8月27日には、大海人皇子方で功績のあったものが寵賞されます。

 9月に入って、大海人皇子は飛鳥に向かって引き上げます。
 9月8日、桑名着。9日鈴鹿、10日阿閉、11日名張を経て、9月12日に倭京に着き、島宮に入ります。
 9月15日、島宮から岡本宮に遷ります。
 この年、宮殿を岡本宮の南に造り、冬にそこに遷ります。その宮を飛鳥浄御原宮と称します。
 12月4日、功績のあったものを選んで、位階を上げます。

 6月下旬からお付き合い戴いた「壬申の乱の経緯」はこれで終了です。

2024年7月26日 (金)

草刈りぐんまちゃんと群馬県庁

 今日はまた月に1度の前橋で講座の日でしたので、群馬に行ってきました。

 県庁前広場に、草刈りぐんまちゃんいました。
Gunmac_kusakari13
 正面奥に見えているのは県警本部、左奥に見えているのは昭和庁舎です。
 昭和庁舎はかつての本庁舎です。

 ナンバープレート。
Gunmac_kusakari14
 群馬県のご当地ナンバープレートです。

 横から。
Gunmac_kusakari15
 大きな建物は現在の県庁舎で、写真に写っているより、まだまだ高く、33階建、153mあるそうです。
 渡り廊下で左側にある建物(この写真には写っていません)と連絡しています。
 左側にある建物は議会棟です。

 今日は渋川の家には行かず、日帰りにしました。

 ホームの駅名標。
Gunmac_takasaki07
 今月いっぱい、高崎駅はぐんまちゃん駅です。
 このぐんまちゃんの絵は前からあったか、それとも今回の駅ジャックの間限定なのか、記憶が定かではありません。(^_^;

壬申の乱の経緯(21)大友皇子の首級が野上行宮に届けられる

 7月26日、大海人皇子方の将軍たちは野上行宮に参上し、大友皇子の首級を献上します。
Jinshinchizu33

 大友皇子が「山前」で最期を遂げたのが7月23日のことでした。首級は3日掛かって大海人皇子に届けられたことになります。
 遺体全身だと移動も大変なので首だけを運んだのでしょうかね。
 そうだとすれば、首なし遺体は「山前」附近に埋葬されたことと思います。

 首級とか首実検というと、鎌倉時代や戦国時代のイメージでしたが、このような時代から、首実検は行われていたのですね。
 確かに、首は本人であることを証する最適のものでしょう。

2024年7月25日 (木)

中村錦之助「宮本武蔵」のパンフレット

 中村錦之助版「宮本武蔵」5部作(東映)の総合パンフレットを入手しました。
Musashipf01
 昭和51年1月の発行、全16ページです。

 吉川英治の『宮本武蔵』は何度も映画やテレビドラマになっていますが、私はこの錦之助版(監督は内田吐夢)が一番好きです。
 毎年1作ずつ5年間にわたって制作されましたので、その間の錦之助の成長が武蔵の成長と重なって、リアルさを増しているように思います。

 全5部作の配役。
 第1部と第2部。
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 第3部。
Musashipf04

 第4部。
Musashipf05

 第5部。
Musashipf06

 配役を見ていると、あれこれ思い出されます。

2024年7月24日 (水)

明治26年の『小学日本地図』

 この様なものを入手しました。
M26shogakumap01
 明治26年10月発行の『小学日本地図』で、発行所は東京日本橋の金港堂書籍会社です。定価20銭。

 目次はありませんが、例言に内容が列挙されています。全13図。
M26shogakumap02

 日本略図。
M26shogakumap03
 樺太は全てロシア領、千島列島はカムチャツカまで全て日本領です。

 樺太の東の拡大図。
M26shogakumap04
 オホーツク海が「おこつく海」と書かれています。

 自然地図。
M26shogakumap05

 人為地図。
M26shogakumap06
 自然地図と人為地図の2図のみが見開きになっています。
 廃藩置県以来、府県の編成は転変しましたが、この明治26年の時点では、現代と同一のようです。

 畿内地図。
M26shogakumap07
 旧国で色分けされています。

 図が小さいので、4都付近を拡大します。
M26shogakumap08
 記載されている地名数は少ないですが、その中に、鵯越、一ノ谷、桜井、湊川などはしっかり記載されています。

2024年7月23日 (火)

壬申の乱の経緯(20)大友皇子の最期

 7月23日、村国男依は、淡海の将犬養五十君と谷塩手とを粟津市で斬刑に処します。
 このうち犬養五十君は、かつて倭の中ツ道の戦いの司令官として登場していました。
 倭で敗退しても逃走せずに最後まで淡海方として戦ったのですね。淡海方にも人ありです。

 大友皇子は、瀬田から引き返して山前(やまさき)に隠れ、自ら首を縊って自決します。
 その時、左右大臣をはじめとする群臣たちは逃亡してしまい、皇子に最後まで従ったのは物部麻呂と一両人の舎人のみでした。

 さてここで、大友皇子が自縊したという山前の所在がはっきりしません。
 新編全集の日本書紀の注には5説上がっています。
  ①三井寺背後の長等の山前
  ②河内国茨田郡三矢村山崎
  ③河内国交野郡郡門の山崎
  ④山城国乙訓郡大山崎村の山崎
  ⑤山崎は固有の地名でなく、普通名詞で大津京付近の地
 そして、「①説が有力だが、⑤説を採りたい。」としています。
Jinshinchizu27
 新編全集の説では、大友皇子はあまり遠くには逃れず、大津京近辺で最期を迎えたことになります。
 日本書紀には、「乃ち還りて山前に隠れ、自ら縊れぬ(乃還隠山前、以自縊焉。)」とあります。
 大友皇子は大津京から瀬田川の戦いに出馬して敗退します。「還」る先は大津京以外にはないでしょう。
 そう考えれば、皇子は大津京目指して落ちて行く途中に①の山前で自尽したか、あるいは大津京に帰り着いて⑤の地で自尽したか、ということになるのでしょう。

 ②~④の山前は離れすぎていて「還」るという記述に合いませんので、これらの場合は、大津京を目指して敗走する途中、方向転換して向かったということになるのでしょう。

 日本書紀に「山前」はもう1ヶ所登場します。
 昨日書いた、大海人皇子方の軍勢が倭の三道を北上してきて布陣した山前です。
 こちらの山前は、書紀本文には「山前に至りて、河の南に屯(いは)む。(至于山前、屯河南。)」とあります。
 地図にもう1ヶ所「枚方市楠葉」と記したのは、新編全集で倭からの北上軍が布陣した方の山前の候補地として追加してある地点です。

 2つの山前は同じ場所であるのか、それとも異なる場所であるのか。
 同じ壬申紀に「山前」と出てくる以上は同じ山前とする方が考えやすいです。
 そうだとすると、①⑤の山前では、大海人皇子方の北上軍はもうすでに大津京近辺まで攻め込んでいることになり、合わないように思います。

 大友皇子は「山前」まで落ち延びたものの、そこには既に大海人皇子方の北上軍が布陣していたので、もう逃れられないと悟り、その地で自尽したと考えたいです。
 
 日本書紀には、大友皇子自尽の地も、倭から北上してきた大海人皇子軍が布陣した地も、どちらも単に「山前」とあるばかりです。
 壬申の乱当時、複数の「山前」が存在したのならば、それらのいずれであるのかを明示するために「○○郡の山前」などと書きそうなものです。単に「山前」とある以上、もうそれだけで当時の人にはどこの地か明瞭だったのでしょう。
 そういう方面からの考察もできそうです。

2024年7月22日 (月)

壬申の乱の経緯(19)瀬田橋の決戦

 今日7月22日、瀬田橋を挟んで大友皇子の軍勢と村国男依の軍勢とが対陣します。
Jinshinchizu25
 淡海方は大友皇子自身が出陣しています。
 日本書紀に依れば、大友皇子の軍勢は大軍で、末尾が見えないほどだったといいます。
 この表現には誇張があることでしょう。実態はどれほどだったのでしょうか。
 本当に大軍勢を擁していたのだとすると、その兵力を決戦に備えて温存していたというべきか、あるいは戦線に投入すべき時機を逸したというべきか。
 合戦は、淡海方の先鋒を務めた智尊が精鋭を率いて善戦しますが、大海人皇子方の大分稚臣の奮闘によって先鋒が崩されると、その勢いに抗えず、敢えなく全軍が崩壊します。
 淡海方の兵は実際にはあまり多くなかったのかもしれません。
 勝利をおさめた村国男依は、粟津の岡のもとに陣営を定めます。

 同日、湖西では、羽田矢国・出雲狛の部隊が三尾城を陥落させます。
 また、倭の三道を北上してきた置始兎らの部隊は「山前」に到り、「河の南」に布陣します。
Jinshinchizu26
 この「山前」がどこを指すのか明らかではありません。
 この附近で「やまざき」と言えば、京都府と大阪府との境にある大山崎町が思い浮かびます。
 それでよいかどうか。これについては明日少し触れます。

2024年7月21日 (日)

創作童話「どぐうくん、はにわくん、そして」

 大分日が経ってしまいましたが、久しぶりの創作童話です。

 うさぎのぴょん太くんとかえるのけろきちくんが歩いていると、かめ夫くんに出会いました。
Bocha01
 「やぁ、ぴょん太くんとけろきちくん。どこに行くの?」
 「あ、かめ夫くん、ぼくたち飛鳥めぐりに行くところなんだ。かめ夫くんもいっしょに行かない?」
 「飛鳥めぐりかぁ。いいね。ぼくも心惹かれるけど、やめておくよ。暑くて。甲羅が熱いんだ。ふたりとも気を付けてね」
 「わかった。気を付けるよ。じゃぁね」

 かめ夫くんと別れて、ふたりが歩いていると、向こうから何か茶色いものが歩いてきます。
Bocha02
 「こんにちは。はじめまして」
 「こんにちは」
 「えーと、きみは?」
 「私はどぐうよ。目がチャームポイントなの」
 「ど、どぐうって、歩くの?」
 「そうよ。現に歩いているじゃない。じゃぁね」

 「びっくりしたなぁ。土偶が歩くなんて聞いたことがないよ」
 「ぼくたち、悪い夢でも見ているのかなぁ」

 さらにふたりが歩いていると、また向こうから何か茶色いものが歩いてきます。
Bocha03
 「こんにちは。はじめまして」
 「こんにちは」
 「えーと、きみは……。もしかしてはにわくん」
 「そうだよ。踊る埴輪なんて言われているけど、本当は馬引きだという説もあるんだよ」
 「へー、そうなの。で、実際はどうなの?」
 「う~ん。どっちだったかなぁ? もう1500年も昔のことなんで、忘れちゃったよ。じゃぁね」

 「また悪夢かな。土偶や埴輪が歩いているなんて、怖すぎるよ」

 さらにふたりが歩いて行くと、今度は向こうから何か緑色のものが歩いてきます。
Bocha04
 「こんにちは。はじめまして」
 「こんにちは」
 「えーと、きみは……。なんだろ?」
 「見当も付かないな。苔の固まり?」
 「ブー!」
 「じゃぁ、カビの固まり?」
 「ブー! ブー!! なんてことを。ちょっと見れば分かるでしょ」
 「う~ん。降参」
 「前方後円墳に決まってるじゃない!」
 「前方後円墳?! 土偶や埴輪が歩いてくるのはまだ分かるけど、古墳がむっくり起き上がって歩いてくるなんて、そんなことがあってたまるものかは」
 「そんなこと言われたって、現にこうやって歩いてきたんだから、しょうがないじゃない。じゃぁね」

 「もうダメだ。こんな不条理があっていいわけがない」
 「本当に。頭がおかしくなりそうだ。ちょっと休もう」

 頭が疲れたふたりは、しばらく横になることにしました。
Bocha05

 どれくらい経ったでしょうか。そこにかめ夫くんがやってきました。
Bocha06
 「やっと見つけた。ふたりとも起きて」
 「あ、かめ夫くん、どうしたの?」
 「ふたりがなかなか帰ってこないんで、心配になって探しに来たんだよ。どうしたの? 熱中症じゃない?」
 「いや、そんなことはないと思うけど、実はこれこれこういうことがあったんだ」
 「それ、夢じゃないの?」
 「夢じゃないよ。ふたりが同じ夢を見るなんて、そんなことないし」

 かめ夫くんは何か考え込みました。
Bocha07
 「かめ夫くん、どうしたの? 何を考えているの?」
 「いや、夢かどうかは分からないけど、前方後円墳が歩いてきたっていうことで、ちょっと考えることがあって」
 「なになに?」
 「万葉集に中大兄皇子の三山の歌というのがあって、その反歌(14番歌)は『香具山と耳梨山とあひし時立ちて見に来し印南国原』っていう歌なんだ。
  意味は、『香具山と耳梨山とが争った時に、阿菩の大神が立って見に来た印南国原はここなのだなあ』ということで、諸注釈一致しているよ。
  でも、この歌にも、題詞・左注にも阿菩の大神なんて全く書かれていない。
  じゃぁ、阿菩の大神はどこから出てきたのかといえば、播磨国風土記に阿菩の大神が三山の争いを仲裁しようとしてやって来たという話が載っているので、それを踏まえて、こう解釈されているんだよ。
  これ、本当にそうなのかなぁ。播磨国風土記の説話はそんなに誰もが知っているものなんだろうか?
  阿菩の大神は考えずに、この歌だけを素直に読めば、この歌『香具山と耳梨山とが争った時に、立って見に来た印南国原はここなのだなあ』とならないか? 
  そんな、平野が立ち上がって見に来るなんて考えられないから、そうは解釈されていないけれど、前方後円墳が歩いて来たんだから、印南国原が立ち上がって歩いて来たって、おかしくはないんじゃない?」
 「う~ん。そうかもね」
 「あり得るかも」

 かめ夫くんはもう少し考えてみるそうです。

2024年7月20日 (土)

しかまろくん おいのり

 奈良のしかまろくんを入手しました。
Shikamaro_oinori01
 「おいのり」バージョンです。
 ケチを付けるわけではありませんが、ちょっとお祈りには見えませんね。両手のひらの上に顎を乗せているようです。
 もう少し肘を内側に寄せた方が良さそうです。

 うしろがわ。
Shikamaro_oinori02
 白い毛のお尻がかわいいです。

 付いていたタグ。
Shikamaro_oinori03
 こちらの方がまだお祈りに見えます。
 でも、やはり何か違うように見えるのは、人間の場合は手首に角度をつけられるのに、鹿はそれができない点がポイントかもしれませんね。

 ケチばかりつけましたけど、かわいいです。

2024年7月19日 (金)

壬申の乱の経緯(18)決戦を前に

 日本書紀には7月19日の記事はありません。
 ただ、決戦間近です。
 淡海方面では、大海人皇子方は、連戦連勝して栗太まで南下してきた村国男依軍と、湖西を進軍してきた羽田矢国軍とが大津京を目指しています。
 淡海方も瀬田川を最後の防衛線として、戦備を整えていることでしょう。
Jinshinchizu23

 一方、倭では、大海人皇子方が倭を勢力下に置き、大伴吹負は大坂を越えて難波の小郡に駐屯します。
 そして、難波以西諸国の国司に命じて、正倉の鍵と駅鈴・伝印を提出させ、西国の財政・軍事権を預かります。
 また、吹負以外の諸将は、兵を率いて三道を通って北上します。
Jinshinchizu24

2024年7月18日 (木)

大正7年の『東海道』(3)

 先月2回に亙って載せた大正7年の『東海道』の続きです。
 この本は、横とじの左右に、広重の東海道五十三次の絵と大正当時の写真とが対照されています。

 吉田。
T07tokaido10
T07tokaido11
 橋は近代化されましたが、雰囲気はよく似ています。

 御油。
T07tokaido12
T07tokaido13
 道の曲がり具合がよく似ています。

 桑名。
T07tokaido14
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 これまた雰囲気がよく似ています。
 お城の櫓は明治以降、取り壊されてしまったのでしょうか。石垣だけが残っています。

2024年7月17日 (水)

壬申の乱の経緯(17)大海人皇子軍、栗太の敵を撃ち払う

 7月17日、大海人皇子方の村国男依の軍勢は、栗太で淡海方の軍勢を撃ち払います。
Jinshinchizu22

 連戦連勝を重ねる村国男依は、淡海方の最後の防衛線というべき瀬田川まで、あとわずかの地点まで迫りました。

2024年7月16日 (火)

浜木綿の子が開花

 浜木綿の子に待望の花が咲きました。
 平成29年(2017)に親の浜木綿に実が成って種が取れました。
Hamayu20171004

 平成30年(2018)に発芽しました。
Hamayu20180625

 それを鉢植えにして令和元年(2019)9月11日の状態です。
Hamayu20190911

 段々大きくなってきたので、令和3年(2021)に大きな鉢に植え替えました。
Hamayu20210926

 そして、今年の7月3日、群馬の家から帰ってきたら、花芽が付いているのに気づきました。
 これは7月5日の写真です。
Hamayu20240705

 少しずつ花が開いてゆきました。これは7月12日です。
Hamayu20240712

 そして今日です。
Hamayu20240716
 少しずつ花が咲くので、初めの方に咲いた花は萎れかけています。

 発芽してから6年で花が咲いたことは意外でした。
 もっと掛かるものと思っていました。
 手塩に掛けて育ててきた浜木綿に花が咲いて感無量なものがあります。

2024年7月15日 (月)

壬申の乱の経緯(16)倭方面最後の戦闘

 日本書紀には、今日7月15日の記事はありません。
 淡海方面では13日に大海人軍が安河で大勝しています。
 倭方面では日付不明ながら大海人軍が河内方面からの淡海軍を撃退し、飛鳥京の本営に戻ってきています。

 その後、飛鳥古京には東国からの軍勢が多数到着したので、大伴吹負は兵を3つに分けて、上ツ道、中ツ道、下ツ道に配します。
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 上ツ道では、三輪高市麻呂と置始兎が箸陵の戦いで淡海軍に大勝します。
 中ツ道では、村屋に陣を置いた淡海軍の犬養五十君が廬井鯨に精兵二百を与えて大伴吹負の陣営を衝かせます。
 吹負麾下の兵は少なく苦戦しますが、そこに、箸墓から救援に駆け付けた三輪高市麻呂らの部隊が廬井鯨の背後を衝き、勝利をおさめることができました。
 下ツ道については記述がありません。

 大伴吹負は飛鳥京の本営に戻って軍を編成し直しますが、この先、淡海軍はもう攻めてきませんでした。
 淡海方面で敗戦が続いているので、そちらに兵を集中させようとしたのかもしれません。
 逃亡した兵もいたことでしょう。

2024年7月14日 (日)

蓬左文庫のパンフレット

 蓬左文庫の少し古いパンフレットをネットオークションで入手しました。
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 興味を持ったからといって、こういうものまで買っていてはキリがありません。(^_^)

 蔵書のあらまし。
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 蔵書のうちの重要文化財。
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 現存最古の河内本源氏物語や、現存最古の続日本紀がありますね。
 続日本紀は、多数伝わっている卜部本系統の諸本と異なる別系統の写本である点でも貴重です。

 いくつかのカラー写真。
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 蓬左文庫の略史。
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 蓬左文庫の利用案内等。
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 このパンフレットがいつのものか分かりませんが、下部に記載されている蓬左文庫の所在地の郵便番号が3ケタですので、昭和43年(1968)~平成10年(1998)の期間のものです。

2024年7月13日 (土)

壬申の乱の経緯(15)村国男依、安河のほとりで淡海軍に大勝

 7月13日、大海人皇子方の村国男依が、安河(野洲川)のほとりで淡海軍に大勝します。
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 村国男依は、横河・鳥籠山に続いて安河のほとりでも淡海軍に大勝し、大津京に大きく迫りました。
 このあと、両軍とも態勢を整えるのにしばらく掛かったようで、決戦は数日後になります。

 一方、倭では、河内から侵入した壱伎韓国を破った大海人皇子軍はいったん飛鳥京に戻り、北に向かいます。

2024年7月12日 (金)

金魚のふるさと 江戸川区

 今日の夕方NHK「首都圏ネットワーク」の「オシたび」コーナーで、江戸川区の金魚が取り上げられていました。
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 「金魚」にはすぐに反応してしまいます。

 江戸川区で金魚の養殖が行われているとは知りませんでした。
Edogawakingyo02
 この区で金魚の養殖が盛んになったのは関東大震災後で、最盛期には20軒以上の養殖業者がいたそうですが、宅地化の影響などで、今は2軒のみだそうです。

 金魚グッズを中心に扱っているお店。
Edogawakingyo03
 このお店、行ってみたいです。

 うちの金魚が生まれたのは、大和郡山か弥富かと思っていましたが、江戸川区の可能性も浮上しました。
 いや、養殖業者が2軒では、その可能性は低いかもしれませんね。

 最近、金魚がゴハンを食べないので心配です。
 口には入れるのですが、ペッ!と吐き出してしまうのです。
 あの食いしん坊の連中が。
 ナゾです。

2024年7月11日 (木)

壬申の乱の経緯(14)大伴吹負・置始兎、当麻の衢で淡海軍に勝利

 日本書紀では、7月10日~12日の記事はありません。
 この間、淡海では琵琶湖の湖東を村国男依の部隊が、湖西を羽田矢国の部隊が、それぞれ大津京を目指して進軍中です。
Jinshinchizu18

 一方、倭では、日付は不明ながら大坂を越えてきた淡海方の壱伎韓国の部隊を、大伴吹負・置始兎の部隊がこのころ当麻の衢で撃退します。
 以後、淡海方は河内方面から攻めてくることはありませんでした。
Jinshinchizu17

 7月4日に乃楽山で敗北した大伴吹負は、置始兎の援軍を得て、ついにリベンジを果たすことができました。
 壱伎韓国の部隊はかなりの損害を受けたことでしょう。
 一方、乃楽山の戦いで大伴吹負を撃ち破った大野果安の動きが不明です。
 琵琶湖東岸で淡海方は連敗していますので、ひょっとすると倭・河内方面の兵は琵琶湖方面に転用されているのかもしれません。

2024年7月10日 (水)

『大美和』147号

 昨日、『大美和』の147号が届きました。
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 表紙の写真は、4月9日の若宮神幸祭の神輿渡御の様子です。

 目次を切り貼りします。
Omiwa147b
 橋本雅之さんと内田賢徳先生の論考は三輪山セミナーの講演録です。
 300回を超えたという三輪山セミナー、充実しています。
 内田先生のお話の内容は万葉集の巻16ですね。
 巻16だけ未刊の『万葉集全注』の刊行が待たれます。

 この雑誌では、論考のタイトルと執筆者名は本人の自筆が慣例なのですが、佐佐木隆さんはPCフォントでした。
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 佐佐木さんらしいなぁと感じました。

2024年7月 9日 (火)

壬申の乱の経緯(13)村国男依、鳥籠山で淡海軍に勝利

 7月7日に息長の横河で淡海軍に勝利した村国男依らは、7月9日には鳥籠山で淡海軍に勝利をおさめ、将の秦友足を斬ります。
 また、7月2日頃に犬上川のほとりに軍営を置いていた淡海軍に内乱が起こり、羽田矢国が一族もろとも大海人方に投降しています。
 大海人方は早速これを受け入れ、羽田矢国を将軍として、琵琶湖の北岸経由で、西岸沿いに南下させます。
 琵琶湖の東岸と西岸、両方から大津京を攻めようということなのでしょうが、うがって考えれば、羽田矢国を必ずしも信用していなかったために、近くに置きたくなかったのかもしれません。
Jinshinchizu15

 一方、倭方面は相変わらず日付が不明ですが、紀阿閇麻呂に派遣された置始兎は墨坂で大伴吹負と合流します。
 そして、大坂にいる淡海方の壱伎韓国を撃つべく、西に向かっている最中と思われます。
Jinshinchizu16

 乃楽山の戦いで大伴吹負を破った大野果安の軍勢は飛鳥京附近まで攻め寄せながら、飛鳥京の守りが堅いとみて引き返したとありましたが、どこまで引き返したのか不明です。
 河内の壱伎韓国の部隊も、大野果安の勝利につけ込んで飛鳥方面に攻め込んでも良さそうなものですが、動きが見られません。

2024年7月 8日 (月)

お寺のねこ&KINGYOKUぜりぃ

 今日は、お盆のお塔婆を戴きに菩提寺に参りました。
 恒例により、またお寺のねこを撮影。
Myokenjineko45

 ご住職は、私が到着するまで、ねこのゴハンを待っていてくださったそうです。
 ねこ、ごめん。

 ねこのゴハンは、このような面々です。
Myokenjineko46
 このうち、右下の水分補給用のささみペーストは冷してありました。
 ご住職、本当に手厚いです。

 5月にご住職が入院され、退院されてお寺に帰ってこられたときに、このねこがお出迎えをしていたそうです。
 退院日がどうして分かったのか、不思議です。
 動物的勘でしょうか。

 菩提寺とはお中元とお歳暮をやり取りしています。
 折しも、今日、お寺からのお中元が到来しました。
Kingyoku01
 金沢の「福うさぎ」さんの「うさぎのKINGYOKUぜりぃ」です。
 うさぎと金魚ですね。お心遣い、本当にありがたく存じます。

 アップです。
Kingyoku02
 ちょっと部屋の灯りが反射してしまっています。

 冷していただきます。

2024年7月 7日 (日)

壬申の乱の経緯(12)村国男依ら、息長の横河で淡海軍に勝利

 7月7日、大海人皇子方の村国男依らが息長の横河で淡海軍を破り、その将境部薬を斬ります。
Jinshinchizu13

 村国男依は、大海人皇子が吉野を脱出する2日前に東国に派遣された大海人皇子の舎人です。
 東国の兵と共に不破に至り、引き続き大津京に向けて進軍しています。
 緒戦でみごと勝利を収め、この先破竹の進軍を続けます。有能な人物なのでしょう。

 一方、敗北して斬殺された境部薬といえば、有間皇子の事件の折に有間皇子とともに捕われ、尾張国に流罪になった人物です。
 のちに許されて淡海軍の将になり、破れて殺されるという、なかなか波瀾万丈の人生です。

 地図を見ると、淡海方が不破の手前まで攻め込んでいます。
 大海人皇子方は押し込まれているようにも見えますが、兵力が充実するのを待っていたのかもしれません。

ぐんまちゃんはアメリカでも人気

 一昨日の7月5日(金)の夕方、テレビをつけたらNHK「首都圏ネットワーク」で、ちょうどぐんまちゃんのニュースが始まるところでした。
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Gunmac_shuto2024c
 群馬県庁の中に、ぐんまちゃん推進室という部署があるのですね。
 群馬県、本気です。(^_^)

 ぐんまちゃんはアメリカでも人気者!

 いえ、贔屓の引き倒しでなく冷静に考えるに、アメリカ人のアニメ好きな人の中に、一部ぐんまちゃんファンがいるということだと思いますけど。

2024年7月 6日 (土)

壬申の乱の経緯(11)田辺小隅の部隊を多品治が撃退

 淡海方の田辺小隅の部隊は、田中足麻呂の守る倉歴道を7月5日夜半に奇襲攻撃で突破し、翌6日にはたら野の陣営を襲撃しますが、ここを守る多品治に撃退されます。

 この頃、大伴吹負敗走の報に接した紀阿閉麻呂は、置始兎に千余騎の兵を与えて、倭京に向けて派遣します。

 *日本書紀では、置始兎を倭京に向けて派遣したのは7月9日のこととして記述しますが、その条にはその後の展開もまとめてそこに懸けて記述してあると読めますので、置始兎の派遣はおおよそ7月6日頃と推測しました。
Jinshinchizu12

 たら野の位置については諸説ありますが、三重県伊賀市上野付近とする説が有力のようです。
 吉野を脱出した大海人皇子が東国に向かう際も、この地で朝食を摂っています。
 大津京から鹿深山を越えて倭に向かう際の重要な通過点であったのでしょう。

 淡海側がたら野を越えて倭に侵入できれば、大海人皇子側にとっては大きな脅威になったことでしょうが、それは叶いませんでした。
 淡海側も、不破への攻撃と倭への攻撃とで、十分な余力はなかったことでしょう。倭への攻撃は北と西との2方面から行っているわけですし。

『ならら』最新号の特集は「聖武天皇即位1300年」

 『ならら』最新号、私が7月3日に群馬から帰宅したときに郵便受けに届いていました。
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 特集は「聖武天皇即位1300年」です。

 目次は以下の通りです。
Narara202407b
Narara202407cNarara202407d

 「特集2」として、聖武天皇の大嘗祭に関する木簡が取り上げられ、奈良文化財研究所の馬場基氏へのインタビューが載っています。
 大変にタイムリーな記事ですね。

2024年7月 5日 (金)

壬申の乱の経緯(10)淡海方の田辺小隅が倉歴道を奇襲

 7月5日の夜半、淡海方の田辺小隅が率いる部隊が鹿深山を越え、倉歴道を守備する田中足麻呂の部隊を奇襲します。
 田中足麻呂隊は不意を突かれ、敗北します。
Jinshinchizu11

 田辺小隅が通ってきたルートは、乱の前に大津京を脱出した高市皇子の通ってきたルートと同じものでしょう。
 淡海方は、倉歴道からたら野を押さえることで、不破と倭との分断を図ったものと思われます。
 大海人皇子側もこの地の重要性は十分に承知の上で、倉歴道には田中足麻呂の部隊、たら野には多品治の部隊を配しています。
 双方の戦法は、それぞれに見事です。

2024年7月 4日 (木)

壬申の乱の経緯(09)大伴吹負が大野果安に敗北

 7月4日、乃楽山に陣を敷いた大伴吹負は、攻め寄せた大野果安らの淡海軍に敗れ、敗退します。
 吹負自身も数騎で敗走します。
 果安は、八口(やくち)まで追い、飛鳥京を望観したところ、京には厳しく楯を立てていたので、伏兵の存在を疑って、引き返します。
Jinshinchizu32

 大伴吹負は諸方の防備に兵を割いたために、本隊の兵が不足していたのでしょう。大野果安軍に敗退します。
 吹負軍の方が高所に陣取っていて地の利は吹負軍の方にあったはずなのに敗退したということは、果安軍は兵がかなり多かったか、士気が高かったのでしょう。
 果安軍は勝ちに乗じて飛鳥京付近に至りますが、守りが堅いとみて引き返します。
 このあたり、随分慎重です。これも乱の勝敗に繋がる分かれ目の1つになったと考えられます。

高崎駅がぐんまちゃん駅に

 JR高崎駅がぐんまちゃんにジャックされて、ぐんまちゃん駅になってしまいました。

 東口。
Gunmac_takasaki01

 その右側の入口部。
Gunmac_takasaki02

 西口。
Gunmac_takasaki03
 通りかかった人も興味深そうに見ています。

 東西を繋ぐ通路。
Gunmac_takasaki04
 ここもジャックされていますね。

 改札口の向かい側。
Gunmac_takasaki05

 自動改札にもぐんまちゃん。
Gunmac_takasaki06

 7月末日まで、高崎駅はぐんまちゃん駅になるそうです。
 高崎駅開業140年、ぐんまちゃん誕生30年を記念してのコラボです。
 ぐんまちゃんは誕生後30年経っても、7歳です。永遠の7歳。

 ぐんまちゃんジャックのことは、講座の受講生の方や、元勤務先の卒業生から教えてもらいました。
 ありがたいことです。

2024年7月 3日 (水)

壬申の乱の経緯(08)大伴吹負が乃楽山に布陣

 7月3日、大伴吹負はさらに北上し、乃楽山に布陣します。
 そして、荒田尾赤麻呂の進言によって、飛鳥京を守るために赤麻呂と忌部子人らを飛鳥京に向かわせます。

 一方、淡海方は大野果安を乃楽山に向かわせます。
Jinshinchizu31
 大津京を攻撃すべく進軍を続ける大伴吹負部隊ですが、河内からの壱伎韓国部隊への抑えと、飛鳥京の
守備のために兵を割くことを強いられ、本体の兵力はだいぶ削がれています。

2024年7月 2日 (火)

壬申の乱の経緯(07)大海人皇子軍の手配り。淡海方も不破に向けて出撃

 7月2日、大海人皇子は、紀阿閉麻呂らに数万の兵を与えて倭に向わせ、また、村国男依らに数万の兵を与えて不破から直接淡海に入らせます。
 兵たちには淡海軍と区別するために赤色を衣の上に着けさせます。
 さらに多品治に3000の兵を与えて、たら野に駐屯させ、田中足麻呂には倉歴(くらふ)道を守らせます。

 一方、この頃、淡海方は山部王・蘇賀果安らに命じて、数万の兵で不破を襲わせようとしますが、内紛により統制を失い、投降者も出る始末です。
Jinshinchizu08

 大海人皇子側は、不破道から大津京を攻める他に、倭方面にも部隊を差し向けます。
 一方の淡海側は、不破に向かう軍勢の司令官同士に内紛が起こるなど、厳しい状況です。

2024年7月 1日 (月)

壬申の乱の経緯(06)大伴吹負は稗田に出撃。不破でも戦闘

 7月1日、大伴吹負は大津京を攻めるべく、乃楽山に向かって進軍します。
 その途中、稗田に至った時に、河内から大軍が迫っているという情報に接し、兵を割いて、龍田、大坂、石手道に配備します。
 龍田に遣わされた坂本財らは、淡海軍が高安城にいると聞いて高安城に向かいますが、淡海軍はいち早くそれを察知し、倉を焼いて逃亡します。
 坂本財は高安城を占拠しますが、河内方面から壱伎韓国の大軍が迫っているのを知り、城を出て、衛我河で韓国軍と戦います。
 しかし、兵力差は如何ともしがたく、坂本財は敗れ、味方が守っていた懼坂道に退きます。
 この頃、河内守来目塩籠は大海人皇子に従おうと兵を集めていましたが、そのことが壱伎韓国に知られ、塩籠は自尽します。
Jinshinchizu28
 大伴吹負の動きも速いですが、その隙に河内から倭に侵入しようとする淡海側の動きも迅速ですね。
 吹負は全軍で大津京を攻めたかったことでしょうが、横合いから倭に攻め込まれては、背後を突かれる怖れもあり、飛鳥京を奪還される怖れもあり、兵を割いてそれを阻止しなければなりません。
 淡海側の作戦も適切です。

 一方、正確な日付は分かりませんが、不破方面でも同じ頃に戦闘がありました。
 大海人皇子方が不破道を堅く守っていたので、淡海方は北の脇道を通って攻め込もうと考えたようで、精兵に玉倉部邑を急襲させますが、出雲狛に撃退されます。
Jinshinchizu29
 奇襲作戦は無理とみて、淡海側は大軍をもって不破を攻めることになります。

体重変化(R4.12~R6.6)

 月が変わりましたので、どなたも興味はないと思いつつ、恒例の体重変化グラフです。
Taiju202212_202406

 5月後半から6月後半にかけて減少しています。
 去年は、5月後半から6月後半に掛けて上昇しています。
 よく分かりません。
 ま、増えすぎないよう、減りすぎないよう、気をつけます。

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