壬申の乱の経緯(02)高市皇子が合流
6月25日早朝、大海人皇子一行は、たら野に到着。
積殖(つむゑ)で、鹿深(かふか)を越えてきた高市皇子(19歳か)一行が合流。
加太(かぶと)越えをし、伊勢の鈴鹿で国司・湯沐令らに会い、鈴鹿山道を塞ぐ。
川曲の坂下で日没。三重郡家まで進みます。
2日目もかなりの強行軍と思います。
積殖(つむゑ)で、大津を脱出してきた高市皇子が合流します。
高市皇子はいつ頃大津京を出発したのでしょうか。
大海人皇子が吉野を脱出したのと同じくらいの日ではなかったかと思います。
すると、高市皇子は、大海人皇子の吉野脱出を知ってすぐに駆け付けようとしたわけではなく、あらかじめ日を決めていたのではないでしょうか。
6月22日に、大海人皇子が、村国男依ら3人の舎人を美濃に派遣しますが、その時点で、大海人皇子の吉野脱出の日は既に決められており、その日付と経路は高市皇子にも伝えられていたものと思います。
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