「武者見立鏡」と「智勇鑑」
一昨日、戦国武将の番付「智勇鑑」のことを書きました。
書いたあとで、これと似たような番付を見たような気がしてHDDの中を捜したら、ありました。
しかも、それを2年ほど前のブログにも載せていました。
それは「武者見立鏡」というタイトルの番付です。
一昨日のは「智勇鑑」。
よく似ています。
文字の大きい最上段を比べると、どちらも東方は織田信長で始まり、西方は武田信玄で始まっています。
ぱっと見、並んでいる面々の名前も順序も一緒です。
どちらも明智光秀が東方の枠外に張り出されている点も共通です。
相違は、「武者見立鏡」が5段であるのに対して、「智勇鑑」は4段。
しかも1段あたりの人数も「武者見立鏡」の方が多いです。
その結果、「武者見立鏡」の方が、東西合わせて140人ほども人数が多くなっています。
1人1人仔細に比較したわけではありませんが、共通して掲載されている範囲に関しては、おおよそ差はないように思います。
1ヶ所見つかった相違点は次の通りです。
「智勇鑑」の最下段は次のようになっています。
これに相当する「武者見立鏡」は、3段目の後半から4段目の冒頭に掛けてです。
双方、赤枠で囲みましたように、「武者見立鏡」の4段目冒頭の朝倉左衛門督から薄田隼人までの5人が、「智勇鑑」では藤堂和泉守と武田四郎との間に挿入される形になっています。
さて、このように非常によく似た2つの番付ですので、無関係とはとても思えません。
「武者見立鏡」のダイジェスト版が「智勇鑑」なのか、あるいは逆に「智勇鑑」の増補版が「武者見立鏡」なのか、そのいずれかでありましょう。
結論から言えば、前者、すなわち「武者見立鏡」の方が先に成立していたと考えて良さそうです。
理由はいろいろありますが、ちょうど今示した例で言えば、この相違は「武者見立鏡」の改段箇所で生じているということが挙げられます。
さらに、同じ図に現れている例では、赤枠の最後の人名が、「武者見立鏡」では薄田隼人であるのに対し、「智勇鑑」では薄田焦人と書かれています。これは薄田隼人が正解です。
また、これも上の図を利用すれば、「智勇鑑」の最下段の最後の人物は木井又兵衛とありますが、これも「武者見立鏡」の木村又蔵が正解です。加藤清正の家臣で、講談で有名になった人物とのことです。こうした番付は、史実も講談も区別なく載せているのでしょうね。
さらに、両番付の柱の部分を比べると、「武者見立鏡」には、行司役の真田幸村などの上に次の記載があります。
これが「智勇鑑」にはありません。
こういった、番付に掲載した武将の時代範囲に関する注記はオリジナルならではのものと思われます。
ま、こんな感じです。
似たようなものがあると、つい比較してみたくなるのはサガのようなものです。(^_^;
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