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2023年6月20日 (火)

複製本『宸翰』(4)献屏風勅書、東大寺造寺司牒

 3回に亙って載せてきた、明治17年の「宸翰」。その4回目です。

 前回の次は、「献屏風勅書」です。
M17shinkan13
 天平勝宝8歳(756)7月26日に発せられた、東大寺に屏風2具等を献ずる文書です。

 日付と署名のアップ。
M17shinkan14
 紫微令の藤原仲麻呂以下、紫微中台の官人達の署名が並んでいます。
 続日本紀に名を残す人々の直筆の署名を見るのは感無量なものがあります。

 2番目にある藤原永手のみが紫微中台の官人ではありませんが、ここに名を連ねているのは中務卿であるが故でしょうか。
 中務卿ならば、分かる気がします。

 ここでにわかに思い出されたのが、前回載せた天平勝宝8歳6月21日の東大寺薬種献物帳の署名です。
 これは上の文書の1ヶ月ほど前に出された文書です。
M17shinkan10
 ここにも紫微中台の官人達が名を連ねている中に、やはり2人目の藤原永手がナゾでした。
 ここの永手の官職は、左京大夫、侍従、大倭守なので、どの職掌で名を連ねたのかが不審です。
 永手は6月21日から7月26日までのどこかで中務卿に任官したのでしょうね。
 6月21日の段階ではまだ中務卿ではありませんが、任官が内定していたので、前倒しで署名したとか。
 いや、そんなことはないでしょうね。

 続日本紀では、この年の5月2日に中務卿の道祖王が皇太子になっていますので、5月2日を以て中務卿は欠員となりました。
 そして、続日本紀で次に中務卿が見えるのは、翌天平宝字元年(757)4月4日条で、中務卿は永手です。
 ということで、続日本紀からは永手がいつ中務卿に任官したのかは明らかになりません。

 なんか、わくわくしますけど、解けませんねぇ。
 これについては、古代史の方ではもう説明が付いているのかもしれませんが、何分不勉強で、先行研究は何も知りません。

 さて、「宸翰」のその次は「東大寺造寺司牒」です。
M17shinkan15
 天平勝宝4年(752)10月に、下野国の250戸等、8ヶ国から全部で1000戸を東大寺の封戸とするという、造東大寺司の文書です(ということではないかと思います)。この年の4月には大仏開眼が行われています。

 日付と署名。
M17shinkan16
 造東大寺司次官の佐伯今毛人以下、造東大寺司の官人達の署名が並んでいます。
 それぞれの筆跡は個性的で楽しいです。
 中には休暇を取っている人もいます。「使」とあるのは使者として留守にしていたのでしょうか。

 「造東寺印」という丸印が一面に捺してあります。
 天皇御璽を始め、公印は角印ばかりですので、丸印は印象的です。
 国史大辞典の「印章」の項に図が沢山載っていますが、上代の印で丸印はこれのみでした。

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コメント

たしか…橘奈良麻呂の乱の時に反仲麻呂派の小野東人を尋問して反乱の計画を白状させたのは藤原永手でしたよねえ…

仲麻呂からは重宝にされていたんでしょうねえ。

三友亭主人さん

 コメントをありがとうございます。

 ご教示ありがとうございます。
 そうでしたか。
 永手は仲麻呂に近かったのでしょうね。
 興味深いです。

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