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2023年5月 6日 (土)

『英雄百人一首』(4)

 3日続けた『英雄百人一首』、4回目です。
 毎日続けないで、間を開ければいいようなものですけど。

 100人の冒頭は素戔嗚尊でした。次のページは武内宿祢と聖徳太子です。
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 武内宿祢は、戦前はお札の肖像にもなった著名人です。江戸末期のこの本にも取り上げられています。
 聖徳太子は武人というイメージではありませんけど、上欄には16歳の折に物部守屋と戦ったことが記されています。

 その次のページは、紀朝雄と藤原為憲です。
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 恥ずかしながら、紀朝雄のことは知らなかったので、ググってしまいました。
 それによれば、紀朝雄は『太平記』巻16「日本朝敵事」の記事が最も有名とのことでした。
 天智天皇の御代、時の豪族藤原千方は、従えていた4鬼を使って反乱を起こすが、討伐しに来た紀朝雄の和歌によって4鬼は退散し、藤原千方は滅ぼされた、とのことです。そして、この話は「紀朝雄の一首 千方を誅す」として青森のねぶたの題材にもなっているようです。
 史実外では有名な話のようですね。
 紀朝雄のよんだ歌が千方を誅したということであれば、英雄百人一首に取り上げられて然るべき人物ということになります。

 藤原為憲も「はて?」でした。こちらもググってみたら、承平天慶の乱の折に将門と戦ったのだとありました。
 NHK大河「風と雲と虹と」では中島久之が演じたとも。
 私、この大河は大好きだったのですが、記憶にありませんでした。大好きなだけにお恥ずかしいです。
 上欄にも書いてありますね。工藤、伊東、狩野などの先祖に当たるそうです。それならば、工藤祐経や曽我兄弟の先祖ですね。

 ずっと降って、楠木正成と菊池武時。
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 楠木正成について、上欄には湊川から最期のかたみに添えた手紙の写しが載せられているだけで、説明等は一切ありません。
 もう何も書かなくても周知の人物ということなのでしょう。

 畑時能と楠木正行。
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 畑時能も知りませんでした。新田の四天王の1人とのことです。どうも知らないことが多すぎ。(^_^;
 楠木正行の歌は当然「かへらじと かねておもへば 梓弓 なき数にいる 名をぞとゞむる」です。

 宗良親王と源政義。
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 宗良親王は後醍醐天皇の皇子ですが、皇子達の中で一番に載ってしかるべきと考える護良親王がなぜか載っていません。不思議です。
 後醍醐天皇の皇子達には「良」の字が付いています。
 これをかつては「なが」と読んでいました。私が子供の頃、護良親王は「もりなが親王」でした。
 ところが、中央公論社の『日本の歴史』シリーズだったと思うのですが、そこでは「もりよし親王」と読んでいました。
 その読みについて、疑問が寄せられたからでしょうか、何冊か後の月報に、なぜ「もりよし」と読むのかについての解説が付いていた記憶があります。
 さきほど、その記憶を確かめようと思って、何冊か後の月報まで見てみたのですが、見つかりません。
 不思議で堪りません。私の記憶が……。
 もう50年以上も前のことです。でも、年をとって短期記憶は危なくなっても、長期記憶は保たれると思っていましたに。

 あ、それで、この宗良親王には「むねよし」というふりがなが付いています。
 江戸末期には「よし」と(とも)読んでいたのですねぇ。では「なが」の読みはいつどこから、という疑問が湧きました。
 そういえば、昭和天皇の皇后、香淳皇后のお名前の読みは「良子(ながこ)」ですね。

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コメント

BSTBS関口宏の一番新しい中世史「応仁の乱後編」を録画で見ていたら,大内政弘の絵に「続英雄百人一首」京都大学付属図書館所蔵 部分 とありました。
「英雄百人一首」ではありませんが,源さんの着眼点には,敬服させられます。

萩さん

 コメントをありがとうございます。

 『続英雄百人一首』というのがあるのですね。
 ご教示ありがとうございます。

 私の『英雄百人一首』には、知らない人物がかなり多く載せられている一方、載っておかしくない人物が大分漏れているように感じています。
 そういうこともあって続編が作られたのでしょうかね。
 正続合わせて200人。
 知らない人物がさらに多くなりそうです。(^_^;

 江戸時代の末に、どのような人物が英雄とされていたのか、現代との差を興味深く思います。

宗良親王
井伊谷に行ったとき,宗良親王の墓所にも行きました。女城主直虎のときです。
そのときには,南朝といってもあまり関心がなかったのですが
授業で南北朝が出てきたりするので,もう一度行ってみようと思います。
龍潭寺の北側にあります。龍潭寺には何度か行ったことがあります。
源さんが豊橋にお立ち寄りのときには,ご案内します。

萩さん

 コメントをありがとうございます。

 宗良親王の墓所に行かれたのですね。
 龍潭寺の近くですか。
 今度ぜひお願いします。

 まほろば上の『英雄百人一首』は画面があまり大きくありませんが、宗良親王のページの上段後半には以下のように書かれています。

 御味方の者共、背きて敵となり御難義の折から、親王遠州にましましけるに、三河の国の重春と云武士、足助といふところにうつし奉るべきよし申侍りしとき、御返事に
  ひとすぢに思ひさだめぬやつはしのくも手に身をもなげくころかな

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