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2022年11月 2日 (水)

「倭歌」をめぐって

 一昨日報道された「倭歌」木簡を大変興味深く思って、昨日、新聞記事をまとめてみました。
 取材されていた諸氏の解説も大変に参考になりました。

 ただ、瀬間さんの発言として「漢詩は遣唐使などを通じて、遅くとも7世紀には日本にもたらされた。」とありますが、ご本人は取材に対して「漢詩は亡命百済人を通じて盛んになった」と答えたのだそうです。
 ところが新聞紙上では「亡命百済人」が「遣唐使など」に変えられてしまっています。著者校正がありませんから、こういうことが起こってしまうのですね。
 新聞記者の知識の範囲で記事を書こうとするからこういうことになるのでしょう。困ったことです。

 この木簡の発見によって、漢詩に対する「やまとうた」という語が奈良時代の中頃に既に存在していたことが明らかになったわけで、非常に意味のあることと思います。

 私も「倭歌」木簡をめぐって少し考えてみました。

 順序として、旧国名「やまと」(現在の奈良県)の表記の変遷は次の通りと考えられます。
   倭(やまと)
  →大宝年間に国名を2字にするために「大倭」(よみは「やまと」か「おほやまと」)
  →天平9年(737)疫病の流行により「大養徳」
  →天平19年(747)「大倭」に戻す
  →天平宝字2年(758)頃「大和」(よみは「やまと」か「おほやまと」)。

 次に、国号の表記は古くは「倭」であったものが、天武朝または大宝年間に「日本」と改められ、大宝2年の遣唐使によって唐にも承認されたと考えられます。
 よみはやはり「やまと」です。
 「やまとたけるのみこと」の表記が、古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」であることは興味深いことです。

 国名「やまと」の表記は国号「やまと」の表記にも影響を及ぼします。
 「やまとうた」は古くは「倭歌」と表記されたはずで、これが「和歌」と表記されるようになるのは、国名「やまと」が「大和」と表記されるようになる天平宝字2年(758)頃以降のはずです。
 従って、これ以前に「和歌」という表記があるとすれば、その意味は「和(こたふる)歌」ということになります。

 和名類聚抄では国名「大和」に「於保夜万止(おほやまと)」と附訓していますので、この影響で「和」単独で「やまと」とよまれることもあったのでしょう。かつての「倭」を「和」に置き換えたという経緯もあって。

 日本を意味する「やまと○○」という語は、唐や新羅を意味する「から○○」に対するものですね。
 万葉集には「倭琴」という語が2例(七・1129番歌題詞、十六・3850左注)あります。「からごと」に対する「やまとごと」です。
 そしてもう1つ、大伴家持から送られた手紙と歌への、大伴池主の返書の中に「兼ねて倭詩を垂れ、詞林錦を舒(の)ぶ。」とあります。
 ここでは「倭歌」ではなく「倭詩」ですね。漢文なので、こういう語を用いたのでしょうか。

 万葉集には、日本に対する外国のものという意の「から○○」に、からあゐ(藍)、からうす(臼)、からおび(帯)、からかぢ(楫)、からころも(衣)、からたま(玉)などがあります。
 これらの語に対する「やまと○○」という語は特に用いられず、単に「○○」で用は足ります。
 日本の歌も、通常は「うた」といえば用は足りるので、これをことさらに「やまとうた」というのは、新聞記事で諸氏が指摘されているとおり、漢詩を意識してのものなのでしょう。

 「倭歌」に触発されて、つらつらと考えてみました。
 あまりまとまりませんが。

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コメント

古代の文学には疎い私ですが,興味深く読みました。
やまとうたが奈良時代にあったということが,木簡の出土で証明されたということですね。
漢詩の伝来と倭歌の発生の関係も分かってくるのでしょうね。
漢詩が先で,倭歌が後か?・・・

>著者校正がありませんから…

まあ、著者の方に戻して校正…なんて時間はないでしょうから仕方なのでしょうけど、このような誤りは、ちょいと困りものですね。

それにしても2日続けてのお教えありがとうございました。勉強になりました。わかっていたようで、実は曖昧だった部分も確認できました。

「漢詩を意識して」のこの言葉なのでしょうが、そう考えると古今和歌集の序文に「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。」とあるのは長い国風暗黒時代(漢風謳歌時代?)を通り抜けての、国風復活の宣言でもあったように思えて来ます。

萩さん

 コメントをありがとうございます。

 魏志倭人伝によれば、3世紀の倭国にも歌があったことは知られますが、それは「歌謡」であって、今日の我々が言うところの「和歌」とは異なったものでしょう。
 仰るとおり、漢詩が日本に伝わってきて、それとの関係で、「からうた」に対して「やまとうた」という概念ができたのでしょうね。
 今回の発見で、奈良時代中期には「やまとうた」という概念が既にあったことが知られたわけですけれども、今後の同様の木簡の発見で、それは更にさかのぼり得ると思います。

三友亭主人さん

 コメントをありがとうございます。

 漢詩の伝来が、亡命百済人によるのか、遣唐使によるのかでは、時期等も異なってしまいますので、困ったことです。瀬間さんがそう言ったという形で新聞に書かれてしまうと、瀬間さんが間違ったことを言った、と取られてしまいますものね。

 古今集の仮名序の言葉、強いですよね。
 和歌は、「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」ると言っているのですから。
 仰るとおり、国風復活の宣言のように思えますね。

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