元禄11年の武鑑(3)将軍の偏諱
先日2回に亙って取り上げた元禄11年の武鑑ですが、パラパラと見てゆくと、当主の名前に「綱」、嫡子の名前に「吉」字を含むものが目立つことに気づきました。
たとえば、冒頭にある徳川綱豊もそうですし、尾張徳川家もそうです。尾張徳川家は以下の通りです。
これについては、「綱」の字は四代将軍家綱か五代将軍綱吉の諱の1字を賜わったもの、「吉」の字は綱吉の諱の1字を賜わったものと思われます。
ずっと見てみました。結果は以下の通りです。
○徳川綱豊
○尾張徳川綱誠 嫡子吉通
○紀伊徳川光貞 嫡子綱教
○水戸徳川綱條 嫡子吉孚
○松平綱近
○前田綱紀
○島津綱貴 嫡子吉貴
○伊達綱村 嫡子吉村
○細川綱利
○黒田綱政 嫡子吉之
○浅野綱長 嫡子吉長
○毛利吉広(萩36万9000石)
□毛利綱元(長門長府5万石)
○鍋島綱茂(佐賀35万7000石)
○池田綱清(因幡32万5000石)
○池田綱政(岡山30万石)
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×井伊直興(彦根30万石)
×藤堂高久(津32万3000石)
○蜂須賀綱矩(徳島25万7000石)
×松平正信(会津23万石)
×山内豊昌(高知22万2000石)
×有馬頼元(久留米22万石)
×佐竹義処(秋田20万5000石)
○上杉綱憲(米沢15万石)
以下略。名に「綱」や「吉」を含む当主や嫡子はナシ。
点線から上については、全ての大名家の当主や嫡子の名に「綱」または「吉」の1字が含まれます。
紀州の徳川光貞の場合、「光」の1字は三代将軍家光の1字を賜わったものでしょう。
長門長府の毛利綱元は萩の毛利家の分家でわずか5万石ながら「綱」の1字を付けています。
この理由は分かりません。
なお、余計なことながら、長府毛利家は赤穂浪士を預かった4大名家のうちの1家です。
あまり待遇の良くなかった家。
点線から下について。
井伊家は30万石ですが、譜代大名のために賜わっていません。
藤堂は32万石ながら賜わっていません。外様大名ながら譜代大名に準ずる位置づけなのでしょうか。
蜂須賀家は25万7000石で「綱」の字を賜わっています。
そんな中で、上杉家が15万石で「綱」の字を賜わっているのが例外的です。
前回触れたように、この武鑑の段階では嫡子がまだ元服前ですが、元服後は綱吉から1字賜わって上杉吉憲となります。
室町時代には関東管領家だったことで例外扱いされたのでしょうか。
ということで、将軍の偏諱を賜わるのは、御三家・越前松平家とおよそ30万石以上の外様大名、ということが分かりました。
近世史の研究者には周知のことかもしれません。
ま、趣味と自己満足の調査です。
貴人の偏諱を賜わるというのは、足利高氏が後醍醐天皇の御名「尊治」の1字を賜わって尊氏と変えた例などもありますね。
逆の例に、
光仁天皇の名の白壁を避けて、姓の白髪部(しらかべ)を真髪部(まかべ)とする。
桓武天皇の名の山部を避けて、姓の山部(やまのべ)を山とする。
平城天皇の名の安殿を避けて、紀伊国の安諦(あて)郡を在田郡とする。
嵯峨天皇の名の神野を避けて、伊予国の神野(かみの)郡を新居(あらゐ)郡とする。
淳和天皇の名の大伴を避けて、大伴宿祢を伴(とも)宿祢とする。
といった、平安初期の例があります。これはもうキリが無いので、平安初期だけで打ち止めになったと思われます。
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