斎藤別当実盛と三浦大介義明
今日は敬老の日。
何かそれにちなんだネタはないかと考えたら、去年アップした「子供武者しりとりうた」に思い至りました。
中央やや上から下に掛けて一部切り出します。
右上には「すけどの 天下の そうついふし」として源頼朝がいます。
その下は、「ふじで たゞつね しゝをうつ」として仁田忠常がいます。
2人とも「鎌倉殿の13人」でおなじみでした。
それらの左側に「さねもり おひむしや びんにすみ」(斎藤実盛)と「三うらの大助 百六才」(三浦義明)がいます。
2人とも老い武者ですね。
このうち、三浦義明の享年は89だったようですが、それでも当時としてはかなりの高齢と思います。
「鎌倉殿」で歯のないお爺さんとして描かれた佐々木秀義は享年73でした。
さて、三浦義明ですが、この人は三浦義村と和田義盛のお祖父さんなのですね。三浦義村と和田義盛は従兄弟同士に当たります。
そして、頼朝が挙兵して石橋山で負けたときに、当時平家方だった畠山重忠に攻められて、三浦義明は衣笠城で切腹します。
前々回の「鎌倉殿」で、北条時政が三浦義村を味方に付けようとして、その話をしていましたが、思えば、和田義盛にとっても畠山重忠は祖父の仇に当たるのですね。そのことを今になって知りました。
「鎌倉殿」で、畠山重忠と和田義盛はなんか仲が悪かったというか、重忠の方は意識していない風でしたが、義盛は大いに意識していましたよね。義盛は重忠の見栄えが良いことを憎らしく思っていたようでしたけど、それだけではなくて、祖父の仇という意識もあったのでしょうかね。
それでも、長年、同僚として戦ってきて、そのわだかまりは薄らいでゆき、昨日のような関係性になったのでしょう。
和田義盛は単純すぎるので、畠山重忠には何もかも見透かされていましたね。
畠山重忠と北条義時の一騎打ちが昨日のメインでしたが、畠山重忠と和田義盛との語らいも良かったです。
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>畠山重忠と和田義盛との語らいも良かったです。
本当に良かったですね。ああいう役回りは、あの場合和田殿しか考えられなかったですね。でも、その和田殿も…いずれは…と思うとなんとなくやりきれないような気にもなります。
ますます目が話せなくなってきました。
投稿: 三友亭主人 | 2022年9月20日 (火) 17時35分
三友亭主人さん
コメントをありがとうございます。
和田義盛は畠山重忠のことをずっとライバル視していたようでしたが、いつの間にかそういう思いも薄れていったのでしょうね。
2人で、お酒ではなく、ひょうたんの水を飲んでいましたが、あれは別れの水盃ではないかというコメントを読みました。
それはまったく気づきませんでしたが、言われてみれば確かにそうかもしれませんね。油断ならない三谷幸喜。
実朝が将軍になったあたりから、和田義盛の出番が増えていますよね。
これから訪れる悲劇への下地のようで、切ないです。
投稿: 玉村の源さん | 2022年9月20日 (火) 22時45分