奈良奉行所の位置は今の奈良女子大学
昨日、『ならら』最新号の川路・渋沢特集について取り上げました。
当該ページの最初は次の通りです。
上部中央に、奈良女子大学の写真が載っていますが、ここには何もキャプションがないので、「はて? なぜ奈良女が?」と思いました。
しかし、次のページには、江戸時代の奈良奉行所の所在地は今の奈良女子大学の位置だと書いてあって、奈良女の写真が載っている意味が分かりました。
それは納得できたのですが、記事内容にまた「はて?」でした。
というのは、以前、『和州奈良之絵図』の複製を入手したときに、奈良奉行所の位置は今の奈良県庁だと思って、今に到っていたからです。
その絵図は以下の通りです。
この絵図では上が東ですので、見やすいように90度時計回りに回転させて北を上にし、中心部を拡大します。

これを見ると、御奉行所の位置は、東大寺の西で、興福寺の北になります。
現代の地図は次のようです。
東大寺の西、興福寺の北には奈良県庁があります。
江戸時代の奉行所の位置に現代では県庁があるというのが、いかにもありそうな気がして、納得してしまいました。
絵図をもっとじっくりと見るべきでした。
そう精密には描いていないだろうという先入観もありました。
絵図を馬鹿にしてはいけません。(^_^;
絵図をよく見れば、興福寺の敷地の形が現代とは大きく異なります。
結論としては、江戸時代の興福寺の敷地の北半分に奈良県庁や県警本部などが建っているのでした。
役所に接収されてしまったのでしょうかね。興福寺は廃仏毀釈の影響も大きく受けたようですし、維新後は酷い目に遭ったようです。
今のメインストリートと言える登大路は、旧興福寺の境内の中央部を東西に貫いているのですね。
絵図の御奉行所の近辺を拡大します。
明治45年の奈良市地図は次のようになっています。
御奉行所の北沿いの道に書いてある地名は、東から順に、川久保丁、おしこうじ、ごとう丁、うをや丁、となっています。
これが、明治の地図では、川久保町、押小路町、後藤町、北魚屋町、となっていて、位置と名称とがきれいに対応します。
御奉行所の東側の道の地名も、北から順に、半田突抜、北半田東丁・中丁・西丁、南半田東丁・中丁・西丁です。
明治の地図でも、これはそのまま対応します。
御奉行所の南沿いの道は、東から順に、由(?)留木丁、なべや丁、石切丁、宿いん丁、田中町です。
明治の地図では、油留木丁、鍋屋町、宿院町、坊屋敷町となっていて、ほぼ一致します。
ということで、御奉行所の位置は、まさに明治の女子高等師範学校、現在の奈良女子大学に当たるのでした。
道路も昔のまま良く残っています。
そういえば、以前、蜂矢真郷先生から、奈良女の南沿いの道が二条大路だとご教示頂いたことを思い出しました。
まさに、旧興福寺の北沿いの道が二条大路、南沿いの道が三条大路ということになります。
そして、その2つの大路の中間に今の登大路が通っているのでした。
以上、縷々書いてきたことは、奈良の街に詳しい方には常識のような内容と思います。
でも、私にとっては新発見の事柄でした。
「おお!」と思いましたので、恥を忍んで述べた次第です。
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