藤原京の範囲
絶賛進行中の段ボール箱の中身の整理で、先日の広瀬本万葉集発見の新聞記事に続き、藤原京の京域の見直しに関する新聞記事が出てきました。
黄変が甚だしいですね。
昭和62年(1987)の記事ですので、今から33年前ということになります。
リードの部分。
図。
今はどう考えられているのだろうと思って、奈文献のブログを見てみました。
藤原京の京域はまだ確定していないようですね。
諸説ある中で、十条十坊説が現在の定説になっているようですけど、その設計では南部や南東部には山や丘陵が多く、直線道路を通せるような地形ではないこと、また、山田道よりも南では条坊道路の遺構は検出されていないとのことです。
計画はあっても完成しないうちに平城京に遷都してしまったとか、何か事情がありそうですね。
今後の発掘に期待します。
« 船明(ふなぎら)・千明(ちぎら) | トップページ | 新聞沙汰になった9年前 »
「飛鳥・奈良」カテゴリの記事
- 石上神宮と西大寺のテレカ(2025.06.08)
- 『ならら』最新号の特集は、豊臣秀長と大和郡山城(2025.06.07)
- 『ならら』最新号の特集は、薪御能(2025.04.28)
- 奈良の鹿愛護会の会員証2025(2025.04.21)
- 「47都道府県ご当地文化百科」(丸善出版)(2025.04.09)
「歴史」カテゴリの記事
- 埴輪のミニぬいぐるみ(2025.05.15)
- 『東海道名所図会 巻之三』から(2025.04.29)
- 飛鳥池遺跡出土品、西隆寺跡出土木簡が重要文化財に(2025.04.05)
- つい読んでしまう(2025.04.02)
- 『ならら』最新号の特集は奈良大学(2025.03.02)
この記事もよく覚えていますね。
いわゆる小藤原京説が私たちの常識でしたからねえ・・・
そのことで思い出す一つ。
私が大学の4年生の時の国語国文学科の新入生歓迎ハイキングでのこと(この記事の4年前のことかな?)、我が師匠のM先生が藤原京について説明していた時のこと、先生は当然のごとく小藤原京説について説明していたのですが、入ってきたばっかりの1年生の一人が、こそっと「古いなあ」とつぶやいていました。聞いてみると彼は1年浪人している間、橿原の博物館かどこかで発掘のアルバイトをしていたそうで、その頃にはその筋の方々には大藤原京説が常識になっているとのことでした。ですから、この発見よりも前にその兆候は知られていたのでしょうね。
投稿: 三友亭主人 | 2020年8月18日 (火) 18時28分
三友亭主人さん
コメントをありがとうございます。
ご紹介のエピソード、今も印象に残っているのですね。
最先端の機関で発掘のアルバイトをしていたら、それは最新の情報が入ってきますね。
そういう学生さんがいたら、教員も大変。(^_^;
上の新聞記事にも、「岸教授が主張している藤原京域の外側から整然とつくられた道路跡が計七ヵ所見つかっていることや、横大路より北側に、当時の都づくりでじゃまになった古墳の一部を削りとったらしい跡があることなどから、~」とありますね。
その筋の方々の間では、すでにそのように考えられていたのですね。
投稿: 玉村の源さん | 2020年8月18日 (火) 18時59分