演習の履修生からの質問(2)
非常勤先で、1ヶ月遅れの5月12日から始まった遠隔授業の万葉集の演習、昨日で無事に5回終わりました。演習のはずなのに、万葉集に関する講義がまだ続いています。次回からは学生の発表中心の授業に移行できそうです。
受講生が5名という少人数ですので、Googleclassroom、meetで行っています。
毎回中休みを設けて、タヌキの写真や奈良の鹿の写真などを見てもらっていましたが、昨日は、桂本と藍紙本の複製の写真と、一昨年訪れた仙覚ゆかりの埼玉県比企郡小川町の写真を見て貰いました。中休みというより、授業の一部のようです。(^_^;
桂本万葉集の冒頭。
軸を上から見たところ。
様々な色の料紙を使っていることがよく分かります。
鳥や植物の絵も見て貰いました。その中で、この部分。
「賀茂女王」のすぐ近くに描かれている鳥を見て、女王の名にちなんで鴨の絵が描かれているのかという質問をしかけて、「いや違いますね」と引っ込めた学生がいました。
確かに違いますね。絵が先に描かれている料紙に、後から文字を書いたのでしょうから。
しかし、よく見ています。(^_^)
授業終了後に送られて来たリアクションペーパー代わりのメールに寄せられた質問を載せます。また、私の答えつきで。(^_^;
A.万葉集ができた頃の読者層はどのようなものだったのでしょう? 一般庶民の歌もあるのなら、読者に一般庶民もいたのでしょうか?
だとしたら、その人々は文字の読み書きが出来たのでしょうか?
a.万葉集は勅撰集ではなく、大伴家持の編纂した私撰集と考えられますが、完成後しばらくは世に知られなかったものと思われます。
初期の頃の読者層は、皇族や貴族だったことでしょう。鎌倉時代以降は身分の高い武家の中にも万葉集に関心を持った人も現れますが、まだ読者は限られていたと考えられます。
万葉集が広く大勢の人に読まれるようになるのは、江戸時代の寛永20年(1643)に版本が刊行されてからでしょう。やはり印刷されないと普及しません。
B.平安時代には万葉集が読めなくなっていたというのは、片仮名や平仮名が発達して「万葉仮名」が読めなくなったということでしょうか?
b.平安時代に万葉集が読めなくなっていたというのは、日本の和歌を漢字ばかりで表記するということがそもそも無理だったからだと思います。1字1音の万葉仮名だけで書けばまだしも、正訓字や義訓、戯書なども含まれていれば、書いた本人には唯一の訓が念頭にあったとしても、本人以外の同時代の人にも読めない(訓が1つに定まらない)歌はあったと思います。
まして、時代が降れば、文法や語法や語形も変わってきますので、さらに読めない、ということになったのでしょう。
そして、ご指摘のように、片仮名や平仮名(特に平仮名)が発達したことで、漢字ばかりで書かれた万葉集を読むことのハードルが上がってしまったこともあったのでしょう。
それで、万葉集の歌を読むには「研究」が必要になったということになります。
C.万葉集の注釈書で最も古いものを書いたのは仙覚のようですが、これは万葉集の公的な研究をしたのは仙覚が初めてであるという認識でよろしいでしょうか。
c.平安時代になると、漢字ばかりで書かれた万葉集は訓むことが難しくなっていましたので、天暦5年(951)に、村上天皇が和歌所を宮中の梨壺に置いて、5人の人たち(梨壺の五人)に、万葉集の訓を付けさせました。この時に付けられた訓を「古点」と言います。注釈書ではありませんが、万葉集の公的な研究としては、これが最初と言えそうです。ちなみに、「次点本」の「次点」というのは「古点」に対しての「次点」です。
梨壺の五人の訓読の成果を形にしたものが残っていれば、それは古点本ということになりますが、残念ながら現存する古点本は知られていません。
ただ、次点本の中で現存最古の桂本は古点本の面影を留めているのではないかと言われています。
なお、桂本の書写年代は不明ですが、1000年頃11世紀半ばと考えられていますので、そうすると梨壺の五人の仕事から50年100年ほど後ということになります。(赤字部分、筒井先生からいただいたご教示によって訂正しました。)
D.仙覚以降、江戸時代になるまでの間は詳しい万葉集研究はされていなかったのでしょうか? 国学者による古典研究がはじまるまでは万葉集の研究がされていなかったのか気になりました。
平安時代の作品には万葉集を本歌取りした歌もあるようですが、鎌倉以降はあまり歌人の関心は万葉集に寄せられなかったのでしょうか。
和歌の中での万葉集の立ち位置について少し気になりました。
d.仙覚から江戸時代までの間に、著名な万葉集の注釈書はありませんが、著名でなくても、全くないのかどうか、少し調べてみます。万葉集の書写は行われています。
古今集以降の勅撰集の中に万葉歌を載せたものがあります。八代集それぞれについて、何首くらい万葉歌が載っているのか、そんなリストがありそうに思います。捜してみます。
歌によく読まれる地名を「歌枕」と言い、平安末期以来、歌枕集がいくつも作られています。そんな中に、万葉集の歌を引用したものがあり、どのくらいの万葉歌が引用されているのか、そんなあたりも興味深いです。
基本的には、歌人たちの関心は勅撰集にあり、万葉集にはあまり注意が向かなかったのではないかと思います。
E.江戸時代の注釈書の名前が面白く思えました。これらは自分でつけたのでしょうか。
また、名前に何か意味があるのでしょうか。
e.江戸時代の注釈書の名前、確かにおもしろいですね。
万葉考、略解、攷証、古義などは素直ですが、管見、拾穂抄、僻案抄、童蒙抄などは謙遜した名称ですね。
代匠記は、徳川光圀に注釈の仕事を依頼された下河辺長流が、病のためにその依頼を果たせなくなり、それになり代わって作ったのが契沖の代匠記です。「師匠に成り代わって」の意なのでしょうか。ただ、「代匠」という語には出典があって、「本来それを果たすべき者に代わって自分が作るのであるから、誤りがあるだろう」という意味の語なので、「匠」は下河辺長流を指しているわけではないかもしれません。
書名はいずれも基本的には、著者本人が付けたものと思われます。
Dだけ4年生で、他は2年生です。今回も良い質問だらけです。私の回答で、特にDは不完全ですね。来週の授業までにもっと調べておかないとなりません。他の質問についても、もう少し調べないと。
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日本書道史の方では桂本萬葉集は高野切古今集第二種、關戸本和漢朗詠集、雲紙本和漢朗詠集等と同筆であり、さらに天喜元年(1053)に建てられた宇治の平等院鳳凰堂の扉の色紙形を揮毫した源兼行(?-1023-74-?)の筆蹟であるといふ説が有力です。それで一群の同筆系統の古筆の書寫年代は11世紀半ばとされてゐます。
投稿: 筒井茂徳 | 2020年6月11日 (木) 00時44分
筒井先生
ご教示ありがとうございます。
桂本の書写年代は有精堂の『萬葉集事典』(昭和50年)に依ったのでしたが、これはもう45年も前の本ですね。不勉強で、汗顔の至りです。
来週の授業で早速訂正致します。
ありがとうございました。
投稿: 玉村の源さん | 2020年6月11日 (木) 00時53分
源兼行は上表文の清書や願文の執筆、寺院の門額の揮毫、大嘗會の悠紀主基屏風の色紙形揮毫などの多くの能書活動が『小右記』等の公家日記に記録されてをり、かつその眞筆も確認されてゐることからの有力な推定です。國語國文學ではどういふ根據で1000年頃とされてゐるのだらうかと思ひ、書き込んでしまひました。なほ『國史大辭典』ではどう記述してゐるのか、確認してゐません。
日本書道史での扱ひを御紹介したまでで、まさか赤字で仰仰しく訂正されるとは思つてもをらず、恐縮です。
投稿: 筒井茂徳 | 2020年6月11日 (木) 10時58分
筒井先生
コメントをありがとうございます。
実は、ほんの数日前に藍紙本万葉集の解説(小松茂美氏。昭和46年)を読んでいたときに、桂本万葉集についても触れてあったのです。その時は、藍紙本の解説にばかり気が行ってしまっていて、桂本の解説にはちゃんと目を通していませんでいた。
先ほどちゃんと読んだら、「この桂宮本は十一世紀半ばの写本、しかもはなばなしい能書活躍をつづけた源兼行の筆と断定できる。」と明記してありました。痛恨の極みです。
『国史大辞典』では、「源兼行」の項には桂本万葉集に触れた記述はありませんでしたが、「栂尾切(とがのおぎれ)」の項に、「桂本『万葉集』(宮内庁御物)とつれの断簡をこの名に呼ぶ。……伝称筆者は、源順とも宗尊親王とも伝えるが、いずれも該当せず、研究の結果、源兼行の自筆と判明している。(神崎 充晴)」とありました。
ブログの記事は、最初に書いたままにはしておけず、といって、こっそり書き直してしまうことも不適切ですので、もとの記述を棒線で消して、書き改める、という形にしました。訂正前の本文を読まれた方が、あとでまた訂正後の本文を読まれることもあろうかと思い、訂正したことがすぐに分かるようにと、目立つように赤字にしました。
投稿: 玉村の源さん | 2020年6月11日 (木) 14時34分