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2020年6月22日 (月)

「田子の浦ゆ」の歌の訓の校異

 meetを使って実施している演習で、前回提出されたリアクションペーパーの中に「後世の人が元の表記を誤りと認識して書き直してしまうことがあるとのことですが、具体的にどのようなものがあるのか少々気になりました。」という質問がありました。

 どういうことかといいますと、万葉集の書写に際して、ケアレスミス等による誤写の他に、書写者の賢しらによって成された意図的な改変もある、といった話を前回の授業でしました。それを受けての質問です。

 まだ2年生の学生です。ディスプレイ越しの授業ですが、話をちゃんと聴いて、自分で考えて、疑問点を質問しています。
 とても良いです。

 さて、質問について。
 これまで万葉集の本文異同を調べているときに、こういった事例に時々遭遇していたのですが、メモも取っていないので、いざそういう例を示せと言われると、なかなかすぐには揃えられません。(^_^;

 それでも、自分で校異を整理している東歌・防人歌の中からいくつかを示すつもりです。

 質問とはちょっとズレますが、百人一首にも載っている赤人の富士山の歌の本文異同がどうなっているのか、ふと気になって調べてみました。

 原文についての本文異同ではなく、訓について異同がありましたので示します。
 画像は「万葉集校本データベース」(https://www.manyou.gr.jp/)の順序を変えて切り貼りしました。
 そういうものをブログに貼って良いかどうか迷いましたが、学術的な引用ということで。

 万葉歌と現在の定訓は以下の通りです。

  田児之浦従 打出而見者 真白衣 不尽能高嶺尓 雪波零家留(巻三・318)
  田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける

 この歌は新古今集に採られていて、百人一首も新古今集から採っています。

      だいしらず                   赤人
  たごのうらにうち出でてみれば白妙の富士のたかねに雪はふりつつ(新古今集 巻六・675)

 第一句目。
Manyo318_01
 「たごのうらに」としている本が多いですね。新点本の中では、寛元本の神宮文庫本が「ユ」なのに文永本の西本願寺本は「ニ」ですね。仙覚は最初「ユ」としたのを後に「ニ」に改めたのですかね。ただ、神宮文庫本の「ユ」は、もとの「ニ」に1画加えて「ユ」に変えたようにも見えます。寛永版本は寛元本の系統なので「ユ」なのでしょう。広瀬本は最初の「ニ」を寛永版本によって「ユ」に改めたのかもしれません。

 第三句目。
Manyo318_03
 次点本の類聚古集「しろたへの」、紀州本「シロタエノ」ですね。西本願寺本は青で「マシロニソ」とあるので、仙覚の改訂訓です。神宮文庫本はいろいろ消して、最終的に左側の「マシロニソ」という異本注記に落ち着いたのでしょうか。広瀬本は「シロタヘノ」をやはり寛永版本で「マシロニゾ」と訂したのかもしれません。

 第五句目。
Manyo318_05
 類聚古集は、漢字本文は「家留」なのに、訓は「つゝ」という無理筋の状態になっています。他の本はさすがに「ケル」ですね。紀州本には左側に「ツヽ」の訓も付いていますけど。

 ということで、諸本の訓は新古今集の訓に近いということが分かりました。

 ただ、新点本は新古今集の影響を受けている可能性がありますけど、類聚古集の成立は新古今集よりも前ですよね。
 どうなんでしょ? と思って、国歌大観でこの歌を探してみました。

 新古今集以前の文献にもこの歌は載っていました。

  ・田子のうらにうち出でてみれば白妙のふじのたかねに雪ぞふりける(五代集歌枕550)
  ・たごの浦にうちいでてみればしろたへのふじのたかねにゆきはふりつつ(和歌初学抄146)

 類聚古集は藤原敦隆の編。敦隆は保安元年(1120)没なので、それ以前の成立です。五代集歌枕も和歌初学抄も、成立は12世紀半ば頃ということで、類聚古集よりも後です。

 とすると、類聚古集の訓は新古今集などとは全く関わりなく、そう訓まれていたということになります。ひょっとするとこの訓は古点にまで遡るのでしょうかね。

 などと考えました。

 このあたりのことに詳しい方からすれば、何を今さらこんな初歩的なことを……。と思われそうです。(^_^;
 全くの初心者なので、また恥をさらします。(^_^;

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コメント

百人一首の・・・というより新古今のこのよみ方については、現在われわれがよんでいる万葉集のこの訓との
違いを考え、こっちのよみ方だったらこの解釈になり、この訓だったらこの解釈になる・・・なんてことはしばしば考えるのですが、ならばなぜ類聚古集がこのようによんだのか、その来歴はいかなるものか・・・あんまり考えたことがありませんでしたねえ・・・

三友亭主人さん

 コメントをありがとうございます。

 百人一首との関係だと、持統天皇の「春過ぎて」の歌も微妙に違いますよね。
 時代が違うとその時代風に訓んでしまうのだという風に考えていたのですが、今回のことで、類聚古集の訓みに興味が湧きました。

 いやぁ、おもしろいです。(^_^)

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