高遠藩は?
『日本名所記』の刊年を考える材料の1つとして、前の記事で「真田弾正大弼」を取り上げました。
話がそれますが、弾正といえば、私が生まれた時、父が名前を考えるに当たって、候補をたくさんリストアップした中に、弾正と玄蕃があったそうです。強そうな名前です。濁音で始まっているからでしょうかね。時代劇に出てきそうでかっこいいです。
ま、強そうというか、悪そう。(^_^; どちらも、律令官制としては全く悪いものではなく、弾正はむしろ正義の味方ですけど、時代劇だと悪役に多そうです。これまた濁音で始まるからでしょうかね。
私は弾正でも玄蕃でもイヤではありませんけど、強くないので、名前負けしそうです。(^_^;
閑話休題。←これ、八犬伝によく出てきて、「あだしごとはさておきつ」というルビが付いています。
で、本当に閑話休題で、もう1つ「高遠城」も手がかりになるかなぁと思います。
信濃国の部分で、「城」を列挙した後、全体の末尾にもう1つ「城」があって、そこに高遠が載っています。
これ、「城」の部にうっかり高遠を入れ忘れて、あとから末尾に補ったとも考えられます。
でも、もしかしたら、最初にこの本が作られた時には高遠藩が存在しなくて、後日、高遠藩ができたのを受けて、改訂版で反映させた可能性もあるかと考えました。
というのは、この本には「城」の他に「陣屋」があります。とすると、この本の「城」は別に城郭という建造物を指しているわけではなく、それぞれの国の中にどんな大名家があるのかを、城持ちと無城(=陣屋)とに分けて示していると考えられます。ならば、高遠城という城郭はずっと存在していても、高遠藩が存在しない時期があって、その時期にこの本が作られたとすれば、「城」の部に高遠は入れないでしょう。
高遠藩の沿革を調べると、元禄2年(1689)7月23日に藩主鳥居忠則が亡くなり、高遠藩は廃藩となります。そして1年半後の元禄4年(1691)2月9日に内藤清牧が入封して来て、高遠藩は復活し、そのまま明治に到ります。
江戸時代に高遠藩が存在しなかったのは、このわずか1年半のみです。
どうでしょ? 『日本名所記』が刊行されたのはこの1年半のうちのどこかで、その後、高遠藩が復活したのち、この本の改訂版が出されたとか。
材料不足で何とも言えません。諸国の「城」と「陣屋」を全部見て行けば何か分かると思います。
興味はありますが、少なくとも、さすがにすぐにはやらないと思います。(^_^;
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小さな点をも見逃さない先生の考察が鋭い・・・
先生のゼミは課題・宿題が多いと評判でしたが、その片鱗を見た気がします。
上代は好きでしたけれど、ゼミを取っていたら先生の厳しさには音をあげたかもしれません。
私は「甘ちゃん」ですから(^_^;)
投稿: やまゆり | 2020年4月16日 (木) 07時22分
やまゆりさん
コメントをありがとうございます。
こういう考証は好きなもので。ま、趣味です。(^_^)
演習、そんなに厳しくなかったと思いますけど。
今は前よりもゆるくなったように思います。(^_^;
投稿: 玉村の源さん | 2020年4月16日 (木) 10時33分
連日、とてもとても興味深く拝見しています。
高遠が追記されているのは不思議ですね。忘れられたのなら内藤さんお気の毒。
信濃の陣屋には岩村田と須坂が出ているようですが、岩村田は元禄十六年(1703年)に内藤正友が陣屋を構えたという記事をいくつか見ました(未検証)。
これは手がかりになりそうでしょうか。
それにしても奈良京都のような古都はともかく、信濃で、名所などと書いてあるあたりは戦乱の世も終わってすっかり平和な時代になってからの旅ガイドのようですね。
投稿: 源さんの後輩 | 2020年4月16日 (木) 22時39分
源さんの後輩さん
コメントをありがとうございます。
岩村田藩は元禄16年の創始でしたか。そうであれば、『日本名所記』の成立は元禄16年以降ということになりますので、昨日の私の推理はたちまち崩壊します。(^_^;
ありがとうございます。十分に手がかりになります。こういうことを全ての城と陣屋とについて調べて行けば、それらの条件を全て満たす時期が『日本名所記』の成立時期ということになりましょう。やってみれば良いのですが、ちょっと……。(^_^;
こういうことではいけませんね。
ということで、高遠はどうやらうっかりミスで書き漏らしたということになりそうですね。残念です。そして、内藤家、お気の毒です。
確かに、平和な時代の産物なのでしょうね。信濃のお寺は善光寺いちおしですね。上野は残念ながらお寺は載っていません。(^_^; 確かに、現代でも、これということで全国に知られた群馬のお寺は思い浮かびません。分福茶釜の茂林寺とか、子育て呑龍の大光院とか、なくはないのですが、全国区としては弱いです。
投稿: 玉村の源さん | 2020年4月16日 (木) 23時06分
すみません、横から失礼します。
全国に知られる群馬のお寺。
高崎の少林山達磨寺があるではないですか。
ここ数年は住職の方針が変わってしまって残念ですが、1月7日のお祭りはかなりの賑わいでした。
何といってもだるまと言えば、「高崎だるま」。
成田山新勝寺ほどの知名度はないにしても、全国区だと思いたいですねぇ。
それとは別に、群馬はあまりお寺さんの影響力がなかったのではないかとも思っています。
墓地がお寺の敷地内ではなく、集落のあちこち(自分の敷地内)に点在するのも、その証左ではないかと考えています。
投稿: やまゆり | 2020年4月17日 (金) 16時19分
やまゆりさん
コメントをありがとうございます。
達磨寺のことは頭をよぎりました。
でも、高崎だるまは多少有名かもしれませんが、お寺の名前の方は果してどれだけ全国区だろうかと思い、触れませんでした。どうでしょうね。
墓地が身近にあるのは感じていました。玉村もそうですよね。
そのことと、お寺の影響力とが結びつくのかどうかは何とも、と思います。
投稿: 玉村の源さん | 2020年4月17日 (金) 18時37分