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2020年4月15日 (水)

真田弾正大弼

 昨日、『日本名所記』について書きました。
Nihonmeishoki01

 この本、刊年不明ながら、上欄外に「一万五千石 牧野周防守」「十万石 真田弾正大弼」などのように、藩の石高と藩主とを記した加筆が数ヶ所あります。
Nihonmeishoki05
 この本の持ち主が書き込んだのでしょう。これらを丹念に見て行けば、書き込みの時期の範囲が決まり、この本の刊年の下限が推定できましょう。
 そういう考証は好きなのですが、ま、気が向いたら、といった感じで、すぐに取り組もうという気はありませんでした。
 でも、やはりちょっと気になるので、「真田弾正大弼」だけでも調べてみることにしました。
 松代藩主って、伊豆守や信濃守が多く、弾正大弼はあまりいなかったような気がしましたので。

 調べてみたら、松代藩主で弾正大弼を名乗ったのは第6代の真田幸弘公のみでした。
 幸弘公が弾正大弼を名乗っていた時期は短く、天明8年(1788)4月5日からの2年間で、寛政2年(1790)4月18日には右京大夫に変わっています。
 この調査は、国立国会図書館デジタルコレクションの『寛政重修諸家譜』に依りました。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577447
 幸弘公の記事は『寛政重修諸家譜』第155冊の80~81コマ目にあります。

 ということで『日本名所記』上欄外の「十万石 真田弾正大弼」という書き込みは、このわずか2年の間になされたものと考えられます。
 従って、『日本名所記』は遅くとも寛政2年4月18日までには刊行されていたことになりましょう。
 刊行年の上限は分かりません。何か手がかりがあると良いのですが。

【追記】
 「『日本名所記』は遅くとも寛政2年4月18日までには刊行されていたことになりましょう。」は勇み足でした。
 幸弘公の官職名が右京大夫に変わったのは寛政2年(1790)4月18日であっても、それをリアルタイムで知り得たのは幕閣の然るべき役職に就いていた人だけで、それ以外の人は、毎年刊行される大名武鑑などによって知ったことでしょう。だとしたら、この本の持ち主が「十万石 真田弾正大弼」と書き込んだ時期の下限は、もう少し降ると思われます。

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