魚佐旅館「奈良案内」の年代
1月末に「魚佐旅館の奈良案内」という記事を載せました。
戦前のものということは分かりますが、具体的な年までは分かりません。ただ、載っている地図が手がかりになりそうです。
わがコレクションに、「奈良名勝案内図」という地図が、大正8年版から昭和8年版まで10枚ほどあります。
魚佐旅館の奈良案内の地図とこれらを比較してみました。
手がかりになるのは、魚佐旅館の奈良案内の次の部分です。
上の地図の左上、旧一条通沿いに、奈良中学校、第五小学校、育英高等女学校があります。
大正8年の奈良名勝案内図は以下の通りです。
この地図では旧一条通沿いには学校は全くなく、もっと南に佐保川を挟んで、奈良中学校と第五小学校があります。育英高等女学校は全くありません。
これが、大正12年の地図では以下の通りです。
3つの学校は魚佐旅館の奈良案内地図と同じ場所にあります。
育英高等女学校も登場しました。
中学校と小学校の跡地は白抜きになっています。
ということで、魚佐旅館の奈良案内の年代の上限は、大正8年から大正12年までの間ということになります。
下限を決める手がかりとしては、これらの学校の南にある油阪池と、その東の開化天皇陵が使えます。
下の地図は、昭和3年1月の「奈良名勝案内」です。
左下に油坂池があります。その東に開化天皇陵。馬蹄形の堀の形は魚佐旅館の奈良案内図とよく似ています。
下の地図は、同じく昭和3年ですが、8月のものです。
油坂池の西側が削られて痩せてしまっています。そして、開化天皇陵の馬蹄形の堀が南に長くなっています。
そして、育英高等女学校の位置が若干東に移っているようです。育英の西に新しい道もできています。
下は昭和5年のものです。
油坂池は消えてしまいました。埋め立てられてしまったのでしょう。
ということで、魚佐旅館の奈良案内の下限は、昭和3年の1月から8月までの間と考えて良さそうです。
以上、記述を簡単にするために、地図の発行年月をそのまま使って、上限・下限の推定をしましたが、実際には土地の状態が即座に地図に反映されるわけではなく、多少のタイムラグが生じていることでしょうから、その分の幅を考える必要がありましょう。
ただ、同じ昭和3年に1月版と8月版とがあるところをみると、実際の変化をかなり早く地図に反映させているのではないかと思います。
今後、奈良の地図をもっと多く収集して行くことにします。←部屋を絶賛片づけ中なのですが、それを尻目にどんどんものが増える。(^_^;
« 窓際のカランコエ | トップページ | 今日は梅花宴の日&湯島の白梅 »
「飛鳥・奈良」カテゴリの記事
- 鹿せんべいのキーホルダー(2024.12.30)
- 『大美和』148号(2024.12.30)
- 『ならら』最新号の特集は「昭和100年」(2024.12.28)
- 『奈良旅手帖』2025(2024.12.06)
- 『ならら』最新号の特集は「春日若宮おん祭」(2024.11.30)
「史料・資料」カテゴリの記事
- 明治37年の「因幡の兎」(2025.01.19)
- 「ハナ ハト マメ マス」(2025.01.15)
- 長音表記&リンコルン(2025.01.14)
- 広瀬中佐の評価は(2024.11.24)
- 老農船津伝次平(2024.11.23)
「地図・航空写真」カテゴリの記事
- 梶川敏夫氏『ビジュアル再現平安京』(吉川弘文館)(2024.11.13)
- 明治3年の『絵入智慧の環 二編上』(4)(2024.09.06)
- 大正14年の長野市地図(2024.08.30)
- 昭和12年頃の善光寺鳥瞰図(2024.08.29)
- 明治3年の『絵入智慧の環 二編上』(3)(2024.08.27)
>育英高等女学校は全くありません。
育英の創立は大正5年ですからねえ・・・載っていてもおかしくはないと思うのですが。
まだ、周知されていなかったんでしょうかね?
でも・・・私にとっては、職業柄、かつての学校の位置がわかって楽しいです。
奈良女子大と育英、そして第5小学校(今は佐保小学校かな?)は動いてませんんね。
県立商業学校は別の場所(柏木)に移転し、今は朱雀高校とと呼ばれています。
西宮先生のご出身の奈良中学は今度高野原の方に移転するようです。
投稿: 三友亭主人 | 2020年2月 8日 (土) 08時18分
三友亭主人さん
コメントをありがとうございます。
育英高等女学校のこと、不思議ですね。
地図を作る時にうっかり漏れたのでしょうかね。
思うに、あの3つの学校が建っている場所って、もとは田んぼだったところに、3校が集中していますよね。中学校と小学校は元の場所から移転しています。これ、もしかしたら田んぼを潰して文教地区を作ろうとしたのではないでしょうか。女子高等師範学校の近くでもありますし。
だとすると、育英高等女学校も、大正5年にどこか他の場所に仮開校していたのを、ここに移転させたとか。
奈良の地図を更に集めてみたいです。←やはりそこにゆく。(^_^)
学校のかつての位置が分かって楽しいと言ってくださり、嬉しゅうございます。
投稿: 玉村の源さん | 2020年2月 8日 (土) 14時49分
いつも楽しく見させて頂いています。
下限が昭和3年とされていますが、開花陵の入り口に奈良警察署が角振町から移転したのが、昭和13年のようなので(http://www.library.pref.nara.jp/supporter/naraweb/sanjoutoori.html)もう少し後ではないでしょうか?
奈良育英は大正5年花芝町に創立(https://www.ikuei.ed.jp/history/step/)され、当初は奈良基督教会の教会跡を使用し、その対面に生徒の宿舎があったと「創立百周年記念誌」に記されていた記憶があります。ちなみに、教会は花芝町3のようです( https://nskk-nara.com/history)。
これからも楽しい情報お願いします。
投稿: 古都の焼け門 | 2020年2月11日 (火) 15時03分
古都の焼け門さん
コメントをありがとうございます。
また、いつもご覧くださっているとのこと、嬉しゅうございます。
ご教示ありがとうございます。
お示しのURL、早速見てきました。
う~ん。確かに、魚佐旅館の地図には開化天皇陵の南に警察がありますね。今のホテルフジタの位置ですね。そこに警察ができたのが昭和13年だとすると、魚佐旅館の地図は昭和13年以降ということになってしまいますね。
ただ、その一方、油坂池は昭和3年頃には埋め立てられてしまったと考えられるのに、魚佐旅館の地図には載っていて、整合しませんね。
どう考えたら良いのか。
たとえば、魚佐旅館の地図は昭和3年以前に作られ、その後、昭和13年に警察署ができたことを受けて警察を加筆したけれども、油坂池を消すのを忘れたとか。
さらに、資料を集めてみます。
奈良育英は、最初は花芝町に創立されて、あとから移転したのですね。
これは推測が当たって嬉しいです。
今後ともご愛顧の程、どうぞよろしくお願い致します。
投稿: 玉村の源さん | 2020年2月11日 (火) 15時39分
油坂池の件ですが、国土地理院の航空写真(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1)を見てみると、昭和42年までは確認でき、昭和46年では埋め立てされているように見えます(43~45年分がないので、いつから埋め立てが始まったかは?です)。昭和3年の地図から消えたのはなぜなのか??です。
投稿: 古都の焼け門 | 2020年2月12日 (水) 19時42分
古都の焼け門さん
ありがとうございます。
わざわざ空中写真を見てくださり、大変にありがたく存じます。
う~ん。地図は必ずしも信用できないということになりますね。
あるはずの池を記載しないというのは何とも不思議なことです。
投稿: 玉村の源さん | 2020年2月12日 (水) 21時08分
ちょっとしつこいようで申し訳ありません。どうも油阪池(出口池)の件のことが気になり、調べていました(と言っても他力本願ですが)。一つは文献資料にないか、奈良県立図書情報館に聞いてみました。というのも情報館には昭和5年版の奈良名勝案内図があり、その内容注記に「・・奈良駅近くの油阪池は埋立られ、・・」とあるからです。しかし、特にそれを裏付ける資料はなく、大正14年版と比較しての記述のようです。もう一つは発掘調査からです。このあたりは左京三条五坊十二坪にあたり、部分的ですが何か所かの発掘調査がなされていて、その報告書も出ています。しかし、報告書をみても昭和初期に埋め立てした痕跡があったという記述はなく、奈良市埋蔵文化財調査センターに問い合わせも、すくなくても調査区域では埋立は戦後です、との回答でした。
で、とりあえず記述もれではないかな~と思います。
投稿: 古都の焼け門 | 2020年3月22日 (日) 16時26分
古都の焼け門さん
コメントをありがとうございます。
関係各所に当たられた回答のお知らせを投稿していただき、ありがとうございます。
古都の焼け門さんが探してくださったように、空中写真は確かですから、実際にこの池が埋め立てられた時期は昭和42年から46年までの間と考えて良いのでしょうね。
ではなぜ、「奈良名勝案内」では、昭和3年1月版までの池が同年8月版では西側が削られ、5年版では形跡もなく消えてしまったのかということですよね。
新たに描いたのなら、うっかり書き落としたということもあるかもしれませんけど、旧版を元に、それを改訂したものでしょうから、書き落としたのではなく、消してしまったのでしょうね。
ではなぜ消したのか、という謎が残りますけど。
うっかりミスか、あるいは埋め立てる計画があったので先走って消してしまったら、埋め立てが取り止めになったとか。
不思議ですね。
投稿: 玉村の源さん | 2020年3月22日 (日) 17時46分