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2019年9月13日 (金)

月の客

 スマホのゲーム「ねこあつめ」の今日のあいことばは「月の客」でした。
Tsukinokyaku

 恥ずかしながら、この語は知りませんでしたので、日国を見てみましたら、「月見の客。美しい月を賞しに出て来た人。《季・秋》」とありました。そして、次の用例が挙がっていました。
 *俳諧・笈日記〔1695〕上・京都「岩はなやここにもひとり月の客〈去来〉」

 さらにググってみますと、この句について『去来抄』に次の文章があることが分かりました。
 本文は新編日本古典文学全集『近世俳句集』132ページの頭注に依りました。

  先師上洛の時、去来曰く「洒堂はこの句を『月の猿』と申し侍れど、予は『客』勝りなん、と申す。いかが侍るや」。
  先師曰く「猿とは何事ぞ。汝、この句をいかにおもひて作せるや」。
  去来曰く「明月に乗じ山野吟歩し侍るに、岩頭又一人の騒客を見付たる」と申す。
  先師曰く「ここにもひとり月の客と、己と名乗り出でたらんこそ、幾ばくの風流ならん。ただ自称の句となすべし。この句は我も珍重して笈の小文に書入れける」となん。

 これによれば、「月の客」が誰を指しているのかについて、作者の去来は、たまたま見かけた岩頭にいる1人の人物をよんだものであるとするのに対し、芭蕉は、去来自身のこととする方が良い、とアドバイスしています。

 この『去来抄』の文章がなければ、我々がこの句を解釈しようとする時、「月の客」が作者本人なのか、それとも作者が見かけた人物なのか、可能性は両方あって、決めがたいと思います。

 幸い、『去来抄』の文章によって、作者である去来本人は、自分が見かけた人物としてこの句を作ったことが分かります。
 ところが師の芭蕉は、去来自身をよんだものとすべきだと言っています。
 俳句の文言自体は全く変わらないのに、芭蕉の解釈が作者本人の解釈を上回ってしまっているということになりましょう。

 作品の解釈の難しさをつくづくと思います。

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コメント

この句の解釋については、もう半世紀以上も前に小西甚一先生の授業で習つたなつかしい思ひ出があります。要するに、作者の意圖が絶對的な解釋の基準ではない(意圖誤謬 intentional fallacyの問題)ことを已に三百數十年も前に芭蕉が喝破してゐたといふ論旨でした。

小西先生の著書「日本文藝の詩學」(みすず書房)から引用すると、

「去来は、あとでいろいろ考へ直してみたけれど、やはり師匠の解釋は「初めの句の趣向にまされること、十倍せり。まことに作者その心を知らざりけり」といふのが、その結論であつた。」

「作者の意圖に合ふか合はないかは、解釋が正しいか正しくないかを決める根據にはならない。」

詳しくは上記の本を御覧ください。名著だと信じます。

筒井先生

 コメントをありがとうございます。

 どうも不勉強でお恥ずかしゅうございます。

 ご紹介くださった小西先生の御著書、早速注文しました。明日届きます。

 師匠が作品に手を加えて添削したのではなく、作品自体はそのままに、句意を変えることで作品がより良くなる、ということに新鮮さを憶えました。

 この場合は去来抄に記述があることで、去来の当初の意図と芭蕉の指導とが手に取るように分かりますが、それがない場合、解釈をどう考えるのか。

 去来がどういう意図でこの句を作したかは、余人には分からないことで、その場合、より良い作になるように解釈することが正解なのか。

 作品は、作者の手を離れたあとは、読者のものでもあるのか。

 万葉集の場合は訓さえ決めがたい場合がありますが、訓を決めるに当たっても同様に考えて良いのか。

 などなど、あれやこれや止めどなく思いが広がります。

 まことに今さらながらではありますが、よくよく考えてみます。

> 作品は、作者の手を離れたあとは、読者のものでもあるのか。

さういふことのやうです。逆に言へば、作者の意圖なるものはどこに在るか。ややもすればその作者のメモや日記、手紙、さらには自作解説などを探つて、それらしきものを見つけることが作品研究の目的となりがちかも知れません。さもなければ或るイデオロギー(精神分析學、唯物史觀など)による裁斷や情緒的な印象批評、あるいは傳記的な瑣事の蒐集。

一口に作者の意圖と言つても、構想の段階での意圖があり、書き始めてからの意圖は結末に近づくにつれて變容するかも知れません(中里介山の「大菩薩峠」や吉川英治の「宮本武蔵」などの大長編においてはことに)。擱筆後に作者自身の解釋が變はる可能性もありませう。さらには作者が自作について本當のことを言ふとは限らない。

御紹介した本は智的にスリリングな、考へさせる内容を持つてゐると思ひます。私自身は國文學國語學とは無縁の門外漢に過ぎませんが、かつてたいへん興味深く讀みました。

筒井先生

 重ねてのコメントをありがとうございます。

 いろいろと納得します。

 最近では(もう「最近」とは言えないかもしれませんが)、井伏鱒二が『山椒魚』の終末を変更してしまったことなどが思い起こされます。

 また、「作者が自作について本當のことを言ふとは限らない」というのも、いかにもと思われます。本人が言っているのだから確かだ、とは限らないわけですね。

 時代によって、価値観が変わりましょうから、時代とともに作品の評価が変わることもありましょぅ。それは「評価」と言うべきなのか、それもまた「解釈」と言うべきなのか、また考えさせられます。

時代によつて評價基準が變はると消滅しかかる作品があり、逆に作者の死後、時を隔てて評價されるやうになる作品もあります。地域が異なると評價基準が異なることは珍しくなく、アメリカでは漱石も鷗外も二流以下の扱ひださうです。たしかサイデンスティッカーやドナルド・キーンがそんなことを書いてゐた記憶があります。むろん日本人が外國人の評價基準に左右される必要はありませんが、考へる機會が得られることは確かでせう。

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