「いが越なら大和廻り順案内図」
ネットオークションでこのようなものを入手しました。
興味を持ったきっかけは、左上に「大阪」と書いてあったことです。
この地名は、江戸時代には「大坂」と書いていたのが、明治になってから、「坂」の字を分解すると「土に反る」となることを嫌って、土偏をこざと偏に変えて「阪」と書くようになったと、(かなり曖昧に)そう理解していました。
ところが、この絵図は、江戸時代風でありながら、「大阪」とあったので、そこに興味をおぼえました。
上の画像は小さすぎてよく分かりませんね。
奈良県の部分を拡大します。
「なら」から南下すると、「おびとけ」「丹波市」「柳本」を経て、「みわ」に至ります。そこから西へ「あべ」「あすか」「おか寺」「立花寺」「神武天皇」となります。「みわ」から「おか寺」へは「たうのみね」を経由する道もあります。
これまで、いくつかご紹介してきた絵図や道中記でもおなじみのルートですね。岡寺・橘寺・神武天皇とくれば、また例の久米寺前の道しるべが思い起こされます。
神武天皇陵が載っているところを見ると、この絵図は江戸時代のものではなく、明治になってからのものなのでしょう。
あちこち眺めているうちに、こんな記述に目が留まりました。
冒頭は「此所ながの峠」でしょうか。この文の5行目と最後の行に「トンネル」とあります。この古びた絵図と「トンネル」という語とが何ともミスマッチです。
この文章の3行目を、最初「昭和十七年十一月」と読んでしまいました。いや、なんぼ何でもそこまで新しくはなかろうと思い、この記述は後からの加筆かと思いましたが、ちゃんとトンネルの絵が描いてありますので、加筆ではありません。よくよく見ると、「昭和十七年」ではなくて、「明治十七年」のようでした。(^_^;
とすると、この絵図は明治十七年以降のものということになりましょう。その時代でもまだこのような江戸時代風の絵図が作られていたのですね。
三重県のHP(県史編さん班担当部分)によれば、このトンネルが掘られたのは、津と伊賀上野とを結ぶ伊賀街道「伊賀越え奈良みち」の長野峠の部分で、明治十三年に工事を開始し、明治十八年六月竣工とのことです。絵図の記述とは半年ほどズレます。
そういった疑問点は残るものの、あれこれ興味深いです。
同時代資料は楽しい、という、またいつも通りの結論に達します。(^_^;
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