明治10年の『上野村名 授業之枝折』&虫除けのいちょう
このような本を入手しました。
群馬県師範学校が編纂したもので、明治10年の刊行です。西南戦争の年ですね。
内容は、群馬県内のすべての町村1037を郡ごとに列挙し、ふりがなを付けたものです。
凡例の冒頭にはこうあります。
これを見ると、この本とは別に『上野村名習字帖』という本が刊行されていて、その本の指導書ということのようです。その本の内容は、書名から考えるに、群馬県の村名を筆記するときの手本なのでしょうね。大変に実用的な本と思います。
地名については、凡例にこのようにあります。このページの3項目目です。
地名の読みは判断しがたいので、その読みを示す、ということでしょう。ただし、この本のふりがなは現地の読みと異なる可能性があるので、もしもそういうことがあれば教えて欲しい、とも述べています。
本文はこんな感じです。
私は群馬県で30年暮らしてきましたが、生え抜きではないので、地名の読みについては詳しくありません。気づいた範囲で言えば、この本では「下小塙」「上小塙」に「シモコハナワ」「カミコバナワ」というふりがなが付いていますが、現代では「しもこばな」「かみこばな」と呼んでいます。140年で読みが変わったのでしょうかね。文字から考えれば、「はなわ」が本来の読みでしょうが、全体で6音というのは少し長いので、末尾が省略されてしまったのかもしれません。よく見ていけば、まだ見つかりそうです。
同時代資料は楽しい。
裏表紙です。
持ち主は、萩原アサ女さんです。署名の上にハンコが捺してあります。
「萩あさ」とありますね。これまた興味深いです。同時代資料は楽しい。
上に載せた画像のいくつかのページに影のようなものが写っています。この本は袋とじになっていて、その袋の中に入っているものの影です。正体不明なので、汚いものではないかと不安でしたが、やがて正体が判明しました。いちょうの葉っぱでした。
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ずいぶん妙なものを手に入れましたね。
地名の読み方なんて,意味があるの?と思ってしまいます。
それにしても,明治10年に師範学校があったと言うことに驚きです。
さらに,萩あさ さんなんていう はんこう。興味津々です。
この時期に,女性が師範学校に通っていたのですかね。
もしそうだとしたら,群馬県はすごい。
投稿: 萩さん | 2018年11月18日 (日) 19時45分
萩さん
「地名の読み方なんて,意味があるの?」とは不思議なご意見です。
地名って、元来は音声からなるもので、それをどう表記するかは二次的なものと考えます。読みの方が地名そのものです。
そして、漢字で書かれた地名や人名の正しい読みは、知らないと分かりません。玉村の南にある新町は「しんまち」ですし、高崎駅の西にある新町は「あらまち」です。新町が高崎市と合併してからは、紛らわしいので、高崎駅の西にあるのは「あら町」と書くようになりました。
この本の凡例に「字ノ傍ニ仮字ヲ附シ教員授読ノ便ニ供ス」とあるとおり、教員が児童・生徒の前で口頭で授業をする時に、地名の読みが分からなければ、教科書が読めません。勘で読んでは、間違った読みを児童・生徒に教えてしまうことになりかねません。そのための本です。
必要な本と思います。
投稿: 玉村の源さん | 2018年11月18日 (日) 21時11分
まず,それほどまでに地名を教える必要があるのかと言うことに疑問を持ちます。
この本が必要ではなかったということを言っているのではありません。
今の義務教育の学校現場からすると,ちょっと違和感を感じたのです。
少なくとも教員には正確な知識が必要で,今の先生たちは教材研究をきちんとやっています。
新学習指導要領では,県名に使われる漢字は全て教えることになりました。
それでも,知識を伝授するばかりではないと思うのです。
地名を覚えること以外にも,社会の出来事を調べて,思考・判断することも大切なのです。
その意味で,読み方にこだわることもないと思うのです。
言葉を科学する玉村の源さんのご高説はごもっともです。
読み方が正確であるに越したことはありません。
私は地理が専門ですから,地名にはより敏感です。
間違いは誰にでもあるもの。
地名を読めない場合には,後からでも調べて正しく教えればいいと思います。
そのときにこの本が役立つかもしれません。
投稿: 萩さん | 2018年11月18日 (日) 23時54分
萩さん
いろいろと齟齬を感じます。
まず、この本は教育史の点からも貴重と思いますが、私が大いに関心を持ったのは、この本には当時の群馬県内のすべての町村名の読みが付いているという点です。地名の読み方は時代によって変わることがあるので、この本に明治10年の町村名が網羅的に載っていることは大変にありがたいことです。そういう点で、この本は極めて貴重な資料と考えます。そういう点からは「地名の読み方なんて,意味があるの?」というお考えは、私の日頃の関心とは全く相容れません。そこで、上のようなコメントを書きました。
萩さんからの2つ目のコメントは観点が違いますね。2つ目のコメントでは、「それほどまでに地名を教える必要があるのか」ということを述べられています。これは理解できます。
ただ、あの本は教師用の手引きです。凡例の第一条にありますように、あの本とは別に『上野村名習字帖』という本が刊行されていて、それが子供たちの使う教科書なのでしょう。書名から考えるに、この本は地理の本ではなく習字のお手本と思います。手習をしながら身近な村名の読み書きができるようになるという一石二鳥を狙ったもので、編纂者にしてみれば良いアイディアと思ったかもしれません。時は明治10年。学校教育の内容についてもまだ模索の時代だと思います。
そして、群馬県内のすべての町村名1037をすべて書かせようというわけではなく、これまた凡例の同条にあるように、学校の所在地近辺の2つか3つの郡を選択すれば良いことになっています。それも、1年で1郡。これでもまだ多いかもしれませんが。
教師が子供たちに習字帖の村名を書かせるに当たって、「5ページの1行目の2つ目の村の名前を書いてみましょう」などと言いますかね。「5ページの1行目の2つ目の村は○○村と読みます。これを書いてみましょう」と言うのではないでしょうか。教壇に立つ教師にとっては、やはり正確な村名の読みは必要と考えます。
140年も経った現代の目で価値判断するのではなく、生まれたての近代国家がどのように教育について考えていたのか、その試行錯誤の一端を伺い知る資料としても貴重と思います。
投稿: 玉村の源さん | 2018年11月19日 (月) 02時04分
興味深く拝見しました。
該当資料は国会図書館のデジタルライブラリーで
「群馬県師範学校」で検索できる最も古いもののようです。
『習字帖』の方はありませんでした。
「群馬県師範学校」で次に古いのは
明治14年の化学の教科書(訳書)でした(元素表付き)。
「女子師範」で検索しても、明治10年の東京女子師範の資料の後、
明治12年の石川県師範学校の本が出て来ますので、
県の師範学校が刊行した資料として最も古いものの一つと言えると思います。
投稿: 源さんの後輩 | 2018年11月19日 (月) 23時04分
源さんの後輩さん
コメントをありがとうございます。
明治10年の刊行ということで、ずいぶん古いとは思っていましたが、県の師範学校が刊行したものとしては最古級でしたか。貴重ですね。
私は教育史について全く無知なのですが、こういった本は師範学校の教科書として作られたのでしょうか。どちらかというと、実際に教師として教壇に立つようになってから役に立つ本のような気がします。
当時の師範学校は男女別学だったとすると、この本の持ち主の萩原アサ女さんは、教壇に立つようになってからこの本を購入したのか、あるいは女子師範学校でもこの本を教科書として使っていたのか、分からないことだらけです。
興味深い資料です。
お金のことを言ってはナンですが、この本、ネットオークションに1000円で出品され、私しか入札しなかったので、その金額で落札できました。(^_^) ラッキーでした。
投稿: 玉村の源さん | 2018年11月19日 (月) 23時35分
確認不足で失礼いたしました。
群馬県の女子師範学校が認可されたのは明治34年のようですね。
お名前の方が所持していらしたのは、資料そのものの刊行から
少し後のことではないかと思われます。
確かに、化学の本が明らかに師範学校の教科書として
発行されているのと、この資料とでは、性格が異なりますね。
師範学校刊行というところから見て、教育の質を揃えるための
一助とすることを目的とした、教員用手引書のように
思えます。「授業之枝折」という書名も、
師範学校内の教授法の科目用ではなく、教員用ではないかと
思いました。(洒落た書名ですね)
凡例にある、授読をして暗記または暗唱させるというのは、
藩校などの漢文の教育方法に倣ったものではないかと思います。
明治初期の教育は、新しい科目や知識もある一方で、
それまでの藩校や私塾の方式も継承しています。
近隣の地名の読み書きが出来るようになった子供は
その知識を生活や実務に生かしたのでしょうか。
商店の丁稚なら、商品の届け先の地名が読めたり書けたりする
ことは大事なことでしょうね。
(明治時代の算数では、複利計算の方法を教えていたこともあったようです)
投稿: 源さんの後輩 | 2018年11月20日 (火) 00時36分
源さんの後輩さん
ご教示をありがとうございます。
群馬県の女子師範学校が認可されたのは明治34年でしたか。大分くだりますね。当時は、師範学校を出なくても教員になる道はあったのですよね。正式な教員でなくても代用教員とか。
明治22年に全国規模の大規模な町村合併が行われ、群馬県でも1000以上あった町村が200ちょっとに再編されますので、この本も明治22年以降は使われなくなってしまったかもしれません。消滅してしまったたくさんの町村名も、あらかたは大字として残ったのではありますが。
そういった点でも、あの本は明治22年以前の町村名の読みを網羅した資料として貴重です。
仰るように、師範学校編纂の本の中に、師範学校の教科書として作られたものと、教壇に立つ教員用として作られたものと、両方あったと考えるとよく分かりますね。「授業之枝折」という書名、ほんとおしゃれですね。
明治初期の教育方法が、江戸時代の素読の伝統を受け継いでいるとのご指摘、なるほどと思いました。明治になったからといって、教育方法を短時間にガラッと変えることは難しいですよね。徐々に変えていったのでしょうね。
近隣の地名の読み書きができるようになることは、実用的で、有用だったことでしょうね。
かねて思っていたのですが、昔の郵便配達員ってすごいと思います。宛先の住所氏名は毛筆で達筆で書かれているものが多いですよね。くずし字をよく読めたものと感心します。恥ずかしながら、私、務まらないかもしれません。(^_^;
あの本の凡例にある『上野村名習字帖』という本、ひょっとしたら行書や草書で書かれているのかもしれませんね。
投稿: 玉村の源さん | 2018年11月20日 (火) 01時17分
源さんの後輩さんのコメントを拝見して、考えが変わりました。
『上野村名習字帖』は習字の勉強と地名の勉強とを兼ねた一石二鳥を狙った本だと思っていましたが、そうではなくて、居住地の近隣の村名をちゃんと読めて書けるようにすることを目的とした本なのかもしれませんね。
日本地理や世界地理を学ぶ科目もあったことでしょうが、それと並行して身近な地名の読み書きもきちんとできないといけないので、それを学ばせようとしたのではないかと思えてきました。
当時の子供たちの多くは、尋常小学校を卒業すれば、もう社会に出たのでしょうから、そこですぐに役立つ勉強が必要だったのでしょうね。源さんの後輩さんが例として挙げられた商家の丁稚さんになる子どもも多かったことと思います。
やはり同時代資料は貴重です。←どうしてもそこに行き着く。(^_^)
投稿: 玉村の源さん | 2018年11月20日 (火) 14時30分
勝手な推測が多少はお役に立ったようで、幸いに存じます。
代用教員のことはご指摘まで気づきませんでした。
明治22年に再編、と書いていらしたので、明治10年から22年までしか
使わなかったのか、と一旦は思いましたが、「あらかたは大字として
残った」となると、学校では、実用上の必要性や、本が貴重だったことから、
引き続き使っていたかもしれないとも思いました。
女性の方で、お名前の記載だけでなく、印もお持ちだというのは、
教員だからでしょうか。明治10年代ではかなり珍しいように思いました。
小学校を修了してからの仕事として旅館も考えましたが、
泊まり客の宿帳が読めるためには近隣の地名だけでは不足でしょうから、
商家の配達や仕入れの記録、伝票と商品の照合(どこどこの何屋が持ってきた
品物、など)の方がより需要がありそうだと思いました。
お書きになっていた郵便の配達は、確かに行書が読めないと務まらないですね。
医師のベルツは明治20年代ごろ、東京から軽井沢まで汽車で来て、それから
馬で草津に入ったそうですが、汽車に関わる仕事(貨物の仕分けなど)も
荷札に書かれた近隣の地名が読めることが必要だったかもしれません。
近隣の地名という点は、小学校修了後に就く仕事の、当時の職業上の
行動範囲と呼応しているのかもしれません。
学校で3年にわたって学習するようですから、単に子供の興味関心を
持つものという教材ではなく、教える必要性が高いものと
認識されていたような気がしました。
投稿: 源さんの後輩 | 2018年11月20日 (火) 23時06分
源さんの後輩さん
本当にありがとうございました。
考えが深まりました。
俗に「読み書きそろばん」などと言いますけど、現代と違って、主な筆記具が毛筆で、文字も変体仮名あり、くずし字ありという環境では、「読み書き」の習得もなかなか大変だったことでしょうね。
学校で漢字を教えるにしても、個々の漢字の使用度数データもなければ、常用漢字も教育漢字も、その学年配当もない時代ですから、漢数字や年月日、春夏秋冬、東西南北、十二支等々、日頃目にすることの多い、身近な漢字から教えていったことでしょう。近隣の地名なども、その1つだったのかもしれませんね。
萩原アサ女さんのハンコ、興味深いですよね。
投稿: 玉村の源さん | 2018年11月21日 (水) 00時27分
面白い資料、そしてコメントのやりとりも含めて興味深く拝見しました。
教養って、生きる力の基礎なのだと改めて思いました。
単なる情報とは違うんですよね。
投稿: 朝倉山のオニ | 2018年11月21日 (水) 01時23分
朝倉山のオニさん
コメントをありがとうございます。
そして、やり取りをご覧いただきましてありがとうございます。
ほんと、面白い資料ですよね。やはり同時代資料は貴重と思います。←まだ言ってる。(^_^;
明治新政府の誕生からまだ10年なんですよね。江戸時代以来の教育法の歴史もあるでしょうし、新時代に相応しい教育法も模索しなくてはならないし、様々な試行錯誤が行われたことでしょうね。
教養が生きる力の基礎って、確かにその通りですね。持っている知識・情報の多寡ではなく、もっと大切な根源的なものと思います。
投稿: 玉村の源さん | 2018年11月21日 (水) 01時55分