「東国千年の都」展2018
昨日、前橋で仕事の日でした。帰りにこういう展覧会に行ってきました。
前橋市・高崎市と両市の教育委員会が主催で、毎年この時期に開催しています。会場は前橋プラザ元気21の1階で、1月6日から1月16日まで。その後、高崎シティギャラリー2階で、1月20日から29日までです。
会場は、ストロボをたかなければ撮影OKでした。嬉しいです。
多胡碑のレプリカもありました。
山王廃寺で発掘された瓦も出展されていました。「放光寺」とヘラ書きされています。
上野三碑の1つ山上碑に、この碑を建てたのは「長利」という名の「放光寺」の僧とあります。この放光寺がどこにあったのか不明だったのですが、山王廃寺から「放光寺」とヘラ書きされた瓦が出土したことで、山王廃寺(仮称です)の正式名称が「放光寺」だったことが判明しました。その瓦です。
以前、この瓦の写真を本かパンフレットから取り込み、それを、授業や公開講座等で使ってきました。何から取り込んだのか既に分からなくなってしまっていて、出典も示さずに。(^_^;
今後はこの写真が使えます。(^_^)
4隅に「方光」というスタンプの捺された瓦もありました。
「山字」と書かれた土器片も。
和名抄の多胡郡の項に「山宗[也末奈]」という郷名があります(東急本と古活字本)が、これが高山寺本では「山字[也末奈]」となっています。これと関わるかもしれません。
行った成果が大いにありました。
竈も復元されていました。
貧窮問答歌にうたわれたのもこんな感じのものだったのでしょうかね。
上級役人の食事。
下級役人の食事。
庶民の食事。
庶民の食事ではタンパク質や脂肪はほとんど摂れそうにありませんね。上級役人の食事や下級役人の食事も野菜中心のようにみえます。
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>和名抄の多胡郡の項に・・・行った成果が大いにありました。
なるほどねえ・・・このような資料も大切にしなければならないものですねえ。
そういえば・・・古京遺文なんてものもありますからねえ。
投稿: 三友亭主人 | 2018年1月13日 (土) 20時45分
三友亭主人さん
木簡や金石文も貴重ですが、こういった土器も価値がありますね。
やはり文字資料は貴重です。←どうしてもそういう方向の結論になります。(^_^)
新しいものがどんどん出てくるというのも嬉しいです。
投稿: 玉村の源さん | 2018年1月13日 (土) 21時20分
土器片の文字は「崇」字である可能性は檢討されたのでせうか。
投稿: 筒井茂徳 | 2018年1月13日 (土) 23時43分
筒井先生
ご指摘頂き、ありがとうございます。
会場の説明札には、断定的に「山字」と書いてありましたが、確かにこの2文字だとすると、上の「山」字が扁平すぎるといいますか、下の「字」字に比べて、あまりにも高さが短い気がします。
また、ウ冠の下の部分、縦画が上の横画の上に突き出ているように見えますし、右横に打ってあるような点も気になります。
どうも簡単に「山字」とは決めかねるように思えています。
投稿: 玉村の源さん | 2018年1月13日 (土) 23時56分
これだけでは何とも言へませんが、「山宇」二字とすれば、ウ冠の第一畫を上の「山」にくつつけて書くことに不審な感じを覺えたといふわけです。
投稿: 筒井茂徳 | 2018年1月14日 (日) 15時11分
筒井先生
ありがとうございます。
この件、話せば長いことながら、多胡碑の内容と重なる続日本紀の「上野国甘良郡の織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡の武美、片岡郡の山等の六郷を割きて、別に多胡郡を置く。」(続日本紀 和銅4・3・6)という本文と関わります。
ここにある六郷の最後の「山」という1字の郷名が不審で、これは「山等(ヤマラ)」なのか、あるいは続日本紀書写段階での誤脱で本来は「山名・山奈・山那・山字(ヤマナ)」なのか、さらにあるいは本来は「山部(ヤマベ)」とあるべきところ、続日本紀編者が桓武天皇の名「山部」を憚ってあえて「山」としたのか、などのいずれであろうかと考えられています。
その手がかりを求めていましたので、この土器片の文字に「おお!」と思ってしまったという次第です。虚心坦懐に対象と向き合わねばならないところ、眼が曇りました。(^_^; ひょっとしたら、この土器片を「山字」と釈読した人も同様だったかもしれません。
出土地が書いてありませんでしたので、それ次第では多胡郡の郷名と結びつくかどうかさえ分からないのですが。
投稿: 玉村の源さん | 2018年1月14日 (日) 15時46分