ナゾの木簡
昨日ご紹介した木簡パスポートの続きです。
あの木簡パスポートは、実在する木簡を複製したものなのかどうか調べてみました。
こういう調査は簡単です。奈良文化財研究所のサイトで木簡データベースを検索すればすぐに分かります。便利な世の中になりました。
検索した結果、ぴったりなものはありませんでしたが、よく似たものが1件見つかりました。滋賀県の鴨遺跡から出土した木簡です。この木簡のことは『木簡研究』の第2号と『日本古代木簡選』(岩波書店)とに掲載されていることも分かりました。『木簡研究』は昨日見ることができましたが、図版は掲載されていませんでした。今日、『日本古代木簡選』を見て来ました。こちらには図版が載っていました。
文字はよく見えませんね。
収録されていた釈文は次の通りです。
(上部)遠敷郡/(下部1行目)遠敷郷小丹里/(下部2行目)秦人足嶋庸米六斗
鴨遺跡木簡と木簡パスポートとを並べてみます。
形状は大変によく似ています。サイズも、鴨遺跡木簡が160mm×32mm×6mmであるのに対して、木簡パスポートは160mm×30mm×6mmです。幅が木簡パスポートの方が2mm短いだけで、あとは同じです。
木簡パスポートのモデルは鴨遺跡木簡と考えてよいでしょう。本文は、上部が鴨遺跡木簡では「遠敷郡」であるのに対して、木簡パスポートでは「若狭国遠敷郡」となっており、「若狭国」が加筆されています。下部の1行目は両者同じです。下部の2行目は、鴨遺跡木簡が「秦人足嶋庸米六斗」であるのに対して、木簡パスポートは「秦人庸米六斗」となっており、「足嶋」という人名がカットされています。
「若狭国」を書き加えたのは、博物館の名称が福井県立若狭歴史博物館だからではなかろうかと思います。
「足嶋」をカットしたのは、フルネームだと個人情報保護の観点から問題が生ずるからでしょう。
……なんてはずはありませんね。(^_^)
「若狭国」を書き加えた分、どこかを削る必要が生じたからでしょうか。
博物館などで、実物の代用として展示するレプリカは、限りなく実物に近いことが求められましょうが、今回のような木簡パスポートは、それとは性格が異なりますので、改変しても良いということでしょう。さらに言えば、複製と贋作とは紙一重でもありますので、現物の趣は残しつつも、あえて現物とは違ったものとして作成したということがあるのかもしれません。
なかなか面白いことが分かりました。
でも、鴨遺跡木簡そのものについて、もっと興味深いことがあります。
この木簡には「遠敷郡遠敷郷小丹里」とあります。郡郷里制下のものですので、この木簡の時代は霊亀三年(717)~天平十一年(739)と考えられます。ところが鴨遺跡木簡の時代は、伴出土器の年代から九世紀後半と考えられるとのことです。しかも同じ出土層から貞観十五年(873)の年紀のある木簡が出土しているということです。この100年以上(150年を越えるかもしれません)の年代のズレをどう理解すればよいのか。
さらにもう1つ。なぜこの木簡がこの遺跡に埋っていたのか。この木簡は文面から荷札であることが明らかです。荷札であれば、諸国から都へ税として運ばれる物産に付けられ、都に着けば、役目を終えて廃棄されるか、あるいは表面を削って再利用されたことでしょう。従って、荷札木簡は一般的に終着地(藤原京、平城京など)で出土します。
鴨遺跡は琵琶湖の西岸、北の方に位置します。若狭から都への道中です。どうしてそこからこの木簡が出てきたのか。輸送中に落ちたのかと考えましたが、路傍に落ちたのなら、その場で長年月を経て朽ち果てたことでしょう。遺跡から出土することはありますまい。
都へ輸送中に賊に襲われて奪われたのでしょうかね。鴨遺跡は賊の根拠地だったとか。
2つ、大きなナゾです。
『木簡研究』も『日本古代木簡選』も、ともにそのナゾに触れてはいますけれども、どう理解すべきか苦慮しているようです。『木簡選』には、「(地名の記載方法から推定される年代と)伴出遺物から推定される年代との間の差をどう考えるかは、遠敷郡の庸米が何故ここで消費されたかという問題とともに、この遺跡の性格を考える場合に重要であろう。」とあります。2つのナゾはリンクしていそうですね。この遺跡は、部分的にしか発掘されておらず、「面的に遺構の性格を追求する調査は実施されていない」とのことです。
興味深いですねぇ。昨日、予告して1日お待ち頂きましたけれども、ご期待に添えたのではないかと思っています。(^_^)
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若狭国遠敷郡(小浜市)って、お水取りのときに水を送る井がある所ですよね。 玉屋本系の日本書紀(私が見たのは蓬左文庫本)の奥書にも名前が見えていたような……。こちらはうろ覚えですが。
投稿: 惟光(天爵露城) | 2017年3月28日 (火) 22時37分
惟光さん
コメントをありがとうございます。
はい。若狭国の中央部を占める、多分若狭国の中で一番大きな郡だったと思います。
お水取りの水はここから運んだのですか。それは全く知りませんでした。お恥ずかしい。(^_^;
ルートは、いわゆる鯖街道と重なるのでしょうかね。
木簡パスポートのモデルとおぼしき木簡が出土した鴨遺跡は高島郡です。
投稿: 玉村の源さん | 2017年3月28日 (火) 22時50分
>お水取りの水はここから運んだ
東大寺二月堂の近くには若狭井という井戸があります。この井戸から水をとることが基本的には「お水取り」となるのですが、この若狭井は地中にて小浜の遠敷川の上流の鵜の瀬とつながっているとされ、これを通じて水が送られると言われています。ですから、お水取りの儀式が行われる10日前の3月2日にはお水送りの儀式が行われています。
投稿: 三友亭主人 | 2017年3月29日 (水) 06時55分
三友亭主人さん
コメントを戴きましてありがとうございます。
若狭井のこと、存じませんでした。不勉強を恥じ入るばかりです。惟光さんのコメントにある「水を送る井」というのは、若狭井への発信地の井戸の意味だったのですね。誤解してしまいました。
若狭国と東大寺との只ならぬ関係を思います。
1月に愛知大学で開催されたフォーラムでの発表準備の過程で、今までに発掘された「御贄」木簡を国別に数えました。一番多かったのが参河国で、2番目が若狭国でした。
若狭、興味深いです。
投稿: 玉村の源さん | 2017年3月29日 (水) 11時38分