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2017年1月31日 (火)

穂の国豊橋&大失態

 豊橋駅構内でこのような看板を見ました。「ほの国 豊橋」とあります。
Honokuni01
 このような行き先表示板も。「穂の国とよはし芸術劇場」です。
Honokuni02
 また、駅の近くには「ほのくに百貨店」もあります。

 このように、豊橋では「穂の国」という呼称が目に付きました。

 国造本紀に諸国の国造が地理的な順に排列されていて、東海道には、尾張国造-参河国造-穂国造-遠淡海国造、という順に並んだ部分があります。かつては参河国と遠淡海国との間に穂国があったのでしょう。

 やがて律令時代になると穂国は参河国に吸収され、「穂郡(ほのこほり)」となりました。位置は参河国東部、今の豊橋あたりです。

 平城遷都の頃、郡郷名は漢字二字の好字で記すことになり、この郡の表記は「宝飫郡」となります。こう書いても、読みは「ほのこほり」だったことでしょう。「飫」は「あきる」「たべあきる」という意味の漢字ですので、「宝飫」は宝がありあまるほどある、といった意味になりましょうか。好字ですね。(^_^)

 ところが「飫」という文字はあまり使われない文字である故か、誤写されて「宝飯郡」となり、読みも「ほい」となったようです。

 現在の「穂の国」アピールは古代回帰でしょうか?

 「宝飫」という表記は、「木国(きのくに)」を「紀伊国」と表記したのと同様のパターンです。「ほの国」はこの地では「ほぉ」と発音したからこそ、「紀伊型」による二字化が可能だったと推定されます。これが「紀伊型」地名表記の東限で、フォッサマグナの西に当たる、といった話を先日のフォーラムでしました。もう1つ、越後国頸城郡にもこのパターンの郷名表記があります。その地は糸魚川よりもやや東に位置しますので、フォッサマグナの西縁よりは東ですけれども、フォッサマグナ地溝帯の中には入ります。

 以上のようなことは、先日、当ブログに載せたレジュメに書きました。

 さて、ここからが大失態の話になります。

 昨夜、蜂矢真郷先生からメールを頂きました。蜂矢先生は当ブログに掲載のレジュメをご覧くださったのです。

 「紀伊型」の郡郷名には、もう1つ遠江国引佐郡渭伊郷がある、遠藤邦基氏に先行論文がある、という2点のご指摘を頂きました。

 早速両方確認致しました。

 私の大失態でした。今回の発表は、古代における参河と遠江との関係を考えてみようということで、「紀伊型」地名の分布は参河以西に限られるというのはその1つの論点です。西日本のどこかの郡郷名を見落としたのならば(こう言ってはナンですけれども)さしたることはありません。でも、よりによって、遠江の例を落とすとは……。この例をわざと隠したとさえ思われかねません。

 いえ、NHK大河の直虎を見ていて、「井伊」もひょっとしたら「紀伊」と同じパターンかもしれないなぁと思い、会場でもそのように発言したのですが、「井伊」の地名は後世のものと勝手に思い込んでいました。まさか和名類聚抄にすでにあったとは(表記は「渭伊」ですけれども)。

 あれこれ悔まれます。

 そして、遠藤氏の論文(昭和53年のものです)には、「紀伊型」郡郷名(こういう用語ではありませんが)は、遠江以西に偏在しているということが明記してありました。

 蜂矢先生は、「渭伊」については、「遠江の例とは言っても、三河にかなり近いところです。」と言ってくださり、遠藤論文についても「著書に収められていない(多分ですが)ためか、意外に知られていません。」と、それぞれにフォローしてくださり、ありがたいことと存じています。

 今後はもっと慎重であらねばと深く反省しています。

 ただ、不幸中の幸いだったのは、今回の発表は単行本に収録されることになっており、そこで訂正することができることです。蜂矢先生がご教示くださったお蔭で、訂正が可能になったことは何ともありがたいことでした。改めて御礼申し上げます。

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コメント

以前,三河とは3本の大きな川があるからと思っていました。
矢作川,豊川,そして境川(尾張・三河国境)。
でも,三河とは本来西三河の地域を指し,御河を意味するのではないかと言われています。
東三河は穂の国です。
近年,豊橋や豊川では,さかんに「ほの国」を強調しています。
これも地域おこしの一環だと思います。

北川先生の,「穂(ほ)」が「ほお」となったという説に納得しました。
豊川(とよがわ)も穂の国の川で「ほお川」だったかもしれません。
井伊谷でもそのようなことばの変化があったということは,とても興味深いです。

萩さん

 律令制以前の三河に後の東三河の地が含まれていないとすると、三河の語源を矢作川・豊川・境川の3川があるからという語源説は成り立たなくなりますね。

 東三河の設楽郡は延喜3年(903)に宝飯郡から分離して成立した郡だそうですから、それ以前の宝飯郡(宝飫郡)、その前身の穂の国はかなり広い地域を占めていたのでしょうね。

 近年、「ほの国」を強調しているのは、西三河とは違う、まして尾張とも違う、というこの地域の独自性のアピールなのでしょうかね。「穂の国」という名称も、実り豊かな土地といったイメージを喚起しますよね。また、かわいらしい響きもあるように思います。(^_^)

 豊川がかつては「ほお川」と呼ばれていたかもしれないというお考え、なるほどと思いました。その可能性は大いにありそうですね。

 井伊谷のことはフォーラムでも発言はしながら、深く考えたり調べたりしなかったことが悔まれます。(^_^;

いやあ~、源さんでもこんなこともあるんですね。
私なんか先日のレジメを拝見して「ふむふむ、なるほど・・・」と感心しきりでしたのに。
まあ、私のようなものがここまでのことに気が付くはずもないんですが・・・

それにしても、こうやってご指摘いただける方がおられるというのはありがたいことですね。

これも、ひとえに源さんの御人徳・・・

三友亭主人さん

 いやぁ、返す返すもお恥ずかしいことでした。

 渭伊郷を見落としたのは全くの不注意でしたが、20ほどもある例の中で、どうしてよりによって遠江の例を落としたのかと……。(^_^;

 遠藤邦基氏の論文を見落としたのは不勉強によるものです。先行研究のチェック、恐ろしいほど足りていません。(^_^;

 蜂矢先生がわざわざ御教示くださったことは本当にありがたいことでした。私の人徳ではなく、蜂矢先生のご人徳です。(^_^)

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