« 「いける」考 | トップページ | 忌詞「あたる」考 »

2016年8月17日 (水)

明治15年の旅行本で野蒜を発見

 しばらく前に、「文明講」「真誠講」という記事をアップしました。明治初期の、旅行案内・宿屋案内といった内容です。

 同様の資料をまた1冊手に入れました。今回のは明治15年の『神宮教会 神風講社定宿 一新講社』という標題のものです。これには東海道や伊勢への道も載っていますが、東北・関東が中心で、香取・鹿島への道、日光への道、善光寺への道などが載っています。
M15isshinko01
 おなじみの、玉村、新町、倉賀野、高崎、伊香保などの地名も見え、親近感が持てます。(^_^)

 この資料のことはまた取り上げるかもしれませんが、これに載っている「のびる」に目が留まりましたので、まずはそれを。
M15isshinko02
 野蒜という地名は、5年半前の3.11で初めて知りました。そして、三友亭主人さんのブログでも。

 松島と石巻との中間に位置する土地ですね。

 位置的に漁業の町という印象を持っていましたので、宿場のリストに載っていることがちょっと意外でした。でも、別に漁業の町でもあり、かつ宿場でもあってもいいわけですから、意外に思う必要もなかったのですが。

 宮城-てたる村-のびる-潜浦-小野-やもと-石の巻という順で載っています。それぞれの地名の下に業者名が載っていて、その上に小さく丸印が付いています。巻頭の凡例に依れば、黒丸は「泊」、白丸は「休」です。のびるは白丸ですので、旅館ではなくて、お休み所のようです。

 これらの地名の位置を現代の地図で調べてみました。

 「てだる」は「手樽」と書くのですね。手樽・野蒜・小野・矢本・石巻は線上に載ります。石巻街道上の地でしょうか。芭蕉の奥の細道の旅もこのあたりを通っているようですね。

 潜浦だけがなかなか見つかりませんでした。さらによくよく探してみると、野蒜の南、陸続きに行けるようではありますけれど、宮戸島という島の中に潜ヶ浦という地名が見つかりました。野蒜から小野へ行くには完全に方角違いです。野蒜から潜ヶ浦に行ったあと、潜ヶ浦から小野へは舟で行くようですね。

 この寄り道はなんなのでしょうか。潜ヶ浦は風光明媚な地なのでしょうか。宮戸島を挟んで西が松島湾、東が石巻湾です。潜ヶ浦は東側なので、潜ヶ浦から松島がよく見えるというわけではなさそうです。

 三友亭主人さんから解説をいただけると幸いです。

« 「いける」考 | トップページ | 忌詞「あたる」考 »

史料・資料」カテゴリの記事

コメント

最初の地名は「宮城」ではなく、「高城」と書いてあります。それはともかく早稻田のライブラリで、前年の明治14年版が見られます。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_03617/ru03_03617_0007/ru03_03617_0007.html

内容は小異があり、「潛浦」も14年版では「潛ヶ浦」と記してあります。

探してゐませんが、國會圖書館デジタルコレクションでも見られるかも知れません。

前コメントを送信後、もしやと思つて源さんの15年版を凝視すると、やはり「潛ヶ浦」となつてゐました。

筒井先生

 コメントをありがとうございます。

 御教示、ありがとうございます。高城の誤読、お恥ずかしゅうございます。(^_^;

 ううむ。潜ヶ浦もよくよく見ると確かに「ヶ」が書いてありますね。

 以後、もっと慎重に記事を書くことに致します。

これはまた興味深いものを、ありがとうございます。

潜ヶ浦についてですが、地図などには「潜ヶ浦」とあることも多いのですが、地元では「かつぎうら」と発音するのが普通だったように記憶します。戦後、干拓されて陸になっている部分が多くなっているのですが、かつては深く切り込んだ浦になっていてそれなりの風光だったのでは。ちょいと長いリンクになりますが明治40年ごろの地図では次のように確認できます(ちなみに手樽もかつては大きな浦で今の陸地は戦後に干拓されたものです。)。
http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=38.35525761397746&lng=141.15205737768554&zoom=14&dataset=tohoku_pacific_coast&age=0&map1type=roadmap&map2type=roadmap&dual=true&mapOpacity=10&altitudeOpacity=4

ただ、風光明媚な場所で休憩といっても、先に行ってしまえばいいわけで、わざわざ引き返す必要もないわけですから、順番が逆になっているのはおかしいですね。野蒜から小野に行くための橋は、かなり川上の方にあり、あるいは鳴瀬川の河口付近から船で小野に渡るってことがあったかもしれません。そうすると、潜ケ浦からは東名運河を通って鳴瀬川に出て、そこから小野へ行くというルートも考えられなくはないですが、野蒜の鳴瀬川河口部から直接小野に行くという渡し船があってもおかしくはないですからねえ・・・「?」です。

この地域は明治政府によりかなり大規模な築港計画が明治の初年にあったのですが、これが成功していれば横浜なみの港湾都市が成立していたと小学校(中学校だったかな?)の時に教わりました。明治15年と言えばその第一期工事の野蒜港の突堤が完成し、新鳴瀬川口事業が完了した年でした。
http://members2.jcom.home.ne.jp/walklandsendai/nobirutikkoutop.html

そうなると工事の人足やらなんやらで多くの人々が、江戸時代には伊達藩内随一の寒村に集まるようになりました。その人出を見込んで、人足の宿泊所はもちろん、その遊ぶための施設が出来、繁盛を極めていたそうです。これははっきりした記憶があるのですが中学校の先生にかつては「野蒜掃くには箒は入らぬ 着物の裾で掃けば良い」という古謡もあったそうです。

実は、我が祖先もその一画を担っておりまして、河口部に近い新町というところで遊郭を営んでいたそうなんです。そこで興味深いのは野蒜の所にあった「尾形某(すみません、崩し字はどうも苦手でして)」という休息所(宿?)。実は私の旧姓が尾形なんです。ですからひょっとしてという思いがあります。

野蒜は今は隣の矢本と一緒になって東松島市になっていますが、かつては鳴瀬町という町の一部でした。その鳴瀬町という町は尾形という姓が多く、私の家の並びは9軒続いて尾形さんでした。小学校でも20数人しかいない1つの教室に7人も8人も尾形君・尾形さんがいたものです。この野蒜の「尾形」には2つの流れがあって、もともと野蒜にいた尾形と、隣の矢本町の北浦(記憶が曖昧ですが)から移り住んだ尾形があったそうで、私の家は後者に当たります。時代がだいぶ下りますが、前者の尾形さんには野蒜駅前で食堂を営んでいた方がおり、これを遡れば茶屋であった・・・なんても考えられますし、休息所を遊び場と考えれば遊郭もそれに相当する・・・となると我がご先祖がこれに相当することになります。

いずれにせよ、思ってもみないところから我がご先祖様のことを思い出しました。ちょいと調べてみる価値が・・・私にはありそうです。

ついでを言えば矢本の「大江某」、石巻の「星某」・・・この名も何となく心当たりのある姓なので、ひょっとして、なんて思っています。

矢本の大江某は音三郎・石巻の星某は雄吉でしょうか・・・?ちなみに、石巻街道は松島を通過後、海岸線から離れ野蒜の北方を通過していますので、この案内は、野蒜の部分だけ石巻街道から外れ海岸線に道をとるように案内してあるように思います。けしきのいいところをえらんだのですかね?

三友亭主人さん

 大変に詳細なコメントをありがとうございます。

 「のびる」という地名に反応してアップした記事でしたが、三友亭主人さんにとって意味深い資料になりそうで、幸いです。

 今と当時とは地形が違うのですね。これは考えなくてはいけない事柄でした。

 また、地名は形のない文化財と言われますが、苗字も同じですね。三友亭主人さんのご先祖様、あるいはその一族に連なる可能性のある人名が記載されているのですね。

 私も、崩し字は苦手です。自信はありませんが、野蒜の人名は尾形長作と読みましたが、さて? (^_^;

 地図を見たり、また三友亭主人さんのコメントを拝見しますと、野蒜は石巻街道のルートから外れているというほどではありませんけれども、やや南のように思えます。

 あの本の横罫線の位置が、のびると潜ヶ浦だけ1段下がっていますね。もしかすると、正規のルートは、「高城→てたる村→小野→やもと→石の巻」で、「のびる」と「潜ヶ浦」とは、そのルートからは外れたオプションなのかもしれませんね。

 お急ぎの方は手樽から小野へ。お時間があれば、手樽から野蒜または潜ヶ浦へ(あるいは両方へ)寄り道されては、ということのように思えてきました。

>野蒜の人名は尾形長作と読みましたが・・・

なるほど・・・そううかがうと「長作」のように見えてきました。そして・・・父親やおじ・おば、祖母の昔話にそんな名前が出ていたような記憶が・・・・こればかりは自信がありませんが、確か曾祖父かその上か、あるいは親戚筋か・・・・確かめようにも、頼みの父は今は会話が出来ない状態、お寺の過去帳もたぶん津波でながされていましょうし・・・

・・・ううむ、残念ですねえ。

ちなみに私が住んでいた頃の我が家は、慶応3年だったか4年の建物で、道に面した部分は女郎屋風の格子戸があり、二階の部屋などは時代劇の宿屋と同じように部屋のまわりを廊下が囲むような作りでした。

野蒜築港が駄目になってからは宿屋に転身したみたいです。一応戦前は東北志摩と観光地でしたから、大学の時に、国語学を教わった廣浜文雄先生(仙台のご出身です)が、野蒜という地名を聞いてしきりに懐かしがっておられました。

もしも築港がうまくいっていれば今頃私は大きな港湾都市の風俗業の社長の御曹司・・・かな(笑)

最もそうなれば、戦争の時焼け出されていたでしょうし、第一我が家の家計はどうも商売がうまくなさそうなので、私が生まれるまでには、その商売も破綻していたでしょう。

三友亭主人さん

 「長作」さんで正解だと良いのですが。(^_^; もし正解ならば、そのお名前を聞いたような記憶がおありというのは、楽しみですね。

 お寺の過去帳が失われていたとしたら残念ですが、お父様やお祖父様、おじ様などの戸籍が手がかりになるかもしれませんね。震災で失われていないと良いのですが。

 幕末維新の頃の建物が現役で使われていたというのはすごいですね。頑丈に造られていたのでしょうね。

 野蒜築港が中止になったかならなかったかで、多くの人の運命が変わってしまったことでしょうね。禍福はなんともですね。

尾形の名は善作、大江は幸三郎です。

筒井先生

>尾形の名は善作、大江は幸三郎です。

そうでしたか、ありがとうございます。「善作」さんの方はまた地元の親戚にたずねてみようかと思います。というのは・・・親戚筋の方の話でそんな名前が聞いたことがあるものですから・・・・
矢本の大江さんはちょいとしたご一党さんでしてそのうちの一人に知り合いがいましたのでおやっと思ったのです。

筒井先生

 ご教示ありがとうございます。
 ほんと、崩し字が読めなくてお恥ずかしいです。
 自信のなかった「作」は正解のようで、ほっとしています。そんなレベルです。

三友亭主人さん

 善作さんの方にも聞き覚えがありますか。それはぜひ探索してみてください。
 大江さんの方も繋がりがありそうですね。


コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/595051/64074028

この記事へのトラックバック一覧です: 明治15年の旅行本で野蒜を発見:

« 「いける」考 | トップページ | 忌詞「あたる」考 »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

ウェブページ