よろい人骨は伊那谷出身?
昨日付のアサヒコム群馬に「よろい着た古墳人、長野から移住? 渋川の遺跡」という記事が載っていました。
それによると、16日(水)に県埋蔵文化財調査事業団と県教育委員会とが開いた調査検討委員会で、金井東裏遺跡から発見されたよろい人骨が長野県南部の伊那谷周辺から移住してきたグループの一員だった可能性のあることが報告されたそうです。
よろい人骨が長野県出身ではないかということは、平成26年11月にも発表されたことで、当ブログでも「金井東裏遺跡よろい人骨の出身地」と題して新聞記事を紹介しました。
出土した人骨のDNAやストロンチウムの同位体を分析した結果、男女2体の人骨には血縁関係はないが、ともに幼年期に榛名山周辺とは地質が異なる、同じ地域で育ったとみられることが明らかになったそうです。
そして、その地域は、長野県南部の伊那谷が「有力な候補地」とみられるということです。前回は「長野県」という地域名があがっていましたが、今回は「伊那谷」というより絞り込まれた地名があがっています。
その理由としては、
①分析結果と合致する白亜紀の花崗岩(かこうがん)地質がある
②当時、伊那谷には渡来系の人々が多く住み、馬の飼育が盛んだった
③群馬への移動が比較的容易
などだそうです。
どうなんでしょうね。やはり、「有力な候補地」の域を出ないものと思います。
金井東裏遺跡の集団は、伊那谷で馬生産に従事していた集団と頻繁な人的交流があったか、馬の生産拡大のため、伊那谷から集団で移り住んだ人々の可能性があると指摘している、ということです。
一方、よろい人骨の近くで出土した幼児の頭骨からは乳歯と永久歯とが見つかり、歯の生え替わる5歳前後だったことが分かったそうです。この幼児は、歯の分析から、育ったのは金井周辺だったとみられるそうです。
こんなに幼い子も溶岩流に巻き込まれてしまったのですね。痛ましいことです。
画像がないと寂しいので、ぐんまちゃんの画像を貼っておきます。
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伊那谷ですか。その情報は知りませんでした。県調査検討委員会ではいろいろ紹介されたんでしょうね。まぁ、そのうち一般の人も直接聞けるような会があるかな。
子どもが5歳というのは上毛にも読売にもありました。
読売は、男性の来ていた服が2枚、うち1枚が絹、もう1枚がカラムシとのこと。上毛のは、女性の首飾りが島根県産であることが中心でした。長野と島根というと、渡来人らしいとはいえ、出雲関連でしょうかね。
投稿: しーちゃん | 2016年3月19日 (土) 07時39分
しーちゃんさん
情報をありがとうございました。
興味深いです。
何紙か併せ見ると詳細が分かるのですね。逆に言えば、1紙だけでは不十分。(^_^;
各紙ともよろい人に割ける紙面が限られていて、ポイントを絞らないといけないということかもしれませんね。
投稿: 玉村の源さん | 2016年3月19日 (土) 07時52分