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2016年1月30日 (土)

多胡郡の法倉発見

 昨日付の複数のネット版の新聞記事(地方版が多いようです)によれば、1月28日に、高崎市教育委員会が次のような発表を行ったということです。

 その内容は、多胡碑周辺の遺跡調査で、同碑と同時代の巨大な倉庫遺構を発見し、それはその構造などから正倉(しょうそう)の中で最も格が高くシンボル的な倉に該当する法倉(ほうそう)と考えられること、そのことで、この場所が多胡郡の正倉院(倉庫群)であることがより確実になったと認定し、遺跡を「多胡郡正倉跡」と命名した、ということです。

 多胡碑の周辺は数年前から発掘中で、当ブログにも、2014年11月16日 (日)づけで、「多胡碑の近くで郡衙の正倉跡発見」という記事を載せました。

 それとの関係がいまいちよく分からないのですが、今回の新聞記事をよく読むと、どうも、正倉は2014年に初めて発見されていたものの、今回、正倉(複数あり)の中でも最も格調の高い法倉が発見され、法倉を含む遺跡(倉庫群)が「多胡郡正倉跡」と命名された、ということのようです。

 多胡郡の政庁はまだ発見されていないながら、正倉のすぐ近くにあったことは確実でしょうから、多胡碑はまさに郡役所の地に所在するということになりましょう。多胡碑は建郡記念碑と考えて間違いないのではないでしょうか。

 法倉の位置については、産経新聞では多胡碑の真南約200メートル、読売新聞では多胡碑の真南約300メートル、毎日新聞では多胡碑の南約350メートルとあって、はっきりしません。(^_^;

 現地説明会が今日と来週の土曜日とにあるそうです。今日はもう終わってしまいました。来週の土曜日に行くかもしれませんが、まだ分かりません。古代史ファンは多いので、山のように人が来そうな気がします。(^_^)

 うまくすれば、ぐんまちゃん列車に乗れるかもしれませんが。(^_^)

 画像が無いと寂しいので、多胡碑のそばにある楫取素彦の歌碑の写真を貼っておきます。
Katorikahi
 歌は、「深草のうちに埋もれし石文の世にめづらるゝ時はきにけり」です。

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古代群馬」カテゴリの記事

コメント

源さんは,多胡碑といい,楫取素彦関連の史跡といい
群馬県の歴史的遺産について
ずいぶんくわしいですね。
ブログでUPすることも,好影響ですね。

多胡碑の立地がとても重要な土地にあったということがわかりました。
数年前にバスツアーで見学にうかがったことが思い出されます。

萩さん

 多胡碑は古代日本語の貴重な資料ですので、院生の頃に群馬まで見に行ったことがありましたが、楫取素彦の方は、恥ずかしながら群馬に来て大分経ってから知りました。

 勤務先が県立の大学ということもあり、地域貢献で出前講座をすることも多く、それで上野三碑や上野国東歌にも多少詳しくなりました。

 今はもう平気ですが、地元の方の中に結構詳しい人もいるので、初めの頃は結構ドキドキものでした。(^_^;

 ブログで紹介することで、多少とも群馬のあれこれの宣伝になれば幸いです。

晴南さん

 多胡碑の所在地は多胡郡の郡役所と考えて間違いなさそうですね。

 政庁跡が見つかれば、木簡の出土も期待できるのではないでしょうか。私などは、建物よりもやはり字を書いたものに興味があります。(^_^)

 とはいえ、上野三碑は世界記憶遺産の国内候補に選ばれていますので、今回の発見は、来年夏に予定されている世界記憶遺産の審査にも好影響を及ぼすのではないでしょうか。できれば、来年夏までにもっと何か発見があればと願っています。

 上野国府も未発掘なので、いずれその発掘にも期待したいところです。

 バスツアーで、遠路お越し頂きましてありがとうございました。またお越しください。

このニュース、私もネットで知って興味深く思っていましたが、やっぱり「建物よりもやはり字を書いたものに興味があります。」・・・ですよね。地質の問題なんかもあるんでしょうが、おっしゃるように木簡なんかが出てきたら・・・楽しみですねえ・・・

三友亭主人さん

 ほんと、字ですよね。(^_^)

 今度の土曜日の現地説明会も、行くかどうか迷っているのは、現地に行っても、あるのは柱穴と礎石くらいだしなぁという思いからです。(^_^;

 そういえば、院生の頃に何人かで温泉に行った時に、一緒に行かれた恩師O先生が、横になってテレビの「シルクロード」(何度目かの再放送です)を見ていらした時に、敦煌莫高窟かどこかで文字の書かれた遺物が出土した話題になった時に、むくっと起き上がってテレビに正対されたことを思い出しました。(^_^)

 前回の11月の現地説明会には行けなかったのですが、今回は土曜日の午後行ってきました。

 駐車場から多胡碑の横を通って行きました。1300年前、新聞に載っていた正倉跡の場所は、鏑川の川原だったというのが衝撃でした。現在の鏑川はかなり北を流れています。そういえば、小石がごろごろしていて、礎石は大きく立派。

 正倉は高床式で、床は2メートルくらいの高さにあったそうです。正倉以外に瓦が出た場所や、かなり遠くに堀跡があり、広い場所にいろんな建物があったことがわかりました。文字はないけど、蓮の花模様の瓦です。

 まだまだ発掘は続くので、今後も何か発見があるかも。
 
 お忙しいでしょうが、よかったらお越しください。(寒い中、発掘の皆さんに敬意を表して)

しーちゃんさん

 おお! 行かれたのですね。(^_^)

 正倉跡の立地は川原ですか。それは新情報です。運送に水運を用いていたのでしょうかね。

 場所が、新聞によって、多胡碑の南200m、300m、350mとまちまちでしたが、今日18時40分からのNHKの群馬ローカルニュースでは、多胡碑から500mと言っていました。さらに説が増えてしまいました。(^_^;

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