磯部をゆく(1)温泉記号のナゾ
今日は磯部に行ってきました。本当は12日の群馬学連続シンポジウムの前に行きたかったのですが、時間が取れず、行きそびれてしまいました。群馬学シンポジウムは終わったものの、それを経たことで、さらに行きたくなりました。
当初予定していた23日(水・祝)は天気が悪かったために延期し、今日、やっと行けました。お天気も良く、風もなく、暖かな良い日でした。(^_^) 延期して正解でした。
目に付いたのは、「日本最古の温泉記号の地」のアピールです。
まずは、磯部駅前。格子状に見えるのは、ライトアップの配線のようです。最近、駅前広場をライトアップするのが流行っていますね。
そして、駅から5分ほどの所にある磯部公園の中央部にもこのような石碑が。
公園から西に降りていった所にある足湯の脇にも石碑が。柱との位置関係が悪いので、正面から撮れません。(^_^;
土地争いの判決を幕府が下した、その絵図にこのマークが付いているということで、ここの石碑にはその絵図が刻まれています。
町中の至るところに、この旗。町を挙げて「温泉記号発祥の地」をアピールしています。
それに水を差す気はないのですが、ちょっと引っ掛かるところがあります。
以前、当ブログの「磯部温泉のこと(3)」に書きましたように、磯部の鉱泉が大規模に噴出したのは天明3年(1783)のことのようです。ただ、安永3年(1774)以前に成立したとおぼしき『上野志』に「磯部村 此所塩の涌き出づる所あり。」と書かれていますので、安永3年以前にも、小規模にでも湧出はしていたのでしょう。でも、その湧出時期は、この絵図の描かれたという万治4年(1661)までさかのぼりうるものかどうか。だとすると、万治4年(1661)のものというこの絵図に温泉記号が描かれうるものかどうか。
(その後、「磯部温泉のこと(2)」を一部修正しましたように、『上野志』の成立年代は未詳とすべきことが判明しましたので、上文を修正しました。)
さらに不審なのは、今でこそ磯部は高温の湯が出て温泉になっていますけど、湯が出たのは近年のことで、それ以前は冷泉だったということです。大正12年3月刊行の『碓氷郡志』に磯部鉱泉の泉質分析結果が載っていて、そこには鉱泉の温度は「摂氏 一六度六」とあります。
温泉記号で3本ゆらゆらっとしているのは湯気でしょうね。16度6分では湯気は立ちますまい。
絵図にある温泉マークらしきものは、ひょっとすると90度ほど左向きに回転させて見るべきものかとも思いました。下のように。
これならば、ゆらゆらっとしているのは、湯気ではなく、湧出している鉱泉の流れと見ることができそうです。
でも、絵図には建物も描かれていて、その向きからは、このままが正しいようですので、不審が消えません。
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北川先生の鋭い目で,ぜひ疑問を解決してください。
国文学ではなく,歴史とか民俗の範疇かもしれないですが,
先生ならきっと真実に近づけるのではないでしょうか。
磯部温泉はぜひ泊まってみたいところです。
中山道歩きのときは,2回とも素通りでしたが
本当は,高崎泊でなく,磯部温泉に泊まりたかったです。
でも,ネットだと有名な宿泊施設は
1室2名なので,断念しました。
温泉マークが描かれたわけは,
鉱泉を湧かして入浴していたということでしょうか。
投稿: 萩さん | 2015年12月27日 (日) 17時03分
萩さん
磯部には初めて行きました。磯部煎餅の店が並んでいたりして、温泉街という感じの所でした。
日本旅館の他にホテルもありましたが、それらもいわゆるシングルはないのですか。それではみすみすお客さんを逃すことになりそうですね。
鉱泉がいつ頃から湧き出していたのかはまだはっきりしないのですが、入浴するようになったのは幕末に近い頃のようにも思います。まだ探索は続きます。(^_^)
投稿: 玉村の源さん | 2015年12月27日 (日) 23時49分