天理をふらふら
今日は天理市内をふらふらしてから、学会会場の天理大学に行きました。
以前、まほろばに書いたことがありますが、天理に初めて来たのは学部の4年、昭和50年の夏休みでした。当時は旅行嫌いでしたし、自宅通学でもありましたので、初めての一人旅でした。
その時、宿を予約したはずでしたが、その宿に着くと予約がされていなくて、しかも満室だというので、困っていたら、その宿で、別の宿を紹介してくれました。芳月という名前で、客室は4~5室しかない小さな日本旅館でした。そこでよくして貰ったので、翌年の夏、また天理に行くことになったとき、迷わずそこを予約しました。予約の電話をしたときに憶えていて呉れたのも嬉しかったです。2年とも、そこに2泊か3泊して天理図書館に通ったのでした。
その後、天理図書館に行くことはなく、その旅館ともそれきりになってしまいました。
それから20年近く経った平成4年か5年、石上神宮に行った帰りに、その旅館の所まで歩きました。訪問するつもりはありませんでしたが、懐かしくて、前を通ってみたいと思ったのです。
迷わずにその旅館のところまで来ると、建物はありましたし、「芳月」という看板も残っていたのですが、人気はなく、空き家のようでした。
感無量の思いがしました。
それからまた20年。今度もそこへ行ってみることにしました。しかし、今回は、私の記憶が曖昧になってしまっていて、場所自体がもうはっきりしなくなっていました。20年前には迷わずに行けたのに。
そんなわけで、今日は本当に「天理をふらふら」でした。
天理駅前にはせんとくんではなくて、こんな2人組がいて、出迎えてくれました。てくちゃんとりんちゃんだそうです。
堂々とした天理教本部です。これははっきりと記憶があります。
石上神宮。これも記憶は確かです。
石上神宮には鶏がいました。白いのが多かったですけど、こういうきれいなのもいました。そういえば、熱田神宮にも鶏がいますね。あちらには人が棄てていった名古屋コーチンもいるとのことでした。
石上神宮境内の万葉歌碑です。これは昭和51年の時にも見たような。
天理図書館前に建つ石上宅嗣の顕彰碑です。これも昭和51年に見たはずですが、あまり記憶がありません。そればかりでなく、天理図書館の内部もあまり記憶がありません。情けないことです。(^_^;
万葉歌碑はあと2基見ました。1基は川原城の交差点付近にあったもので、平成9年の建碑。書は西本願寺本からとったものです。
もう1基は石上神宮付近にあったもので、平成10年の建碑。書は元暦校本からとったものです。どちらも建碑者は、「天理市に万葉歌碑を建てる会」です。
様々な写本の文字を使うというのはなかなか良いですね。
学会のことは別項で。
« 京都をふらふら | トップページ | 萬葉学会第1日目 »
「飛鳥・奈良」カテゴリの記事
- 沼田のブドウ&女子大生デザインのビール(2026.09.11)
- 今日のNHK「歴史探偵」は「藤原京と持統天皇」(2026.09.09)
- 『ならら』最新号の特集は「飛鳥・藤原の宮都 世界遺産に」(2026.09.02)
- 法隆寺金堂壁画の復元(2026.08.30)
- のびねこ奈良鹿(2026.08.29)
「史跡めぐり」カテゴリの記事
- 先週・今週の「ブラタモリ」は桶狭間(2026.03.21)
- 上越新幹線E4系Maxのキーホルダー(2025.09.02)
- 今日は城の日/前橋城跡(2025.04.06)
- 大河「光る君へ」の大野山(2024.12.02)
- 飛鳥・藤原の遺跡群が世界遺産の国内候補に(2024.09.09)


京都、奈良に仕事でいくなんて、天職ですね。
京都のあおさぎ、寺にぴったりで、見事です。
二上山もそうですが、奈良の石上神宮も行ってみたいところの一つです。柿本人麻呂の歌碑があるということは、物部氏の誰かの死を悼んで歌をよんだのでしょうか。神社の近くに墓とかあるのでしょうか? 興味深いところです。
投稿: しーちゃん | 2014年10月12日 (日) 05時47分
「美月」は2年くらい前に出かけたとき、まだ建物は残っていたような気がします。
2000年から数年前までちょいちょい研修旅行や調査で図書館におじゃましていたので、
そのときに看板を見たような記憶があります。
石上神宮に学生をつれて行き、人麻呂の碑の前で、訓めるかな? と質問すると
まず最初の「未通女」からして「???」となってました。
投稿: 惟光 | 2014年10月12日 (日) 08時25分
しーちゃんさん
天理で学会というのは幸いでした。(^_^) 役員をしている学会の大会には原則参加するようにしていますが、そうでない学会の場合は、どんな発表があるのか、どこでやるのか、という2つで、参加・不参加を決めています。今回は奈良県内で開催ということで、参加することにしました。三友亭主人さんにも初対面が叶いそうでしたし。(^_^)
柿本人麻呂の墓については、昨日の坂本信幸先生の講演でも触れられていましたが、次のような資料があります。
・清輔(きよすけ)語リテ云ハク。大和国ニ下向セシ時、彼(か)ノ国ノ古老ノ民云ハク。添上郡石上寺ノ傍ニ杜(もり)有リ。春道ノ杜ト称(い)フ。其ノ杜ノ中ニ寺有リ。柿本寺ト称フ。是(これ)人丸ノ堂也。其ノ前ノ田ノ中ニ小塚有リ。人丸塚ト称フ。(顕昭『柿本朝臣人麿勘文』)
・人丸の墓は大和国にあり、初瀬へまゐる道なり。人丸の墓といひて尋ぬるに知れる人もなし。かの所には歌塚とぞいふなる。(鴨長明『無名抄』)
ということで、平安後期にはこの地には人丸塚というものがあったようですが、鎌倉初期になると、もう地元でも知っている人はいなくなってしまっていたようです。
今も分かりません。
歌碑の歌は、物部氏関係のものではなくて、石上の地名をよんだものです。
投稿: 玉村の源さん | 2014年10月12日 (日) 08時47分
惟光さん
「美月」ではなくて、「芳月」です。
場所は、天理駅から東へ行って、南へ下って、交差点を左折して少し行った左側です。その交差点というのは、川原城の交差点か、もう一つ南の交差点か、そのどちらかには間違いないように思います。
昨日は後者の交差点を折れてみました。しかし、天理参考館のあたりまでの風景が、違うように思います。大体、天理参考館の前は通らなかったような気がします。そこで、ここから前の交差点まで戻りました。
そして、川原城の交差点まで北上して、そこで折れてみました。やがて、左側に、天理教本部へ行く道が現れたのですが、そこから見た天理教本部(日記に貼った写真です)の姿には記憶があります。多分、川原城の交差点で折れるというのが正解なのでしょう。
いずれでも、芳月は影も形もありませんでした。20年前の段階で、もう大分老朽化していましたので、取り壊されてしまったように思います。
「未通女」は義訓なので、難しいですよね。(^_^)
投稿: 玉村の源さん | 2014年10月12日 (日) 09時02分
源さん
このたびの万葉学会ではお世話になりました。
また、三友亭さんにお会いできたのもなによりでした。
自身が発表者でなければ、もっとお話しできたのになと思います(いや、人見知りして、よけい話はできなかったかな)。
ともあれ、私も石上神宮へおまいりでき、心穏やかに発表にのぞむことができました。
ありがとうございました。
投稿: 晴南 | 2014年10月12日 (日) 20時45分
昨日今日と、お目に書かれてやっと念願かなった思いです。
もうじき、次の記事がアップされそうなときになんですが・・・
石上神宮の「未通女等」の歌の歌碑も確か元暦校本ものだったかと記憶しています。
使われている石は山辺の道を下ったところの永久寺跡からい持ってきた石だとか・・・
昭和43年だったかに天理市のロータリークラブが建立したものだそうで、源さんの記憶に残っているのも、うべなりけりです。
それとこんな所で何なんですが
>晴南さんへ
お目に書かれてうれしゅうございました。本日のご報告、大変興味深き聞かせていただきました。
本当に御手間のかかる作業でしょうに、何かしら嬉々として取り組んでいらっしゃるような印象を受けました。
だいぶ前に宣長の半生をドラマ仕立てにした番組を見た記憶があるのですが、その時の印象を含めて、何かしら宣長の日常の一端(学問に関わった部分のみではありますが)というものを妄想しながら聞いておりました。
お疲れ様でした。
投稿: 三友亭主人 | 2014年10月12日 (日) 23時15分
晴南さん
発表、お疲れ様でした。私は発表者でも司会者でもないお気楽な参加でしたが、発表者は大変ですよね。お察し致します。でも、立派なご発表でした。
発表が大変なだけではなく、この作業自体が丹念で、とても大変ですね。でも、おっしゃるように巻一だけでも終われば、全体の様子はかなり見えてくるのではないでしょうか。巻によって大幅に違うとか、多分ないですよね。(^_^;
そういえば、その昔、賀茂別雷神社に今井似閑奉納本(手沢本だったか)の続日本紀を見せて貰いに行ったことを思い出しました。それを最後に、もう30年近く、写本を見せて貰いに行くということをしていません。
だれそれが書き込みをした写本って、やはりすごいものですよね。
投稿: 玉村の源さん | 2014年10月13日 (月) 00時50分
三友亭主人さん
こちらこそ念願叶って嬉しゅうございました。また学会等でお目にかかれるのを楽しみにしています。次回の萬葉学会は長野と言っていましたね。奈良からはちょっと遠いですが、またお目にかかれればと思います。
石上神宮の人麻呂歌碑、縦長にトリミングして載せましたが、撮った写真は横長で、向かって右側にあった解説板も写っていました。それを拡大して見ると、おっしゃること、寸分違わずその通りでした。あの歌碑の文字も元暦校本のものだったのですね。40年前に来た時も、そして今回も解説板をろくに見ていなかったことがバレてしまいました。(^_^;
万葉歌碑というと、万葉学者や、作家や、書家が揮毫することが多いと思いますが、万葉集の写本から採るというのも良いですね。
投稿: 玉村の源さん | 2014年10月13日 (月) 00時58分
三友亭さん
お目にかかることができ、うれしゅうございました。
お優しそうなお顔にホッとした次第です(なにせ、人見知りが…)。
おっしゃる通り、私は文書を見ることが好きです。
文書を見ていると、そこから書いた人の息吹が感じられるからです。
宣長の表情やしぐさ、そして、思考過程等…、「嬉々として」という表現は、私のこうしたテーマに取り組む姿勢にぴったりの表現かもしれません(でも、私だけではありませんよ!司会のI先生も相当嬉々としてました)。
11月には上代文学会のシンポジウムもありますが、こちらはもともとの専門の「編纂論」が話題になります。
投稿: 晴南 | 2014年10月13日 (月) 09時02分