『吉良家日記』&西尾市吉良町
昨年3月、吉良町史別冊資料として『吉良家日記』が愛知県西尾市から刊行されました。吉良上野介義央に至る吉良家三代の当主が90年間にわたって記した日記の翻刻です。幡豆郡吉良町が編纂しつつあったところ、西尾市との合併により、西尾市がその事業を継続し、刊行に到りました。
この本、代金を西尾市に送ると通信頒布も可能とのことで、年明けに申し込みました。
http://www.city.nishio.aichi.jp/index.cfm/8,28813,91,407,html
先日それが届きました。B5版で900ページという大冊です。固有名詞を中心に脚注もあり、親切な編集です。
日々の日録というわけではなく、儀式に関する記事が中心です。記事は、刃傷のあった元禄14年の2年前の元禄12年まで(+元禄15年)で終わっており、赤穂事件を考察するための直接の史料にならないのは残念ですが、高家の仕事が具体的に分かるのはやはり参考になるように思います。
浅野内匠頭は17歳の天和3年(1683)にも勅使饗応役を拝命し、その時も吉良上野介の指南を受けていますので、その年も見てみたのですが、こちらも残念ながら2月までの記事しかありませんでした。
ただ、その年の記事を見ているうちに、将軍綱吉の誕生祝の記事が見つかりました。正保3年(1646)生まれの綱吉は、この年38歳です。当時は数え年で、正月が来る度に1つ歳をとるという数え方ですから、誕生日は関係ないのかと思っていましたが、誕生祝いもしていたというのがちょっと意外でした。(^_^)
吉良上野介は、1月に念頭の賀使として京都の御所に参内し、任務終了後、江戸に戻って返礼の勅使を迎えるということを頻繁に行っています。その往復の旅程なども記されています。それによればかなりの急ぎ旅で、往復とも領地の吉良に立ち寄る暇はなかったようです。職務に忠実な能吏という気がします。吉良上野介が赤馬に乗って領地を視察したという吉良名君説の当否を考える上で参考になりましょう。
この本が送られてきたとき、「きらきらマップ」というパンフレットが同封されていました。両面印刷で、内容はこの地域の地図と案内です。
吉良町ゆかりの3人の人物(吉良上野介、尾崎士郎、吉良の仁吉)が大きく取り上げられていました。吉良上野介は「お気の毒なお殿さま」という位置づけです。確かに映画やTVドラマなどでは実際以上に悪く描かれていましょう。
レンタサイクルの名は、赤馬伝説に因んだ「赤馬Go!」と名づけられているようです。
史跡巡りのコースがいくつか用意されており、その1つの名も「赤馬の径コース」です。
さすが地元ならではの事象と思います。
といって、吉良上野介が敵役として憎まれていた(吉良町の町民もひょっとしたら肩身の狭い思いをしていた)のは、いまはもう昔のことではないでしょうかね。今の大方の視聴者は冷静に赤穂事件に対しているように思います。
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