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2014年1月 6日 (月)

群馬のことばと文化11

 まだ松もとれないというのに、今日から授業が始まりました。県民公開授業「群馬のことばと文化」も年明け第1回となります。通算で11回目です。

 今日は私の番です。テーマは、「群馬の行政地名―明治22年の町村合併時を中心に―」でした。→レジュメはこちら

 専門とは随分離れたテーマのようですが、実はそうでもありません。

 明治20年代初めの町村名の多くは江戸時代以来のものでした。江戸時代の村の名前やその範囲がほぼそのまま残っていたのです。ところが、文明開化の時代にあっては、あまりにも各町村の範囲が狭すぎ、行政上不都合を来していました。そこで明治政府は全国規模の大規模な町村合併を行いました。

 群馬県でも、当時1000以上あった町村が208に再編され、多くの新しい町村名が生まれました。その命名に当たっては、足して2で割る方式など、さまざまな工夫が行われましたが、和名抄の郷名を復活させたり、万葉集東歌によまれた地名を付けたりというような古地名の復活も行われました。

 その姿勢は尊いものと言えましょうが、今の研究レベルで考えると、当時準拠した和名抄の本文に問題があったり、地域の比定が不確かであったりという問題がありました。

 また、入野村や黒保根村はこのときに東歌に因んで付けられた村名なのですが、そのことを知らない人が、東歌の「多胡の入野」は入野村のあたり、「久呂保の嶺ろ」はその山麓に黒保根村があった赤城山のことだと考えるような誤解も生じるに至りました。話は逆なのに……。

 今日はそういったことを中心に話しました。

 この問題はこれからも調べ、考えて行くつもりです。

 「群馬のことばと文化」は、毎回講師の写真を掲載してきましたが、今日は写真はありません。(^_^)

 ないのも寂しいので、代わりに、花壇の写真かぐんまちゃんの写真など載せようかとも考えましたが、やめておきます。(^_^)

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コメント

東歌を講義する時に一番困るのが地名です。
いろいろな注釈書をみても、「?」と思うようなことが書かれていて、結局どこかわからないのです。
その実は、明治の町村合併による地名の変更にもあったかと思うと、「恐るべし」の感があります。
上野国の地名は源さんの作業を待つのが賢明かもと思いました。

ところで、S大学エクステンションセンターの春の一日バスツアーの行程に土屋文明記念館を入れました。
学芸員の方にご説明いただけるそうで、楽しみにしております。
近くの国府跡にも回る予定です。

晴南さん

 地名はなかなか難しいですね。

 飛鳥・奈良の地名なら研究している人も多いことでしょうが、東歌の地名はローカルですから。

 江戸期の注釈書なんかだと、和名抄レベルで比定しているように思います。上野国の場合は、幕末に地元出身の橋本直香という人が出て、この人の注釈における地名比定はさすが地元出身という気がします。あとは、土屋文明ですかね。

 土屋文明記念文学館に来てくださるのですね。館に成り代わりお礼申し上げます。同じ県立同士ですし。(^_^)

 近くにあるのは国分寺跡ですね。国府跡はまだ場所が確定せず、発掘もされていません。確定すると良いんですけどね。

あ、国分寺跡の間違いでしたか。

最近、記憶が怪しくて困ります…。

晴南さん

 昨年の8月30日にまほろぐで、「上野国分寺跡で「複廊」発掘か」
http://mahoroba3.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-74d3.html

と題してご紹介しましたように、当時、国分寺跡で発掘作業が行われていて、こういう発見がありました。この複廊跡、もう埋め戻してしまったかどうか分かりませんが、見学時のポイントの一つになりましょう。

 国分寺跡の近くに、山王廃寺跡という史跡があります。山上碑に名が見える「放光寺」の可能性が高く、石の鴟尾などがありますが、残念ながら近くにバスを停められるような場所がありません。国分寺跡から歩くにはちと遠いです。

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