吉良上野介墓所・吉良邸跡をゆく
今日は、吉良上野介の墓所と、吉良邸跡とに行ってきました。来週、出前講座で赤穂事件の話をすることになっていて、撮した写真はそこで使います。ということで、今日は取材目的の公務出張ということになります。(^_^)
吉良上野介の墓は、中野区上高田の功運寺というお寺にあります。地下鉄東西線の落合駅が最寄り駅です。古くは江戸城の近くにあったのが、この地に移転してきたのだそうです。
ここに行くのは初めてです。境内に幼稚園があるためか、山門にガードマンが立っていて、名前を書かされました。そして、墓所は撮影禁止とのことです。
なぜ禁止なのかは聞きませんでした。仏像を撮影禁止にしているお寺が多いのと同じように、信仰の対象だからということでしょうかね。信仰の対象だからとて、撮影して被写体の魂が抜かれてしまうわけではないでしょうに。
折角来たのに、がっかりでした。撮影禁止ということだと、仮にこっそり撮影したとしてもブログに載せるのは憚られます。
帰宅後、「功運寺」でググってみましたら、お墓の写真、ぞろぞろ出てきます。皆さんこっそり撮影していたのですかね。(^_^; 中に、寺務所で撮影を掛け合った方の記事を見つけました。その方は、撮影のお願いをした結果、「単に見るだけでなく、参拝をするのであればちゃんと参拝をしてから撮影をしてもよろしい」ということで、許可されたそうです。
私も掛け合ってみれば良かったです。(^_^;
そういうことで、私は許可を得ていないので、ここでは写真の掲載はナシということにします。
上野介の墓には、命日は元禄十五年十二月十五日と彫られていました。討ち入りは十四日とするのが普通ですが、当時の日の変わり目は日の出前のようですので、上野介の命日が十四日か十五日か微妙なあたりでしょうね。幕府役人の検死が済んだ十五日を命日としたのかもしれません。
墓の傍らには「吉良邸討死忠臣墓誌」と題された石碑があり、38人の名が刻まれています。「討死」とありますが、こんなには死んでいません。松原多仲や山吉新八のような負傷者も含まれています。死者及び負傷者ということでしょう。でも「忠臣」というのはその通りですね。忠臣は赤穂側のみではありません。
墓所には、栗崎道有の墓もありました。栗崎道有は、吉良上野介の傷の治療をした外科医です。その縁でか、上野介が討ち取られたあと、泉岳寺から帰ってきた首と、邸内に残された胴体とをこの人が縫い合わせています。このお寺、栗崎家の菩提寺でもあったということでしょうかね。
ここを出て、両国に向かいました。随分距離があるように思えましたけど、東西線で飯田橋まで、そこで中央線に乗り換えて、意外と近かったです。
吉良邸跡を訪れるのは何度目かです。
本所松坂町跡の碑は昭和7年の建立です。
吉良邸跡(本所松坂町公園)には「吉良家家臣二十士」と題する、吉良邸で討ち死にした20人の名を刻んだ碑があります。
そして、吉良上野介の像も。穏やかな顔立ちです。
14日・15日には義士祭・吉良祭があるようです。今年は土日ですので、人出が多いことでしょう。
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