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2013年12月19日 (木)

出前講座&「あずまかるた」

 今日は、前橋市の東(あずま)公民館で出前講座をしてきました。テーマは「忠臣蔵を考える」です。→レジュメはこちら

 先週、吉良上野介の墓所や、吉良邸跡に行ったのは、この準備のためでもありました。

 墓所のあるお寺の敷地内に幼稚園があるせいか、門のところにガードマンがいて名前を書かされた話や、墓所が写真撮影禁止だった話などもをしました。受けました。

 「こっそり撮っちゃったんですけどね」と言ったら、さらに受けました。本当に撮ったのかどうかはともかくとして。←まだこんなこと言ってる。(^_^;

 講演は2時からということは聞いていたのですが、何時までということは聞いていませんでしたので、泥縄ながら、講演直前に聞いてみましたら、決まっていないということでした。3時半頃でも良いし、4時くらいになっても良いということで。(^_^; 何ともファジーです。途中10分くらい休みを入れて、3時50分くらいまで話しました。

 忠臣蔵の場合は、結構マニアックな人が聴きに来ている恐れがあるのですが、困るような質問もなく、無事に済みました。♪

 さて、会場の前橋市東公民館は、前橋市の南西部にあります。南西部なのに「東」というのはなぜだろうと思っていましたが、このあたりはかつては群馬郡東村だった地で、昭和29年に前橋市と合併したとのことです。

 この東村も、明治22年に川曲・稲荷新田・下新田・上新田・小相木・後家・箱田・前箱田・江田・古市の10ヶ村が合併して成立した村で、村名は、かつて東山道(あづまみち)がこのあたりを通っていたことに因む命名のようです。

 東公民館では「あずまかるた」というかるたを売っていました。平成23年3月発行という新しいものです。昭和29年に東村が前橋市の一部になってからもう60年ほども経ちますが、かつての東村に愛着を持っている住民が多いのでしょうね。

 地域かるたが好きな私は早速買い求めました。(^_^)

 パッケージは、旧東村の地図が描かれています。載っている地名は、前記の10ヶ村の他に、新前橋、光が丘、朝日が丘、東陽、青葉の5つが増えています。いかにも新しい地名といった感じですね。新旧の地名の差は歴然です。
Azumacar01
 何枚か札を紹介します。読み札は以下の通りです。
Azumacar02
 あ:東地区 十七の町に三万人
 い:碑に往時をしのぶ 佐渡街道
 く:群馬の情報発信源 上毛新聞
 の:望みはグローバル 育英高校

 群馬県の地域新聞社である上毛新聞社は明治20年に第1号を発行した歴史ある新聞社です。現在、この東地区の古市町に本社があります。

 今年の夏の高校野球で全国優勝を果たした前橋育英高校も、東地区の朝日が丘町に所在します。

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コメント

大変ご無沙汰しております(リアル源さんには大変ご無沙汰ではありませんが)。

出前講座、お疲れ様でした。「討ち入り」ももうご専門の範疇ですね。

もうご存じかと思いますが、討ち入り翌日の人々の話を書き留めた近江商人の書状がみつかったと12月上旬の新聞に出ていました。「江戸に滞在中、事件から一夜明けた市中の情報を耳にし、急きょ本宅へ送った私信」(京都新聞)とのことで、原文は写真(一部?)しかありませんが、抄訳を見ると混乱した当時の様子が伝わってくるようです。

複数の新聞社が取り上げているようです。掲載されている情報が少しずつ違うので、記しておきます。
ttp://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013121402000222.html
ttp://www.asahi.com/articles/OSK201312100026.html
ttp://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20131211000034
ttp://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20131209-OYO1T00438.htm

ご参考まで。

源さんの後輩さん

 こちらでは大変大変お久しぶりです。コメントをありがとうございます。

 上代が専門なのに、赤穂事件をテーマに出前講座をやってしまうのですから、なんとも大それたことです。(^_^;

 レジュメの他に、プロジェクターで写真を沢山見て戴きましたので、まぁそれでご勘弁といったところです。

 討入りに関する近江商人の手紙のこと、ご紹介戴き、ありがとうございます。4つもお示しくださいましたので、比較するとなかなか興味深いです。

 赤穂の同士があらかじめ吉良邸に潜入していて、内部から門を開けたというのは、多分事実ではないでしょうね。鬼平に出てくる引き込み役のような感じになりますよね。(^_^;

 また、上野介の他に、子息など計3つの首を取ったというのも事実には反しましょう。

 そういった虚実取り混ぜて書かれていることも興味深いです。短時間のうちに憶測やらなにやら含めた様々な噂が飛び交ったのでしょうね。

 そういう意味でのとても臨場感ある貴重な史料と思います。

 今度「忠臣蔵」を扱うときに使えそうです。♪

 どうもありがとうございました。

出前講座で、忠臣蔵の講義をなさったのですね。
(レジュメには「討ち入りぐんまちゃん」の画像有り、ですね♪)

先月、東大史料編纂所の先生からいただいた分厚い図録をパラパラと読んでいて、
大石内蔵助が「池田久右衛門」という変名を使っていたことを初めて知りました。
図録に載っていた、その変名を使った史料は、
「元禄15年7月25日に、但馬豊岡の実家に戻っていた妻りくに宛てて送った長文の自筆書状」だそうです。

鎌倉の源さん「レジュメ」にあります、「円山会議。仇討ち決定」の直前ですね。

のりすけさん

 レジュメまでご覧戴きまして、ありがとうございます。

 どこかでウケを狙いたくて、討入りぐんまちゃんに登場して貰いました。(^_^)

 ご紹介の手紙、なかなか興味深いですね。浅野大学の永のお預けが決まった直後であり、円山会議の直前であるわけですね。そして、すでに4月に妻子は実家に帰しているわけで。たぶん4月頃には討ち入りの決意を定めていたのでしょうね。そして、会議前でも、大学のお預けが決まった時点で妻への手紙をしたためたのでしょうね。

 貴重な史料ですね。

 私の名前、「鎌倉の源さん」になっていますよ。(^_^)

 レジュメの最後のページに浪士の系図が載っていますけど、何か違和感を感じませんでしたか? (^_^)

 兄弟なのに、頭の高さが結構デコボコしてますでしょ。

 浪士達(浪士以外は除く)の名前の高さは、生年と対応しています。最年長の堀部弥兵衛の名前が一番高い位置にあります。最年少の大石主税の名前の位置が一番下です。(^_^)

 そういうマニアックな作り方なのでした。♪

あらら!「玉村の・・・」でした!
「うちの近く(鎌倉)にいらしたら良いのになぁ」という願望が出てしまったようです。
大変失礼いたしました!

レジュメにある浪士の系図には、そのような意図があったのですね!
確かに、堀部弥兵衛の位置が突出していて、主税は下のほうに…。
じつにマニアックでござます(笑)

前述の図録には、大石内蔵助父子像の写真も載っていました。
江戸時代の木造彩色で、「討ち入り当夜の父子対面を表現した」ものだそうです。

それから、「浅野内匠頭長矩書状」というものも載っています。
浅野内匠頭長矩が大石内蔵助に宛てた書状だそうです。
「追而書(尚々書)と署名の部分は自筆と思われる」、とのことです。
なかなか、勉強になります!

のりすけさん

 鎌倉は町中丸ごと歴史の街ですよね。住んでみたい気がします。(^_^)

 あの系図、没年齢を示す70歳、60歳、50歳……などという赤の横線を入れたら良かったかもしれませんね。そうでもしないと、秘められた謎は伝わらないように思います。(^_^)

 古文書や古記録は、やはり活字ではなくて、実物なり影印なりで読んだ方が良いですよね。崩し字はなかなか読めないので苦手ですが。(^_^;

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