上野国国分寺跡に庶民の家
3日ほど経ってしまいましたが、11月7日(木)付け上毛新聞(ネット版)に、「”聖域”に庶民の家 国史跡「上野国分寺跡」」という記事が載っていました。
まほろぐでは、8月30日に「上野国分寺跡で「複廊」発掘か」という記事を載せました。その上野国国分寺の回廊の発掘調査の過程で、回廊部分を壊して作られた11世紀の竪穴住居跡が新たに確認されたということです。
同寺の回廊は僧侶や要人のみが出入りできる聖域であるはずなのに、鎮護国家の思想が薄らいでゆくに連れて国分寺の荒廃を招き、遂には中枢部に庶民が家を建てるに到ったということのようです。
天平13年(741)3月24日の国分寺・国分尼寺建立の詔には、その立地について「必択好処」とあるように、一等地が選ばれたわけですから、そこは住み心地の良い土地であったのでしょう。
平安中期でも、まだ竪穴住居が建てられていたのですね。でも、国分寺の境内に勝手に家を建ててしまったのでしょうから、建てたのは一般庶民というよりは、逃散してきた浮浪民なのでしょうかね。
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びっくりしました。
庶民が家を建てたのが,いまのことかと思いましたよ。
それでも,年月が経っていれば,そこがかつてどんなすごい場所だったかは
分かりませんものね。
街道歩きをしていると,昔のままの一里塚が残っていないことが多く,残念です。
失われた一里塚の多くは,道路拡幅でじゃまになったのでしょうね。
仕方がないこととはいえ,少なくともかつてここに一里塚があったと
表示しておいてもらいたいと思います。
それからすると,まだ文化的価値というものが分かっていなかった頃に
遺跡を壊すのと,
近代になってからその価値を見いだせずに壊すのとでは,意味が違うような気がします。
投稿: 萩さん | 2013年11月11日 (月) 20時26分
萩さん
紛らわしいタイトルで失礼しました。(^_^;
国分寺の回廊部分に民家を建てたとき、国分寺はどういう状況だったのでしょうね。もうすっかり土中に埋まってしまっていたのなら仕方ありませんけど。
一里塚も、撤去が已むなくても、せめてそこに一里塚があったという標示は建てて欲しいですね。当座はそこに一里塚があったことを近所の誰もが知っていたとしても、歳月の経過とともに分からなくなってしまいますものね。
昔は、貴重な巻物の一部を切り出して掛軸にしてしまうようなことをする人もいましたが、今はそんな文化財の破壊は許されません。誰もが文化財の大切さを心に刻んで欲しいです。それが文化国家というものですよね。
投稿: 玉村の源さん | 2013年11月11日 (月) 22時44分