金井東裏遺跡の甲胄着装人骨
今日は、放送大学群馬学習センターで開催された土曜公開講座を聴きに行ってきました。テーマは標題の通りです。講師は、群馬県埋蔵文化財調査事業団の右島和夫氏です。
ご記憶の方も多いことと思いますが、昨年11月に発掘された、六世紀初頭の榛名山の火砕流の直撃を受けて死亡したと考えられる、甲胄を着装した人骨についての講演です。
調査はその後も継続中で、今後さらに新たな発表があることでしょう。
今日のお話で印象に残ったのは、着装していた甲胄は鉄の小札(こざね)を使って作られたもので、当時最先端の甲胄であること、このあたりには五世紀後半から人々が住み始め、その人々は馬を飼っており、その頃馬を飼っていたというのは日本中でも大変に珍しいこと、そして小札鎧は乗馬と一体のものであること、という点です。
*小札よろいとは、鉄や革の小片を革や紐で綴じ合わせたもので、挂甲とも言い、源平時代の大鎧などの源流に当たるものです。大きな鉄板で作った鎧に比べ、動きやすいので、騎馬に適した鎧ということになります。
附近からは鉾や鉄鏃も出土しているということなども含め、この人はかなり身分の高い人のようです。
渡来人の可能性もありそうですが、そのあたりのことは人骨の調査で判明するかもしれませんね。こういったお話しをもとに、あれこれと思いを巡らしました。
また、この人骨の近くから女性の人骨も出土しており、その人は、碧玉の管玉を連ねたものを頸に掛け、腰のあたりには、滑石製の小玉を20個ほども(たぶん袋などに入れて)身に付けており、やはり身分の高い女性で、祭祀に関わっていたらしいとのことでした。
さらにまた、附近からは大量の土器が出土したということです。全部を掘ったわけではないのに、1500個ほども出ているということで、半端な数ではありません。それらは新品なので、不要品を棄てたわけではなく、たぶん、神さまにお供えをするために1回限り使って廃棄したらしいとのことでした。
あれこれと刺激的なお話しでした。
下の写真は、今日もスクリーンに映し出されましたが、その時に会場で撮影したものではなく、以前、埋蔵文化財センターに見学に行ったときに撮したものです。
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