壬申の乱をたどる(17)村国男依、栗太の敵を撃破
7月17日、大海人皇子方の村国男依の軍勢は、栗太で淡海方の軍勢を撃ち、追撃します。
連戦連勝を重ねつつ琵琶湖の東岸を南下して来た村国男依は、淡海方の最後の防衛線というべき瀬田川まで、あとわずかの地点に迫りました。
なお、倭方面では、大海人皇子軍が淡海方を駆逐しましたので、大津京に向かって北上を開始したか、あるいはその準備を整えている頃と思われます。
7月17日、大海人皇子方の村国男依の軍勢は、栗太で淡海方の軍勢を撃ち、追撃します。
連戦連勝を重ねつつ琵琶湖の東岸を南下して来た村国男依は、淡海方の最後の防衛線というべき瀬田川まで、あとわずかの地点に迫りました。
なお、倭方面では、大海人皇子軍が淡海方を駆逐しましたので、大津京に向かって北上を開始したか、あるいはその準備を整えている頃と思われます。
昨日に続き、また『前賢故実』です。
源経基。
源経基は清和源氏の祖。
紀貫之女。
紀貫之女は「鶯宿梅」の逸話で知られます。
この話は、村上天皇の時代に、清涼殿の前に植わっていた梅の木が枯れてしまったので、都の外れにある家に植えられていた見事な紅梅を、勅命であるとして掘り返して内裏に運ぼうとしたところ、家の者がその枝に短冊を結びつけて持たせます。
その紅梅は清涼殿の前に移植され、枝に結びつけられた短冊が天皇の目に止まります。短冊を開いてみると、そこには「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ」とありました。
天皇が調べさせると、その家の主人は紀貫之の娘で、娘はその紅梅を父の形見として大事にしていたことが分かったということです。
藤原忠平。
藤原忠平は延喜格式を完成させ、また「延喜の治」と呼ばれる国政改革を行いました。
橘直幹。
橘直幹は漢詩人で、大学頭、文章博士などを歴任します。
民部大輔の官を望んで起草し、小野道風に揮毫して貰った申文は、村上天皇が大いに賞翫したという説話が知られます。
小野道風。
小野道風は能書家で、藤原佐理・藤原行成とともに三跡として知られます。
柳に飛びつくかえるの話が有名ですが、あの話が広まったのは江戸中期だそうです。
『前賢故実』の続きで、今回も平安前期です。
壬生忠見。
壬生忠見は壬生忠岑の子で、父と共に三十六歌仙の一人。
百人一首には「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」の歌が採られています。
三善清行。
三善清行は漢学者で漢詩文にもすぐれ、『延喜格式』の編纂に参加したほか、「意見封事十二箇条」の上奏でも知られます。
巨勢金岡。
巨勢金岡は宮廷画家で、大和絵の様式を確立した人物とされます。
伊勢。
伊勢は三十六歌仙の一人。
百人一首には「難波潟みじかき芦のふしのまもあはでこの世を過ぐしてよとや」の歌が採られています。
小野好古。
小野好古は小野篁の孫で小野道風の兄。歌人。
天慶の乱に際しては藤原純友を追捕するための長官として、純友軍を博多津で撃退しています。
今回は文人ばかりとなりました。
淡海方面では7月13日に大海人軍が安河で大勝しています。
倭方面では日付不明ながら大海人軍が河内方面からの淡海軍を撃退し、飛鳥京の本営に戻ってきました。
その後、飛鳥古京には東国からの軍勢が多数到着したので、大伴吹負は兵を3つに分けて、上ツ道、中ツ道、下ツ道に配します。
上ツ道では、三輪高市麻呂・置始兎が箸陵の戦いで淡海軍に大勝します。
中ツ道では、村屋に陣を敷いた淡海軍の犬養五十君が廬井鯨に精兵二百を与えて大伴吹負の陣営を衝かせます。
吹負麾下の兵は少なく苦戦しますが、そこに、箸墓から救援に駆け付けた三輪高市麻呂らの部隊が廬井鯨の背後を衝き、勝利をおさめることができました。
下ツ道については不明です。
大伴吹負は飛鳥京の本営に戻って軍を編成し直しますが、この先、淡海軍はもう攻めてきませんでした。
淡海方は淡海方面で敗戦が続いているので、そちらに兵を集中させようとしたのかもしれません。
なお、この戦の数日前、村屋の神(村屋坐弥富都比売神)が兵の襲来を予言したということで、壬申の乱終結後に村屋の神は神位を上げられています。
村屋の神については、昨年、三友亭主人さんから頂いたコメントにより、記載しました。
三友亭主人さんに改めてお礼申し上げます、
7月13日、大海人皇子方の村国男依が、安河(野洲川)のほとりで淡海軍に大勝します。
村国男依は、横河・鳥籠山に続いて、ここでも淡海軍に大勝し、大津京に大きく迫りました。
本当に破竹の勢いです。
このあと、両軍とも態勢を整えるのにしばらく掛かったようで、決戦は数日後になります。
一方、倭では、河内から侵入した壱伎韓国を破った大海人皇子軍はいったん飛鳥京に戻って態勢を整え、大津京を目指して北上します。
また少し間が開いてしまいましたが、『前賢故実』の続きで、平安前期です。
菅原道真。
菅原道真は、学者、漢詩人。右大臣にまで昇進しますが、讒言によって大宰権帥に左遷され、大宰府で亡くなります。
源融。
源融は嵯峨天皇の皇子で、臣籍に降下して嵯峨源氏の祖となります。光源氏のモデルともされます。
自邸の六条河原院に奥州塩竈の風景を模した庭園を造らせたという故事があります。
紀友則。
紀友則は、三十六歌仙の一人で、古今集の撰者の一人です。
紀貫之。
紀貫之は、三十六歌仙の一人で、古今集の撰者の一人。古今集の仮名序の執筆者であり、土佐日記の著者でもあります。
凡河内躬恒。
凡河内躬恒は、三十六歌仙の一人で、古今集の撰者の一人です。
今回は文人が中心となりました。
倭方面は相変わらず日付は不明ですが、大坂を越えてきた淡海方の壱伎韓国の部隊を、大伴吹負・置始兎の部隊がこのころ当麻の衢で撃退します。
7月4日に乃楽山で敗北した大伴吹負は、置始兎の援軍を得て、ついにリベンジを果たすことができました。
壱伎韓国の部隊はかなりの損害を受けたようで、以後、淡海方は河内方面から攻めてくることはありませんでした。
一方、乃楽山の戦いで大伴吹負を撃ち破った大野果安の動きは相変わらず不明です。
琵琶湖東岸で淡海方は連敗していますので、ひょっとすると倭方面の兵は琵琶湖方面に転用されていたのかもしれません。
あるいは、脱走兵もいたのでしょうかね。
年に2回、大神神社からお送り頂いている『大美和』の151号が届きました。
表紙は満開の桜ですね。
中央付近のミラーが邪魔と思ったら、ミラーに意味があるのでした。
ミラーの部分を拡大します。
4月9日に行われた「若宮神幸祭」の様子だそうです。
なかなか凝った写真です。
今号には、4本の講演録が掲載されています。
恒例により、タイトルとお名前はご本人の自筆です。
それぞれに個性が出ていて楽しいです。
恥ずかしながら、私の不勉強のため、この4人の方々は存じませんでした。
考古学がおふたりと、あとは国学と民俗学でしょうか。
いずれも図版が豊富で分かり易いです。
よく読んで勉強いたします。
7月7日に息長の横河で淡海軍に勝利した村国男依らは、7月9日には鳥籠山で淡海軍に勝利をおさめ、将の秦友足を斬ります。
また、7月2日頃に淡海方から大海人皇子方に投降した羽田矢国の部隊は、琵琶湖の北岸経由で、湖西沿いに南下すべく進軍中です。
一方、倭方面は相変わらず日付が不明ですが、大海人皇子軍の援軍として倭に向かった置始兎は、墨坂で大伴吹負と合流します。
そして、大坂にいる淡海方の壱伎韓国を撃つべく、西に向かいます。
乃楽山の戦いで大伴吹負を破った大野果安の軍勢は飛鳥京附近まで攻め寄せながら、飛鳥京の守りが堅いとみて引き返していますが、どこまで引き返したのか不明です。
また河内の壱伎韓国の部隊も、大野果安の勝利につけ込んで飛鳥方面に攻め込んでも良さそうなものですが、動きが見られません。
大野果安と壱伎韓国の動き次第では、戦局が変わっていたかもしれません。
どうも淡海方は戦略的な動きが鈍いように思います。
旧暦・新暦の違いはあれど、日付に合わせて、毎日のように壬申の乱を追ってきましたが、今日7月8日には日本書紀の壬申の乱関係の記事はありませんので、今日はお休みです。
その代わりに、金魚の話題を。
金魚が1匹になってしまいましたので、5月29日に子金魚を4匹お迎えしました。
ところが、5日と経たないうちに2匹の子金魚が虹の橋を渡ってしまいました。
残った子金魚は2匹になってしまいましたが、幸い2匹とも至って元気です。
お迎えしてから40日ほどになります。もう大丈夫ではないかと思います。
今日、こんなです。
大きさは先住金魚とはだいぶ違いますね。
最初の日は、先住金魚が近づくと、子金魚たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ散っていましたが、先住金魚が危害を加えないと分かると、もう平気になりました。
ただ、ゴハンが上から降ってくると、先住金魚は子金魚を押しのけてゴハンに向かって行きます。
仁義なき戦いです。
子金魚は正攻法では勝てないので、隙を見て、先住金魚の上に出ます。
仁義なき戦いです。
最近のコメント